上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第九十八章

目次

第九十八章 七歳の宗伯

 ――代替受入。

 ――御影宗伯。

 ――本人年齢。

 ――七歳。

 清太郎が。

 その文字を。

 もう一度。

 読み上げた。

 部屋の中。

 誰も。

 すぐには。

 話さない。

 未定の男。

 かつて。

 御影宗伯。

 徳川家斉。

 そう名乗った男が。

 紙を見つめている。

「父が」

 ようやく。

「七歳?」

「記録上は」

 清太郎が答える。

「はい」

「違う」

「何が」

「父は」

「御影宗伯という役を」

「作った側だと」

「私は聞いていた」

「誰から」

 新之介が問う。

「父自身」

「では」

「七歳の頃の話を」

「父上から」

「聞いたことは」

「ない」

「一度も?」

「……ない」

 ◇

 伊三郎が。

 壁際から。

 ゆっくり進む。

「弥市は」

「私の父は」

「宗伯を」

「知っていた」

「七歳の?」

 新之介。

「ああ」

「何を」

「父は」

「一度だけ」

「申した」

「何と」

「『あの子を』」

「『置いてきたことだけは』」

「『死ぬまで忘れぬ』」

 未定の男の顔が。

 動く。

「置いてきた?」

「どこへ」

「分からなかった」

「私は」

「子どもだった」

「父へ」

「何度聞いても」

「答えなかった」

「では」

「今」

「この記録を見て」

「つながった?」

「ああ」

 ◇

「伊三郎殿」

 新之介が。

 椅子を勧める。

「座ってください」

「まだ歩ける」

「膝人になる前に」

「誰の真似だ」

「玄斎殿です」

「やめろ」

 水野が。

 少しだけ。

 息を吐いた。

 重すぎる部屋には。

 その程度の。

 隙間が。

 必要だった。

 ◇

「弥市殿は」

「なぜ」

「将来の徳川家斉役を」

「拒んだのでしょう」

「父は」

「役そのものを」

「嫌っていたわけではない」

「では」

「火消し」

「船頭」

「荷運び」

「必要なら」

「何でもやった」

「でも」

「名前まで」

「役にするのが」

「嫌だった」

「なぜ」

 伊三郎が。

 少し考える。

「一度」

「父が」

「私へ言った」

「『火を消す時』」

「『火消しになるのはよい』」

「『だが』」

「『家へ帰っても』」

「『火消しであれと言われたら』」

「『それは牢と同じだ』」

 辰蔵が。

 その場にいれば。

 きっと。

 黙って頷いただろう。

「役は」

 新之介が言う。

「必要な時に」

「使う」

「でも」

「人そのものにしない」

「そういうことかもしれません」

 ◇

「では」

 家定が問う。

「弥市殿が」

「拒んだ後」

「なぜ」

「七歳の宗伯へ」

「移った」

 清太郎が。

 次の頁。

「理由」

「あります」

「読んでください」

 ――弥市。

 ――成人。

 ――拒否強固。

 ――説得不能。

 次。

 ――幼少者なら。

 ――役を先に教えれば。

 ――拒否少なし。

 未定の男が。

 机へ。

 拳を置いた。

「……」

「父は」

「七歳で」

「選ばれたのではない」

「選べない歳だから」

「選ばれた」

「そう読めます」

 清太郎。

「続き」

 ◇

 ――宗伯。

 ――本名。

 ――御影宗一。

 男の顔が。

 完全に止まる。

「やはり」

 新之介が。

 未定の男を見る。

「そなたが」

「出生名として申告した」

「御影宗一」

「父上も」

「同じ?」

「違う」

 男が言う。

「私の父は」

「御影宗伯」

「出生名は」

「宗一だった」

「では」

「そなたも」

「宗一?」

「ああ」

「なぜ」

「父が」

「自分の生まれ名を」

「私へ」

「付けた」

 ◇

「それを」

 新之介が問う。

「どう思っていました」

「誇りだと」

「父の名前を」

「受け継いだ」

「そう思っていた」

「今は」

 男は。

 紙を見る。

「分からぬ」

「父にとって」

「宗一は」

「唯一」

