上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第八十二章

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第八十二章 海の御影

 江戸湾から響いた砲声は。

 しばらくして止んだ。

 だが。

 日本橋のざわめきは止まらなかった。

「戦になるのか」

「米利堅だってよ」

「黒い船が四隻」

「浦賀が焼かれたらしい」

「いや、品川まで来てる」

「将軍様が逃げたって」

「将軍様は二人いるらしいぞ」

 噂は。

 事実より速かった。

 しかも。

 事実より強い。

「榊原様」

 志乃が言った。

「こちらは残ります」

「お願いします」

「噂も記録します」

「噂を?」

 家定が問う。

 志乃が頷く。

「何が本当かだけではなく」

「何を皆が怖がっているかも」

「必要です」

 新之介が言った。

「ただし」

「噂を事実としては書かない」

 清太郎が即座に紙へ。

 ――未確認。

 ――市中に「浦賀焼失」「将軍逃亡」等の風聞あり。

 ――現時点で裏付けなし。

「便利ですね」

 家定が言う。

「何が」

「『未確認』という言葉」

「使いすぎると」

「何も確かめなくなるので危険です」

「やはり面倒ですね」

「はい」

 ◇

 水野の一時命令。

 発砲を避け。

 民間船を退け。

 海上警備を続ける。

 期限は一刻。

 その間に。

 新之介。

 家定。

 水野。

 玄斎。

 そして半九郎は。

 品川へ向かう。

「私も行くのですか」

 家定が問う。

「嫌なら」

「行きます」

「ではなぜ」

「聞いただけです」

 玄斎が言う。

「世継ぎが異国船へ近づくなど」

「危なすぎる」

「では先生は」

「行く」

「なぜ」

「わしは世継ぎではない」

「膝人です」

「榊原!」

 家定が笑った。

「少し慣れました」

「慣れないでください」

 ◇

 品川沖。

 朝風丸。

 その甲板に。

 鷹見宗一郎がいた。

 白髪。

 海風。

 彼は遠くの四隻を見つめている。

「宗一郎殿」

 新之介が声をかける。

「来たか」

「松平宗一郎殿が消えました」

「知っている」

「どこへ」

「一隻目」

「御影の印がある船?」

「ああ」

「なぜ止めなかった」

「止められなかった」

「傷人です」

「本人が行くと言った」

「一人で?」

「違う」

「誰と」

「藤吉」

「父の方?」

「そうだ」

 半九郎が眉をひそめる。

「藤吉殿も」

「負傷していたはず」

「傷人は」

 玄斎が言いかけ。

 新之介が見る。

「何だ」

「言ってください」

「今はよい!」

 ◇

「御影の印とは」

 水野が問う。

 宗一郎は懐から紙を出した。

 丸。

 その中に。

 三本の短い線。

「古い御影印?」

「ああ」

「日本の御影とは」

「少し違う」

「何が」

「線が一本多い」

「意味は」

「海を越えた者」

「誰が作った」

「御影宗伯」

 玄斎が即座に呻いた。

「また爺か」

「正確には」

 宗一郎が言う。

「宗伯が若い頃」

「まだ御影という名を組織にしていない時」

「海へ出た者へ」

「同じ印を渡した」

「何のため」

「互いを見つけるため」

「どこで」

「長崎」

「琉球」

「唐」

「蝦夷」

「さらに」

 宗一郎は外国船を見る。

「もっと向こう」

 家定が問う。

「幕府が鎖国をしている間に?」

「鎖国は」

 宗一郎が少し笑う。

「海そのものを閉じたわけではない」

「人は出た」

「物も」

「言葉も」

「秘密も」

 ◇

「十五年前」

 新之介が問う。

「弁財丸の四十七人は」

「その海の御影へ」

「送られた?」

「一部は」

「全部ではない」

「売られた者」

「働かされた者」

「逃げた者」

「死んだ者」

「海の御影に拾われた者」

「その中に」

「今日の船へ乗っている者が」

「ああ」

「何人」

「分からない」

 新之介が宗一郎を見る。

「分からない?」

「名簿がない」

「珍しいですね」

「皮肉か」

「少し」

「海の御影は」

「名簿を作らなかった」

