第九章 母の家
電話の向こうで、水音がしていた。
ポタ。
ポタ。
規則正しい音。
悠真は法務局のロビーで立ち尽くした。
「母さん、今どこにいる」
『家よ。台所』
「天井を見るな」
『え?』
「いいから見るな。写真も触るな。すぐ外に出て」
母は返事をしなかった。
代わりに、かすかな紙の擦れる音が聞こえた。
『でも、この写真……本当におばあちゃんに似てるの』
「触るなって言っただろ!」
悠真の声に、周囲の人間が振り返った。
佐伯がすぐ横に来る。
「お母さんですか」
悠真は頷いた。
電話の向こうで、母が小さく息を呑んだ。
『裏に名前がある』
「読むな!」
だが、遅かった。
母は、震える声で読み上げた。
『白蘭女学院寄宿生……昭和二十二年……蘭、美代、ハル、静子、文、千代、雪……』
そこで声が止まった。
「母さん?」
『もう一人いる』
悠真は喉が詰まった。
『名前が黒く塗られてる。でも……少し見える』
「読むな」
『悠……』
水音が止まった。
完全な沈黙。
その沈黙の方が、水音よりずっと怖かった。
次の瞬間、電話の向こうで、何か重いものが床に落ちた。
ドン。
「母さん!」
返事はない。
ザーッというノイズ。
その奥から、母ではない女の声がした。
『返して』
通話が切れた。
悠真は走り出していた。
佐伯が後を追う。
「どこへ?」
「実家だ」
「場所は」
「中野」
二人はタクシーを拾った。
車内で、悠真は何度も母へ電話をかけた。
つながらない。
呼び出し音すら鳴らない。
画面には、通話できません、という表示。
その下に、白い文字が一瞬浮かぶ。
《水は家を覚えた》
悠真はスマートフォンを叩きつけそうになった。
佐伯が低く言う。
「落ち着いてください」
「落ち着けるわけないだろ」
「お母さんが写真を見たなら、もう巻き込まれています」
「分かってる」
「なら、焦ってもだめです。ルールを考える」
「ルール?」
「白蘭は、記録を通して侵食する。映像、写真、台帳、名前。お母さんの家に写真が届いたということは、白蘭はあなたの血筋を辿っている」
悠真は窓の外を見た。
新宿のビルが流れていく。
昼間なのに、街の色が薄い。
水に浸した写真のように、すべてが滲んで見える。
「俺の祖母が、白蘭女学院の関係者だったってことか」
「可能性があります」
「そんな話、聞いたことない」
「聞かされなかったんでしょう」
佐伯の言葉は冷静だった。
だが、冷静すぎて腹が立った。
「お前は家族を水槽に取られてるんだろ。よくそんな顔でいられるな」
佐伯は少し黙った。
「顔を崩すと、戻れなくなるからです」
悠真は言葉を失った。
佐伯は窓の外を見たまま続けた。
「兄が消えたあと、俺は一年以上、毎日白蘭のことを調べました。泣くことも怒ることもありました。でも、そうしている間に記録が消えていく。人の記憶も変わる。兄を知っていた人間が、兄の名前を忘れ始めた」
「忘れる?」
「職場の人は、兄は最初から辞めていたと言った。友人は、そんな奴いたっけと言った。母まで、亮って誰、と一度言った」
佐伯の声が、わずかに揺れた。
「その時分かったんです。感情より先に、記録しないといけない」
タクシーが中野へ入った。
悠真の実家は、古い二階建ての一軒家だった。
父が亡くなってから、母が一人で住んでいる。
玄関前に着いた時、異常はすぐ分かった。
家の周囲だけ、雨が降った後のように濡れていた。
隣家の屋根は乾いている。
道路も乾いている。
だが悠真の実家だけが、水を浴びたように黒く濡れている。
玄関の前に、白い封筒が落ちていた。
差出人なし。
中身はない。
ただ、内側が濡れている。
悠真は鍵を開けた。
「母さん!」
返事はない。
家の中は暗かった。
昼間なのに、カーテンがすべて閉じている。
