上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第七十五章

目次

第七十五章 見捨役

 江戸城へ戻る舟の上で、真崎玄十郎は一言も話さなかった。

 半九郎も同じだった。

 ただ。

 父と息子は、先ほどまでとは違い、同じ舟の同じ側に座っている。

 それだけを新之介は見た。

 問いただすのは後でよい。

 戻る場所を決めるのも後でよい。

 今は御座所だ。

 そこでは誰かが。

 人を一人選び。

 その者を皆に斬らせようとしている。

「榊原」

 水野が言った。

「もし本当に一人を選ばねば、全員が死ぬ仕掛けなら」

「その時に考えます」

「考える時間がなかったら」

「時間がないと言う者を、まず疑います」

 玄十郎が僅かに笑う。

「そこまで徹底するか」

「急がせることで」

「人は他人の命を使います」

 半九郎が父を見る。

 玄十郎は目を逸らさなかった。

「耳が痛いな」

「父上へ申したのではありません」

「分かっている」

「ですが当たっています」

「分かっておる」

 玄斎が後ろから言った。

「親子の会話を今始めるな!」

 ◇

 大手門を抜けた。

 城内は奇妙なほど静かだった。

 兵はいる。

 だが誰も命を出さない。

 廊下の角。

 階段。

 御座所へ続く道。

 各所に武士が立っている。

「誰の命でここに」

 新之介が一人へ問う。

「御座所警固です」

「誰の命」

「久松主膳様」

「本人から」

「書状で」

「顔は」

「見ておりません」

「では、まだ久松殿の命か分からない」

 侍が困った顔をする。

「しかし印が」

「印が人を斬りますか」

「……」

「そなたが斬るのでしょう」

 侍の手が刀から離れる。

「はい」

「なら、後で誰の命だったかだけではなく」

「なぜ従ったかも話してください」

「……はい」

 玄十郎が小声で言う。

「兵を弱くするぞ」

「違います」

「何が」

「手を持つ人間へ戻している」

 玄十郎が新之介を見る。

「それで戦になる時は」

「怖いですね」

「答えになっておらぬ」

「怖いまま決めます」

「……それが一番厄介だ」

 ◇

 御座所の前。

 扉は閉じている。

 左右に四人ずつ。

 その中央。

 阿部伊勢守がいた。

「阿部殿」

「遅い!」

「中は」

「全員いる」

「誰が」

「家慶公甲」

「家慶公乙」

「沢渡玄隆」

「御影宗一を名乗る男」

「鷹見宗一郎」

「そして久松主膳」

「見張りは」

「二重」

「誰がつけた」

「私と水野側」

「久松側の者も」

「三系統」

「よい」

「何がよい!」

「中へ一系統だけで入るより」

「榊原!」

 阿部は怒っている。

 だがすぐ声を落とした。

「もう一つある」

「何です」

「久松が申した」

「榊原新之介と真崎半九郎以外は中へ入れるな」

「断ります」

「そう言うと思った」

「阿部殿は」

「入る」

「水野様」

「入る」

「玄斎先生」

「当然」

「父上」

 半九郎が玄十郎を見る。

「入る」

「清太郎殿」

「記録します」

「吉松殿」

「聞き違いを見ます」

 阿部が額を押さえた。

「御座所へ何人入れるつもりだ」

 新之介は答える。

「誰か一人を捨てる話を」

「少人数で決める方が危ない」

 ◇

 扉の向こうから声。

「入れ」

 久松主膳。

 新之介は扉へ向かって答えた。

「条件があります」

「何だ」

「こちらの立会人も入れる」

「断る」

「では入りません」

「榊原」

「何です」

「中には将軍が二人いる」

「知っています」

「鷹見静山も」

「はい」

「御影も」

「はい」

「この者らを放置するのか」

「そなたが集めたのでしょう」

「……」

「なら急いでいるのはそなたです」

 沈黙。

 玄斎が新之介の肩を小突いた。

「性格が悪いな」

「先生に言われたくありません」

「褒めておる」

「嬉しくありません」

 やがて。

 内側から鍵が外れる。

「五人までだ」

 久松の声。

「八人」

 新之介が答える。

「六」

