山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第九十九章

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――第九十九章 消えぬ火――

 何も起きぬ一日の翌日、伊織は早く目を覚ました。

 囲炉裏の灰の下には、まだ赤い火が残っていた。母はそれを見越して、昨夜、灰を厚めにかけておいたのだろう。表から見れば消えたようでも、内に火はある。棒でそっと灰を寄せると、赤い芯が息を吹き返した。

 伊織は、その火をしばらく見つめていた。

 人も同じかもしれぬ。
 昨日は何も起きなかった。
 だが、何も起きないからといって、何も育っていないわけではない。
 灰の下で、火は残っている。

「早いね」

 母が起きてきた。

「火を見ていました」

「消えてなかっただろ」

「はい」

「消えたように見える火ほど、乱暴に掘っちゃいけないよ」

 伊織は頷いた。
 人の戻りも同じだ。早く確かめようと掘り返せば、火は散る。そっと灰を寄せるくらいでよい時がある。


 その日、主水からの呼びはなかった。

 代わりに、佐平の新しい瓦版が届いた。

 派手な見出しはない。

 ――牧野の若君、二字を直す。
 ――遠山の若君、今日は書きたくないと書く。
 ――久我の若君、風よき日に座す。

 地味だった。

 新兵衛が読んで、笑った。

「売れねぇだろ、これ」

 伊織も苦笑した。

「だが、悪くない」

 志乃が覗き込み、首をかしげた。

「本当に地味ですね」

「地味でいい」

 お澪が静かに言った。

「人が戻る時は、たぶんこれくらいの字でよいのです」

 母が頷いた。

「濃い味ばかりじゃ、舌が馬鹿になるからね」

 佐平もまた、少しだけ変わったのかもしれない。
 売れる話ではなく、残る話を書く。
 それが商いとして続くかどうかは分からぬ。
 だが少なくとも今日、彼は美談の濃い味を少し薄めた。


 昼過ぎ、伊織はひとりで町を歩いた。

 自分の悪名も、美名も、まだ完全には消えていない。
 だが、それらの声は少し弱まっていた。
 弱まったというより、人々が飽き始めたのだろう。
 人の噂は長く続かない。
 だが名に受けた傷は、噂が去ったあとも残る。

 橋の上で、伊織は川を見た。

 水は戻らない。
 しかし、火は残る。
 人は水にも似ているが、火にも似ている。
 流れもするし、留まりもする。
 そのどちらかだけで人を見ると、誤るのだろう。

 そこへ、秋庭が来た。

「榊原殿」

「どうした」

「主水殿からではありません。私自身で」

 秋庭は少し照れたように言った。

「戻り帳に、私のことを書いていただきました」

「ああ」

「白紙に迷い、怖れを失わぬことを戻る道とする、と」

「そうだったな」

「私はまだ、白紙を見ると怖いです」

「それでよい」

「はい」

 秋庭は川を見た。

「ですが、怖いだけではなくなりました。白紙には、危うさもある。けれど、余白もある。最近、少しだけそう思えるようになりました」

 伊織は秋庭を見た。
 若い顔だ。
 だが以前より、目が落ち着いている。

「戻りはじめたな」

 秋庭は苦笑した。

「まだ、はじめです」

「はじめでよい」

 二人はしばらく川を見ていた。
 水は流れる。
 だが、その水を見ている二人は、同じ場所に立っている。
 それだけで、人は水ではないと分かる気がした。


 寺へ戻ると、清之進から文が来ていた。

 ――本日は、一字も直らず。
 ――されど、破らず。

 遠山伊之助からは、

 ――今日は、昨日の“書きたくない”を読み返し、少し笑いました。

 久我直之助からは、

 ――風なし。出る理由も、出ぬ理由もなし。ゆえに少しだけ庭へ出ました。

 伊織は三通を並べて、静かに笑った。

 大きな前進ではない。
 だが、それぞれが自分の火を見ている。
 消えたかどうかを、急いで掘り返さずに。

 お澪が戻り帳を開いた。

「書きますか」

「ああ」

 伊織は言った。

「清之進殿は、一字も直らぬ日にも文を破らず。伊之助殿は、書きたくない昨日を笑う。直之助殿は、理由なき日に少し庭へ出る」

 お澪は丁寧に書いた。

 そして最後に、秋庭の名も足した。

 ――秋庭。
 ――白紙を怖れつつ、余白を見る目を得はじめる。

 伊織はその行を見て、深く頷いた。


 夜、老僧が伊織に言った。

「そろそろ終わりが近いな」

「何のです」

「この一筋の話だ」

 伊織は黙った。

 白紙から始まった流れ。
 紙、寺、箱、水、点、名、怖れ、美名、余白。
 ずいぶん遠くまで来た。
 だが、終わりという言葉はまだしっくりこなかった。

「終わるのでしょうか」

「終わるものもある。残るものもある」

 老僧は言った。

「火は一度消える。だが、火の扱いを覚えた者は、次の火を起こせる」

 伊織は囲炉裏を見た。

 灰の下に、まだ赤い火がある。

「私は、何を覚えたのでしょう」

「急がぬこと」

 老僧は即座に言った。

「切りすぎぬこと。見捨てすぎぬこと。褒めすぎぬこと。怖れをひとりに持たせぬこと」

 伊織は苦笑した。

「多いですね」

「まだ少ない」

 老僧は静かに笑った。

 伊織は頭を下げた。


 その夜、戻り帳の伊織の頁に、お澪が一行を書き足した。

 ――榊原伊織。
 ――消えたように見える火を、急いで掘り返さぬことを知る。

 伊織はその文字を見つめた。

 波瀾万丈の物語は、火事や斬り合いだけで進むのではない。
 灰の下に残る小さな火を見守ることもまた、ひとつの波瀾なのだ。
 人が戻るとは、華々しく立ち直ることではない。
 消えぬ火を、今日も消さずにいることなのだ。

 囲炉裏の赤が、静かに揺れていた。

(完)

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