第八章 削除された記録
動画は消えていた。
悠真は割れたスマートフォンの画面を何度も叩いた。
更新。
再読み込み。
履歴。
アップロード管理画面。
どこにも残っていない。
さっきまで確かに存在していた動画。
《ホテル白蘭 井戸の記録》
再生回数は増えていた。
コメントもついていた。
だが今は、跡形もない。
表示されているのは、短い通知だけだった。
《動画が削除されました》
佐伯が横から画面を覗き込む。
「運営に消されたんじゃない」
「じゃあ誰が」
「白蘭だ」
悠真は顔を上げた。
朝の新宿。
通勤の人々が歩いている。
誰もこちらを見ない。
廃ホテルの前で、ずぶ濡れの男二人が倒れているのに、まるで視界に入っていない。
それどころか、人の流れはホテル白蘭の前だけを避けているように見えた。
無意識に。
そこに何も存在しないかのように。
佐伯は立ち上がり、濡れた髪をかき上げた。
「ここに長くいるとまずい。場所を移そう」
「お前、生きてたのか」
「ぎりぎりです」
「水槽の中にいた」
「いました」
佐伯はそれ以上説明しなかった。
説明できないのだろう。
二人は人目を避けるように裏通りを抜けた。
近くのネットカフェに入る。
個室に入り、扉を閉めた瞬間、悠真は床に座り込んだ。
全身が重い。
服は濡れているのに、肌は乾いてひび割れているような感覚があった。
佐伯は備え付けのパソコンを起動した。
「クラウドの履歴を見ます」
悠真はIDとパスワードを入力した。
動画はない。
アップロード履歴もない。
削除履歴もない。
まるで一度も投稿されていなかった。
佐伯が眉をひそめる。
「ローカルデータは?」
「スマホに残ってるはずだ」
悠真はスマートフォンを接続した。
ファイル一覧。
空だった。
写真も動画も、録音も、メモも消えている。
ホテル白蘭に関するものだけが、きれいに抜き取られていた。
水紀のカメラも確認した。
電源は入る。
だが中身はない。
記録媒体は空。
映像は消えていた。
佐伯は小さく息を吐いた。
「やっぱり、外へ出る前に消される」
「でも再生された。誰かが見た」
「一瞬だけです」
「なら、見た人間がいる」
佐伯は悠真を見た。
「それが問題です」
悠真は黙った。
コメント。
《この動画、途中で水の音が聞こえる》
誰かが確かに見た。
その誰かは、今ごろ水音を聞いているかもしれない。
「俺は止めようとして、広げたのか」
佐伯は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
パソコンの画面が一瞬乱れた。
砂嵐のようなノイズ。
佐伯がすぐに電源を落とす。
「ネット経由は危ない」
「じゃあどうすればいい」
「物理媒体です」
「何?」
「白蘭はデジタル上の記録を消せる。なら紙に残す。複製して、人に直接渡す」
「そんなことで止まるのか」
「分かりません。でも水紀も最初、ノートに書いていた。台帳にも名前が残っていた。完全に消されなかったのは、紙だった」
悠真は思い出した。
713号室のノート。
白蘭荘の台帳。
井戸の縁に刻まれた名前。
記録は消されても、痕跡は残る。
紙。
石。
人の記憶。
佐伯は言った。
「問題は、元の情報をどう復元するかです」
「俺が覚えてる」
「全部?」
「映像なら、だいたい」
悠真は編集者だった。
映像をフレーム単位で見る癖がある。
白蘭荘の台帳。
井戸の名前。
水紀の声。
蘭の姿。
大槻宗一。
記憶の中にまだ残っている。
佐伯は頷いた。
「書き起こしましょう。今すぐ」
二人は個室の中で、記録を作り始めた。
悠真が話し、佐伯が打つ。
ホテル白蘭の構造。
十三階。
713号室。
貯水槽。
地下三階の井戸。
白蘭荘。
蘭。
黒川千尋。
榊水紀。
佐伯亮。
佐伯律。
大槻宗一。
書けば書くほど、室内の空気が湿っていった。
キーボードの隙間に水滴が浮かぶ。
壁紙に染みが広がる。
天井から、ポタ、と音がした。
佐伯の手が止まる。
「来てます」
悠真は天井を見上げそうになった。
だが、見なかった。
「続けろ」
「でも」
「見たものを残す。そう決めたんだろ」
佐伯は再び打ち始めた。
ポタ。
ポタ。
水音が増える。
画面の文字が勝手に消え始めた。
佐伯が叫ぶ。
「印刷します!」
印刷ボタン。
ネットカフェの共有プリンターが、廊下の奥で動き出す音がした。
同時に、パソコン画面が真っ黒になった。
白い文字が浮かぶ。
《返すな》
悠真はモニターを殴った。
画面が割れる。
部屋の電気が消えた。
暗闇。
廊下の奥から、プリンターの作動音だけが聞こえる。
ジー。
ジー。
紙が吐き出されている。
二人は個室を飛び出した。
廊下は静まり返っている。
受付にも客にも誰もいない。
ネットカフェ全体が、いつの間にか空になっていた。
プリンターは白い紙を吐き出し続けていた。
佐伯が紙を掴む。
だがそこに印字されていたのは、黒い水染みだけだった。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
