上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第八十四章

目次

第八十四章 国の代替

「誰にも」

 ジョナサン・ケイは言った。

「頼まれていない」

 黒船の高い舷から。

 江戸湾を見下ろしながら。

「だから」

「私は」

「そなたたちと同じ間違いを」

「したのかもしれない」

 新之介は。

 すぐには答えなかった。

 水野も。

 サラも。

 弥十郎も。

 黙っている。

 四番船。

 異国の制服。

 知らない言葉。

 知らない旗。

 だが。

 その中心に立っている男が。

 話していることだけは。

 あまりにも。

 江戸城で聞いてきた言葉に似ていた。

「まず」

 新之介が言った。

「上がってよいですか」

 ジョナサンが眉を上げる。

「そこからか」

「はい」

「話すために来たのでは」

「来ました」

「なら上がれ」

「誰まで」

「そなた」

「水野隼人正」

「サラ」

「弥十郎」

「四人」

「記録役は」

「いらない」

「では上がりません」

 ジョナサンが少し笑った。

「やはり面倒だ」

「よく言われます」

「記録を信用しているのか」

「いいえ」

「では」

「残して」

「後で疑うためです」

 ジョナサンは。

 一度だけ。

 サラを見た。

「五人まで」

「記録役を一人」

「では」

 小舟にいた日本側の記録役。

 若い男が顔を上げる。

「名は」

「竹次郎です」

「竹次郎殿も」

「私ですか」

「嫌なら」

「行きます」

「では」

「お願いします」

 ◇

 縄梯子。

 高い。

 水野が先。

 新之介。

 サラ。

 弥十郎。

 竹次郎。

「家定殿は」

 小舟から声。

「私は残ります!」

「何かあれば」

「こちらでも記録します!」

 新之介が頷く。

「お願いします!」

 すると玄斎の声。

 遠く朝風丸から。

「新之介!」

「先生!」

「外国船で」

「妙な役を引き受けるなよ!」

「分かっています!」

「それから!」

「何です!」

「膝人を置いて行ったことは!」

「帰ってから聞きます!」

「忘れるな!」

 ジョナサンが。

 珍しいものを見るような顔をした。

「誰だ」

「師です」

「そなたの?」

「はい」

「……気の毒だな」

「どちらがです」

「両方」

 ◇

 甲板へ上がる。

 米利堅の船員たちが。

 日本人たちを見る。

 敵意。

 好奇。

 警戒。

 同じ顔は一つもない。

 新之介は。

 それが少しだけ。

 楽だった。

「何を見ている」

 ジョナサンが問う。

「顔です」

「私の?」

「皆の」

「同じに見えるか」

「いいえ」

「向こうでは」

 ジョナサンが言う。

「私たち日本人も」

「最初は皆同じ顔に見えたと言われた」

「慣れれば」

「違う」

「はい」

「名も同じだ」

「何が」

「知らない者には」

「家慶も」

「静山も」

「宗一も」

「ただの日本人の名だ」

「だから」

 ジョナサンは続ける。

「海外では」

「名の偽装が」

「最初は効いた」

「でも」

「長くいれば」

「行いの方が残る」

「なるほど」

「そなたが言うまでもなく」

「海では」

「それを嫌というほど知った」

 ◇

「では」

 新之介が言う。

「今の名」

「ジョナサン・ケイ」

「生まれた名」

 男が止まる。

「鷹見宗一」

「役名?」

「最初は違った」

「どういう意味です」

「私の父が」

「鷹見を名乗っていた」

「誰」

「鷹見宗兵衛」

「その名は」

 サラが眉をひそめる。

「聞いたことがある」

「長崎」

「ああ」

「密貿易?」

「それだけではない」

「海図」

「異国語」

「人の移動」

「幕府に隠れて」

「何をしていた」

「逃がしていた」

「誰を」

「借金から逃げる者」

「追われたキリシタン」

「罪を犯した者も」

「罪を着せられた者も」

「本人確認は」

 ジョナサンが笑った。

「四十年前の長崎で」

「そこまでできると思うか」

「できなかった?」

「ああ」

「だから」

「間違いもした」

「どんな」

「一人」

「逃がしてはいけない男を」

「逃がした」

「何をした方」

 ジョナサンが答えた。

「人を売る側だった」

 ◇

「父は」

 ジョナサンが続ける。

「その男を」

「役人に追われた被害者だと思った」

「本人の話だけで?」

「ああ」

「逃がした先で」

「また人を売った」

「何人」

「分からない」

「父は」

「どうした」

「追った」

「捕まえた?」

「いいや」

「死んだ」

「その途中で」

「だから」

 ジョナサンは海を見る。

「私は」

「人を助けるにも」

「確認が要ると知った」

「その時いくつ」

「十三」

「それが」

「今の考えへ?」

「一部は」

「では」

「なぜ鷹見宗一が役名に」

「父が死んだ後」

「長崎側の者が」

