第十三章 井戸の底の証言
水の底に、音はなかった。
だが、声だけは聞こえた。
「ここで、お前の声も消してやる」
大槻宗一は、井戸の底に立っていた。
水中であるはずなのに、白衣の裾は揺れていない。髪も、袖も、顔から垂れる黒い水も、すべてが止まっている。
悠真だけが苦しかった。
息ができない。
肺が潰れる。
口を開けば水が入る。
だが、不思議なことに意識だけははっきりしていた。
足元には底がない。
闇の上に立っているようだった。
頭上には、丸い井戸口が見える。
遠い。
あまりにも遠い。
その光の向こうに、会議室があるはずだった。
母がいる。
佐伯がいる。
話を聞いた人々がいる。
だが、ここではすべてが遠い記録にすぎない。
宗一が一歩近づいた。
「語る者は、最後に沈む。昔からそう決まっている」
悠真は声を出そうとした。
出ない。
宗一は笑った。
「声が出ないだろう。水の中だからな。どれほど真実を知っていても、声がなければ誰にも届かない」
宗一の背後に、白蘭女学院の教室が浮かび上がった。
少女たちが机に座っている。
蘭が水を飲まされる。
美代が泣く。
ハルが耳を塞ぐ。
静子が帳面に名前を書く。
文が窓の外を見る。
千代が祈る。
雪が震える。
悠子が、何もできずに立ち尽くしている。
その映像が、泡のように浮かんでは消える。
宗一は言った。
「私は記録した。だから、彼女たちは残った。私がいなければ、名前すら残らなかった」
悠真は宗一を睨んだ。
違う。
そう言いたかった。
お前は残したのではない。
閉じ込めたのだ。
宗一は悠真の考えを読んだように目を細めた。
「閉じ込めることと残すことに、どれほどの違いがある?」
水の底が震えた。
黒い泥が舞い上がる。
その泥の中に、無数の顔があった。
白蘭荘の女中。
ホテル白蘭の宿泊客。
清掃員。
失踪者。
見て見ぬふりをした者。
忘れた者。
忘れさせられた者。
全員が目を開けている。
宗一は両手を広げた。
「人は忘れる。忘れたいからだ。誰かが泣いていても、次の日には飯を食う。誰かが消えても、七日もすれば仕事へ戻る。私は、その人間の本性を形にしただけだ」
悠真の胸が苦しくなる。
水のせいだけではない。
宗一の言葉には、嫌な真実が混じっていた。
人は忘れる。
自分も忘れてきた。
仕事として見た事故映像。
泣き叫ぶ音声。
誰かの最後の映像。
編集し、切り取り、整え、納品し、次の案件へ移った。
見た。
だが、見ただけだった。
宗一が近づく。
「お前も同じだ。人の死を素材として扱ってきた。怖がらせるために、哀しませるために、再生数を稼ぐために」
悠真は反論できなかった。
水の中で、指が震える。
「白蘭に呼ばれたのは偶然ではない。お前は“見るだけの人間”だったからだ」
宗一の手が悠真の胸に触れた。
冷たい。
その瞬間、悠真の過去が水中に広がった。
編集室。
モニター。
深夜。
事故物件の映像。
不明瞭な影を強調するために明度を上げる。
泣き声のノイズを増幅する。
依頼主に言われた。
もう少し怖くできますか。
悠真はできると言った。
その映像の中にも、本物の悲しみがあったかもしれない。
自分はそれを、演出として処理した。
宗一が囁く。
「だからお前は、語る資格がない」
悠真の身体が沈み始めた。
足元の闇が口を開く。
底なしの水。
このまま沈めば、声も名前も記録も消える。
母も佐伯も、自分のことを忘れるのだろうか。
いや。
もしかすると、自分は最初からいなかったことになる。
岸本悠真という名前が、白蘭の台帳から赤線で消される。
その時。
どこかで、小さな音がした。
カタ。
映写機の音。
カタカタカタ。
水の底に、光が差した。
宗一の表情が変わる。
「何だ」
悠真の目の前に、白いスクリーンが浮かんだ。