「八」

「七」

「では七」

 阿部が驚く。

「折れたな」

 玄十郎が言う。

「最初から七でよかったのでは」

「相手も数字を決める人間だと確かめたかった」

「何」

「絶対に五でなければならない理由はなかった」

 玄十郎は苦笑した。

「本当に性格が悪い」

 ◇

 入ったのは。

 新之介。

 半九郎。

 玄十郎。

 阿部。

 水野。

 清太郎。

 玄斎。

 吉松は外で聞き役。

「わしが入り、吉松を外へ?」

 玄斎が問う。

「先生は久松殿を知っている」

「少しな」

「吉松殿は外に残る記録役」

「全員中へ入れない理由も記録します」

 清太郎が答える。

「不十分な見分」

 新之介が言う。

「それも残します」

 ◇

 御座所。

 二人の家慶は左右へ離されて座っていた。

 甲。

 乙。

 どちらも同じ顔。

 鷹見宗一郎は刀を持たず、壁際。

 御影宗一を名乗る男も別の場所。

 沢渡玄隆は縄をかけられている。

 中央。

 久松主膳。

 五十を少し越えた男。

 これまで何度も名は聞いた。

 御側衆。

 家慶の近くにあり。

 声の仕組みも。

 城内の命令経路も。

 知り得た男。

「榊原新之介」

「はい」

「真崎半九郎」

「はい」

「どちらが見分人になる」

「どちらもなりません」

 久松の眉が動く。

「触れにはそう書いた」

「勝手に書いたのでしょう」

「役目が必要だ」

「誰が決めた役目です」

「見捨役だ」

 玄十郎が低く言った。

「久松」

「久しいな」

 二人の目が合う。

 半九郎が父を見る。

「知り合いなのですか」

「十五年前に」

「何を」

「互いに殺そうとした」

「父上」

「今は生きている」

「そういう話では」

 久松が笑った。

「相変わらずだな、玄十郎」

「そなたもだ」

「私は変わった」

「悪くな」

 久松の笑みが消えた。

 ◇

「見捨役とは何です」

 清太郎が問う。

「記録するのか」

「はい」

「残してどうする」

「後で誰かが読みます」

「後で国があればな」

 清太郎は筆を止めない。

「その言葉も」

「好きにしろ」

 久松が座る。

「見捨役」

「一揆」

「飢饉」

「戦」

「異国船」

「大火」

「国が大きく揺れた時」

「全部を救えぬなら」

「何を捨てるか決める」

「誰を」

 新之介が問う。

「人とは限らぬ」

「城」

「家」

「役職」

「町」

「記録」

「時には人」

「その決定を」

「一人でする?」

「最後は」

「なぜ一人」

「皆で決めれば遅い」

「遅いと何が」

「死ぬ」

「誰が」

「もっと多くの者が」

 久松は即答した。

「百人を救うため」

「十人を」

「捨てる」

 新之介が始帳で見た言葉。

「その十人は」

「自分で選べない」

「当然だ」

「なぜ」

「選ばせれば誰も自分を捨てぬ」

 志乃なら怒っただろう。

 新之介は声を抑えた。

「では」

「見捨役だけは」

「自分を捨てる側に置かれない?」

 久松が黙った。

 ◇

「私が見捨役になったのは」

 久松が言う。

「二十三年前だ」

「前任は」

「名を申せ」

 新之介がすぐ言う。

「もう死んでいる」

「それでも」

「松平左京」

 始帳にあった名。

 勘定吟味役。

 家斉の署名らしき文字の近くに記された男。

 阿部が息を呑んだ。

「始帳の」

「そうだ」

「本人か」

 新之介が問う。

「……本人だ」

「どう確認しました」

 久松の顔に苛立ち。

「三十年近く前の話だ!」

「だから聞いています」

「私が見た!」

「そなただけ?」

「もう一人」

「誰」

「御影宗伯」

 玄斎が低く唸る。

「また爺か」

「宗伯は見捨役だった?」

「違う」

「何を」

「止めようとした」

 新之介が顔を上げる。

「松平左京を?」

「見捨役という仕組みを」

「なぜ止められなかった」

 久松は笑った。

「宗伯も同じだったからだ」

「何が」

「自分一人で止めようとした」

 御影宗伯。

 人を数字から救おうとし。