「なぜ」

「陸の御影が」

「名簿で人を縛ったことを知ったからだ」

 新之介の目が動く。

「では」

「向こうは」

「逆の仕組み?」

「最初は」

 宗一郎が答える。

「名を記さない」

「役も固定しない」

「命令を一人から出さない」

 家定が驚く。

「今、私たちが」

「作ろうとしていることに」

「似ている?」

「似ている」

「では」

「なぜ戻ってきた」

 宗一郎の顔が暗くなる。

「やはり」

「同じ穴へ落ちたからだ」

 ◇

「何が起きた」

 水野が問う。

「名を残さない」

「一人へ権限を集めない」

「それで最初は」

「うまくいった」

「海では」

「状況が変わる」

「港ごと」

「国ごと」

「法も違う」

「一人の決まりで動けない」

「だから」

「皆で決めた」

「しかし」

「遅かった?」

 新之介が問う。

「そうだ」

「嵐」

「海賊」

「病」

「役人の臨検」

「その場で一人が決めなければならない時があった」

「それで」

「航海ごとに」

「一人へ権限を預けた」

「期限は」

「航海が終わるまで」

「戻した?」

「最初は」

 家定が呟く。

「最初は?」

「一人の男が」

「三度続けて」

「船を救った」

「皆が」

「またあの男へ任せようと思った」

「そのうち」

「役になった」

「名は」

 宗一郎が答える。

「舵守」

「御影ではなく?」

「海の御影の中で生まれた役だ」

「何をする」

「最後に決める」

 玄斎が舌打ちした。

「結局」

「見捨役と似るな」

「ああ」

 ◇

「今日来たのは」

「その舵守?」

 新之介が問う。

「おそらく」

「名前は」

「知らない」

「また」

「だが」

「一つだけ」

「何です」

「舵守は」

「十五年前」

「弁財丸の四十七人の中にいた」

 半九郎の顔が変わった。

「なら」

「被害者だった」

「はい」

「そして今」

「決める側?」

「そうだ」

 久。

 松平宗一郎。

 見捨てられた者が。

 見捨てる側へ。

 また。

「同じですね」

 家定が呟く。

「傷を知る者が」

「傷を与えないとは限らない」

 新之介が答えた。

「はい」

 ◇

「松平宗一郎殿は」

 新之介が問う。

「なぜその船へ」

「自分が」

「海の御影を作るきっかけの一人だったからだ」

「何」

 玄斎が宗一郎を見る。

「先生が?」

「違う」

「再起館の宗太郎」

「今は松平宗一郎と名乗る男だ」

「十五年前」

「十六人を抜いた後」

「四十七人へ」

「何を」

「合図を送った」

「どんな」

「船内で」

「互いの元の名を」

「一人だけへ預けるな」

「何」

「それが」

「海の御影の始まり?」

「一つのきっかけだ」

 宗一郎は続けた。

「四十七人は」

「船へ乗せられる前」

「名を変えられ」

「番号で呼ばれた」

「だから」

「互いに」

「自分の本当の名を覚えようとした」

「一人が忘れても」

「別の者が覚える」

「二人が死んでも」

「三人目が覚える」

「それが」

「名前の分散」

「はい」

「記録ではなく」

「人が覚える」

「最初は」

「そうだった」

「しかし」

「人数が増え」

「世代が変わり」

「声だけでは」

「残らない」

「それで」

「印が」

「そして役が」

「できた」

 ◇

「一つ聞きます」

 家定が言う。

「なぜ米利堅船に乗っているのです」

「向こうと手を組んだ?」

「それを確かめる必要がある」

 宗一郎は答える。

「海の御影は」

「商船」

「捕鯨船」

「軍艦」

「さまざまな船へ人を送った」

「なぜ」

「海を渡るため」

「国のため?」

「最初は」

「生きるため」

 家定が黙る。

「人は」

 宗一郎が続けた。

「国を越えても」

「腹は減る」

「働かねばならぬ」

「だから船へ乗る」

「そのうち」

「言葉を覚え」

「技術を覚え」

「海図を覚え」

「政治を覚えた」

「そして」

「日本を」

「遅れた国だと思った者もいる」

 水野の顔が険しくなる。

「外国へ日本を売るつもりか」

「決めるな」

 新之介が言う。

 水野が睨む。

「分かっている!」

 ◇

 遠く。