廊下に水が流れていた。
奥の台所から。
ポタ。
ポタ。
悠真は靴のまま上がった。
台所に母はいなかった。
テーブルの上に、古い写真が置かれている。
白黒写真。
少女たちが七人、寄宿舎らしい建物の前に並んでいる。
中央に蘭。
その横に六人。
そして端に、顔を墨で塗られた少女。
裏を見る。
名前が書かれている。
蘭。
美代。
ハル。
静子。
文。
千代。
雪。
最後の名前は黒く塗り潰されている。
だが、母が言った通り、一文字だけ見える。
悠。
悠真の胸がざわついた。
佐伯が写真を覗き込む。
「これは持っていきましょう」
「危険じゃないのか」
「置いておく方が危険です」
その時、二階から床板の軋む音がした。
ギシ。
悠真は顔を上げた。
「母さん?」
返事はない。
ギシ。
また音。
誰かが二階を歩いている。
悠真は階段へ向かった。
佐伯が腕を掴む。
「一人で行かないでください」
二人で階段を上る。
壁には家族写真が並んでいる。
父。
母。
幼い頃の悠真。
その写真の一枚に、水滴がついていた。
幼稚園の運動会。
母に抱かれている悠真。
その背後に、白い着物の少女が写っている。
蘭。
悠真は息を呑んだ。
「昔から……いたのか」
佐伯は黙って写真を見ていた。
二階の廊下は、さらに濡れていた。
水は母の寝室から流れている。
扉が少し開いている。
中から、母の声が聞こえた。
「悠真?」
悠真は扉に手をかけた。
佐伯が小さく首を振る。
床の水面。
そこに映る扉の向こうには、母ではなく、髪の長い少女が立っていた。
悠真は声を押し殺した。
「母さん、そこにいるの?」
返事はすぐには来なかった。
やがて。
「いるわよ。早く開けて」
母の声。
だが抑揚が違う。
悠真の知る母は、そんな平坦な話し方をしない。
「母さん、俺の誕生日言える?」
沈黙。
水音。
扉の向こうで、何かが畳を這う音。
そして声。
「開けて」
母の声ではなくなっていた。
悠真は後退した。
その瞬間、廊下の突き当たりの押し入れから、かすかな物音がした。
コツ。
コツ。
悠真はそちらへ向かった。
押し入れを開ける。
中に母がいた。
口を手で塞ぎ、震えている。
「母さん!」
悠真が抱き起こす。
母は濡れていた。
髪も服もびしょ濡れ。
だが怪我はない。
「天井から……女の子が……」
母はそれだけ言って、泣き崩れた。
寝室の扉が、ゆっくり開いた。
中は真っ暗だった。
その奥から、白い手が伸びてくる。
佐伯が叫んだ。
「下へ!」
三人は階段を駆け下りた。
だが一階の景色が変わっていた。
廊下ではない。
古い寄宿舎の廊下。
木造。
裸電球。
窓の外は夜。
どこかで女学生たちの歌声が聞こえる。
母が悲鳴を上げた。
「ここ……夢で見たことがある」
「夢?」
「子供の頃から何度も。知らない学校。長い廊下。井戸のある庭」
悠真は母を見た。
「ばあちゃんの話、聞いたことある?」
母は首を振る。
「おばあちゃんは、昔の話を絶対にしなかった。ただ一度だけ言ったの。白い蘭の花を見たら逃げなさいって」
佐伯が写真を取り出した。
「この中に、おばあさんはいますか」
母は震える手で写真を見た。
そして、黒く塗られた少女を指さした。
「この子」
「顔は見えない」
「でも分かるの。これ、おばあちゃんだわ」
悠真の心臓が強く打った。
黒く塗られた七人目。
悠。
それが祖母。
つまり、祖母は白蘭女学院から生き延びた一人。
名前を消して逃げた少女。
蘭が探している「まだ返っていないもの」は、祖母の名前なのか。
廊下の奥に、少女たちが立っていた。
蘭。
美代。
ハル。
静子。
文。
千代。
雪。
七人ではない。
六人と蘭。
全員、こちらを見ている。
蘭が一歩前に出た。
「返して」
母が震える。
「何を……」
蘭の視線は、母ではなく悠真に向いていた。
