山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十八章

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――第五十八章 箱の顔、水の口――

 寺へ戻るころには、夕焼けはすっかり落ちていた。

 西の空に残っていた赤も、門をくぐる頃にはもう藍に沈み、境内の石畳だけがわずかに明るさを残している。火の赤ではないと分かっていても、伊織はまだ胸のどこかでそれを確かめるように空を見た。紙と札と流れを追い続けていると、ただの夕焼けまで別の意味を帯びて見えてくる。そこが危うい。

「戻ったか」

 老僧が門の内側で待っていた。

「はい」

「顔は、まだ人の顔だな」

 伊織は少しだけ笑った。

「紙の顔に見えますか」

「半分はな」

 老僧は平然と言った。

「だが半分残っていれば、まだ戻せる」

 その物言いに、新兵衛が横で吹き出した。

「坊主、容赦ねぇな」

「お前には八割ほど紙だ」

「ひでぇ」

 そんなやり取りのうちに、少しだけ肩の力が抜けた。こうして誰かが冗談まじりにでも“戻せる”と言ってくれる場所があるというのは、不思議なものだ。人はそれだけで、まだ自分が役だけではないと思える。

 囲炉裏の前には、もう夕餉が並び始めていた。母が椀を置き、志乃が漬物を運び、お澪が紙を避けて小机を片づけている。その動きの一つ一つが、伊織にはありがたかった。主水の部屋にも、主馬の控えにも、こういう音はない。

「今日はどうだったんだい」

 母が味噌汁をよそいながら言う。

「寺だった」

 伊織は答えた。

「戻る寺と、流れに使われた寺の顔を見てきた」

 母は手を止めずに聞いた。

「で、どっちだった」

「両方です」

 母はそこで初めて顔を上げた。

「難しいこと言うね」

「難しいです」

 伊織は正直に言った。

「寺そのものは戻る顔をしていた。だが、その顔を知る者が札を持ち出し、流れに使っていた」

 志乃が小さく息を呑んだ。お澪は静かに視線を落とす。新兵衛だけが「やっぱりそうか」と鼻を鳴らした。

「寺が悪いんじゃねぇ。寺の顔を知ってる奴が悪い」

「そうとも言い切れぬ」

 老僧が口を挟んだ。

「顔を貸したことに気づかぬ寺もまた、どこかで眠っておる」

 その言葉に、伊織は頷いた。
 玄応は人の顔を見る坊主だった。
 だが西徳寺の札は、確かに流れていた。
 戻る寺であっても、見ぬところで顔を貸してしまうことはある。
 それをどう止めるか。
 そこが次の難しさだった。

「高津屋の宗次が口を開いた」

 伊織は椀を手にしながら続けた。

「紙は寺を抜けて表具屋へ入り、そこから水筋に乗る。高津屋の主、嘉兵衛がまだ逃げている。行き先は本所の《松屋箱店》らしい」

 お澪が顔を上げた。

「箱屋……」

「紙を箱に変える口だ」

「紙が紙の顔をやめる場所ですね」

 お澪のその言い方に、伊織は少しだけ驚いた。
 だが、たしかにその通りだ。
 白紙のままでは怪しまれる。
 札も帳面も、箱に入ればただの荷になる。
 紙の顔を捨てて、木の顔をかぶる。
 そうやって流れはさらに見えなくなる。

 母が、味噌汁の椀を伊織の前へ置いた。

「まず食べな」

 それだけで、話は一度そこで切れた。
 どれほど厄介な流れも、味噌汁の前ではひとまず黙る。
 人の暮らしの強さとは、そういうものかもしれぬ。


 その夜、伊織は主水への文をまとめた。

 宗次のこと。
 西徳寺の札。
 高津屋。
 嘉兵衛。
 そして松屋箱店。

 だが書きながら、何度も筆が止まった。書けば、主水は動く。動けば、また多くの手が走る。止める手、通す手、守るつもりの手、楽な方へ流れる手。そのどれが次に出るか分からぬ。

