第六章 名前を消す男
鉄扉が閉まる音は、異様に重かった。
地下三階の空気そのものが封じられたような音だった。
吉岡は動かなかった。
地下の薄暗い空間の中で、ただ悠真を見ている。
ホテルの制服は古びていた。
胸元の名札だけが妙に新しい。
吉岡。
その文字が、地下の湿気を吸って黒く滲んでいた。
悠真は宿泊者台帳を抱えたまま後退した。
「お前……何なんだ」
吉岡は少し首を傾けた。
「従業員ですよ」
静かな声だった。
感情がない。
「ずっと、このホテルを管理しています」
「七年前に消えたはずだ」
「ええ」
吉岡は笑った。
「でも、ここでは“消える”という意味が違う」
井戸の水面が揺れた。
無数の顔が、下から悠真を見ている。
黒川千尋。
榊水紀。
佐伯律。
目を開けたまま。
全員が沈んでいるのに、腐っていない。
まるで、水が時間を止めているみたいだった。
「佐伯はどこだ」
「下です」
「下?」
吉岡は井戸を見た。
「ここは途中ですよ」
悠真の背筋に冷たいものが走った。
途中。
つまり、この井戸にはさらに下がある。
「お前がやったのか」
「違います」
吉岡は即答した。
「私は片付けていただけです」
「片付ける?」
「名前を消すんです。記録を消す。いなくなった人間を、最初からいなかったことにする」
吉岡はゆっくり地下空間を見回した。
「ホテルという場所は便利なんですよ。誰が来ても不自然じゃない。逃げてもおかしくない。消えても、誰も深く追わない」
悠真は台帳を握る手に力を込めた。
「黒川千尋は何を見た」
吉岡は少し黙った。
「最初は事故でした」
井戸の奥から、水音が響く。
「昭和の頃、この土地には旅館があった。白蘭荘。その頃から、女中が消えることがあった。酔った客に襲われた女、借金を背負わされた女、逃げようとした女……そういう人間が、井戸に捨てられた」
吉岡の声は淡々としていた。
長い間、同じ説明を繰り返してきた人間の声だった。
「でも、おかしくなったのは、その後です」
「何が」
「戻ってくるようになった」
悠真は井戸を見た。
暗闇。
水面。
顔。
「最初に見たのは、先代の支配人でした。死んだはずの女が、井戸の水面から見上げていたそうです」
吉岡は笑みを消した。
「それから、水が変わった」
地下空間の配管から、ザーッという音がした。
「飲んだ人間が夢を見るようになった。水の中の女を見る。夜中、十三階へ行く。存在しない階へ」
「十三階は何なんだ」
「境目です」
「何の」
「下へ行くための」
吉岡の目が、井戸へ向く。
「白蘭は、井戸の蓋なんです」
その瞬間、井戸の中から手が伸びた。
白い手。
悠真の足首を掴む。
冷たい。
だが今度は引きずり込もうとしない。
代わりに、指先が井戸の縁を叩く。
カン。
カン。
カン。
悠真は気づいた。
石に何か文字が刻まれている。
苔を払い、懐中電灯を向ける。
名前だった。
無数の名前。
井戸の縁を埋め尽くすように刻まれている。
その大半は削られていた。
だが読めるものもある。
黒川千尋。
榊水紀。
佐伯亮。
佐伯律。
そして。
岸本悠真。
新しい傷跡だった。
ついさっき刻まれたように。
「お前が刻んだのか」
吉岡は頷いた。
「井戸が覚えた人間を、こちら側にも残しておく必要がある」
「どういう意味だ」
「名前が消えると、人は完全に下へ落ちる」
吉岡は地下空間の奥を見た。
「誰にも思い出されなくなる」
悠真は言葉を失った。
それが本当なら、失踪ではない。
存在の抹消だった。
「だから記録が必要なんです」
吉岡は台帳を見た。
「名前を書き、残し、管理する。そうしないと、あれは増え続ける」
「あれ?」
吉岡が答えるより早く、地下空間の奥から音がした。