「私の名を使った」

「本人へ」

「聞いた?」

「最初は聞かれた」

「何と答えた」

「使ってよいと」

「なぜ」

「父の仕事を残したかった」

「その後」

「何人」

「五人」

「鷹見宗一が」

「ああ」

「今も」

「少なくとも三人は生きている」

「江戸に一人」

「海に私」

「もう一人」

「どこ」

 ジョナサンは。

 米利堅側の船室を見る。

「この船だ」

 水野が手を刀へ。

「誰だ」

「慌てるな」

「慌てる」

「水野様」

「分かっている!」

 ◇

「その方にも」

 新之介が言う。

「会えますか」

「後で」

「なぜ」

「まず国の代替を話す」

「それを」

「誰が決めた」

「私だ」

「一人で?」

「最初は」

「何を作ったのです」

 ジョナサンは。

 船室へ案内する。

 大きな机。

 海図。

 日本地図。

 江戸。

 長崎。

 浦賀。

 下田。

 箱館。

 いくつもの港。

 その横。

 紙束。

「触らないで」

 竹次郎が思わず言う。

 ジョナサンが彼を見る。

「誰に言った」

「全員です」

「そなたは」

「記録役です」

「名は」

「竹次郎」

「姓は」

「ありません」

「よい」

「何が」

「記録役が」

「権力者へ先に止めろと言える」

「珍しい」

 竹次郎が困る。

「褒められたのでしょうか」

「今はそうしておけ」

 ◇

 紙束の表。

 日本語。

 英語。

 二つ。

 題。

 ――代政案。

「代わりの政」

 水野が読む。

「幕府が」

「機能しなくなった時」

「誰が日本と交渉するか」

 ジョナサンが答える。

「そうだ」

「なぜ外国に」

「必要なのです」

「米利堅が?」

「米利堅だけではない」

「外国側は」

「日本の誰と約束すれば」

「国全体の約束になるか」

「分からない」

「将軍?」

「今」

「二人いるのだろう」

「それを」

 サラが言う。

「あなたは三年前から知っていた?」

「可能性だけ」

「誰から」

「海の御影」

「家慶の影武者記録が」

「国外へ渡った時」

「将軍一人が」

「制度として危ういと」

「思った」

「そこで」

「外国側が認める」

「日本の代替政府を?」

 水野の声が低い。

「そうだ」

 ◇

「誰が入る」

 新之介が問う。

「幕府」

「諸藩」

「商人」

「港の役人」

「海の御影」

「外国側通詞」

「寺」

「町人」

「随分」

 家定が聞けば。

 興味を示しただろう。

「一見」

 新之介が言う。

「広く入れていますね」

「一見?」

「誰が選ぶ」

 ジョナサンが止まる。

「私たちだ」

「海の御影?」

「ああ」

「では」

「そなたたちが」

「日本の代表を選ぶ」

「最初は」

「仮に」

「期限は」

「定めた」

「どれくらい」

「一年」

「長い」

「国の政だぞ」

「だから長い?」

「ああ」

「延長は」

「必要なら」

「誰が判断」

「代政会議」

「その会議を作るのは」

「私たち」

「つまり」

 新之介は言う。

「最初の人選をした者が」

「その後の延長にも」

「影響を持ち続ける」

「……」

「役が」

「自分を守り始めます」

 ◇

 ジョナサンは。

 しばらく答えなかった。

「分かっていた」

「では」

「なぜ」

「他に方法がなかった」

「確認した?」

「何を」

「他の方法を」

 ジョナサンの顔が険しくなる。

「海外にいて」

「どう確かめろという」

「では」

「確かめられないから」

「自分たちの案を」

「用意した?」

「ああ」

「備えとして」

「はい」

「それを」

「実行する条件は」

「幕府が」

「外国との約束を守れなくなった時」

「誰が判定」

 ジョナサンは。

 また黙った。

「そなたたち?」

「……そうだ」

 サラが目を閉じる。

「ジョナサン」

「何だ」

「私たち」

「陸を笑えないね」

「知っている」

 ◇

「三年前」

 水野が問う。

「日本の記録を外国へ渡したのは」

「そなたか」

「一部は」

 ジョナサンが答える。

「何を」

「家慶の影武者記録」

「御影系統」

「榊原新之介の代替記録」

 新之介が言う。

「私のものまで」

「ああ」

「なぜ」

「代政案で」

「そなたを入れるため」

「何」

 水野が睨む。

「榊原を」

「海外の代政へ?」

「候補の一人」

「本人へ」

 新之介が聞く。

「聞いた?」

「聞いていない」

「では」

「断ります」

「まだ内容を」

「名前を勝手に載せたことを」

「まず断ります」

 ジョナサンが。

 少し笑った。

「想定していた」

「ならなぜ載せた」

「そなたが断ることも」

「仕組みに必要だと思った」

「何」

「反対する者を」

「最初から一人入れる」

「それが」

「暴走を止める」

 新之介の目が。

 冷たくなる。

「私を」

「人ではなく」

「反対役として入れた?」

「……」