 四隻。

 黒い煙。

 大きい。

 日本の船とは違う。

 朝風丸の船員たちも。

 黙って見ている。

「水野様」

 海防掛の若者。

「旗信号」

「何と」

「こちらへ小舟を出す、と」

「誰が」

「米利堅船」

「武器は」

「見えません」

「人数」

「六ほど」

「こちらは」

 水野が一瞬考える。

「発砲禁止の期限」

「まだ半刻ほど」

「では」

「迎えますか」

「待ってください」

 家定が言う。

「何だ」

「迎える場所」

「ここ?」

「朝風丸」

「日本側の船です」

「なら」

「双方から同数を」

「なぜ」

「一方の船へ上がると」

「その側の支配が強くなる」

 水野が家定を見る。

「どこで話す」

「中立の小舟?」

 宗一郎が笑った。

「海の御影で」

「昔よく使った方法だ」

 新之介が家定を見る。

「誰から聞きました」

「今、思いつきました」

「そうですか」

「信じませんか」

「信じません」

「見てください」

「はい」

 ◇

 双方の間。

 大きめの舟を一艘。

 日本側。

 新之介。

 水野。

 家定。

 鷹見宗一郎。

 通詞二人。

 記録役一人。

 玄斎は。

「なぜわしを置く」

「舟が揺れます」

「膝人だからか!」

「はい」

「正直に言うな!」

 朝風丸へ残る。

 半九郎も。

 万一に備える。

「榊原殿」

 半九郎が言う。

「気をつけて」

「はい」

「外国人より」

「何を」

「日本人の顔をした者に」

 新之介が少し笑った。

「最近は」

「そちらの方が難しいですね」

 ◇

 小舟が近づく。

 米利堅側。

 六人。

 制服姿。

 通訳らしき男。

 そして。

 一人だけ。

 和服。

 四十前後。

 髪は短く切られている。

 顔。

 日本人。

 新之介の目が細くなる。

 男は。

 こちらの舟へ乗るなり。

 英語でも。

 異国風の挨拶でもなく。

 江戸の言葉で言った。

「遅かったな」

 新之介は答えた。

「誰に対してです」

 男が笑う。

「御影に」

「私は御影ではありません」

「知っている」

「では」

「榊原新之介」

「そう名乗っています」

「面倒だと聞いている」

 玄斎が遠くにいるのが惜しい。

「名を」

 新之介が問う。

「今の名?」

「はい」

「弥十郎」

「生まれた名」

 男が止まる。

「覚えている」

「なら」

「言わない」

「理由を」

「その名で呼ぶ者は」

「もう日本にいないと思っている」

「今もそう思いたい?」

「……ああ」

「では今は聞きません」

 弥十郎が少し驚いた。

「随分変わったな」

「私を知っている?」

「ああ」

「どこで」

「十五年前」

「私は十六歳」

「そなたは」

「十八ほど」

「場所」

「榊原家ではない」

「では」

「西徳寺」

 ◇

 新之介の記憶。

 鐘。

 竹筒。

 若い頃。

 だが。

 弥十郎という男。

 覚えがない。

「私は」

 弥十郎が言う。

「弁財丸の十九番だった」

 水野が問う。

「四十七人の」

「ああ」

「生き残った?」

「その言い方は嫌いだ」

「では」

「今も生きている」

「それでよい」

 ◇

「御影の印は」

 新之介が問う。

「そなたが?」

「私たちの」

「舵守?」

 男の顔が少し変わる。

「宗一郎から聞いたな」

「はい」

「私は舵守ではない」

「では」

「舵守を止めに来た」

「どこに」

 弥十郎は。

 四隻のうち。

 二番目を見る。

「そこだ」

「誰」

「名は」

「日本で生まれた時」

「小夜」

 家定が驚く。

「女?」

「ああ」

「今は」

「サラ」

「姓は」

「向こうで得た」

「日本人?」

「生まれは」

「相模」

「年は」

「三十八」

「弁財丸では」

「何番」

「三十一」

 ◇

「その方が」

 水野が問う。

「米利堅船を率いているのか」

「違う」

「軍艦は米利堅のものだ」

「では」

「その中で何を」

「通訳」

「案内」

「日本についての助言」

「そして」

「海の御影の舵守」

「目的は」

 弥十郎が新之介を見る。

「日本を開かせる」