そこに映ったのは、会議室だった。
母が立っている。
佐伯がいる。
黒川千尋の姉がいる。
元清掃員の老女がいる。
記者がいる。
彼らは机の上に資料を広げていた。
そして、母が震える声で読んでいた。
「岸本悠真は、井戸の底に沈められました」
宗一が振り返る。
「やめろ……」
母の声は続く。
「しかし、彼が見たものを、私たちは聞きました。彼が語った名前を、私たちはここに残します」
佐伯が続ける。
「白蘭女学院。大槻宗一。井戸水の実験。寄宿生たちの失踪。寄宿舎火災。大槻悠子の逃亡。黒川千尋。榊水紀。佐伯亮」
黒川千尋の姉が言う。
「黒川千尋は家出ではありません。消されたのです」
老女が言う。
「私は声を聞きました。助けを求める声を。逃げました。今、証言します」
記者が言う。
「これは記事にします。消されても、また書きます」
声が水を通って届く。
一つではない。
複数の声。
悠真一人の声ではない。
宗一が叫んだ。
「黙れ!」
水が荒れる。
スクリーンが歪む。
だが消えない。
母が涙声で言った。
「悠真、聞こえる?」
悠真は目を見開いた。
母はスクリーンの向こうからこちらを見ていた。
「あなたが言ったこと、ちゃんと覚えてる。だから、あなたも忘れないで。あなたは見るだけの人間じゃない」
その言葉が、水の中で光になった。
悠真の喉に何かが戻る。
息ではない。
声だった。
宗一が悠真を掴もうとする。
だが、その前に悠真は口を開いた。
「俺は……」
水中なのに、声が出た。
小さく、掠れた声。
だが確かに響いた。
「俺は、見た」
井戸の底が震える。
宗一の目が見開かれる。
「俺は、白蘭女学院で大槻宗一が少女たちに井戸水を飲ませた記録を見た」
声が形を持った。
水の中に白い文字が浮かぶ。
大槻宗一。
井戸水。
実験。
「蘭、美代、ハル、静子、文、千代、雪、大槻悠子。八人の少女は、記憶の実験に使われた」
少女たちの姿が水中に現れる。
蘭が悠真の横に立つ。
美代、ハル、静子、文、千代、雪、悠子も。
全員が宗一を見る。
「寄宿舎の火災は、事故として処理された。だが、そこには隠蔽があった」
宗一が後退する。
「違う……」
「違わない」
悠真は一歩前へ出た。
今度は沈まない。
「大槻宗一は記録を残したのではない。少女たちの名前を奪い、井戸に閉じ込めた」
水の中に、台帳が浮かぶ。
赤線で消された名前。
墨で塗られた名前。
破られたページ。
それらが一枚ずつ開いていく。
「黒川千尋は、ホテル白蘭の水の異常を知り、消された。榊水紀は、その記録を追って消された。佐伯亮も、佐伯律も、白蘭に呼ばれた」
佐伯律の姿が水中に現れた。
彼はまだ会議室にいるはずなのに、ここにもいた。
記録として。
証言として。
「そして俺は、見たものを語った」
宗一が歯を剥いた。
「語ったところで何になる。人はすぐ忘れる!」
「忘れるかもしれない」
悠真は認めた。
「でも、また誰かが語る」
スクリーンの向こうで、記者が録音機を掲げていた。
黒川千尋の姉が写真を握っている。
母が蘭の手紙を読んでいる。
佐伯が処置録を複写している。
「一人の声は消せても、聞いた人間の数だけ声は残る」
宗一の身体から黒い水が噴き出した。
白衣が崩れていく。
「私は……私は研究しただけだ。私は誰よりも井戸を理解していた。私は選ばれた」
蘭が初めて前に出た。
彼女の声は静かだった。
「先生は、誰の名前も覚えていなかった」
宗一が蘭を見る。
「覚えていた! 私は記録した!」
「帳面に書いた名前を、先生は読まなかった」
蘭の後ろで、少女たちが一人ずつ名乗った。
「美代」
「ハル」
「静子」
「文」
「千代」
「雪」
「大槻悠子」
そして最後に、蘭が言った。
「蘭」
