上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第七十六章

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第七十六章 作られた見捨役

 御座所の中。

 本物の真崎半九郎とされる男は、新之介の隣に立っている。

 その一方。

 再起館では。

 もう一人の「真崎半九郎」が御影宗太郎を斬った。

「宗太郎殿の傷は」

 新之介が問う。

 使者は息を整えながら答えた。

「右腕!」

「命に」

「別状はないとのこと!」

「誰が診た」

「町医者の孝庵殿!」

「一人だけ?」

「志乃殿と辰蔵殿が立ち会っています!」

「よい」

 玄斎が怒鳴った。

「何がよい!」

「生きていることです!」

「それを先に申せ!」

「今申しました!」

 玄斎は杖を握ったまま、御座所を歩き回る。

「で!」

「斬った半九郎は!」

「捕らえています!」

「顔は」

「真崎殿と」

 使者が、目の前の半九郎を見る。

「同じです」

 半九郎は自分の顔へ手を当てた。

「また顔型ですか」

「分かりません!」

「声は」

「同じだと」

「誰が確認した」

「御影宗太郎殿本人が!」

 玄十郎の顔が険しくなる。

「宗太郎が、半九郎の声を知っているのか」

「知っています」

 半九郎が答える。

「再起館で何度も」

「では、ある程度の証にはなる」

 新之介が首を振った。

「『似ていたという証』です」

「本人だという証ではない」

 玄十郎が苦く笑う。

「今や顔も声も」

「本人確認に使うほど危ないものはないな」

「それでも」

 新之介は言う。

「行いを見る材料にはなる」

 ◇

「私は再起館へ行きます」

 半九郎が言った。

「待て」

 玄十郎が止める。

「なぜ」

「そなたを狙っている」

「だから行きます」

「それが罠なら」

「父上」

「何だ」

「また私を隠しますか」

 玄十郎が黙る。

「六歳の時と同じように」

「危険だから」

「本人には知らせず」

「安全な場所へ置く」

「……」

「私はもう六歳ではありません」

 玄十郎は息子を見る。

 そして。

「分かった」

「止めぬ」

 半九郎が少し驚いた。

「ただし」

「何です」

「一人では行くな」

 半九郎が笑う。

「それは榊原殿と同じですね」

「嬉しくない」

 新之介と玄十郎が同時に言った。

 玄斎が笑った。

「皆、同じことを申す」

 ◇

「半九郎殿を再起館へ」

 新之介が言う。

「玄十郎殿も」

「行く」

「玄斎先生」

「当然」

「膝は」

「今言うな!」

「水野様」

 水野が答える。

「私は城へ残る」

「久松」

「沢渡」

「家慶甲乙」

「それに宗一」

「こちらも放置できぬ」

「阿部殿も」

「残る」

「では」

 新之介は清太郎を見る。

「清太郎殿は」

「榊原様と」

「どこへ」

「私は」

 新之介は黒い捨帳を見た。

「残ります」

 半九郎が振り返る。

「来ないのですか」

「はい」

「なぜ」

「そなたを増やした者が」

「ここに手掛かりを残している」

「捨帳?」

「はい」

 黒い表紙。

 新しい書き込み。

 ――次の見捨役、真崎半九郎。

「この頁を書いた者を」

「先に追います」

 半九郎はしばらく考え。

「分かりました」

 新之介へ一歩近づく。

「では」

「何です」

「私を信じないでください」

 新之介が笑う。

「見ます」

「はい」

「そちらも」

「分かっています」

 ◇

 半九郎たちが再起館へ向かった後。

 御座所には。

 家慶甲。

 家慶乙。

 鷹見宗一郎。

 御影宗一を名乗る男。

 沢渡玄隆。

 久松主膳。

 水野。

 阿部。

 清太郎。

 そして新之介が残った。

「ずいぶん妙な顔触れだ」

 乙が言う。

「誰が本物か分からぬ者ばかり」

「私まで入れるな」

 阿部が怒る。

「阿部殿も、本物確認は完全ではありません」

