第七章 白蘭荘
水は、井戸の底から噴き上がった。
黒い柱のようだった。
悠真は吹き飛ばされ、地下の岩壁に背中を叩きつけられた。肺の中の空気が一気に抜ける。
視界が白く弾けた。
耳鳴り。
水音。
誰かの叫び声。
吉岡の声だった。
「井戸を見るな!」
だが、もう遅かった。
悠真は見ていた。
水柱の中心に、少女が立っている。
白い着物。
長い黒髪。
年齢は十五、六。
顔立ちは幼いのに、目だけが異様に古い。
人間の一生では足りないほどの年月を見てきた目だった。
少女は濡れていなかった。
水の中に立っているのに、着物も髪も乾いているように見えた。
彼女は静かに言った。
「まだ、返ってきてない」
その声は小さかった。
だが地下全体に響いた。
配管が震える。
水槽が軋む。
壁に貼られていた腐った御札が、次々と剥がれ落ちる。
悠真は立ち上がろうとした。
膝が笑っている。
足元には黒い水。
その中に、無数の名前が浮かんでいた。
紙片ではない。
文字だけが水面に浮いている。
黒川千尋。
榊水紀。
佐伯亮。
佐伯律。
ほかにも、知らない名前が何十、何百と流れていく。
吉岡が井戸の前に膝をついた。
さっきまでの管理者の顔ではない。
怯えきった老人の顔だった。
「勘弁してください……もう、返しました……台帳も、名前も……」
少女は吉岡を見た。
「違う」
たった一言。
それだけで、吉岡の身体が硬直した。
「返すのは、名前じゃない」
少女の目が悠真へ向く。
その瞬間、悠真の頭の中に映像が流れ込んできた。
白蘭荘。
昭和二十九年。
まだホテルではなく、木造三階建ての旅館だった頃。
畳の匂い。
炭の匂い。
酒と汗と古い布団の匂い。
井戸は中庭にあった。
そこに少女が立っていた。
名前は、蘭。
白蘭荘の娘ではない。
女中でもない。
売られてきた少女だった。
親に捨てられ、旅館に預けられ、客の世話をさせられていた。
蘭はほとんど口をきかなかった。
いつも井戸のそばにいた。
井戸に向かって話しかけていた。
他の女中たちは気味悪がった。
だが、蘭だけが知っていた。
井戸の底には、水だけではないものがある。
捨てられた声。
隠された死。
誰にも呼ばれなかった名前。
それらが沈んでいる。
ある夜、旅館の主人が蘭を呼んだ。
客が一人、死んだ。
酔って女中を殴り、逃げようとして階段から落ちた男だった。
主人は事故にしたくなかった。
旅館の評判が落ちる。
だから井戸に捨てた。
蘭は見ていた。
その日から、井戸は人を欲しがるようになった。
死体を隠す場所ではなくなった。
生きた人間を引き込む場所になった。
主人は蘭に命じた。
誰にも言うな。
蘭は黙っていた。
黙っているしかなかった。
けれど、井戸は黙らなかった。
水が濁った。
客が夢を見た。
女中が消えた。
そしてある晩、蘭自身も井戸へ落とされた。
落としたのは主人だった。
いや、正確には、主人の手を借りた井戸だった。
蘭は底へ沈みながら、上を見た。
丸い空。
そこから主人が覗いている。
怯えた顔。
その横に、旅館の女将。
女中たち。
誰も助けなかった。
蘭は水の中で死ななかった。
死ぬことも、戻ることもできなくなった。
井戸が彼女を覚えた。
最初の名前として。
映像が途切れた。
悠真は激しく咳き込んだ。
水を飲んだわけではない。
だが肺の奥に、井戸の冷たさが残っていた。
「蘭……」
名を口にした瞬間、少女の表情がわずかに動いた。
怒りでも悲しみでもない。
驚きに近かった。
吉岡が叫んだ。
「呼ぶな!」
悠真は振り返る。
吉岡は顔面蒼白だった。
「その名前を呼ぶな! 名前を呼べば、井戸が近づく!」
「お前らが消したんだろ」
悠真は言った。
「蘭の名前を」
吉岡は口を閉じた。
「だから返せと言ってる」
「違う! あれはもう人間じゃない!」
「最初に人間じゃなくしたのは誰だ」
吉岡の顔が歪んだ。
悠真自身も、なぜそこまで言えるのか分からなかった。
だが怒りがあった。
水紀の怒り。
千尋の怒り。
佐伯の怒り。
井戸に沈められた者たちの怒りが、自分の声に混じっている気がした。