その名前が響いた瞬間、井戸の底が明るくなった。
水の闇に亀裂が走る。
宗一は耳を塞いだ。
「やめろ!」
蘭は続けた。
「黒川千尋」
黒川千尋が現れる。
「榊水紀」
白いワンピースの水紀が現れる。
「佐伯亮」
佐伯の兄が現れる。
名を呼ばれた者たちが、宗一を囲む。
宗一は逃げようとした。
だが井戸の底に逃げ場はない。
悠真は最後の証言を口にした。
「大槻宗一は、自分の罪を隠すため、死後も白蘭を利用し続けた。彼こそが、名前を消す者だった」
その瞬間、水中に巨大な帳面が開いた。
最後のページ。
そこに宗一の名前があった。
大槻宗一。
今度は消されていない。
赤線もない。
黒塗りもない。
ただ、罪とともに残されている。
宗一が叫んだ。
「消せ! 私の名を消せ!」
蘭は首を振った。
「消さない」
宗一の顔が恐怖に歪む。
「やめろ……残すな……」
その時、悠真は理解した。
宗一が本当に恐れていたのは、死ではない。
忘れられることでもない。
正しく記録されることだった。
罪とともに名前が残ること。
加害者として語られること。
宗一の身体が、文字へ変わっていく。
大槻宗一。
白衣も、顔も、手も、すべて黒い文字になり、水中に広がる。
その文字は逃げようとしたが、台帳のページに吸い込まれた。
ページが閉じる。
井戸の底から、重い音が響いた。
終わりの音だった。
水が澄んでいく。
黒かった水が、透明になっていく。
悠真は膝をついた。
息ができる。
水の中なのに、呼吸が戻っている。
蘭が近づいてきた。
「ありがとう」
その声は、初めて少女のものに聞こえた。
「終わったのか」
悠真が訊くと、蘭は少しだけ首を傾けた。
「終わりではない」
悠真は身構えた。
蘭は微かに笑った。
「でも、戻れる」
彼女は手を差し出した。
悠真はその手を取った。
冷たくなかった。
小さな、普通の少女の手だった。
水が光へ変わる。
井戸の底から、上へ。
吸い上げられるように、悠真の身体が浮かんでいく。
途中で、たくさんの顔が見えた。
黒川千尋。
榊水紀。
佐伯亮。
名も知られなかった者たち。
彼らはもう悠真を引き止めなかった。
ただ、見送っていた。
井戸口が近づく。
光が広がる。
最後に、蘭の声が聞こえた。
「語り続けて」
悠真は目を開けた。
会議室の床に倒れていた。
服は濡れていない。
だが手の中に、濡れた紙片を握っている。
母が泣きながら悠真の名前を呼んでいた。
佐伯が肩を揺さぶっている。
黒川千尋の姉も、老女も、記者も、全員そこにいる。
窓の外には、ホテル白蘭が見えた。
だが十三階は消えていた。
ただの廃ホテル。
黒く汚れた十階建ての建物。
悠真はゆっくり身体を起こした。
「戻った……」
佐伯が頷く。
「聞こえてました」
「何が」
「あなたの声です。井戸の底から」
記者の録音機が赤く点滅していた。
録音中。
悠真は手の中の紙片を開いた。
そこには、濡れた文字で一行だけ書かれていた。
《語られた名は、水に戻らない》
スマートフォンが震えた。
悠真は画面を見た。
白い文字。
《七日目》
心臓が止まりかけた。
まだ続くのか。
だが、次の瞬間、文字が変わった。
《記録完了》
画面は暗くなった。
何も映らない。
水音もない。
完全な静寂。
その静けさの中で、母が写真を机に置いた。
八人の少女が写っている。
裏には、八つの名前。
もう滲んでいなかった。
悠真は窓の外を見た。
ホテル白蘭の屋上。
貯水槽は見えない。
その代わり、朝日を受けて、白い鳥が一羽飛び立った。
誰も声を出さなかった。
だが全員が、それを見ていた。
(第14章につづく)

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