全部、文字が滲んで読めない。
「だめか……」
悠真は紙をめくった。
最後の一枚。
そこに一行だけ印字されていた。
《白蘭荘の登記簿を見ろ》
佐伯が顔を上げた。
「登記簿……」
「土地の記録か」
「ええ。ホテル側が消せない公的記録があるかもしれない」
その時、ネットカフェの奥から水音がした。
パシャ。
パシャ。
裸足の足音。
悠真は佐伯の腕を掴んだ。
「出るぞ」
二人は非常階段へ走った。
階段を下りる。
今度は下りられた。
外へ出ると、昼の街だった。
人がいる。
車が走っている。
だが悠真のスマートフォンには、まだ白い文字が表示されていた。
《二日目》
カウントダウンは進んでいる。
残り五日と十数時間。
法務局へ向かう途中、佐伯が言った。
「もし登記簿に白蘭荘以前の所有者が残っていれば、蘭の正体に近づける」
「蘭は売られてきた少女だ」
「誰に売られたのか。誰が買ったのか。誰が井戸に落としたのか」
「旅館の主人だろ」
「本当に?」
悠真は佐伯を見た。
「何が言いたい」
「白蘭は責任を一人に押しつける。吉岡もそうだった。自分は管理していただけだと言った」
「じゃあ、主人の背後に誰かいる?」
「土地です」
「土地?」
「井戸はホテルより古い。旅館より古い。なら、白蘭荘の前にも何かあった」
法務局で古い登記を調べるのは時間がかかった。
佐伯が手続きを進める間、悠真はロビーの椅子に座った。
眠気が襲ってくる。
目を閉じると、水音がする。
だから眠れない。
壁の時計を見る。
午後三時十三分。
十三。
悠真は立ち上がった。
窓の外に、白い着物の少女が立っていた。
蘭。
歩道の向こう。
人々は彼女に気づかない。
蘭はじっと悠真を見ている。
そして口を動かした。
――まだ下。
悠真は窓へ近づいた。
次の瞬間、少女は消えた。
代わりに、窓ガラスに水滴が一筋流れた。
佐伯が資料を持って戻ってきた。
「出ました」
古い登記簿の写し。
白蘭荘の前、この土地には別の施設があった。
名称。
白蘭女学院寄宿舎。
悠真は紙を見つめた。
「女学院?」
「戦前の私設女学校です。寄宿舎つき。運営者は大槻宗一」
大槻宗一。
最初に井戸へ沈められた男。
すべての始まりだと思っていた男。
だが違った。
彼は被害者ではない。
もっと前から土地を管理していた側の人間だった。
「蘭はここの生徒だったのか」
「かもしれない」
佐伯はもう一枚の資料を出した。
戦後の火災記録。
昭和二十二年。
白蘭女学院寄宿舎、焼失。
死者なし。
ただし、寄宿生七名が所在不明。
七名。
悠真の喉が詰まった。
七人目。
七日。
七一三号室。
数字は偶然ではなかった。
佐伯が低く言う。
「蘭だけじゃない。最初から七人いた」
「でも蘭は、まだひとつ足りないと言った」
「名前です。七人のうち、蘭以外の六人の名前が消えている」
その時、資料の文字が滲み始めた。
黒い水が紙の端から広がる。
佐伯が慌てて写真を撮る。
しかしスマホの画面では、資料が真っ黒に映った。
「だめだ。消される」
悠真は紙を見た。
文字が消える前に、必死で読み取る。
寄宿生名簿。
蘭。
美代。
ハル。
静子。
文。
千代。
雪。
最後の一名は、墨で塗りつぶされている。
悠真は目を凝らした。
読めない。
その部分だけ、最初から存在しないように黒い。
佐伯が言った。
「一人足りない」
その時、法務局の照明が一斉に点滅した。
周囲の人々は気づかない。
いや、動きが止まっている。
職員も、来庁者も、時計の針さえ止まっている。
空気が湿る。
紙の上に、水滴が落ちた。
ポタ。
黒く塗りつぶされた名前の上。
水滴が広がり、墨が少しだけ薄くなる。
そこに、文字の一部が見えた。
――悠。
悠真は息を止めた。
佐伯も見ていた。
「悠……?」
次の瞬間、資料が真っ黒になった。
全ての文字が消えた。
周囲の時間が動き出す。
職員の声。
コピー機の音。
誰も異変に気づかない。
悠真は震えていた。
なぜ。
なぜ、消された七人目の名前に、自分の名前と同じ字がある。
佐伯が言った。
「岸本さん」
声が硬い。
「あなた、白蘭と関係があるんじゃないですか」
「あるわけないだろ」
「本当に?」
悠真は答えようとした。
その瞬間、スマートフォンが鳴った。
母からだった。
普段なら出ない。
だが嫌な予感がした。
通話を取る。
母の声は震えていた。
『悠真? 今、変なものが届いたの』
「何が」
『古い写真……女の子たちが写ってる写真』
悠真の背筋が凍った。
『裏に名前が書いてあるの。白蘭女学院って……』
「触るな!」
法務局のロビーに声が響いた。
母は黙った。
そのあと、小さく言った。
『でもね、悠真……この中の一人、おばあちゃんに似てるの』
悠真は息が止まった。
電話の向こうで、水音がした。
ポタ。
ポタ。
母が囁いた。
『ねえ、家の天井から、水が落ちてる』
(第9章につづく)

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