 新之介が言った。

「お前は本当に」

「嫌われます」

「分かっているなら少し直せ!」

「今は無理です」

 ◇

「久松殿」

 新之介は黒い捨帳を開いた。

「今朝、これを御座所へ運ばせた」

「そうだ」

「堀田新三郎の姿をした者に」

「私は姿を見ていない」

「何」

「命じたのは私だが」

「誰へ」

「小姓詰所へ書状を出した」

「返事は」

「来た」

「誰の名」

「堀田新三郎」

「本人だと思った?」

「ああ」

「なぜ」

「新三郎は御小納戸だ」

「役目として不自然ではない」

「だから顔を確かめなかった」

「……そうだ」

 新之介は清太郎へ。

「記録」

「はい」

「久松殿は、役職が合っていたため本人確認をしなかった」

「書くのか」

「重要です」

 久松は自嘲した。

「人を役で見た、ということか」

「はい」

「見捨役がな」

「はい」

「そこまで真っ直ぐ言うな」

 ◇

「捨帳を運んだ者は」

 水野が問う。

「何をした」

「御座所へ置いただけだ」

「誰か立ち会った?」

「小姓が二人」

「名は」

「桜井弥太郎」

「森本和助」

「呼べ」

 阿部が命じる。

 ほどなく二人が来た。

 まだ若い。

「堀田新三郎を見たか」

「はい」

 二人同時。

「顔は」

「見ました」

「声は」

「聞きました」

「本人を前から知っている?」

 桜井が答える。

「同じ詰所です」

「なら似ていたのか」

「似ていた、では」

 森本が言う。

「本人に見えました」

「何を話した」

「『久松様の帳を運ぶ』と」

「ほかに」

 二人が顔を見合わせる。

「どうした」

「少し」

「何です」

 桜井が言う。

「新三郎殿にしては」

「何」

「静かでした」

「普段は」

「もっと喋ります」

 乙が笑う。

「本人確認が雑だな」

 新之介が乙を見る。

「笑える立場では」

「分かっている」

「続けて」

「歩き方は」

 森本が考える。

「右足を少し」

「引いていました」

「新三郎殿は」

「怪我は?」

「ありません」

 新之介の目が細くなる。

「右足を引く」

 玄斎なら何か思い出したかもしれない。

「帳を置いた後」

「何を」

「帰りました」

「どこへ」

「西廊下」

「詰所とは反対です」

 桜井の顔が変わった。

「そういえば」

「なぜその時」

「久松様の使いだと思って」

「役が正しければ」

「道がおかしくても見なかった」

 新之介が言う。

 二人は俯いた。

「責めていません」

「では」

「次は見てください」

「はい」

 ◇

 西廊下。

 家慶乙が言った。

「その先は御記録所」

「それだけではない」

 甲が続ける。

「御鈴廊下へも」

「大奥?」

「近くまで」

「男は入れぬ」

「普通なら」

 沢渡が笑った。

「今は普通ではない」

 水野が睨む。

「そなたは何か知っているな」

「大奥にも顔を作った者はいる」

「誰」

「私ではない」

「聞いていない」

「なら誰が」

「鷹見千代」

 宗一郎が顔を上げる。

「どの千代だ」

 沢渡が笑う。

「ようやく正しい聞き方になった」

 水野が刀の柄へ手を置く。

「笑うな」

「十五年前」

 沢渡は続ける。

「十番とは別に」

「大奥へ一人入れた」

「何のため」

「声を集める」

「御台所の?」

「だけではない」

「老女」

「奥女中」

「御年寄」

「そして」

 沢渡は家慶二人を見る。

「将軍の私的な声」

「寝所まで?」

 甲の顔が怒りに変わる。

「そこまでは知らぬ」

「誰が命じた!」

「御影ではない」

「では」

「見捨役だ」

 全員の目が久松へ。

「私は知らん!」

 久松が立ち上がる。

「私の代ではない!」

「前任?」

 新之介が問う。

「松平左京か」

「そうだ」

「なぜ大奥の声を」

「非常時」

「将軍本人が動けぬ時」

「命を作るため」

 甲が低く言う。

「将軍の声を」

「将軍抜きで?」

 久松は黙った。

 ◇