少女、蘭は井戸の縁に手を置いた。
黒い水が彼女の足元から広がる。
「返して」
また、その言葉。
だが今度は意味が違って聞こえた。
命を返せではない。
名前を返せでもない。
真実を返せ。
なかったことにされた時間を返せ。
悠真は胸に抱えていた水紀のカメラを見た。
液晶は割れている。
だが録画ランプが点いていた。
赤い光。
今も撮影している。
「佐伯……」
悠真は小さく呟いた。
彼が言っていた。
元の映像を見つければ、止められるかもしれない。
だが、それだけでは足りない。
見つけるだけではだめだ。
見せなければならない。
ただし、呪いとしてではなく。
記録として。
悠真はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面は割れている。
電波はない。
だが、カメラと接続するケーブルはバッグに入っていた。
編集者の癖で、常に持っていたものだ。
悠真は震える手でカメラとスマートフォンをつないだ。
吉岡が目を剥いた。
「何をする」
「外へ出す」
「やめろ!」
吉岡が飛びかかってきた。
その瞬間、井戸から白い手が何本も伸び、吉岡の足を掴んだ。
「離せ! 私は管理してきたんだ! 私がいなければ、もっと死んでいた!」
吉岡は暴れた。
だが手は離さない。
水面から、榊水紀の顔が現れた。
その隣に黒川千尋。
さらに佐伯律。
佐伯は水の中から悠真を見上げ、小さく頷いた。
やれ。
そう言っているようだった。
悠真はスマートフォンを操作した。
水紀の映像。
白蘭荘の写真。
台帳の名前。
井戸の縁に刻まれた名前。
蘭の姿。
すべてを一つのファイルにまとめる。
指が震える。
画面が濡れて反応しない。
時間がない。
井戸の水位が上がっている。
地下三階の天井近くまで水が満ち始めている。
吉岡はなおも叫んでいた。
「外へ出したら広がるぞ! 全員が見る! 全員が呼ばれる!」
「違う」
悠真は言った。
「隠すから呪いになる」
アップロード先は、悠真が普段使っている動画共有クラウド。
公開設定。
非公開ではない。
限定でもない。
公開。
タイトルを入力する。
《ホテル白蘭 井戸の記録》
説明欄に、指で打つ。
《これは怪談ではない。消された人たちの記録です。》
送信。
画面に円形の進捗表示。
一パーセント。
三パーセント。
七パーセント。
遅い。
電波がないはずなのに、アップロードは進んでいる。
どこへ送られているのか分からない。
だが進んでいる。
水が腰まで来た。
蘭がこちらを見ている。
顔に感情はない。
だが、ほんの少しだけ、目の奥が揺れている。
二十パーセント。
三十四パーセント。
吉岡が水の中で叫ぶ。
「やめろ! 蘭! 私はお前を忘れなかった! ずっと名前を残してやった!」
蘭は吉岡を見た。
「違う」
その声は、静かだった。
「あなたは、閉じ込めた」
吉岡の身体が水中へ沈み始めた。
「違う! 私は……私は命令されただけだ! 支配人に! 先代に! ホテルに!」
黒い水が吉岡の口に入る。
それでも彼は喋り続けた。
「私は悪くない! 私はただ……」
声が泡になった。
吉岡は沈んだ。
水面に名札だけが浮いた。
吉岡。
その文字が黒く溶けて、消えた。
六十パーセント。
七十一パーセント。
地下が崩れ始めた。
天井から土が落ちる。
配管が外れ、黒い水が滝のように流れ込む。
井戸の向こうで、旅館の幻が見えた。
白蘭荘。
昭和の廊下。
女中たち。
酒に酔った客。
閉じられた襖。
助けを求める声。
それらが、水の膜の向こうに重なっている。
悠真は理解した。
ホテル白蘭は建物ではない。
隠された記憶の層だ。
白蘭荘からホテル白蘭へ。
井戸から貯水槽へ。
女中から清掃員へ。
水紀へ。
そして自分へ。
誰かが見ないふりをするたびに、水は下から戻ってきた。
八十九パーセント。
九十四パーセント。
スマートフォンが熱を持つ。
画面にひびが広がる。
水は胸まで来ている。
息が苦しい。
蘭が近づいてきた。
水面の上を歩くように。