 水野の顔が険しくなる。

「外国へ従わせる?」

「違う」

「では」

「日本人を」

「日本の外へ逃げられるようにする」

「何」

 家定が問う。

「なぜ」

「私たちが」

「逃げられなかったからだ」

 ◇

「弁財丸」

 弥十郎の声が低くなる。

「売られた」

「戻れなかった」

「名前を奪われた」

「国は」

「助けに来なかった」

「幕府は」

「存在すら認めなかった」

「だから」

「日本という国に」

「人を閉じ込める権利はない」

「出たい者は出る」

「戻りたい者は戻る」

「その道を」

「外国船の力で開く?」

「ああ」

「本人たちへ」

 新之介が問う。

「聞いた?」

 弥十郎が止まる。

「誰に」

「日本にいる人」

「出たいか」

「戻りたいか」

「国を開いてほしいか」

「聞いた?」

「聞けるはずがない」

「なぜ」

「幕府が閉じている」

「では」

「聞けないから」

「開くと決めた?」

「……」

 弥十郎が苦く笑った。

「そなた」

「本当に嫌なところを突くな」

「よく言われます」

 ◇

「小夜――サラ殿は」

 家定が問う。

「何を望んでいる」

「開国」

「それだけ?」

「もう一つ」

「何」

「御影を終わらせる」

「海の御影も?」

「ああ」

「自分が舵守なのに」

「だからだ」

「最後に」

「自分が全部終わらせる?」

 弥十郎が家定を見る。

「そう言った」

 新之介が息を吐いた。

「松平左京殿と同じですね」

「誰だ」

「見捨役を作り」

「最後に自分で終わらせようとした方」

「……」

「役を終わらせる最後の権限まで」

「自分で持つ」

 弥十郎は黙った。

 ◇

「松平宗一郎殿は」

 新之介が問う。

「どこです」

「サラの船」

「会った?」

「私はまだ」

「では」

「なぜ分かる」

「旗」

「何の」

「海の御影で」

「『元の名を返す者が乗った』印」

「松平宗一郎殿は」

「元の名を?」

「返しに行った?」

「おそらく」

「誰へ」

 弥十郎の顔が変わった。

「三十一番」

「サラへ」

「何の名を」

 新之介は待つ。

 弥十郎は。

 ゆっくり言った。

「御影宗太郎」

 全員が止まった。

「何」

 水野が問う。

「サラ殿も」

「御影宗太郎?」

「違う」

「では」

「十五年前」

「四十七人へ船内から合図を送った『御影宗太郎』」

「それは」

「松平宗一郎本人ではない」

「誰」

「三十一番」

「小夜だった」

 ◇

 新之介の中で。

 何かがつながる。

 十六人見分帳。

 御影宗太郎の署名。

 十五年前。

 新之介代替計画。

 本人が命じたのか。

 後で名だけ使われたのか。

「待ってください」

「何だ」

 家定が見る。

「十五年前」

「御影宗太郎という名が」

「すでに複数で使われていた?」

 弥十郎が頷く。

「陸では」

「一人のように扱っていた」

「海へ出す文では」

「別の者も」

「なぜ」

「追われた時」

「誰を捕まえても」

「御影宗太郎が終わらないように」

 玄斎がいれば。

 確実に怒鳴った。

「では」

 新之介が言う。

「十六人を抜く指示」

「新之介の代替候補」

「それらにある」

「御影宗太郎の署名も」

「一人の行いとは限らない」

「そうだ」

「誰が」

「どの命令を」

「出したか」

「分けなければならない」

「それを」

 弥十郎は笑った。

「十五年かけて」

「今さらやるのか」

「はい」

「遅いな」

「はい」

「でもやる?」

「はい」

 ◇

 米利堅側の士官が何か言う。

 通訳。

「本船より」

「交渉代表を出す」

「誰」

 通訳が少し戸惑う。

「日本名」

「小夜」

「向こうの名」

「サラ・ミラー」

 家定が息を吸う。

「来る?」

「こちらへではなく」

「中立舟へ」

「条件」

「徳川将軍と話したい」

 全員が家定を見る。

 家定が即座に言った。

「私は将軍ではありません」

 通訳が困る。

「では」

「誰が」

 家定が新之介を見る。

「私を見ないでください」

「では」

 水野が問う。

「家慶甲を呼ぶ?」

「時間が」

「またそれです」

 水野が顔をしかめる。

