上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第二章

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第二章 怪文書

 朝の江戸は、夜明けとともに目を覚ます。

 町人は店の戸を開け、魚河岸では威勢のいい声が飛び交い、大八車の軋む音が石畳を震わせる。

 武士はそれより少し早く起きる。

 日の出とともに身を整え、祖先に礼をし、刀を差す。

 それが武家というものだった。

 榊原新之介もまた、いつもどおり中庭で木刀を握っていた。

 だが、昨夜とは違う。

 袂には、あの紙がしまわれている。

 ――武士の世は終わる。

 たった七文字。

 しかし、その墨痕には不思議な力があった。

 夜が明けてもなお、新之介の胸から離れない。

 玄斎が庭へ姿を見せた。

「顔が冴えんな。」

「眠れませんでした。」

「考え事か。」

「はい。」

 新之介は懐から紙を取り出した。

 玄斎は黙って受け取り、じっと眺める。

「ほう……。」

 それだけだった。

「驚かれぬのですか。」

「紙切れ一枚で驚くほど長く生きちゃおらん。」

 老人は紙を折り畳み、返した。

「墨は新しい。」

「分かりますか。」

「昨日書かれたものだ。」

 新之介は目を見張る。

「それだけではない。」

 玄斎は紙を鼻先へ近づけた。

「墨に白檀が混じっておる。」

「白檀?」

「ああ。」

 香木である。

 寺院や公家屋敷では珍しくないが、町人が日常で使うものではない。

「つまり。」

「町人ではない。」

「武士ですか。」

「あるいは寺か。」

 玄斎は空を見上げた。

「誰かが遊んでおる。」

「遊び?」

「いや。」

 老人は首を振った。

「遊びでは済まぬ。」

 その一言だけで十分だった。

 新之介の胸のざわめきは、ますます大きくなった。

 ◇

 昼過ぎ。

 勘定所では米蔵の出納帳が積み上げられていた。

 帳面を前に、役人たちが算盤を弾く。

 江戸幕府は剣だけでは動かない。

 米があり、金があり、人足がいて初めて天下は治まる。

 これもまた武士の仕事だった。

「榊原殿。」

 年配の与力格の役人が声をかけた。

「昼休みだ。」

「はい。」

 外へ出ると、日本橋の空は高く晴れていた。

 橋のたもとには旅芸人が芸を見せ、子どもたちが歓声を上げている。

 新之介は、その様子を見つめた。

 戦国では考えられぬ光景だ。

 刀ではなく笑いが人を集める。

 これもまた泰平の証である。

 ふと、見覚えのある顔が近づいてきた。

 庄司源太郎だった。

「榊原様。」

「何かあったか。」

「ええ。」

 源太郎は人混みを避け、小路へ入った。

「昨夜、また一人。」

「斬られたのか。」

「はい。」

「同じ浪人です。」

 新之介は黙った。

「今度は浅草寺の裏手。」

「怪文書は。」

「持っていました。」

「同じ文か。」

「ええ。」

 源太郎はさらに続けた。

「ですが、それだけではありません。」

「何だ。」

「刀がありませんでした。」

「盗まれた?」

「いいえ。」

 源太郎は首を振る。

「鞘だけ残っていたそうです。」

「刀身だけがない……。」

 武士にとって刀は魂。

 それを抜き取られるというのは、金品を奪われる以上の辱めである。

「奉行所は盗賊と見ているのか。」

「表向きは。」

「違うのか。」

「私は違うと思っています。」

 源太郎は声を潜めた。

「二人とも、腕の立つ剣客でした。」

「……。」

「そんな者が刀を抜く間もなく斬られるでしょうか。」

 新之介の脳裏に玄斎の木刀が浮かぶ。

 速さとは技だけではない。

 間合いを奪われた時、人は剣を抜けない。

「相手は達人か。」

「あるいは。」

 源太郎は言葉を切った。