「役目を拒むところまで」

「役にした」

 サラが。

 ジョナサンを見る。

「それは」

「私がしたことと同じだ」

「ああ」

「榊原の考え方を」

「本人抜きで保存する」

「……ああ」

 ◇

「そなたたちは」

 水野が苛立つ。

「なぜ」

「人の意見を尊重すると言いながら」

「人へ聞かない」

 ジョナサンが答える。

「聞けば」

「拒まれるからだ」

「なら」

「拒まれるべき話だろう!」

「だが」

「国が崩れてからでは」

「遅い!」

 また。

 その言葉。

「遅い」

 新之介が呟く。

「何だ」

「陸でも」

「海でも」

「同じ」

「時間がない」

「だから」

「本人へ聞かない」

「だから」

「一人へ預ける」

「だから」

「名を借りる」

「そなたは」

 ジョナサンが言う。

「危機が来ても」

「それを続けるつもりか」

「全部ではありません」

「では」

「急いで決めることも」

「あります」

「何が違う」

「範囲」

「期限」

「誰が後で見直すか」

「それを」

「先に決める」

 水野が頷く。

「今朝」

「海上警備でやった」

「どれくらい」

「一刻」

 ジョナサンが驚く。

「短い」

「延長は再確認」

「誰と」

「海防掛」

「阿部」

「家定」

「家慶候補」

「その時にいる者で」

「完璧ではない」

「不安定だ」

「はい」

「外国は」

「そんな政と約束できない」

「では」

 家定のいる舟を。

 新之介が指す。

「外国が約束しやすいように」

「日本の政を一人へ戻せと?」

「……」

「それは」

「こちらの都合ではありません」

 ◇

 ジョナサンの声が低くなる。

「そなたは」

「海を知らない」

「はい」

「国と国の約束は」

「相手が誰か」

「明確でなければ成立しない」

「では」

「一人でなくても」

「代表を決める方法が」

「明確なら?」

 ジョナサンが止まる。

「何」

「誰が代表かではなく」

「どう代表を決めたか」

「そこを」

「外国へ示す」

「例えば」

 水野が問う。

「家定公」

「阿部」

「海防掛」

「外交担当」

「複数の確認で」

「全権を一時預ける」

「期限」

「交渉項目だけ」

「終われば返す」

「その全権が」

「約束を破ったら」

「責任を負う」

「日本側も」

「選んだ側も」

「記録を残す」

 ジョナサンは黙った。

「それなら」

 サラが言う。

「外国側から見ても」

「代表は明確になる」

「一人の将軍でなくても」

「はい」

「ただし」

「相手国が」

「それを認めるか」

「そこは」

「交渉です」

 ◇

「そなた」

 ジョナサンが笑った。

「幕府を」

「もう変えるつもりか」

「決めていません」

「だが」

「今の仕組みでは」

「動かないところが」

「見えました」

「だから直す」

「はい」

「誰の権限で」

「そこを」

「これから決める」

「遅い」

「はい」

「またか」

「はい」

「本当に」

「腹が立つな」

「よく言われます」

 ◇

 船室の奥。

 一人。

 男が入ってきた。

 日本人。

 六十ほど。

 背が低い。

 左目に白い濁り。

「ジョナサン」

「呼んだか」

「こちらが」

 ジョナサンが言う。

「もう一人の鷹見宗一」

 男は新之介を見る。

「名を」

 新之介が問う。

「今は」

「宗八」

「生まれた名」

「鷹見宗一」

「最初から?」

「ああ」

 ジョナサンを見る。

「この男も」

「同じ名」

「なぜ」

「従兄弟だ」

 新之介が少し驚く。

「本当に血縁?」

 宗八が笑う。

「そこから疑うか」

「はい」

「父同士が兄弟」

「記録は」

「長崎の寺に」

「後で」

「好きにしろ」

 ◇

「宗八殿は」

「何を」

「海の御影で」

「記録」

「名簿?」

「違う」

「最初は」

「航海ごとの出来事」

「誰が死んだ」

「誰が逃げた」

「誰が残った」

「誰が誰を助けた」

「名は」

「本人が望む時だけ」

 新之介が少し目を細める。

「よい仕組みに聞こえます」

「最初はな」

「何が変わった」

「記録が」

「証明になった」

「何の」

「誰が海の御影か」

「本人の名を残さなくても」

「行いの記録を持つ者が」

「古参だと」

「信じられるようになった」

「それで」

「記録を持つ者へ」

「力が集まった」

「宗八殿へ?」

「私にも」

「ジョナサンにも」

「サラにも」

「また」

 新之介が呟く。

「はい」

 宗八が答える。

「何を分けても」

「分けたものを管理する役が」

「新しい中心になる」

 ◇

「だから」

 宗八が机の紙束を見る。

「私は代政案へ反対した」

「ジョナサンに?」

「ああ」

「理由」

「海の御影が」

「日本の代表を選べば」

「海の御影が」

「幕府の上へ立つ」

「その通りですね」

「だが」

「私は」

「別の案を出した」

「何を」