「逃げた名前」
悠真は声を絞り出した。
「俺の祖母のことか」
蘭は答えなかった。
代わりに、廊下の壁に黒い文字が浮かび上がる。
白蘭女学院寄宿生名簿。
蘭。
美代。
ハル。
静子。
文。
千代。
雪。
――。
最後の欄だけ空白。
母が小さく言った。
「悠子」
廊下が震えた。
蘭の目が母へ向く。
「おばあちゃんの名前……岸本悠子。結婚する前は、たしか……大槻悠子」
大槻。
悠真は頭を殴られたような衝撃を受けた。
大槻宗一。
白蘭女学院の運営者。
井戸に沈められた男。
祖母は、大槻家の人間だった。
加害者側の血筋。
そして、寄宿生でもあった。
蘭が言った。
「悠子は、見ていた」
廊下の景色が変わる。
昭和二十二年の夜。
寄宿舎が燃えている。
少女たちが逃げ惑う。
蘭が井戸のそばに立っている。
大槻宗一が、怒鳴っている。
彼は少女たちを外へ出さない。
火事を事故にするために。
いや、違う。
彼は何かを隠そうとしている。
井戸の中に落ちた少女。
その名を消そうとしている。
その場に、一人だけ逃げ出した少女がいた。
悠子。
彼女は振り返った。
蘭と目が合った。
助けを求める蘭。
だが悠子は逃げた。
生きるために。
家族の罪を背負わないために。
そして、自分の名前を消した。
映像が消える。
母は泣いていた。
「知らなかった……そんなこと、何も……」
蘭は静かに言った。
「知っている血は、戻る」
床の水が増える。
寄宿舎の廊下が沈んでいく。
佐伯が悠真に囁いた。
「おばあさんの名前を正式な記録に戻す必要がある」
「どうやって」
「写真の裏に書く。消された名前を」
悠真は写真を取り出した。
ペンを探す。
ない。
佐伯が自分のポケットから油性ペンを出した。
「書いてください。血筋の人間が」
悠真は母を見た。
母は震えながら頷いた。
「私が書く」
床の水から白い手が伸びた。
蘭の目が光る。
それが救いなのか、罠なのか分からない。
母は写真の裏にペン先を当てた。
黒く塗られた名前の横に、ゆっくり書く。
大槻悠子。
その瞬間、寄宿舎の廊下に鐘の音が響いた。
少女たちが一斉に顔を上げる。
蘭の表情が変わった。
怒りではない。
悲しみでもない。
長い間探していたものを見つけた顔だった。
だが次の瞬間、蘭の背後に大きな影が立った。
男の影。
大槻宗一。
水に濡れた黒い背広。
顔は崩れている。
彼は低い声で言った。
「書くな」
母の手が止まる。
悠真は母の手を握った。
「書け!」
母は最後の一画を書き切った。
大槻悠子。
名前が完成した。
廊下の水が一瞬で引いた。
寄宿舎の幻が薄れる。
少女たちの姿も消え始める。
蘭は悠真を見た。
「これで、七人」
だが大槻宗一の影だけは消えなかった。
むしろ濃くなった。
彼は井戸の底から這い上がるように、こちらへ近づいてくる。
「勝手に返すな」
その声は家全体を震わせた。
壁に亀裂が走る。
天井から黒い水が落ちる。
佐伯が叫んだ。
「外へ!」
三人は玄関へ走った。
扉を開ける。
外は夜だった。
さっきまで昼だったのに。
庭に、古い井戸があった。
悠真の実家に、井戸などない。
井戸の縁に、大槻宗一が立っている。
彼は笑っていた。
「白蘭は終わらない。名前を返せば、罪も戻る」
井戸の底から、声が聞こえた。
今度は蘭たちではない。
もっと低い、多くの声。
隠した者たち。
消した者たち。
責任を逃れた者たち。
大槻宗一は言った。
「次は、お前たちが背負え」
悠真のスマートフォンが震えた。
画面に白い文字。
《三日目》
その下に、新しい文が表示された。
《大槻家の記録を開け》
(第10章につづく)

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