山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第七十七章

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――第七十七章 病める名――

 遠山伊之助の名を戻り帳に記した翌日、伊織は久我家へ向かった。

 三家のうち、牧野は名を洗い始め、遠山は幼き名を守る堰を得た。残る久我家の若は、病弱だという。

 病は、人を奥へ押し込める。
 奥へ押し込められた名は、外で別の顔を作られやすい。

 久我家の屋敷は、静かすぎた。

 門番の声も低く、庭の砂も踏まれた跡が少ない。奥へ通されると、薬の匂いがした。そこで伊織は、久我家の若・久我直之助と対面した。

 十七ほどの青年だった。痩せてはいるが、目は鋭い。床に伏しているわけではない。ただ、体が弱いという理由で、家中から“表に出るには足りぬ者”として扱われてきた顔だった。

「榊原殿」

 直之助は咳をひとつして、薄く笑った。

「私の名も、誰かに整えられていたそうですね」

 伊織は静かに頷いた。

「その疑いがあります」

「疑いではないでしょう」

 直之助は枕元の文箱を指した。

「そこにあります。私の名で出た文が」

 文箱を開くと、整った書付が何通も出てきた。病弱な若が、それでも家のために思慮を尽くしている――そう読ませる文だった。

 だが、伊織はすぐに違和を覚えた。

 これは、直之助を強く見せる文ではない。
 むしろ、弱さを美しく飾っている。

「これは……」

「哀れでしょう」

 直之助が言った。

「病弱だが健気。表には出られぬが、奥から家を思う。そういう顔です」

 その声には、怒りがあった。
 静かな怒りだった。

「采女の手か」

「采女だけではありません」

 直之助は答えた。

「家中もそれを望んだのです。私は元気になりたいと言った。外へ出たいと言った。けれど皆、私を“奥にいる立派な若”にしたがった」

 伊織は黙った。

 牧野清之進は、未熟な名を整えられた。
 遠山伊之助は、幼い名に強い言葉を着せられた。
 久我直之助は、病を美談に変えられていた。

 同じ若名でも、使われ方が違う。

「私は、外へ出たいのです」

 直之助は言った。

「立派な病人でいたいわけではない」

 その一言に、伊織は胸を衝かれた。

「では、そのように書けばよい」

「書きました」

 直之助は文箱の底から、折れた紙を出した。

 そこには、荒い筆でこう書かれていた。

 ――私は、病を理由に奥へ置かれることを望まぬ。
 ――弱き身であっても、弱き身のまま役に立つ道を願う。
 ――哀れまれる名ではなく、使われる名でありたい。

 文は整っていない。だが、そこには直之助の息があった。

「これを出そうとしました」

「止められたのか」

「はい」

 直之助は苦く笑った。

「“お体に障ります”と」

 その言葉ほど便利な檻はない。
 心配の顔をして、人を奥へ閉じ込める。
 それもまた、点だった。

 その時、襖の向こうから声がした。

「若様のお体を思えば、当然でございます」

 入ってきたのは久我家の家老だった。年配で、顔に深い皺がある。悪人の顔ではない。むしろ、長く家を支えてきた者の顔だった。

「榊原殿。若様はお気持ちが先へ走りすぎる。お体がついて参りませぬ」

「だから、名だけを外へ出したのか」

 伊織が問うと、家老は目を伏せた。

「若様のお心を、家中へ伝えるために」

「違う」

 直之助が低く言った。

「お前たちは、私を奥へ置くために、私の名を外へ出した」

 家老の顔が揺れた。

「若様……」

「私は病人だ。だが、置物ではない」

 直之助は咳き込みながらも、そう言った。

 伊織は、その姿を見ていた。
 病弱な若。
 だが、その名はまだ死んでいない。
 むしろ、奥へ閉じ込められた分だけ、自分の声を探している。

「家老殿」

 伊織は言った。

「若様を守ることと、若様の名を閉じ込めることは違う」

 家老は黙った。

「体が弱いなら、弱いまま出せる役を探すべきだ。名だけを美しく外へ出せば、若様はますます奥へ押し込められる」

 直之助が、ゆっくりと頷いた。

「私は、強いふりをしたいのではない。弱いまま、外を見たいのです」

 長い沈黙があった。

 やがて家老は、深く頭を下げた。

「……恐れ入りました」

 それは降参ではなかった。
 長く守ってきた者が、自分の守り方の中に檻があったと気づいた顔だった。

「若様の文を、出しましょう」

 家老は言った。

「ただし、お体に障らぬ形で」

 直之助は小さく笑った。

「それでよい。私は病をなくせと言っているのではない。病だけにするなと言っているのだ」

 伊織は、その言葉を胸に刻んだ。


 寺へ戻ると、お澪が戻り帳を開いた。

「久我家は、どうでしたか」

「病める名だった」

 伊織は言った。

「病を美しく整えられ、奥へ閉じ込められていた」

「戻りましたか」

「戻りはじめた」

 お澪は筆を取った。

 ――久我直之助。
 ――病を美談に整えられ、名のみ外へ出される。
 ――弱き身のまま役に立つ道を願う。
 ――家老、守りが檻となることを知る。
 ――戻りはじめ。

 伊織はその文字を見て、静かに息を吐いた。

 三家の若名。
 牧野は未熟を洗い、遠山は幼さを許され、久我は病を檻から出そうとしている。
 それぞれ違う。
 だが、どれも同じところへ戻る。

 自分の名は、自分で背負う。

 囲炉裏の火が、ゆっくり揺れた。
 波瀾万丈の物語は、若い名をめぐる三つの堰を見届けた。
 だが伊織は知っていた。
 名を戻したあとにこそ、それを狙う次の手が現れるのだと。

(第78章につづく)

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