「外国へ」

「日本には」

「今のところ」

「一つの代表政府はない、と」

「宣言する」

 水野の顔が変わる。

「国として」

「分裂していると」

「見せるのか」

「ああ」

「それで外国は」

「各藩」

「各港」

「各町と」

「別々に交渉する」

「危険です」

 水野が即座。

「はい」

 新之介も答える。

「なぜ」

「強い相手が」

「弱いところだけを選べる」

「同じ国の中で」

「条件がばらばらになる」

「でも」

 宗八が言う。

「一人の幕府へ集めれば」

「その一人を買えば国を買える」

「それも危険」

「はい」

「では」

「どうする」

 新之介は少し考える。

「今は」

「分かりません」

 宗八が大笑いした。

「そこまで来て」

「分からぬか!」

「はい」

「面白い」

「嬉しくありません」

 ◇

「ただ」

 新之介は続ける。

「一つだけ」

「何だ」

「外国との交渉へ」

「民の全部の声を」

「そのまま持ち込むのは無理です」

「ようやく認めたな」

「はい」

「でも」

「だから一人へ戻す」

「ではない」

「では」

「何段かに分ける」

「日本橋で聞いた声」

「町ごと」

「役ごと」

「藩ごと」

「港ごと」

「そこから」

「代表を選ぶ」

「誰が」

「各所で」

「方法は」

「全部同じにしなくても」

「よいかもしれない」

「危ないぞ」

「はい」

「それを」

「中央で」

「また束ねる」

「はい」

「最後は」

 ジョナサンが問う。

「一人か」

「交渉代表は」

「一人になる場合もある」

「やはり」

「ただし」

「その人が」

「何でも決められるわけではない」

「範囲」

「期限」

「戻って報告」

「約束を超えたら」

「無効?」

「場合によります」

「また曖昧」

「国の話を」

「今ここで綺麗に決める方が」

「危ないです」

 ◇

「では」

 ジョナサンが代政案を閉じた。

「この案を」

「どうする」

「私へ聞くのですか」

「ああ」

「決めません」

「予想通りだ」

「でも」

「何だ」

「日本へ持ち帰ります」

「なぜ」

「危険な案でも」

「見た人が少なすぎる」

「公開する?」

「全部は」

「外国へ渡った個人記録がある」

「それは」

「本人の同意なく出せない」

「では」

「制度部分」

「人選部分」

「誰が作ったか」

「誰が反対したか」

「分けて」

「複数で見る」

「ジョナサン殿」

「はい」

「そなたも」

「戻りますか」

 ジョナサンの顔が変わる。

「日本へ?」

「はい」

「捕まえるのか」

「可能性はあります」

「正直だな」

「資料流出」

「偽名」

「外国との動き」

「調べることが多い」

「それでも来いと」

「はい」

「なぜ」

「そなた抜きで」

「そなたの責任を決めたくない」

 ◇

 ジョナサンは。

 長く。

 江戸の方を見る。

「私は」

「十五年前」

「日本へ戻りたいと」

「何度も思った」

「はい」

「戻れば」

「捕まると思った」

「はい」

「だから」

「向こうで」

「日本を変える仕組みを作った」

「はい」

「今」

「戻れば」

「その仕組みを失う」

「かもしれません」

「怖い」

「はい」

「それでも?」

「決めるのは」

「そなたです」

 ジョナサンが。

 少し笑う。

「そこは」

「役を押しつけないのだな」

「はい」

「だが」

「戻らなければ」

「戻らなかったことを記録する」

「はい」

「逃げ道があるようで」

「ない」

「あります」

「何」

「戻らない」

「その結果を」

「引き受ける」

「……本当に」

「腹が立つ」

 ◇

 サラが口を開いた。

「私は戻る」

「日本へ?」

「はい」

「軍艦は」

「米利堅の指揮」

「私は止められない」

「交渉は」

「続く」

「でも」

「海の御影としては」

「何を」

「代替記録を出す」

「誰へ」

「本人を含む見分へ」

「榊原の二人の代替も」

「はい」

「金次の記録も」

 サラが目を伏せる。

「はい」

「都合の悪いところも」

「全部」

「全部という言葉は」

「危ないです」

 サラが顔を上げる。

「何」

「そなたが全部と思っている範囲しか」

「全部にならない」

「では」

「見つかった範囲」

「未確認も」

「失われたものも」

「書く」

「……はい」

 ◇

 その時。

 船の外。

 鐘。

 短く二度。

 長く一度。

 米利堅の船員たちが動く。

「何です」

 水野が問う。

 ジョナサンが窓へ。

「二番船から」

「サラ」

「何」

「舵守命令」

 サラの顔が険しくなる。

「誰が」

「私の名で」

 全員が止まる。

「何を」

 ジョナサンが信号を読む。

 声が低くなる。

「――日本側交渉代表」

「――徳川家定」

「――榊原新之介」

「――水野隼人正」

「――三名を」

 一息。

「――海上に留めよ」

 水野の手が刀へ。