「分かっている」

 ◇

 弥十郎が言う。

「サラは」

「将軍が一人ではないことを知っている」

「何」

「だから」

「将軍と話したいと言っている」

「どういう意味」

「誰が将軍として出てくるか」

「見たい」

「試している?」

「ああ」

「日本が」

「まだ一人の名へ戻るか」

「それとも」

「別の決め方をするか」

 新之介の顔が険しくなる。

「では」

「開国交渉だけではない」

「御影の見分でもある」

「そうだ」

 家定が言う。

「こちらを」

「試す権利が」

「彼女にある?」

「ないと思います」

 新之介が答える。

「なら」

「どうする」

「こちらからも」

「聞きます」

「何を」

「なぜ」

「外国の軍艦を使って」

「日本へ答えを急がせるのか」

 ◇

 弥十郎が笑う。

「それを言えば」

「サラは怒る」

「よいです」

「砲を持っているぞ」

「だからこそ」

 新之介は言う。

「時間がない者ほど」

「他人の命を使う」

「外国でも」

「同じでしょう」

 水野が低く息を吐いた。

「榊原」

「何です」

「今度は」

「本当に斬られるかもしれんぞ」

「刀はあります」

「使うのか」

「必要なら」

「人を斬るためとは限りません」

「また縄か」

「海では縄が多いですから」

 家定が吹き出した。

「今笑うところですか」

「少し」

 ◇

 その時。

 二番目の異国船から。

 小舟。

 一艘。

 乗っているのは。

 四人。

 米利堅士官。

 通詞。

 松平宗一郎。

 そして。

 女。

 異国風の服。

 黒い髪。

 日に焼けた顔。

 目だけが。

 妙に静かだった。

 日本へ近づく。

 弥十郎が呟く。

「三十一番」

 女は。

 こちらの舟を見た。

 そして。

 日本語で。

 はっきり言った。

「榊原新之介」

 新之介が答える。

「そう名乗っています」

 女が。

 初めて笑った。

「聞いた通りだ」

「誰から」

 女は。

 隣に座る松平宗一郎を見る。

「この人から」

 負傷したはずの老人。

 顔色は悪い。

 だが生きている。

「宗一郎殿」

 新之介が言う。

「また一人で」

「一人ではない」

 老人が答える。

「確かに」

「では」

 女へ。

「今の名を」

「サラ・ミラー」

「生まれた名は」

 女は。

 少しだけ目を伏せた。

「小夜」

「姓は」

「なかった」

「弁財丸では」

「三十一番」

「はい」

「御影宗太郎の名を」

 使ったことがありますか。

 新之介が問う。

 女は。

 まっすぐ答えた。

「ある」

「十六人を抜く命令も」

「一部は私が出した」

「榊原新之介の代替計画は」

 女の目が細くなる。

「それも」

「私が始めた」

 家定が息を呑む。

 新之介だけは。

 動かなかった。

「理由を」

 サラは答えた。

「そなたが」

「十五年前」

「最初に」

「名より人を見たからだ」

「弥吉殿の件?」

「それだけではない」

「では」

「榊原新之介という一人が死んでも」

「その考え方を残したかった」

 新之介の顔が。

 初めて強く歪んだ。

「だから」

 低い声。

「私の代わりを」

「人間で作った」

「はい」

「三人」

「はい」

「その人たちへ」

「本人として生きろと」

「命じた?」

「……はい」

「それを」

 新之介はサラを見る。

「人を守ったと」

「思っていますか」

 サラは。

 すぐには答えなかった。

 遠く。

 異国船の黒煙。

 その下に。

 御影の印。

 陸の御影。

 海の御影。

 同じように。

 人を救うため。

 人を役へ変えた。

 やがて。

 サラは言った。

「十五年前は」

「そう思った」

「今は」

「分からない」

 新之介は。

 ほんの少しだけ頷いた。

「なら」

「そこから聞きます」

 米利堅の軍艦を背に。

 かつて三十一番と呼ばれた女と。

 榊原新之介は。

 十五年越しに。

 初めて。

 同じ舟へ乗ろうとしていた。

(第八十三章へ続く)

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