「それが」

 新之介は言う。

「今の混乱の根ですね」

「御影の偽声だけではない」

「幕府自身が」

「将軍抜きの将軍命令を用意していた」

 阿部の顔が険しい。

「私は知らなかった」

「知らなかったことも記録します」

「分かっている!」

「大奥に入った者の今の名は」

 沢渡へ。

「知らぬ」

「役名は」

「お藤」

「本名は」

「捨てた」

「誰が捨てさせた」

「松平左京」

「本人の意思は」

「十四の娘に何を聞く」

 沢渡が言う。

 新之介の顔が冷たくなる。

「そこです」

「何が」

「十四だから聞かなかった」

「六歳だから聞かなかった」

「危険だから聞かなかった」

「国のためだから聞かなかった」

「毎回同じです」

 沢渡の笑みが消える。

「では十四の子に」

「国を揺るがす秘密を背負うかと聞くのか」

「いいえ」

「まず背負わせない」

 ◇

 その時。

 西廊下へ向かった神谷から使いが戻った。

「榊原殿!」

「何が」

「血痕です!」

「誰の」

「分かりません!」

「量は」

「少量!」

「どこまで」

「大奥側の古い仕切り戸まで!」

「人は」

「見つかっていません!」

「案内を」

 水野が立つ。

「私も」

「待ってください」

「何だ」

「沢渡殿」

「まだ何か」

「右足を引く人物に覚えは」

 沢渡は少し考える。

「何人もいる」

「顔を変える時」

「歩き方まで変える訓練をした」

「なら特徴にならない」

「いや」

「何」

「一人だけ」

「右足を引く癖を直せなかった者がいる」

「名は」

「生まれた名は知らぬ」

「役名を」

 沢渡が答えた。

「真崎半九郎」

 御座所が静まる。

「今、再起館で捕らえた者?」

「違う」

「では」

「十五年前」

「すでに真崎半九郎として育てていた者」

 新之介の背筋が冷える。

「いつから」

「本物が六歳の時から」

「何のために」

「本物が殺された時」

「名簿の半九郎を一人残すため」

 久松が顔を上げる。

「私は知らぬ」

「前任の仕事だ」

 沢渡が言う。

「松平左京か」

「ああ」

「つまり」

 清太郎が呟く。

「真崎玄十郎殿が十六人を救うため、半九郎殿の名を使った」

「それを知った見捨役が」

 新之介が続ける。

「逆にその名を保存するため」

「別の子どもを半九郎にした」

 甲が低く言う。

「人が死んでも名簿が崩れぬように」

「そうです」

 ◇

「その者は今いくつ」

「三十を少し過ぎた」

「半九郎殿と同じくらい」

「ああ」

「顔は」

「何度も直した」

「声は」

「玄十郎の家へ奉公人を入れて集めた」

「弥吉殿?」

「一人ではない」

「では」

「新之介」

「半九郎」

「家慶」

「全員」

「同じ方法」

「誰かの代わりを作るため」

「生活へ人を入れ」

「癖を盗み」

「声を写し」

「傷を作る」

 沢渡は何も言わない。

「沢渡殿」

「何だ」

「そなたは自分を医者と言った」

「ああ」

「それは治療ですか」

 沢渡の目が僅かに揺れた。

「……国の治療だ」

「人を壊して?」

「一人で国が」

「その言葉を使うな」

 沢渡が初めて声を止めた。

 新之介は静かに続ける。

「一人で国を語るな」

 ◇

 西廊下。

 血痕。

 確かに少量。

「こちらです」

 神谷が示す。

 床に三滴。

 さらに先へ。

 大奥側の古い仕切り。

 普段は使われない小さな戸。

「鍵は」

「開いていました」

「誰が管理」

「御錠口」

「名は」

「今確認中」

 新之介が血を見ていると。

 清太郎が壁へ気づく。

「榊原様」

「何です」

「墨」

 柱の陰。

 小さな文字。

 ――一人目、成功。

「一人目?」

 水野が顔を険しくする。

 さらに奥。

 もう一行。

 ――見捨役候補、痛みを知る。

 新之介の顔が変わる。

「半九郎殿を」

「候補にするため?」

「違う」

「なら」

「見捨役にするには」

 新之介は捨帳の文を思い出す。

