鈴木光司を模倣し、エリサ・ラム事件モチーフにした完全オリジナルホラー小説『水槽の女』第十四章

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第十四章 記事

 翌朝、新聞に小さな記事が載った。

 社会面の下の方だった。

 見出しは、こうだった。

 《旧ホテル白蘭に関する失踪記録 関係者が証言》

 大きな記事ではない。

 写真も一枚だけ。

 廃ホテルの外観。

 黒ずんだ壁。

 剥がれかけた看板。

 そこに、かつて何があったのかを知らなければ、ただの古い建物にしか見えない。

 だが、悠真には分かった。

 記事になった。

 声が外へ出た。

 黒川千尋の名前が載っていた。

 榊水紀の名前が載っていた。

 佐伯亮の名前も。

 白蘭女学院の寄宿生たちの名前も、小さな文字で記されていた。

 蘭。

 美代。

 ハル。

 静子。

 文。

 千代。

 雪。

 大槻悠子。

 悠真は新聞を机に置いた。

 母は黙ってそれを読んでいた。

 何度も。

 何度も。

 途中で、指が止まる。

 祖母の名前のところだった。

「おばあちゃん、これを待っていたのかしら」

 母が言った。

 悠真は答えなかった。

 待っていたのかもしれない。

 あるいは、恐れていたのかもしれない。

 どちらでもあったのだろう。

 人は、罪を語られることを恐れる。

 同時に、誰かに語ってほしいとも願う。

 隠したまま死ぬことは、楽なようでいて、長い苦しみなのかもしれなかった。

 佐伯から連絡が来たのは、その日の昼だった。

『記事、出ましたね』

「ああ」

『兄の名前も載りました』

「よかったな」

 電話の向こうで、佐伯は少し黙った。

『母が、兄のことを思い出しました』

 悠真は新聞を見た。

「忘れてたのか」

『ええ。一時期、本当に忘れていました。でも今朝、記事を読んで、亮の子供の頃の話をし始めたんです』

「戻ったんだな」

『はい』

 佐伯の声は震えていた。

『ようやく、兄が帰ってきた気がします』

 電話を切ったあと、悠真はしばらく動けなかった。

 帰ってきた。

 死者が戻ったわけではない。

 けれど、名前が戻った。

 記憶が戻った。

 それだけで、人は少し救われるのかもしれない。

 午後、悠真はホテル白蘭へ向かった。

 一人ではなかった。

 佐伯と、黒川千尋の姉と、記事を書いた記者も一緒だった。

 警察の再調査が始まる可能性があるという。

 もちろん、すぐに何かが明らかになるとは限らない。

 古い事件だ。

 証拠も失われている。

 関係者の多くは亡くなっている。

 それでも、記録は動き出した。

 白蘭の前に立つと、以前とは違って見えた。

 ただの廃ホテルだった。

 十階建て。

 十三階はない。

 窓は割れ、入口は錆びたシャッターで閉ざされている。

 もう水の匂いはしなかった。

 それでも、悠真は油断できなかった。

 建物の奥には、まだ何かが残っている気がした。

 呪いではない。

 怨念でもない。

 語られなかった時間の重み。

 それは簡単には消えない。

 黒川千尋の姉が、花束を置いた。

「千尋、遅くなってごめんね」

 その声は静かだった。

 泣いてはいなかった。

 もう泣き尽くした人の声だった。

 佐伯も小さく手を合わせた。

 悠真は何も言えず、ただ頭を下げた。

 その時、ホテルの入口奥で、何かが光った。

 悠真は顔を上げた。

 ロビーの暗がり。

 フロントカウンターの向こう。

 一瞬だけ、白いワンピースの女が立っていた。

 榊水紀。

 そう思った。

 だが次に瞬きをした時、そこには誰もいなかった。

 恐怖はなかった。

 むしろ、見送られたような気がした。

 記者が言った。

「この件、続報を書きます」

 佐伯が頷く。

「お願いします」

「ただ、全部は書けません。井戸の中で起きたことや、十三階の話は、そのまま載せても信じてもらえない」

 悠真は言った。

「それでいいと思います」

 記者が意外そうに見る。

「いいんですか」

「怪談として消費されたら、また違う形で隠れる。まずは、名前が残ればいい」

 記者は頷いた。

「名前は残します」

 その言葉を聞いて、悠真は少しだけ息をついた。

 帰り道、空は曇っていた。

 雨が降りそうだった。

 だが、嫌な湿気ではなかった。

 普通の雨の匂い。

 街の匂い。

 生きている人間の匂いだった。

 その夜、悠真は自分の部屋に戻った。

 床は乾いていた。

 天井の染みもない。

 浴室の排水口に髪は絡まっていない。

 モニターも普通に起動した。

 デスクトップには、もうROOM_0213.mp4は存在しない。

 SHIRAN_CAM_0213もない。

 カウントダウンも消えていた。

 すべて終わった。

 そう思おうとした。

 けれど、悠真は机に向かい、文章を書き始めた。

 小説ではない。

 報告書でもない。

 自分が見たものの記録だった。

 ホテル白蘭。

 白蘭女学院。

 井戸。

 蘭。

 大槻宗一。

 黒川千尋。

 榊水紀。

 佐伯亮。

 大槻悠子。

 そして、岸本悠真。

 自分の名前も書いた。

 見るだけだった自分。

 編集し、切り取り、怖く加工してきた自分。

 そういう自分が白蘭に呼ばれたことも、書いた。

 きれいな被害者のふりはしなかった。

 語るというのは、そういうことだと思った。

 夜中の二時十三分。

 悠真は自然に時計を見た。

 水音はしなかった。

 代わりに、窓の外で雨が降り始めた。

 静かな雨だった。

 ポツ。

 ポツ。

 屋根を打つ音。

 それはもう、井戸の音ではなかった。

 ただの雨だった。

 悠真はパソコンを閉じた。

 眠ろうとした。

 その時、スマートフォンが震えた。

 一瞬、心臓が止まりかけた。

 画面を見る。

 佐伯からのメッセージだった。

《兄の古いHDDを調べていたら、白蘭以外の映像がありました》

 悠真は画面を見つめた。

 次のメッセージ。

《場所は、秩父の防火用貯水槽らしいです》

 さらに一枚、画像が送られてきた。

 古い山道。

 錆びたフェンス。

 コンクリートの貯水槽。

 その脇に、白い石が置かれている。

 石には、チョークのような字でこう書かれていた。

《おばけが出る》

 悠真は息を止めた。

 雨音が強くなる。

 スマートフォンの画面に、もう一通メッセージが表示された。

《この映像にも、水の音が入っています》

 部屋のどこかで、かすかに音がした。

 ポタ。

 悠真はゆっくり顔を上げた。

 天井は乾いている。

 蛇口も閉まっている。

 だが、音は確かに聞こえた。

 ポタ。

 ポタ。

 悠真はスマートフォンを伏せた。

 そして、机の上のノートを開いた。

 逃げるつもりはなかった。

 水がまた何かを返そうとしているのなら。

 今度は、最初から記録する。

 ページの一行目に、悠真は書いた。

《白蘭事件後、最初の雨の夜。水音が戻った。》

 ペン先が、紙の上で止まる。

 窓の外の雨の向こうで、誰かが立っている気がした。

 白い着物の少女ではない。

 白いワンピースの女でもない。

 もっと別の誰か。

 顔のない女。

 濡れた髪。

 そして、遠くの水底から届くような声。

「次は、私」

 悠真は目を閉じなかった。

 見た。

 今度は、はっきりと。

 そして書いた。

(第15章につづく)

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