「捕らえる気か」

「サラ殿」

 新之介が言う。

「命じた?」

「いいえ!」

「確認を」

「する!」

 サラが甲板へ走る。

 新之介たちも続く。

 ◇

 二番船。

 旗信号。

 確かに。

 海の御影の印。

 舵守。

 その下。

 さらに。

「サラ」

 弥十郎が青ざめる。

「何」

「署名」

「誰」

 旗。

 二枚目。

 海の御影で使う役名。

 ――三十一。

 サラの番号。

「私の」

「名で」

 サラの顔から血の気が引く。

「三十一番は」

「そなた一人では」

 新之介が問う。

「ない?」

「今までは」

「私だけだった」

「なら」

「今」

「増やされた?」

 ジョナサンが首を振る。

「違う」

「何が」

「三十一は」

「昔から」

「役として残す案があった」

「誰が」

「前の舵守」

「鷹見宗一?」

「ああ」

「どの」

 宗八が苦く笑う。

「もう誰も」

「すぐには答えられんな」

 ◇

「サラ殿」

 新之介が言う。

「二番船へ行く?」

「行く」

「一人で?」

「……」

「それを」

「聞かれると思った」

「はい」

「弥十郎」

「行く」

「ジョナサン」

「私も」

「宗八殿」

「残る」

「なぜ」

「四番船の記録を守る」

「一人で?」

 宗八が舌打ちする。

「竹次郎」

「残れ」

「私ですか」

「嫌か」

「少し」

「なら」

「海の者も一人」

 ジョナサンが船員を一人選ぶ。

「名は」

 新之介が問う。

 船員は。

 片言の日本語で。

「トマス」

「それだけ?」

「トマス・リー」

「分かりました」

 宗八が笑う。

「外国人にも聞くのか」

「同じです」

 ◇

 家定のいる中立舟へ。

 新之介は一度戻る。

「状況は」

 家定が問う。

「私たち三人を」

「海上に留める命令が」

「誰から」

「サラ殿の名」

 家定がサラを見る。

「本人は」

「出していません」

「なら」

「また」

「はい」

「行くのですか」

「二番船へ」

「私も」

「家定殿は」

「残ってください」

「なぜ」

「命令では」

「家定殿も留めろと」

「なら」

「ここも危険」

「はい」

「だから」

「朝風丸へ戻る?」

「それも」

「相手の想定内かもしれません」

「では」

 家定が笑った。

「中立舟に残ります」

「よいのですか」

「今」

「どちらへ動いても」

「誰かの筋書きへ入るなら」

「一度ここで」

「見ます」

 新之介が頷く。

「よいと思います」

「そなたの影響です」

「嬉しくありません」

 ◇

 二番船へ向かう小舟。

 新之介。

 水野。

 サラ。

 弥十郎。

 ジョナサン。

 五人。

「今度は」

 水野が言う。

「誰が待っている」

「分からない」

 サラが答える。

「舵守の補佐?」

「可能性は」

「ある」

「名は」

「何人も」

「一番古い者」

「誰」

 サラの顔が暗くなる。

「四十七番」

 新之介が止まる。

「四十七番?」

「はい」

「生きている?」

「三年前までは」

「今の名」

「ありません」

「本人が捨てた?」

「違う」

「何」

「本人が」

 サラは海を見る。

「名前を持たないことを」

「自分で選んだ」

「なぜ」

「名を持てば」

「誰かがそれを役にするから」

 新之介は。

 しばらく何も言わなかった。

「そなたなら」

 サラが問う。

「どうする」

「名前を持たない人を」

「名前なしで」

「記録する?」

「はい」

「困らない?」

「困ります」

「それでも?」

「本人が望むなら」

「ただし」

「行いは」

「記録する」

 サラが頷いた。

「それが」

「四十七番の望みだった」

「そして」

「今」

 新之介が二番船を見る。

「その方が」

「そなたの名を使っている?」

「かもしれない」

「なぜ」

「舵守を」

「終わらせるため」

「また」

 ジョナサンが呻く。

「何です」

「終わらせるために」

「その役の力を使う」

「はい」

 ◇

 二番船。

 縄梯子。

 上。

 黒い船員たちの影。

 その中央。

 日本人が一人。

 白い布を肩へ。

 年齢。

 四十前後。

 男か。

 女か。

 遠目では分からない。

 髪は短い。

 顔は痩せている。

 その者は。

 新之介たちが甲板へ上がるのを待って。

 言った。

「三十一」

 サラが答える。

「私はここにいる」

「知っている」

「なら」

「なぜ私の名で」

「命を出した」

「そなたに」

「舵守の名を返すため」

「私は」

「終わらせると言った」

「だからだ」

「何」

「終わらせる者が」

「最後の舵を取らねば」

「海の御影は」

「誰にも終わったと分からない」

 新之介が低く言う。

「また」

 その者が彼を見る。

「榊原新之介」

「はい」

「そなたが」

「一番嫌う言い方だろう」

「はい」