 ――一度、捨てられる側へ置かれた者。

「痛みを知る必要がある」

「だから六歳の半九郎が適していた」

「はい」

「だが」

 水野が続ける。

「偽物の半九郎は」

「本物ほど捨てられていない」

 清太郎の顔が青ざめる。

「だから」

「痛みを与える?」

 ◇

 戸の向こう。

 薄暗い廊下。

 大奥の外縁。

 進む。

 やがて。

 一人の男が倒れていた。

「生きています!」

 神谷が駆け寄る。

 右腿に傷。

 顔は。

「堀田新三郎」

 清太郎が息を呑む。

 新之介が即座に言う。

「名を決めない!」

 男が目を開く。

「……榊原殿」

「今の名を」

「堀田新三郎」

「生まれた名は」

 男の目に涙が浮かぶ。

「知らない」

 新之介たちが黙る。

「再起館の新三郎殿とは」

「別人?」

「はい」

「何年」

「十二年」

「何を」

「新三郎として」

「御小納戸の外で」

「代わり?」

「もし本物が死ねば」

「私が入る」

 清太郎が筆を握る手を強くした。

 また。

「誰に斬られた」

 男が震える指で廊下の奥を示す。

「半九郎殿」

「どの」

「私と同じです」

「何」

「代わりの」

 ◇

「その男は何を」

「私に帳面を運ばせた」

「捨帳?」

「はい」

「書き込みをしたのは」

「私ではありません」

「見た?」

「はい」

「誰が」

「半九郎殿です」

「偽物の?」

「私には」

 男が泣きながら笑った。

「どちらが偽物か」

「分かりません」

「今はそれでよい」

「その男は何を書いた」

 ――見捨役が迷う時、見捨役を捨てよ。

 ――次の見捨役、真崎半九郎。

「なぜ」

「聞きました」

「何と」

 男は息を整える。

「『見捨役は人を選ぶ』」

「『なら見捨役になる者は』」

「『選ばれる痛みを知っていなければならない』」

 水野が呟く。

「筋は通っている」

「はい」

 新之介が答える。

「だから危ない」

 ◇

「そして」

 傷ついた新三郎の代替が続ける。

「私を斬った後」

「何と」

「『これでお前も候補だ』」

「何の」

「見捨役」

 全員が凍る。

「半九郎だけではない?」

「はい」

「痛みを与えた者を」

「次々に候補へ」

「そうです」

 新之介の顔が変わった。

 再起館。

 宗太郎が斬られた。

 ここでは代替新三郎が斬られた。

 一人目成功。

 では。

「一人目とは」

 清太郎が柱を見る。

「誰を指す」

「宗太郎殿ではない」

「なぜ」

「年齢が違う」

「見捨役候補にするためなら」

「若い者を狙う」

 水野の顔が変わる。

「再起館で捕らえた半九郎を名乗る男」

「あれが」

「候補の一人?」

 新之介は首を振った。

「あるいは」

「候補を作る側」

 ◇

 廊下の奥。

 小さな部屋。

 扉は開いていた。

 中には。

 衣。

 面。

 声を記した紙。

 人ごとに束ねられている。

 ――徳川家慶。

 ――榊原新之介。

 ――真崎半九郎。

 ――堀田新三郎。

 そして。

 さらに別の束。

 ――阿部伊勢守。

 阿部の顔が変わる。

「私まで」

 水野が次を取る。

 ――水野隼人正。

「……」

「候補が」

 清太郎が呟く。

「増えている」

「違います」

 新之介が言う。

「これ」

「何です」

「代替名簿ではない」

「では」

 束の上に。

 小さな見出し。

 ――次代。

 さらに一行。

 ――役を一人へ継がせるな。

 玄斎がいれば怒鳴っただろう。

 新之介は静かに読む。

 ――一人の見捨役が狂えば、国が狂う。

 ――ゆえに次代より。

 ――見捨役を五人とする。

 水野が息を呑む。

「五人」

「一人をやめる?」

「はい」

「なら」

「井戸端見分に近い?」

 清太郎が問う。

「見た目は」

 新之介の声が低くなる。

「ですが」

 次の行。

 ――五人のうち。

 ――最も早く一人を捨てる案を出した者を。