「役ではなかった名前だったのかもしれない」

「だから」

「そなたへ?」

「残したかった?」

「可能性は」

「あります」

「でも」

「父本人へ」

「もう聞けない」

「はい」

 ◇

 清太郎が。

 続ける。

 ――宗一。

 ――七歳。

 ――今後。

 ――徳川嫡系に。

 ――家斉名使用の必要生じるまで。

 ――御影家にて保管。

「保管」

 家定が。

 苦い顔。

「子どもを」

「帳面と」

「同じように」

「書いている」

「はい」

 水野。

「だが」

「実際には」

「宗一殿は」

「家斉には」

「ならなかった?」

「そのはずです」

 未定の男が言う。

「父は」

「御影宗伯として」

「生きた」

「では」

 新之介が。

「いつ」

「家斉役から」

「外れた?」

「探しましょう」

 ◇

 次。

 九歳。

 ――教育開始。

 ――徳川家系。

 ――礼法。

 ――書。

 ――声。

 ――歩行。

 十一歳。

 ――家斉役。

 ――適性高。

 十三歳。

 ――本人。

 ――疑問多し。

 新之介が。

 少し。

 眉を上げる。

「疑問」

「何を」

 清太郎が読む。

 ――なぜ。

 ――まだ生まれていない人間の。

 ――真似をするのか。

 家定が。

 息を止める。

「まだ」

「本来の家斉公が」

「生まれる前?」

「はい」

 ――返答。

 ――真似ではない。

 ――型を先に作る。

 ――生まれた者を。

 ――その型へ合わせる。

 部屋。

 静まり返る。

 ◇

「待ってください」

 家定が。

 声を落とす。

「それでは」

「代替が」

「本物を」

「真似るのではない」

「はい」

「先に」

「役の型を作り」

「後から生まれた」

「徳川家の子どもを」

「そこへ合わせる」

「そう読めます」

「なら」

 家慶甲が。

 初めて。

 強く言った。

「将軍本人まで」

「代替の型へ」

「作られる?」

「可能性は」

「あります」

「つまり」

「本物が」

「偽物を真似る」

「本物と偽物」

 新之介が。

 静かに。

「その分け方自体が」

「崩れます」

 ◇

「では」

 家定が。

 自分の手を見る。

「私が」

「幼い頃」

「教えられた歩き方」

「話し方」

「食べ方」

「笑い方」

「全部」

「徳川家定として」

「自然に決まったものだと」

「思っていました」

「はい」

「でも」

「その前に」

「家定という型が」

「あった可能性」

「あります」

「私は」

 家定は。

 少し笑った。

「自分自身を」

「真似ていたのかもしれない」

 誰も。

 笑えなかった。

 ◇

「新之介」

 家定が言う。

「はい」

「怖いですね」

「はい」

「自分だと」

「思っていたものの」

「どこまでが」

「教えられたものか」

「分からなくなる」

「はい」

「そなたは」

「どうしている」

 新之介が。

 少し考える。

「今」

「したことを」

「見ます」

「過去ではなく?」

「過去も」

「見ます」

「でも」

「誰に教えられた癖でも」

「今」

「それを続けるかは」

「少しずつ」

「自分で選べます」

「全部は」

「無理です」

「でも」

「少しは」

 家定が。

 ゆっくり頷く。

「少しで」

「よい?」

「少なくとも」

「私は」

「そう思います」

 ◇

 十五歳。

 宗一。

 ――家斉役。

 ――使用拒否。

 未定の男が。

 顔を上げる。

「父も」

「拒んだ?」

「はい」

「理由」

 清太郎。

 ――本人申す。

 ――「まだ生まれてもいない者へ」

 ――「私の癖を渡すな」

 伊三郎が。

 小さく笑った。

「弥市と」

「同じだ」

「弥市殿の影響?」

 新之介。

「あるかもしれぬ」

「二人は」

「会った?」

「父は」

「『あの子を置いてきた』と」

「言っていた」

「なら」

「会っていた可能性が高い」

 ◇

 次。

 ――弥市。

 ――宗一を。

 ――連れ出そうとす。

 伊三郎が。

 身体を起こす。

「何」

 ――失敗。

