山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第九十三章

目次

――第九十三章 余白の朝――

 宗庵が泣いた翌朝、伊織は妙に静かな心で目を覚ました。

 人が泣くところを見たからといって、すべてが解けるわけではない。罪が消えるわけでもない。宗庵が若い名を縛り、病める名を奥へ押し戻し、怖れを売ってきたことは変わらない。

 だが、泣けぬ者が泣いた。

 その一点だけは、戻り帳に残す価値があった。

 朝餉の席で、母が言った。

「宗庵さんは、少し柔らかくなったかい」

「少しだけ」

「それで十分だよ。煮物だって、芯まで柔らかくなるには時間がかかる」

 新兵衛が笑った。

「また飯の話か」

「飯の話で分からないことは、たいてい難しすぎるんだよ」

 伊織は味噌汁を口にしながら頷いた。

 その時、主水から使いが来た。

 文には、短くこうあった。

 ――宗庵、動く。
 ――三家へ詫び状を出す意向。
 ――ただし、詫びは時に新たな火となる。
 ――見届けよ。

 伊織は文を畳んだ。

「詫び状か」

 新兵衛が覗き込んで言う。

「ああ」

「いいことじゃねぇのか」

「分からぬ」

 伊織は立ち上がった。

「詫びも、整いすぎればまた人を縛る」


 宗庵の庵では、彼が布団の上で筆を取っていた。

 顔色はまだ悪い。
 だが目は昨夜より澄んでいる。
 ただ、いつもの整いとは違う。乱れを含んだ澄み方だった。

「榊原殿」

「無理をなさるな」

「無理ではありませぬ。書かねばならぬ」

 宗庵は三通の書付を示した。

 牧野家。
 遠山家。
 久我家。

 それぞれへの詫び状である。

 伊織は一通を読んだ。

 文は見事だった。
 見事すぎた。

 ――愚老、怖れに目を曇らせ、若き名に余計の形を与え候。
 ――以後、各家の御判断を尊び、出過ぎた口を慎むべく候。

 過不足ない。
 非も認めている。
 礼も尽くしている。
 だが伊織は、胸に小さな引っかかりを覚えた。

「整っています」

 伊織が言うと、宗庵は苦く笑った。

「また整えておりますか」

「はい」

「では、どう書けばよい」

 伊織はすぐには答えなかった。

 詫びとは難しい。
 整いすぎれば逃げになる。
 乱れすぎれば相手を困らせる。
 それでも、宗庵自身の声がなければならない。

「相良家の名を書いてください」

 宗庵の筆が止まった。

「それは……」

「あなたの怖れの元です。そこを書かずに詫びれば、ただ“出過ぎた口を慎む”だけになります」

 宗庵は長く黙った。

「相良家の若君を、私は止められなかった」

 小さな声だった。

「はい」

「それを書けば、私の傷を三家へ見せることになります」

「そうです」

「相談役が傷を見せれば、軽んじられる」

「軽んじられるかもしれません」

 宗庵は目を閉じた。

「怖いですな」

「はい」

「詫びるのは、怖いものですな」

「はい」

 宗庵は、しばらくして筆を取り直した。

 今度の文は、先ほどより遅かった。
 筆が迷う。
 止まる。
 また動く。

 その迷いこそ、宗庵の声だった。


 書き直された詫び状は、不格好だった。

 相良家のことが書かれていた。
 若君を止められなかったこと。
 その怖れから、若い名や病める名を先に形へ閉じ込めようとしたこと。
 自分の怖れを、他家の秩序として押しつけたこと。

 そして最後に、こうあった。

 ――詫びても、戻らぬものあり。
 ――されど、これより先、怖れを売らず、まず怖れを己のものとして申すべく候。

 伊織は読み終え、静かに頷いた。

「これは、宗庵殿の文です」

 宗庵は力なく笑った。

「ひどい文です」

「はい」

「ですが、私の文ですな」

「はい」

 宗庵は、少しだけ目を伏せた。

「牧野の若様も、こういう気持ちであったか」

「たぶん」

「怖いものです」

「はい」

「若い者に、ずいぶん怖いことをさせていたのですな」

 伊織は答えなかった。
 宗庵自身が言えたなら、それでよかった。


 三家への詫び状は、その日のうちに届けられた。

 牧野家では、清之進が黙って読み、最後に言った。

「宗庵殿も、自分の文を書いたのですね」

 それだけだった。
 責めもしない。許すとも言わない。
 だが、その言葉で十分だった。

 遠山家では、伊之助が相良家の話を聞いて泣いたという。
 父はその横で、宗庵の詫び状を折らずに文箱へ入れた。

 久我家では、直之助がしばらく沈黙し、やがて家老に言った。

「怖れを売らぬなら、怖れを聞く場を作ればよい」

 その一言で、家老は宗庵を一度久我家へ招くことを決めた。
 ただし、相談役としてではない。
 怖れを語る客として。


 寺へ戻ると、お澪が戻り帳を開いた。

「宗庵殿、書けますか」

 伊織はしばらく考えた。

「戻った、とは書かない」

「では」

「戻りはじめ、だ」

 お澪は筆を取った。

 ――扇屋宗庵。
 ――相良家の古傷を三家へ明かし、整いすぎた詫びを改める。
 ――怖れを売らず、己の怖れとして語る文を書く。
 ――戻りはじめ。

 その文字を見た時、伊織は深く息を吐いた。

 ようやく一つ、余白に墨が入った。
 だが余白はすべて埋めてはいけない。
 宗庵にはまだ長い道がある。

 母が言った。

「よかったね」

「はい」

「でも、よかったで終わらせちゃいけないよ」

「分かっています」

「戻りはじめた人は、戻り疲れもするからね」

 伊織は頷いた。

 戻る者は疲れる。
 待つ者も疲れる。
 そして、詫びる者も疲れる。

 その疲れを見落とした時、また新しい点が生まれるのだ。

 囲炉裏の火が、静かに赤く残っていた。

 波瀾万丈の物語は、怖れを売る者を、怖れを語る者へと少しだけ戻した。
 だがそれは終わりではない。
 むしろ、ようやく人が人として歩き出す、その初めだった。

(第94章につづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次