 ――筆頭とする。

 水野の顔が歪んだ。

「結局」

「迷わない者を上へ置く」

「はい」

「一人を五人にしただけ」

「仕組みは変わっていない」

 ◇

 最後の紙。

 候補。

 一。

 真崎半九郎。

 二。

 堀田新三郎。

 三。

 榊原新之介。

 四。

 水野隼人正。

 五。

 空白。

「私も?」

 新之介が眉を上げる。

「代替が」

 清太郎が言う。

「本物ではないかもしれません」

「どちらでも同じです」

「何が」

「名を候補にしている」

「本人を見ていない」

 新之介は紙を指す。

「また始帳と同じです」

「腹ではなく名を数えている」

 水野が五番を見る。

「最後の一人は」

 空白。

 その横に小さな文字。

 ――本日決定。

「今日?」

 ◇

 その時。

 大奥の方から悲鳴。

 女たちが走る。

「何事!」

 神谷が叫ぶ。

 一人の奥女中が転がり込む。

「御台様が!」

「何が!」

「斬られました!」

 家慶甲乙の顔が同時に変わる。

「命は!」

「浅手です!」

「誰に」

「御台様ご自身です!」

「何」

「鏡の前で」

「突然」

「ご自分の腕を!」

 新之介が息を呑む。

「本人が自分で?」

「はい!」

「誰か何か言った」

「声が!」

「どこから」

「壁の中!」

「何と」

 女は震えながら答える。

「『痛みを知らぬ者は、人を捨てる資格がない』」

 清太郎が五番の空白を見る。

「まさか」

 新之介は紙を取り上げない。

 ただ見る。

 空白だった五番。

 そこへ。

 いつ書かれたのか。

 先ほどまでなかったはずの墨が。

 ゆっくり浮き出るように滲んでいた。

 ――五。

 ――徳川家定。

 家慶甲が立ち上がる。

「家定!」

 将軍家の世子。

「どこにいる!」

 阿部が叫ぶ。

 奥女中の顔が真っ白になる。

「先ほど」

「御台様を見舞うと」

「御座所の裏へ!」

 水野が新之介を見る。

「五人目は」

「家定公?」

 新之介は紙を見た。

 半九郎。

 新三郎。

 自分。

 水野。

 そして将軍家の世継ぎ。

 身分も役も違う。

 ただ一つ。

 これから国の決定へ関われる者ばかり。

「候補を作っているのではない」

 新之介が呟く。

「何」

「次の国を」

「五人へ分ける準備をしている」

「なら誰が」

 清太郎が問う。

「五人を選んだ」

 新之介は答えず。

 頁の裏を見る。

 そこに。

 小さな署名があった。

 御影でもない。

 静山でもない。

 見捨役でもない。

 ただ。

 一人の名。

「誰です」

 清太郎が問う。

 新之介は読んだ。

「――徳川家定」

 阿部の顔から血の気が引く。

「本人の筆か」

「まだ分かりません」

「では」

「確かめます」

 だが。

 御座所の奥から。

 若い男の声。

「その必要はない」

 皆が振り返る。

 細身。

 青白い顔。

 静かな目。

 家慶の世子。

 徳川家定本人とされる男が立っていた。

 右腕には。

 自らつけたような新しい傷。

「その名簿は」

 家定が言った。

「私が作らせた」

 家慶甲が叫ぶ。

「家定!」

「父上」

「何をしている!」

 家定は。

 二人の家慶を見た。

 そして少しだけ笑った。

「まず」

「どちらを父と呼べばよいのでしょう」

 誰も答えられない。

 家定は続けた。

「だから私は考えました」

「父が一人でなくても国が動くなら」

「将軍も」

 一人でなくてよい。

 新之介の目が細くなる。

「五人将軍を」

 家定は首を振った。

「違います」

「では」

「将軍を終わらせるのです」

 家慶甲も。

 乙も。

 阿部も。

 水野も動けなかった。

 家定は静かに言った。

「徳川家を残すために」

「徳川将軍を」

「私の代で終わらせます」

(第七十七章へ続く)

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