 やがて記録を操る仕組みを作った男。

「一人で一人を止めた」

「だから役が残った」

 新之介が言う。

「そうだ」

「それで今度は」

「一人で国を止める役へ」

「私がなった」

 ◇

「なぜ受けた」

 玄十郎が問う。

「知っているだろう」

「本人の口から」

 久松はしばらく玄十郎を見た。

「二十五年前」

「北国で飢饉があった」

「表の記録より酷かった」

「米をどこへ送るか」

「二つの村で争った」

「片方へ送れば」

「もう片方が足りぬ」

「私は決められなかった」

「誰かと相談を」

「した」

「役人」

「商人」

「寺」

「皆、自分が責を負わぬ答えを出した」

「それで」

「三日遅れた」

 久松の声が少し変わる。

「その三日で」

「何人」

「分からぬ」

「数えなかった?」

「数えられなかった」

「百を超えた」

 御座所が静かになる。

「その中に」

 久松は続ける。

「妹がいた」

 新之介の目が動いた。

「妹?」

「嫁いでいた」

「村へ?」

「ああ」

「だから」

「その後、迷わない者になろうとした?」

 久松は新之介を見る。

「迷いは人を殺す」

 沢渡玄隆が笑った。

「ようやく同じところへ来たな」

 久松が沢渡を睨む。

「黙れ」

「私が教えた」

「そなたは言葉を与えただけだ」

「十分だ」

 ◇

「沢渡殿」

 新之介が向く。

「久松殿を育てた、と玄十郎殿から」

「育てたのではない」

「何を」

「病名を与えた」

「迷いという」

「ああ」

「治療は」

「決断」

「副作用は」

 沢渡が黙った。

「人を物として見ることですか」

「……」

「違いますか」

「時には必要だ」

「そなた自身が捨てられる時にも」

「必要なら」

「今、捨てられますか」

 沢渡が初めて言葉に詰まる。

「ほら」

 新之介が言う。

「捨てる側にいる者は」

「簡単に必要と申す」

 久松が低く言った。

「では今日」

「私は自分も秤へ載せている」

「どういう意味です」

「最後に一人を選び」

「その者を皆で斬る」

「その後」

 久松は自分の胸を指した。

「私も死ぬ」

 半九郎が眉をひそめる。

「自害?」

「ああ」

「それで公平だと?」

「少なくとも逃げぬ」

「逃げています」

 半九郎が即座に言った。

「何」

「選ばれた一人は」

「自分の罪を話す時間も」

「自分が誰か確かめる時間もない」

「そなたは」

「自分で死ぬ時とやり方を決められる」

「同じではない」

 玄十郎が息子を見る。

 半九郎は続ける。

「父も同じでした」

「自分の名を捨てれば」

「責任を負ったと思った」

「でも」

「残された方は違う」

 久松の顔が強張った。

 ◇

「では本題だ」

 久松が言った。

「ここにいる者の中に」

「偽物がいる」

「何の」

「徳川家慶」

 二人の家慶を見る。

「鷹見静山」

 宗一郎を見る。

「御影宗一」

 宗一を名乗る男。

「そして」

 新之介へ。

「榊原新之介」

「私まで?」

「大手門に二人いる」

「拘束中です」

「だから三人だ」

「名前なら」

「役としては」

「一人に戻さねばならぬ」

「なぜ」

「命令が割れるからだ」

「なら命令の出し方を変えればよい」

「国中でか」

「はい」

 久松が笑う。

「何年かかる」

「分かりません」

「その間に外国船が来る」

「米が尽きる」

「諸藩が動く」

「だから今日」

「一つへ戻す」

「誰を捨てる」

 新之介が問う。

 久松は答えた。

「家慶乙」

 乙の顔が変わらない。

「理由を」

「影武者だからだ」

「確定しましたか」

「私が管理記録を見た」

「記録は誰が書いた」

「川辺」

「川辺殿は誤っている可能性を認めています」

「身体」

「針も同じ」

「記憶」

「共有されている」

「では」

「なぜ乙なのです」

 久松が一瞬黙る。

「甲より後に現れた」

 玄斎が笑った。

「それだけか」

「順序は証だ」

「遅く来た者が偽物?」

「可能性が高い」

「高い」

 新之介が繰り返す。

「確定ではない」