「迷っているのか」

 不意に声がした。振り向くと、老僧が本堂の柱にもたれている。

「はい」

「何に」

「書きすぎれば、流れが散る気がします。だが書かねば、主水殿の手が遅れる」

 老僧は、ゆっくりと囲炉裏の残り火を見た。

「火を消す時、どうする」

「水をかけます」

「かけすぎれば、灰まで流れる」

 伊織は黙った。

「必要なところだけを濡らすのだ」

 老僧は言った。

「文も同じ。全部を書けばよいわけではない。芯だけを渡せ」

 伊織はその言葉に、少しだけ息をついた。
 そうだ。
 主水は全部を欲しているわけではない。
 芯があれば、あとは自分で読む。
 余計な枝葉を足すのは、むしろこちらの迷いを混ぜることになる。

 伊織は文を二つに分けた。
 一つは主水へ。
 宗次の口から出た流れの芯だけを書く。
 もう一つは、自分の控えとして残す。
 寺の顔や宗次の人となりまで含めた、後で必要になるかもしれぬ記しだ。

 書き終えると、老僧が小さく頷いた。

「それでよい」

「主水殿には、宗次を連れて行くべきでしょうか」

「お前はどうしたい」

 老僧に問われ、伊織は少しだけ考えた。

「すぐには出したくありません」

「なぜ」

「宗次は悪を悪として始めた男ではない。寺の顔を使った罪は重い。だが玄応殿の顔を見ずに主水殿へ出せば、ただの口になります」

 老僧は目を細めた。

「深くなったな」

「甘くなったのかもしれません」

「違う」

 老僧は言った。

「深く見たうえで出すのと、見ぬまま出すのとは違う」

 その言葉に、伊織は静かに頭を下げた。


 翌朝、伊織はまず西徳寺へ向かった。

 宗次を連れてはいない。先に玄応へ話すためだ。戻る寺の顔に対して、自分もまた人の顔で向き合いたかった。

 西徳寺は朝の勤行を終えたところらしく、境内に薄い香の匂いが残っていた。薬草棚の葉先に露がつき、井戸端には小さな桶が伏せてある。貧しいが、静かな寺だった。

 玄応はすぐに出てきた。

 伊織の顔を見るなり、何かを悟ったように頷く。

「宗次だな」

「はい」

 伊織は正面から言った。

「高津屋におりました。札を書き、紙の流れへ西徳寺の顔を使っていたことも認めました」

 玄応はしばらく黙っていた。やがて、深く息を吐く。

「やはりそうか」

「怒らぬのか」

 伊織が問うと、玄応は少しだけ苦く笑った。

「怒っておる。だが、驚きはせぬ」

「気づいていたのですか」

「気づいていた、というより……気づきたくなかったのだろうな」

 その言葉に、伊織は宗次の言い方を思い出した。知っていたことを“後に回す”。気づきたくない。人は皆、どこかでそこへ流れる。

「宗次は、ここへ戻りたいと言っていました」

 伊織が言うと、玄応の目がわずかに揺れた。

「……そうか」

「だが戻れるかどうかは分かりません」

「それでよい」

 玄応は静かに答えた。

「戻る場所というのは、誰でもすぐ戻れる場所ではない。戻りたいと思い、戻れぬことを知り、それでも門を見つめるところから始まる」

 伊織は、その言葉を胸に受けた。
 戻る場所は、ただ甘い場所ではない。
 人を人に戻すために、時に厳しくもある。
 だから戻る場所たりうるのだろう。

「宗次を主水殿へ出します」

 伊織が言うと、玄応は頷いた。

「そうなろう」

「その前に」

 伊織は少し迷い、それから言った。

「宗次に、一度だけ西徳寺の門を見せたい」

 玄応は驚かなかった。
 やがて静かに言う。

「門の外からなら、よい」

 それは許しではない。
 だが拒絶でもなかった。
 戻る寺の顔とは、たぶんこういうものなのだ。


 寺から出たあと、伊織は主水への文を使番へ託し、戻って宗次を伴った。

 宗次は黙ってついてきた。昨夜よりさらに疲れた顔をしている。高津屋の表具屋としての顔も、寺子屋の手伝いとしての顔も、どちらも剥がれかけているのだろう。