ドン。
ドン。
何か巨大なものが、配管の向こうを移動している。
地下全体が揺れた。
吉岡の表情が初めて変わった。
「静かに」
その声は、本気で怯えていた。
ドン。
ドン。
音が近づく。
井戸の水面が波立つ。
顔が沈み始める。
まるで何かを避けているように。
「何がいる」
吉岡は答えなかった。
代わりに地下三階の奥を見た。
そこには、さらに古い通路が続いていた。
土と岩肌の道。
旅館が建つ前から存在していたような空間。
その暗闇の奥から、水が流れてくる。
黒い水。
水面が盛り上がる。
何かが歩いている。
いや、這っている。
吉岡が低く言った。
「見ないでください」
だが悠真は見てしまった。
暗闇の中に、巨大な髪の塊があった。
人間ではない。
黒い髪だけでできた塊。
その中心に、無数の顔が埋まっている。
女。
男。
子供。
皆、水に沈んだような白い顔をしている。
髪の塊は、ゆっくりこちらへ這ってくる。
配管を擦る音。
水音。
腐臭。
悠真は呼吸を忘れた。
「あれが……」
吉岡が震える声で言った。
「戻ってきた人たちです」
髪の塊の中から、顔が一つ浮かび上がる。
佐伯律。
目を開けている。
口が動く。
助けを求めているようにも見えた。
だが次の瞬間、顔は髪の中へ沈んだ。
代わりに別の顔が浮かぶ。
榊水紀。
彼女は悠真を見た。
そして、小さく首を振った。
逃げろ。
そう見えた。
吉岡が叫んだ。
「井戸を閉じろ!」
「どうやって!」
「台帳を捨てろ!」
悠真は宿泊者台帳を見た。
名前の記録。
消された人々の痕跡。
「それを井戸に返すんだ!」
髪の塊が近づく。
地下空間の照明が一つずつ消える。
ドン。
ドン。
配管が破裂した。
黒い水が噴き出す。
悠真は台帳を抱えたまま井戸へ近づいた。
その時、ページが勝手にめくれた。
最後のページ。
自分の名前。
その横に、赤い線がゆっくり引かれていく。
見えない手で。
「やめろ!」
悠真は指で線を擦った。
消えない。
さらに下の空欄に、新しい名前が浮かび上がる。
母親の名前。
妹の名前。
友人の名前。
悠真の知っている人間たち。
悠真は凍りついた。
呪いは広がっている。
映像を見た本人だけではない。
関わった人間まで、井戸が覚え始めている。
「早くしろ!」
吉岡が叫ぶ。
髪の塊はもう目の前だった。
無数の顔が口を開ける。
声が重なる。
「返して」
「返して」
「返して」
悠真は台帳を井戸へ投げ込んだ。
水面に落ちる。
その瞬間、井戸の奥から絶叫が響いた。
地下全体が揺れる。
髪の塊が止まった。
無数の顔が、一斉に悠真を見た。
そして。
全部、水の中へ沈んだ。
静寂。
水音だけが残る。
吉岡は膝をついた。
「間に合った……」
悠真は息を切らしながら井戸を見た。
水面が静かになっている。
だが終わっていない。
直感で分かった。
井戸の底から、まだ何かが見ている。
その時。
井戸の奥から、小さな音がした。
カチ。
古いビデオテープを入れる音。
地下空間の奥に、ブラウン管テレビが点いていた。
いつの間に現れたのか。
砂嵐。
ノイズ。
そして映像。
昭和の旅館。
白蘭荘。
若い女中たち。
井戸。
その映像の中央に、一人の少女が立っていた。
十代半ば。
白い着物。
長い黒髪。
彼女だけがカメラを見ている。
悠真は全身が冷えるのを感じた。
今までの女たちとは違う。
もっと古い。
もっと深い。
少女はゆっくり口を開いた。
「まだ、返ってきてない」
次の瞬間、井戸の底から大量の水が噴き上がった。
(第7章につづく)

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