「国は確率で決めることもある!」

「人を斬る時も?」

「……ある」

 ◇

 家慶乙が初めて口を開いた。

「私を斬れば」

「混乱が収まるのか」

「少なくとも将軍は一人になる」

 久松が答える。

「甲が本物だということになる」

「なる?」

「そう扱う」

「本物かどうかではなく」

「そう扱う?」

「ああ」

 乙が笑った。

「なるほど」

 甲が横を見る。

「何が可笑しい」

「ようやく分かった」

「何を」

「これは本人確認ではない」

「最初から」

「一人を本物にする儀式だ」

 新之介が頷く。

「その通りです」

 久松が睨む。

「何が違う」

「大きく違います」

「誰かを斬れば」

「残った者が本物になる」

「それなら」

 新之介は甲を見る。

「甲殿が偽物でも」

「乙殿を斬れば本物として残る」

 甲の顔が硬くなる。

「そして」

「甲殿を斬れば」

「乙殿が本物になる」

「そうだ」

 久松が言う。

「国に必要なのは」

「真実ではなく一本の命令だ」

「それを」

 新之介は始帳を思い出す。

「納得と呼んだのですね」

「何」

「事実として悪いかではなく」

「民が納得する者を罰する」

「始帳と同じ」

 久松の顔が歪む。

「国には時に必要だ!」

「十五年前も」

 玄十郎が言った。

「そなたはそう申した」

「玄十郎」

「六歳の半九郎を捨てる案も」

「早かったな」

 半九郎が父を見る。

「父上」

「何だ」

「それは初耳です」

 玄十郎が顔をしかめた。

「後で話す」

「逃げませんね」

「逃げぬ」

 ◇

「久松殿」

 新之介が言う。

「そなたが作った問いは」

「家慶甲か乙か」

「御影宗一か偽物か」

「静山は誰か」

「新之介は誰か」

「全部同じです」

「何が」

「名を一人へ戻せば」

「役が安定すると思っている」

「当然だ」

「違います」

「なぜ」

「一人の名を十人で使ったなら」

「十人を一人に戻すのではなく」

「十人が何をしたかを分けて記す」

「命令は」

「誰が、いつ、何を命じたか」

「責任は」

「行いにつける」

「名につけない」

 清太郎の筆が止まる。

 新之介は続けた。

「家慶甲殿が半年、偽声を放置した」

「それは甲殿の行い」

「乙殿が薨去の偽高札を許した」

「それは乙殿の行い」

「どちらが本物でも」

「消えない」

 二人の家慶が黙って聞いている。

「宗一殿が影武者として城内へ入った」

「それも行い」

「宗一郎殿が権限なく静山の名で高札を出した」

「それも行い」

「私の顔を使った庄吉殿、新八殿」

「それぞれ別に記録する」

「なら」

 久松が問う。

「将軍の命令はどうする」

「名前ではなく」

 新之介が言う。

「命令そのものを確かめる」

「誰が決める」

「関係する役が分けて確認する」

「遅い!」

「はい」

「認めるのか」

「遅い時もある」

「なら人が死ぬ!」

「早く間違えても死ぬ!」

 御座所が静まり返った。

 ◇

 久松が立ち上がる。

「なら見せてやる」

「何を」

「遅い見分が」

「何を生むか」

 壁際の小机。

 その上に置かれた黒い帳面。

 新之介は初めて気づいた。

「何です」

「捨帳」

 玄十郎が立ち上がる。

「まだ残していたのか」

「何の帳面」

 半九郎が問う。

「見捨役が」

 玄十郎が答える。

「非常時に捨てる候補を記した帳面だ」

 始帳。

 根帳。

 四冊。

 続帳。

 そして。

 捨帳。

 玄斎が呻く。

「帳面が増えるたびにろくなことがない」

「開けます」

 久松が手をかける。

「待ってください」

 新之介が止める。

「何だ」

「一人で開けない」

「これは見捨役の帳だ」

「だからです」

「権限が」

「そなたの権限を認めていません」

「なら見るな」

「見ます」

「どちらだ!」

「立会いを入れて見ます」

 久松は新之介を睨む。

 やがて。

 黒い帳面から手を離した。

「好きにしろ」

 ◇

 久松。

 新之介。

 半九郎。

 阿部。

 水野。

 家慶甲。

 家慶乙。