「知っている」

「誰から」

「そなたの代替から」

 新之介の顔が変わる。

「誰」

「死んだ一人」

「金次?」

「ああ」

 サラの身体が硬くなる。

「金次を」

「知っている?」

「私が」

 その者は言った。

「最後を見た」

 新之介の目が細くなる。

「名を」

「ない」

「では」

「今、どう呼ばれたいです」

 その者は。

 少しだけ笑った。

「四十七」

「番号?」

「私が選んだ」

「では」

「四十七殿」

 四十七は。

 新之介を見た。

「金次は」

「死ぬ前」

「もう一つ言った」

「何を」

「サラには」

「伝えていない」

 サラの顔が変わる。

「何」

 四十七は答えた。

「『もし本物の榊原新之介に会えたら』」

 一呼吸。

「『私が本物になれなかったことを』」

「『喜んでくれ』」

 サラが。

 息を呑む。

「なぜ」

 新之介が問う。

 四十七は。

 静かに言った。

「『本物になれば』」

「『金次という人間が』」

「『完全に消えるから』」

 新之介は。

 何も答えられなかった。

 海風の中。

 十五年前。

 自分を残すために。

 一人の人間が。

 自分になることを命じられ。

 最後には。

 自分になれなかったことを。

 救いとして死んだ。

 そして今。

 国そのものが。

 同じ道へ入ろうとしている。

 幕府の代わり。

 将軍の代わり。

 海の御影。

 代政。

 どれが本物になるか。

 ではない。

 どれか一つを本物へしてしまえば。

 その外にいる者が。

 また消える。

 四十七が言った。

「榊原新之介」

「はい」

「だから私は」

「幕府の代替も」

「海の御影も」

「終わらせる」

「どうやって」

「全部の名を」

「海へ捨てる」

 サラの顔が変わった。

「記録も?」

「全部」

「人の元の名まで?」

「追われないために必要だ」

 新之介は。

 すぐ答えた。

「反対します」

「なぜ」

「そなたは」

「金次殿を」

「覚えている」

「はい」

「だから」

「金次殿は」

「完全には消えなかった」

「……」

「名を捨てれば」

「役は終わるかもしれない」

「でも」

「人まで消える」

 四十七の目が細くなる。

「なら」

「どうする」

 新之介は答えた。

「役の名を終わらせることと」

「人の名を消すことを」

「分けます」

「どうやって」

「それを」

 新之介は甲板の全員を見る。

「今度は」

「本人たちへ聞きます」

 四十七が笑う。

「時間がかかるぞ」

「はい」

「外国艦隊は待たぬ」

「はい」

「幕府も待たぬ」

「はい」

「それでも」

「やるのか」

 新之介は。

 海の向こうにある江戸を見た。

「急ぐことは」

「あります」

「でも」

「急ぐために」

「誰かの名前を」

「先に海へ捨てることは」

「しません」

 その時。

 二番船の見張りが叫ぶ。

 遠く。

 品川方向。

 煙。

 一筋。

 続いて。

 砲声。

 一発。

 水野が振り返る。

「誰が撃った!」

 さらに一発。

 今度は。

 外国船側からではない。

 日本側。

「台場だ!」

 水野が叫ぶ。

「発砲禁止命令は!」

「期限が切れた!」

 ジョナサンが言う。

 新之介の顔が変わる。

 一刻。

 期限。

 延長には再確認。

 だが。

 自分たちは海上。

 家定は中立舟。

 阿部は城。

 家慶甲は江戸城。

 再確認が。

 間に合わなかった。

 四十七が新之介を見る。

「榊原」

「はい」

「これが」

「そなたの遅さだ」

 新之介は。

 否定しなかった。

 遠く。

 三発目。

 黒船の一隻が。

 向きを変える。

 水野の顔から血の気が引く。

「応射するぞ」

 サラが叫ぶ。

「止める!」

「どうやって!」

 四十七が問う。

 新之介は。

 すぐに答えた。

「今」

「決めます」

 四十七が目を見開く。

 新之介は水野へ。

「水野様」

「何だ!」

「こちらから」

「発砲を止める旗を!」

「私の名では」

「期限が切れた!」

「では」

「水野隼人正として」

「新しい命令を!」

「立会いは!」

 新之介。

 サラ。

 ジョナサン。

 弥十郎。

 四十七。

「海防掛がいない!」

「でも」

「今撃たせないために」

「範囲を絞る!」

 水野の目が変わる。

「期限」

「半刻!」

「対象」

「品川・御台場の発砲停止のみ!」

「敵船が」

「明確に砲撃したら!」

「現場判断で防御!」

「記録!」

 ジョナサンが言う。

「私が取る」

 サラも。

「私も」

「外国側も?」

「だからこそ」

 水野が頷いた。

「よし!」

 ◇

 旗。

 信号。

 日本側へ。

 同時に。

 サラが米利堅側士官へ叫ぶ。

 英語。

 激しい言葉。

 四番船。

 二番船。

 一番船。

 返事。

 待つ。

 長い。

 ほんの数十息。