白い着物。
長い髪。
彼女は悠真の前に立った。
「あなたも、見るだけ?」
悠真は首を振った。
「見るだけじゃない」
九十八パーセント。
九十九パーセント。
画面が一瞬、真っ暗になった。
悠真の心臓が止まりかける。
次の瞬間、表示が出た。
《アップロード完了》
その瞬間、地下の水が止まった。
音が消えた。
完全な無音。
蘭の目が見開かれる。
井戸の底から、光が差した。
白い光ではない。
朝焼けのような、淡い青い光。
水面に浮かんでいた名前が、一つずつ光に変わっていく。
黒川千尋。
榊水紀。
佐伯亮。
佐伯律。
名前が消えるのではない。
読まれていく。
誰かに知られていく。
記録として、外へ出ていく。
蘭の顔から、初めて憎しみが消えた。
その代わりに、幼い少女の表情が戻る。
彼女は井戸の中を振り返った。
水の底から、たくさんの手が伸びている。
今度は引き込む手ではない。
迎える手だった。
蘭は悠真を見た。
「まだ、ひとつ足りない」
「何が」
「最初に沈めた人の名前」
悠真は息を呑んだ。
最初に井戸へ捨てられた男。
酔って死んだ客。
その死を隠したことが、すべての始まり。
その名前が記録にない。
だから井戸は閉じない。
だから蘭は戻れない。
悠真は必死に記憶を探った。
台帳は井戸へ沈んだ。
資料も流された。
だが、さっき見た映像の中にあった。
白蘭荘の宿泊者台帳。
昭和二十九年。
赤い印のついた名前。
ほんの一瞬。
画面の端に映っていた。
何だった。
悠真は目を閉じた。
編集者としての記憶。
フレーム単位で映像を追う癖。
頭の中で、あの映像を戻す。
白蘭荘。
台帳。
墨文字。
日付。
男の名前。
――大槻宗一。
悠真は叫んだ。
「大槻宗一!」
井戸が震えた。
蘭の顔が変わる。
地下全体に、低い唸りが響く。
井戸の底から、男の悲鳴が上がった。
それは怒りではなく、恐怖だった。
隠され続けた者が、ついに呼ばれた声だった。
水面に男の顔が浮かぶ。
中年の男。
酔ったように赤い顔。
だが目は怯えている。
蘭はその男を見下ろした。
「返ってきた」
次の瞬間、井戸の水が一気に引いた。
渦を巻きながら下へ落ちていく。
黒い水も、髪も、手も、顔も、すべて井戸の底へ吸い込まれていく。
悠真の身体も引かれた。
足元が滑る。
井戸へ引きずられそうになる。
その時、誰かが腕を掴んだ。
佐伯だった。
濡れた手。
冷たい手。
だが確かに人間の手だった。
「走れ!」
悠真は目を見開いた。
「お前……」
「説明は後だ!」
二人は地下三階を走った。
背後で井戸が崩れる。
石が砕ける。
白蘭荘の幻が燃えるように消えていく。
地下二階。
貯水設備。
水槽の中は空だった。
地下階段を駆け上がる。
地下一階。
機械室。
一階ロビー。
シャッターが少し開いている。
外の光。
夜ではない。
朝だった。
二人は転がるように外へ出た。
背後で、ホテル白蘭が低く軋んだ。
外壁に亀裂が走る。
看板の「白蘭」の文字が落ちる。
建物全体が、長い息を吐くように沈黙した。
悠真は路上に倒れた。
空が白んでいる。
スマートフォンを見る。
画面は割れていた。
だが動画は公開されている。
再生回数。
1。
2。
5。
13。
増えている。
悠真は息を呑んだ。
これで終わったのか。
それとも、広げてしまったのか。
画面のコメント欄に、最初のコメントが表示された。
《この動画、途中で水の音が聞こえる》
その直後、佐伯が低く言った。
「まずい」
「何が」
佐伯はホテルを見上げていた。
悠真も振り返る。
廃ホテルの最上階。
存在しないはずの十三階の窓に、少女が立っていた。
蘭だった。
彼女は笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、こちらを見ていた。
そして唇だけが動いた。
――まだ。
次の瞬間、悠真のスマートフォンに通知が届いた。
《動画が削除されました》
画面が黒くなる。
その黒い画面に、白い文字が浮かんだ。
《二日目》
(第8章につづく)

コメント