 清太郎。

 人数は増えた。

「七人では」

「帳面の見分は別です」

「都合がよいな」

「必要が変わりました」

 久松が呆れる。

「そなたの仕組みも、その場しのぎではないか」

「はい」

「何」

「完璧ではありません」

「ならなぜ」

「完璧でないと記録して使う」

 久松は何も言わなかった。

 捨帳が開かれる。

 最初の頁。

 天保。

 大火。

 疫病。

 米不足。

 名前。

 町。

 藩。

 商家。

 寺。

 人。

 横には一文字。

 ――捨。

 新之介の顔が険しくなる。

「実際に捨てたのですか」

「全部ではない」

「どれを」

「赤印があるもの」

 何か所も。

 赤い丸。

 清太郎の顔が青ざめる。

「人名にも」

「ああ」

「その者は」

「罪人にした」

「本当に罪が」

「ある者もいた」

「ない者も」

「いた」

「記録した?」

「ここにある」

 久松は逃げない。

「なら後で全部見ます」

「今日を生き残ればな」

 ◇

 最後の数頁。

 新しい。

 今年。

 今月。

 今日。

「今日の頁」

 水野が読む。

 ――徳川家慶。

 ――鷹見静山。

 ――御影宗一。

 ――榊原新之介。

 ――真崎半九郎。

 阿部が顔を上げる。

「候補が五人?」

「違う」

 久松が言う。

「さらに下を」

 清太郎が読む。

 ――第一候補、徳川家慶乙。

 ――第二候補、鷹見静山。

 ――第三候補、榊原新之介。

 新之介が笑った。

「三番ですか」

 玄斎が怒鳴る。

「笑うな!」

「思ったより下だったので」

「そういう問題か!」

「第一候補を捨てても混乱が収まらなければ」

 水野が言う。

「次を捨てる?」

「そうだ」

「何人まで」

「収まるまで」

 半九郎の顔が変わった。

「一人を選ぶ話ではない」

「最初から」

 新之介が久松を見る。

「順番に捨てるつもりだった」

 久松は答えなかった。

「だから私たちを集めた」

「一人を斬らせる」

「収まらなければ二人目」

「それでもなら三人目」

「どこまで」

 新之介が頁をめくる。

 その先。

 人名がない。

 代わりに。

 地名。

 ――日本橋。

 ――蔵前。

 ――深川。

 ――品川。

 玄斎の声が消えた。

「町まで」

「最悪の場合だ」

 久松が言う。

「どう捨てる」

「封鎖する」

「米を止め」

「橋を閉じ」

「人を出さぬ」

「その中の者は」

「外へ混乱を広げないためだ」

「何人いると思っている!」

 水野が怒鳴る。

「知っている!」

 久松も立ち上がる。

「知っているから書いた!」

「書けば責を負ったことになるか!」

 阿部が机を叩く。

「ならどうしろ!」

 久松の声が割れた。

「誰かが決めねばならぬ時がある!」

「誰も決めぬまま」

「また百人死ぬのを見ろというのか!」

 ◇

 新之介は捨帳の一番下を見る。

 まだ文字がある。

「清太郎殿」

「はい」

「最後」

 清太郎が読む。

 声が止まった。

「何です」

「……第五段階」

「読んでください」

 ――江戸城。

 家慶甲が立ち上がる。

「城を捨てる?」

「最終だ」

 久松が答える。

「将軍家も」

「老中も」

「御側衆も」

「記録も」

「一度ここへ閉じ込める」

「その後」

「城外に政を移す」

「誰へ」

 久松が答えない。

 新之介が頁を見る。

 次の行。

 墨が新しい。

 ――見捨役。

 その下。

 ――新政、見捨役を中心とする。

 玄十郎が久松を見る。

「そなた」

「自分を捨てると申したな」

「……」

「嘘だったのか」

 久松の顔が変わった。

「違う」

「ではこれは」

「私が書いたのではない」

 全員が止まる。

「筆跡は」

 清太郎が見比べる。

「上の頁と」

「違います」

「誰が」

 久松が帳面へ手を伸ばす。

 新之介が止める。

「触らない」

「これは知らぬ!」

「分かりました」

「信じるのか」

「いいえ」

「では」

「そなたが『知らぬ』と申したことを記録する」