 ――弥市。

 ――拘束。

 ――宗一。

 ――御影家へ戻す。

「父が」

 伊三郎の声が。

 震える。

「父が」

「七歳の宗一を」

「助けようとした?」

「記録では」

「はい」

「いつ」

「宗一殿」

「七歳」

「弥市殿」

「年は」

「二十三」

「その後」

 清太郎が。

 次を読む。

 ――弥市。

 ――海送り零号候補へ。

 全員が。

 止まった。

「逆?」

 家定が言う。

「何が」

「弥市殿は」

「最初」

「家斉役を」

「拒んだから」

「海送り零号に」

「されたのではなく」

「七歳の宗一を」

「助けようとしたから?」

「記録上は」

「それが」

「海送り候補になった直接理由」

「では」

 伊三郎が。

 目を閉じる。

「父は」

「自分のためではなく」

「あの子のために」

「捨てられかけた」

 ◇

「でも」

 新之介が言う。

「零号は」

「実施中止」

「本人拒否」

「はい」

「それだけでは」

「なさそうですね」

 清太郎。

 次。

 ――宗一。

 ――弥市の海送りを拒否。

 未定の男が。

 顔を上げる。

「父が?」

「七歳で?」

「はい」

 ――宗一。

 ――「弥市を海へ出すなら」

 ――「私は家斉になる」

 伊三郎が。

 息を呑む。

 ◇

 新之介は。

 しばらく。

 何も言わなかった。

 七歳の子。

 大人に。

 役を着せられ。

 自分を助けようとした。

 二十三歳の男が。

 罰として。

 海へ送られようとしている。

 そこで。

 七歳の子が。

 言った。

 ――私が家斉になる。

 ――だから弥市を海へ出すな。

「それは」

 家定が。

 低く言う。

「本人の選びでしょうか」

「いいえ」

 新之介が答えた。

「なぜ」

「選ばされた」

「二つから」

「はい」

「自分が役になるか」

「弥市殿が消されるか」

「そんなものを」

「七歳へ」

「選びと」

「呼べません」

 ◇

 未定の男が。

 顔を覆う。

「父は」

「私へ」

「申していた」

「何と」

「『私は』」

「『自分で宗伯を選んだ』」

「……」

「『誰にも』」

「『強制されなかった』」

「そう」

「何度も」

「でも」

「父は」

「七歳で」

「人を救うため」

「役を受けた?」

「そう読めます」

 清太郎。

「それを」

 男の声が。

 崩れる。

「父は」

「自分で選んだことに」

「しなければ」

「耐えられなかった?」

 新之介は。

 すぐには答えなかった。

「可能性は」

「あります」

「でも」

「本人が」

「後に」

「本当に」

「その役を」

「選び直した可能性も」

「あります」

「どちらも」

「残します」

 ◇

「続き」

 伊三郎が言う。

「読んでくれ」

 十歳。

 ――家斉教育。

 ――中止。

「何」

 十一歳。

 ――本人希望。

 ――御影役へ。

「御影役?」

 清太郎が読む。

 ――家斉を。

 ――一人が担うことへ反対。

 ――外から見分する役を希望。

「父が」

 未定の男が。

 顔を上げる。

「そこで」

「御影宗伯に?」

「はい」

「では」

「最初は」

「人へ役を着せる制度を」

「見分する側へ」

「行った?」

「そう見えます」

 ◇

「なら」

 水野が問う。

「なぜ」

「後に」

「宗太殿へ」

「左京名を」

「預ける仕組みを」

「作った」

 誰も。

 答えない。

 それが。

 この話の。

 最も苦いところだった。

 役へ。

 押し込められた子が。

 大人になり。

 役を監視する側へ。

 行った。

 そして。

 いつか。

 自分が。

 子どもへ。

 役名を預ける側へ。

 回った。

「人は」

 新之介が言う。

「自分が」

「されたことを」

「嫌ったまま」

「別の形で」

「繰り返すことがあります」

「なぜ」

 家定。

「自分は」

「違うと思うから」

「宗伯殿は」

「家斉役を」

「強制された」

「はい」

「だから」

「自分は」

「役を」

「分散する」

「一人にしない」

「それなら」