「仲間だった者です。」

 その可能性は十分あった。

 ◇

 その日の夕刻。

 新之介は玄斎とともに浅草寺へ向かった。

 事件の現場を見るためである。

 寺町には線香の香りが漂い、参詣人が絶えない。

 境内では飴売りが子どもを集め、見世物小屋には人だかりができている。

 江戸は今日も賑やかだった。

 その賑わいの裏で、人が殺されているとは誰も思うまい。

 裏手へ回る。

 人影は少ない。

 玉砂利の上には、まだ乾ききらぬ血の跡が残っていた。

 玄斎がしゃがみ込む。

「争った形跡がない。」

「ええ。」

「一太刀だ。」

「見ただけで。」

「血の飛び方だ。」

 老人は指先で砂を払う。

「しかも。」

 玄斎は地面を見つめた。

「足跡が少ない。」

 新之介も気付いた。

 被害者のものと思われる足跡。

 そして、もう一人分。

 それだけ。

「逃げもせず。」

「構えもせず。」

 玄斎は静かに言った。

「知り合いだ。」

 その時だった。

 玄斎が石垣の隙間から何かを拾い上げた。

 小さな木札だった。

 黒く煤けている。

 表には何もない。

 裏返す。

 そこには墨で小さく一文字だけ書かれていた。

 「誠」

 新之介は眉をひそめた。

「誠……。」

「捨てるな。」

 玄斎は懐へ入れた。

「何かの印だ。」

 ◇

 帰り道。

 二人は隅田川沿いを歩いていた。

 川風が心地よい。

 屋形船には三味線の音が流れ、橋の上では若侍たちが談笑している。

 平和な江戸。

 しかし、その平和は誰が守っているのか。

 新之介はふと口を開いた。

「先生。」

「何だ。」

「武士とは何でしょう。」

 玄斎は少し笑った。

「急な問いだ。」

「浪人は職を失い、町には貧しい武士が溢れています。」

「うむ。」

「それでも武士は必要なのでしょうか。」

 玄斎はしばらく黙って歩いた。

 やがて橋の中央で立ち止まる。

「新之介。」

「はい。」

「武士は剣で人を斬る者ではない。」

「……。」

「己を律する者だ。」

 川面へ目を向けたまま続ける。

「腹が減っても盗まぬ。」

「権を持っても驕らぬ。」

「弱き者を見捨てぬ。」

「それが武士だ。」

「刀は、その覚悟を忘れぬために差している。」

 新之介は息を呑んだ。

 玄斎は笑う。

「だから刀を捨てよという者は、武士の形だけを見ている。」

「では。」

「本当の敵は刀ではない。」

「武士の心を壊そうとしている。」

 その言葉が胸に深く刺さった。

 ◇

 その夜。

 榊原家の門番が慌ただしく走ってきた。

「若様!」

「何だ。」

「庄司様がお見えです!」

 源太郎が息を切らして駆け込んできた。

「榊原様……!」

「どうした。」

「分かりました!」

「何がだ。」

「『誠』の木札です!」

 新之介は立ち上がる。

「心当たりがあるのか。」

「ええ。」

 源太郎は額の汗をぬぐった。

「十年前に解散した、とある剣術集団の印でした。」

「剣術集団?」

「その名は――」

 源太郎が口を開こうとした、その瞬間。

 屋敷の外から鋭い破裂音が響いた。

 バンッ!

 火薬の音。

 江戸では滅多に聞かぬ音である。

 三人は同時に庭へ飛び出した。

 門の外は騒然としていた。

 門柱には一本の矢が深々と突き刺さっている。

 矢には白い紙が結ばれていた。

 新之介がほどく。

 そこには、前と同じ筆跡で記されていた。

 「次は、お前だ。」

 夜風が紙を震わせた。

 新之介は静かに刀の柄へ手を置いた。

 名指しされた以上、もはや傍観者ではない。

 江戸の闇は、ついに榊原新之介自身へ牙を剥き始めていた。

 (第三章へ続く)

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