 だが。

 新之介には。

 一刻より長く感じた。

 そして。

 黒船側。

 砲口が。

 僅かに下がった。

「止まった」

 弥十郎が息を吐く。

 水野は。

 座り込むように甲板へ手をついた。

「間に合った」

「今のところ」

 新之介が言う。

 水野が睨む。

「今だけは」

「分かっている!」

 ◇

 四十七が新之介を見る。

「今」

「そなたは」

「少人数で決めた」

「はい」

「民へ聞かなかった」

「はい」

「家定にも」

「阿部にも」

「聞いていない」

「はい」

「それでも」

「決めた」

「はい」

「なぜ」

「撃ち合いを止める範囲だけだったから」

「期限も短い」

「後で」

「見直す」

「もし間違っていたら」

「私も責任を負います」

「そなた自身が」

「はい」

「見捨役と」

「何が違う」

 新之介は。

 しばらく考えた。

「違わないところも」

「あります」

 四十七が少し驚く。

「何」

「一人で決める瞬間は」

「なくせない」

「では」

「大事なのは」

 新之介は答えた。

「その瞬間を」

「役にしないことです」

「どういう意味」

「今回の決定が」

「次も私に決める権利を」

「与えるわけではない」

「水野様も」

「次の全部を決める人にはならない」

「サラ殿も」

「舵守だから次も決める、ではない」

「その都度」

「誰が」

「どこまで」

「いつまで」

「それを」

「やり直す」

 四十七が。

 静かに問う。

「面倒だな」

「はい」

「遅い」

「はい」

「失敗もする」

「します」

「それでも」

「役にしない?」

「はい」

 ◇

 四十七は。

 長い間。

 海を見ていた。

 やがて。

「金次も」

「そう言ったかもしれない」

「分かりません」

「またそれか」

「本人に聞けないので」

「はい」

 四十七が笑った。

「では」

「私が伝えた言葉も」

「記録するか」

「はい」

「本当に言ったか」

「私の証言として」

「それでよい」

 ◇

 その時。

 水野のもとへ。

 中立舟から旗。

「家定公より!」

「何と!」

 通詞が読む。

 ――江戸城より新報。

 ――家慶甲。

 ――非常時総裁の撤回を再度表明。

 水野が息を吐く。

「それなら」

 続き。

 ――ただし。

 ――外国交渉に関して。

 ――徳川家定へ一時全権を預ける。

 家定自身が。

 中立舟で。

 紙を見ている。

 新之介が眉をひそめる。

「誰が決めた」

 さらに旗。

 ――家定、拒否。

 水野が。

 思わず笑った。

「さすがだ」

 続き。

 ――理由。

 ――一人へ戻すな。

 四十七が。

 新之介を見る。

「そなたの言葉か」

「もう」

 新之介は苦笑した。

「私の言葉ではありません」

「なら」

「どうする」

 旗は。

 さらに上がった。

 ――家定案。

 ――外交全権。

 ――期限三日。

 ――対象、来航四隻との交渉のみ。

 ――構成。

 ――徳川家定。

 ――水野隼人正。

 ――阿部伊勢守。

 ――海防掛二名。

 ――町側二名。

 ――海の御影側二名。

 サラの顔が変わる。

「私たちも?」

 最後。

 ――最初の議題。

 ――誰を代表にするかではなく。

 ――誰の声が欠けているか。

 新之介は。

 海の向こう。

 小さな舟の上にいる家定を見る。

「始めましたね」

 水野が言う。

「若いな」

「はい」

「危うい」

「はい」

「だが」

 四十七が言った。

「少し」

「見てみたい」

 ◇

 その時。

 四番船から。

 別の旗。

 ジョナサンが顔を上げる。

「何だ」

 宗八から。

 短い。

 ――江戸より小舟接近。

 ――一人。

「誰」

 さらに。

 ――徳川家慶乙を名乗る。

 水野が立ち上がる。

「乙!」

「行方不明だった」

「なぜ四番船へ」

 次の旗。

 ――本人、面を外した。

 新之介の顔が変わる。

「誰です」

 ジョナサンが読み。

 止まった。

「何」

「名を」

 サラが問う。

 ジョナサンは。

 ゆっくり答えた。

「藤吉」

「息子?」

「違う」

「父の方」

 半九郎たちが知る。

 西徳寺の藤吉。

 真崎玄十郎かもしれない時期を持ち。

 役名を渡され。

 何度も違う人間と疑われた老人。

「藤吉殿が」

 水野が言う。

「家慶乙だった?」

「いつから」

 新之介が問う。

 ジョナサンが旗を見る。

 ――三年前より。

 新之介は。

 目を閉じた。

 つまり。

 家慶乙として。

 江戸城へ現れ。

 甲と並び。

 偽高札を認め。

 御座所へ入り。

 そして消えた男は。

 西徳寺で。

 別に存在していたはずの藤吉と。

 同じ役線上にある。

「本人が」

 水野が言う。

「二人いた時期が」

「ある」

「はい」

「では」

「藤吉もまた」

「一人ではなかった」

