――第九十八章 地味な一日――
その日は、何も起こらなかった。
朝、雨が少し降った。
昼には止み、夕方には薄い陽が差した。
誰も倒れず、誰も怒鳴らず、瓦版も大きな噂を流さなかった。
だが伊織は、その“何もない一日”こそ、戻るということに一番近いのではないかと思った。
波瀾万丈な出来事は、人の目を引く。
名誉も、悪名も、涙も、喧嘩も。
だが人が本当に戻る時は、案外こういう地味な日の積み重ねなのかもしれない。
牧野清之進は、その日も文を書いていた。
庭先で、家士たちが行き交う中、黙って筆を動かす。
以前のように、誰かが露骨に笑うことはなくなった。
だが、まだ時々視線は刺さる。
清之進は、文の最後を書き終えると、そっと紙を裏返した。
「今日は、二字直りました」
伊織にそう言って笑う。
「昨日より一字多い」
「欲張りました」
「欲張りすぎると崩れます」
「はい。途中で一度崩れました」
その“崩れた”という言葉を、清之進は隠さなくなっていた。
以前なら、崩れたことを恥じていただろう。
今は、「崩れたが直した」と言える。
左内がその様子を見ていた。
「若様」
「何だ」
「今日は、私も一つ直しました」
左内は懐から小さな紙を出した。
そこには、家中の取り決めが書かれていた。
以前は、“若様の文は家外へ出さぬこと”とあった。
それが今日、“若様ご自身が見せると決めたものは妨げぬこと”へ変わっていた。
清之進は目を見開いた。
「左内……」
「待つ稽古でございます」
左内は少し照れたように笑った。
伊織は、その場の空気を静かに見ていた。
誰も泣かない。
誰も大声を出さない。
だが、堰は少しずつ形を変えている。
遠山家では、伊之助が手習いをしていた。
今日は、父はいない。
一人で書いている。
伊織が後ろから覗くと、伊之助は慌てて紙を隠した。
「見ないでください」
「なぜ」
「今日は、変なのです」
「いつも変です」
伊之助はむっとした。
「榊原さまは、時々ひどいです」
「では見せぬか」
伊之助は少し迷い、やがて紙を出した。
そこには、
――今日は、書きたくありません。
とだけ書かれていた。
伊織はしばらく黙った。
「今日は、そういう日ですか」
「はい」
「なぜ」
「分かりません」
伊之助は正直に答えた。
「昨日は書けました。でも今日は、全部いやです。文も、笑われることも、来年の私も」
伊織は頷いた。
「なら、今日はその一行で終わりにすればよい」
伊之助は顔を上げた。
「よいのですか」
「はい。書きたくない日に、“書きたくない”と書けた」
伊之助は、少し安心したようだった。
「では、今日はこれで終わりにします」
幼い名は、毎日育つわけではない。
戻る日もあれば、止まる日もある。
それを許せるかどうかが、大人の側の稽古なのだろう。
久我家では、直之助が今日は外へ出ていた。
風は弱い。
縁側で、薄い湯を飲んでいる。
「今日は、よい風です」
直之助が言った。
「はい」
「ですが、何も起きません」
「それが不満ですか」
「少しだけ」
直之助は苦笑した。
「以前は、外へ出るだけで大事でした。今は、半刻いても誰も騒がない」
家老が横で言った。
「それがよいのです」
「分かっています」
直之助は空を見た。
「ですが、人は時々、自分の苦しみに意味を欲しがります。病にも、外へ出ることにも」
伊織は黙って聞いていた。
「何も起きぬ日が続くと、“私はちゃんと戻っているのだろうか”と思う」
「では、どう答えます」
伊織が問う。
直之助は少し考えた。
「今日は風がよい。湯がぬるい。咳が少ない。……それで十分だと、自分に言います」
伊織は深く頷いた。
それは派手な戻りではない。
だが、本当の戻りとは、案外そういうものなのだろう。
夕方、寺へ戻ると、囲炉裏の火はいつもより小さかった。
母が言った。
「今日は薪が湿っててね」
「火が弱い」
「でも、消えてはいないよ」
伊織は、その火を見ながら今日一日を思い返した。
清之進は二字直した。
左内は取り決めを一つ変えた。
伊之助は“書きたくない”と書いた。
直之助は風を受け、何も起きぬ日を味わった。
どれも地味だった。
瓦版にはならない。
落首にもならない。
だが、それでよかった。
お澪が戻り帳を開く。
「今日は、静かな頁ですね」
「ああ」
伊織は言った。
「だが、大事な頁だ」
お澪は筆を走らせた。
――牧野清之進。
――二字直る。
――左内、若様の見せる文を妨げぬと定めを改む。
――遠山伊之助。
――書きたくない日あり。
――“書きたくない”と書きて終える。
――久我直之助。
――風よく、何事もなし。
――何も起きぬ日を、戻りの一日と心得る。
伊織は、その文字をじっと見た。
「地味だな」
新兵衛が後ろから言った。
「はい」
「でも、嫌いじゃねぇ」
伊織は笑った。
波瀾万丈な物語は、ついに“何も起きぬ一日”を書き始めた。
人は事件で変わるのではない。
何も起きぬ日の積み重ねで、少しずつ戻るのだ。
その時、お澪がふと顔を上げた。
「伊織様ご自身は?」
「私か」
「今日は、何を直しました」
伊織は答えに詰まった。
しばらく囲炉裏の火を見る。
やがて、小さく言った。
「……今日は、急がなかった」
お澪は静かに頷き、伊織の頁へ一行を書き足した。
――榊原伊織。
――何も起きぬ日を、無理に意味づけず過ごす。
――急がぬことを、一つ覚える。
囲炉裏の火が、小さくはぜた。
静かな音だった。
だが、その音はどんな騒ぎより深く、伊織の胸に残った。
(第99章につづく)

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