 西徳寺の門前に立つと、宗次の足が止まった。

 門は昨日と同じだ。低く、古く、慎ましい。だが宗次にはまるで別の門に見えているに違いない。

「玄応殿が、お前に会うとは言わなかった」

 伊織は言う。

「門の外から見るだけだ」

 宗次は何も答えない。
 ただ、門を見つめたまま立っている。
 やがて小さく、ほとんど聞き取れぬ声で言った。

「……私は、札だけを持ち出したつもりでした」

「だが寺の顔を持ち出した」

 伊織が言うと、宗次は目を閉じた。

「ええ」

「戻りたいか」

 しばらくの沈黙のあと、宗次は頷いた。

「戻りたい」

「だが、すぐには戻れぬ」

「分かっております」

「それでも見るか」

 宗次はもう一度だけ頷いた。
 その横顔に、初めて本当に寺子屋の師のようなものが戻った気がした。
 紙の流れの口ではなく、ただ門を見つめる男の顔だ。

 その時、門の内側から玄応が出てきた。

 宗次ははっと顔を上げる。
 玄応は門の内に立ったまま、宗次を見た。
 声はかけない。
 近づきもしない。
 ただ、見た。

 長いようで短い時間だった。
 やがて玄応は一度だけ小さく頷き、再び門の内へ戻った。

 宗次は、その背を見送ってから、深く頭を下げた。

「……十分です」

 伊織は何も言わず、宗次の肩に軽く手を置いた。
 戻る場所は、こうして人を切りもする。
 だが、その切り方は火ではなく、紙でもなく、ただ目で切る。
 それがたぶん、一番深い。


 昼過ぎ、伊織は宗次を伴って主水のもとへ向かった。

 その前に、岡野から短い知らせが届いていた。
 ――松屋箱店、まだ動かず。見張りは置いた。
 つまり嘉兵衛は、まだ箱屋の顔へ逃げ切ってはいない。こちらの手は一歩早いかもしれぬ。

 主水は宗次の顔を見るなり、ほとんど無駄なく問いを始めた。

「高津屋の紙は、どこで箱へ変わる」

「本所の川沿い、《松屋箱店》です」

「嘉兵衛の手は、まだそこにあるか」

「あるはずです」

「札は何枚流した」

「寺社筋は六。うち本物の札は二。あとは古く見せたものを混ぜました」

「なぜ混ぜた」

「本物だけでは、顔が濃くなりすぎる」

 主水は、そこでわずかに目を細めた。

「なるほどな」

 伊織は横で聞きながら、宗次の口が“紙の理”から離れきっていないことを感じていた。だが今はそれでよい。全部が人の顔へ戻るのを待っていては、嘉兵衛が先へ流れる。

 主水は、やがて伊織へ向き直った。

「榊原」

「はい」

「嘉兵衛を押さえる」

「はい」

「だが今度は、箱だけではない」

 主水の声が少しだけ低くなる。

「箱の先を見よ。箱は物を隠すためだけに使うのではない。戻すためにも使う」

 伊織は頷いた。
 紙は箱に入り、水へ乗り、どこかへ運ばれる。
 だがその先が、ただの倉ではなく“戻し先”なら、また別の顔がある。

「松屋箱店の先に、何があるか……」

 伊織が呟くと、主水は短く答えた。

「見てこい」

 それだけだった。
 だがそれで十分だった。


 城を出ると、日が少し傾き始めていた。

 波瀾万丈の物語は、次に箱の口へ向かう。
 紙が木の顔をかぶる場所。
 そして、戻すための箱と、隠すための箱の違いを見る場所。

 伊織は、寺へ戻る前に一度だけ本所の方角を見た。
 遠く、川の光が鈍く揺れている。
 あの水の上に、また一枚の紙が乗る前に、嘉兵衛を押さえねばならぬ。

 だが同時に、胸のどこかで確かなものも感じていた。
 西徳寺は戻る寺だった。
 宗次も、完全ではないにせよ、門を見る顔をまだ失ってはいなかった。
 それがある限り、自分の見ているものは全部が闇ではない。

 そう思えるだけで、足取りは少しだけ軽くなった。

(第五十九章につづく)

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