 久松の息が荒くなる。

「この捨帳は」

「ずっとそなたが」

「昨夜まで私が持っていた」

「昨夜?」

「今朝、一度御座所へ運ばせた」

「誰に」

「小姓」

「名は」

 久松が答えようとする。

 その時。

 家慶甲が言った。

「待て」

「何だ」

「私はその小姓を見た」

「誰」

「堀田新三郎」

 全員が凍りつく。

「新三郎殿は」

 新之介が言う。

「再起館にいる」

「なら」

「顔を使った者」

「あるいは」

 乙が続ける。

「別の堀田新三郎」

 玄斎が頭を抱えた。

「もう増やすな」

 ◇

 清太郎が新しい書き込みを読む。

「まだ続きがあります」

「何」

 ――見捨役が迷う時。

 ――見捨役を捨てよ。

 久松の顔が止まった。

 そして最後。

 ――次の見捨役は。

 墨が濃い。

 今日書いたように新しい。

 清太郎がゆっくり読む。

「――真崎半九郎」

 半九郎が息を呑んだ。

 玄十郎が立ち上がる。

「ふざけるな!」

「父上」

「久松!」

「私ではない!」

「では誰だ!」

「知らぬ!」

「半九郎を!」

「私は選んでいない!」

 久松の顔には。

 初めて。

 恐怖があった。

 自分が人を選んできた男が。

 自分の後継者を。

 知らぬ誰かに選ばれた。

 半九郎は黒い帳面を見る。

「私が」

「見捨役」

 新之介が首を振った。

「違います」

「しかし」

「帳面がそう書いただけです」

 半九郎が新之介を見る。

「では」

「誰が書いたか確かめる」

「なぜ私を」

「それも」

 玄十郎が低く言った。

「理由なら分かるかもしれぬ」

 全員が彼を見る。

「何です」

「見捨役は」

 玄十郎の顔が青ざめていた。

「前任が次を選ぶ、と申したな」

 久松が頷く。

「そうだ」

「だが久松を選んだ松平左京には」

「もう一つ条件があった」

「何だ」

「次の見捨役候補は」

 玄十郎は息子を見る。

「一度」

「捨てられる側へ置かれた者から選ぶ」

 半九郎の表情が消える。

 六歳。

 十六人を救うため。

 名を盾にされた子。

 三度命を狙われた者。

 本人へ聞かれず。

 父の正義のために使われた者。

「だから」

 玄十郎の声が震える。

「半九郎は」

「見捨役の条件に」

「最初から合っていた」

 新之介は黒い帳面を見た。

 そして久松を見た。

「誰が」

「半九郎殿の十五年前を知っている」

 久松。

 玄十郎。

 御影。

 宗一郎。

 沢渡。

 お菊。

 そして。

 まだ名の見えない誰か。

 その時。

 御座所の外から。

 四度。

 鐘。

 救いを求める合図。

 続いて声。

「榊原殿!」

「再起館より急使!」

「何が!」

「御影宗太郎殿が!」

 一呼吸。

「何者かに斬られました!」

 玄斎が立ち上がる。

「宗太郎!」

「生きています!」

「誰に!」

「犯人は捕らえました!」

「名は!」

 扉の外の声が答えた。

「真崎半九郎と名乗っています!」

 御座所の中。

 誰も動かなかった。

 半九郎本人は。

 新之介のすぐ隣に立っている。

 黒い捨帳には。

 次の見捨役。

 真崎半九郎。

 そして再起館では。

 別の真崎半九郎が。

 御影宗太郎を斬った。

 玄十郎は息子を見た。

 半九郎も父を見る。

 新之介だけが、ゆっくり黒い帳面を閉じた。

「今度は」

 静かな声で言った。

「半九郎殿を増やすつもりらしい」

 玄斎が呻く。

「将軍」

「静山」

「御影」

「新之介」

「そして半九郎」

「次は何だ」

 新之介は扉へ向かった。

「増えたのではありません」

「何」

「増やした者がいる」

 その者は。

 同じ名を何人にも着せ。

 誰が本物かを争わせ。

 最後に一人へ戻す役を必要とさせる。

 見捨役そのものが必要になるように。

「問いを作っている者が」

 新之介は言った。

「ようやく見えてきました」

(第七十六章へ続く)

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