 四十七が呟く。

「陸は」

「海より酷いな」

「否定できません」

 ◇

 旗は続く。

 ――藤吉。

 ――サラ・ミラーへ伝言。

 サラが顔を上げる。

「何」

 ジョナサンが読む。

 ――三十一番。

 ――十五年前。

 ――そなたが十六人を救ったことを。

 ――私は感謝している。

 サラの目が揺れる。

 次。

 ――同時に。

 ――私の息子を。

 ――榊原新之介の代替へ使ったことを。

 ――私は許していない。

 サラの顔が崩れた。

 新之介は。

 何も言わない。

 感謝。

 怒り。

 両方。

 同じ人から。

 同じ相手へ。

 最後。

 ――だから。

 ――私を許すな。

 ――私は家慶乙として。

 ――多くを欺いた。

 そして。

 ――私は今。

 ――藤吉という名も返す。

 弥十郎が息を呑む。

「では」

「何と名乗る」

 最後の旗。

 ジョナサンが。

 読もうとして。

 黙った。

「何です」

 新之介が問う。

「名ではない」

「では」

 ――今後。

 ――名は未定。

 ――ただし。

 ――家慶乙として行ったこと。

 ――藤吉として行ったこと。

 ――真崎玄十郎として行ったこと。

 ――すべて分けて話す。

 半九郎が。

 ここにいたら。

 何を思っただろう。

 新之介は。

 静かに息を吐いた。

「ようやく」

 四十七が問う。

「何が」

「皆」

「名から降り始めました」

「それで」

「国は動くか」

 新之介は。

 すぐには答えなかった。

 江戸湾。

 黒船。

 日本橋。

 再起館。

 江戸城。

 大奥。

 寺。

 町。

 海。

 名の違う人々。

 名のない人々。

 同じ名を使った人々。

「分かりません」

 四十七が笑う。

「だが」

 新之介は続けた。

「名が一つでなければ」

「国が動かないという前提は」

「もう」

「壊れています」

 遠く。

 家定の舟から。

 新しい旗。

 ――三日間。

 ――仮交渉会議。

 ――第一回。

 ――今より開始。

 そして。

 その下に。

 家定自身の言葉。

 ――将軍の名では命じない。

 ――参加者の一人として申す。

 ――まず。

 ――砲を下ろせるところから下ろしたい。

 米利堅側の士官たちも。

 その旗を見ている。

 サラが通訳する。

 長い沈黙。

 やがて。

 一番船。

 二番船。

 三番船。

 四番船。

 一斉にではない。

 順番もばらばらに。

 だが。

 少しずつ。

 砲口が。

 海へ向いた。

 誰か一人の命令ではなかった。

 だから遅かった。

 だが。

 四隻は。

 それぞれ別に。

 砲を下ろした。

 四十七が言った。

「千の声でも」

「動くものだな」

 新之介は首を振った。

「千全部が」

「同じことを言ったわけではありません」

「では」

「違う声のまま」

「今は撃たないことだけ」

「重なった」

 四十七は。

 長く海を見つめた。

「それで」

「よいのか」

「今は」

 新之介は答えた。

「それで十分です」

 だが。

 その直後。

 江戸側から。

 一艘の早舟。

 白布でも。

 海防の旗でもない。

 黒い布。

 水野が顔をしかめる。

「何の印だ」

 新之介は。

 知っていた。

 御影。

 でもない。

 見捨役。

 でもない。

 始帳の端で。

 一度だけ見た印。

「根帳の」

 低い声。

「廃止印です」

「何」

 舟上の使者が叫ぶ。

「榊原新之介殿!」

「何が!」

「再起館より!」

「始帳!」

「根帳!」

「続帳!」

「十六人見分帳!」

「すべて!」

 一呼吸。

「何者かに持ち出されました!」

 新之介の顔が変わる。

「誰に!」

「名は!」

 使者が。

 震えながら答えた。

「徳川家斉!」

 四十七が眉をひそめる。

 水野が呻く。

「また死人か」

 使者は首を振った。

「違います!」

「本人は!」

「『徳川家斉ではない』と!」

「では!」

「何と名乗った!」

 使者の声。

「――記録の外にいた者!」

 新之介の背筋が冷たくなる。

 名を持たない。

 帳面に載らない。

 誰にも追われない。

 その者が。

 今度は。

 すべての帳面を持った。

「目的は!」

 使者が答える。

「一言だけ!」

「『名を人へ返すには』」

「『まず記録を殺さねばならぬ』と!」

 新之介は。

 遠く江戸を見る。

 名を消す者。

 記録を消す者。

 役を終わらせる者。

 どれも。

 人を救うと言う。

「戻ります」

 水野が言う。

「急ぐぞ」

「はい」

 今度は。

 新之介も。

 迷わなかった。

「ただし」

「何だ!」

「帳面より」

 新之介は言った。

「持ち出した人を」

「先に探します」

(第八十五章へ続く)

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