「違うと」

「思ったのかもしれません」

「でも」

「子へ」

「聞いていないところは」

「同じ」

「はい」

 ◇

 未定の男が。

 小さく言う。

「父は」

「よく」

「『一人へ権力を集めるな』と」

「申した」

「はい」

「私は」

「それを」

「立派な教えだと」

「思っていた」

「はい」

「でも」

「父は」

「人を分散させた」

「名を」

「役を」

「責任を」

「そして」

「誰にも」

「全体を」

「見せなかった」

「はい」

「それは」

「一人へ集めるのと」

「逆なだけで」

「同じだった?」

 新之介は。

 少し考えた。

「同じではありません」

 男が。

 顔を上げる。

「でも」

「似た誤りを」

「持っています」

「何」

「影響を受ける人へ」

「聞かない」

「そこです」

 ◇

 家定が。

 静かに。

「集めても」

「分けても」

「聞かなければ」

「同じところへ」

「戻る」

「はい」

「なら」

「数ではない」

「はい」

「一人か」

「十人か」

「二十八人か」

「はい」

「誰が決めるかだけでなく」

「誰に」

「決められる側の声が」

「入っているか」

「はい」

 家定は。

 深く。

 息を吐いた。

「ようやく」

「少し」

「分かってきました」

「何が」

「将軍を」

「百人に分ければ」

「よいのではない」

「はい」

「百人の将軍が」

「町の者へ」

「聞かなければ」

「結局」

「同じです」

「そう思います」

 ◇

 清太郎が。

 宗伯記録の。

 最後の頁へ。

 十八歳。

 ――弥市。

 ――宗一と再会。

 伊三郎が。

 身を乗り出す。

「父が?」

 ――宗一。

 ――御影宗伯名。

 ――正式使用開始。

 ――弥市。

 ――反対。

「なぜ」

 ――弥市申す。

 ――「名を一つ捨てたと思ったら」

 ――「今度は別の名へ入るのか」

 未定の男が。

 苦笑する。

「父は」

「何と」

 清太郎。

 ――宗伯申す。

 ――「今度は自分で選んだ」

「やはり」

 男が。

 呟く。

「父は」

「そう言った」

 続き。

 ――弥市。

 ――「なら」

 ――「いつでも降りられるようにしろ」

 新之介の目が。

 動く。

 ◇

「いつでも」

 家定が言う。

「降りられる」

「はい」

「非常権限と」

「同じですね」

「はい」

「始める条件より」

「終わる条件を」

「先に」

「作る」

「そうです」

 水野が。

 自分の。

 一刻。

 半刻。

 海防権限を。

 思い出している。

「弥市殿は」

「六十七年前に」

「それを」

「言っていた」

「はい」

 ◇

「宗伯は」

「守った?」

 伊三郎が問う。

 清太郎が。

 次を読む。

 ――宗伯。

 ――役を降りる条件。

 ――本人意思。

 ――二名以上の立会い。

 ――引継ぎ。

 ――記録返還。

「最初は」

「作っている」

「では」

「なぜ」

「後世では」

「降りられなくなった」

 次。

 二十六歳。

 ――非常時。

 ――降役停止。

「何」

 未定の男が。

 顔を上げる。

「降役停止?」

「はい」

「理由」

 ――海難。

 ――飢饉。

 ――家中騒擾。

 ――今は役を降りる時ではない。

 水野が。

 低く。

「便利な言葉だ」

「非常時」

「はい」

 新之介が答える。

「終わらせなければ」

「ずっと続く」

 ◇

 三十一歳。

 ――非常時継続。

 三十五。

 ――継続。

 四十。

 ――継続。

 四十五。

 ――御影宗伯。

 ――本人より降役申し出。

 ――却下。

 未定の男の目が。

 大きくなる。

「父が」

「降りようとした?」

「はい」

「誰が却下」

 清太郎が。

 下を見る。

「御影評議」

「何人」

「五名」

「父が」

「作った組織に」

「父自身が」

「降りることを」

「止められた?」

「そうなります」

 ◇

 男が。

 笑った。

 泣くように。

「父は」

「自分で」

「役を分散した」

「はい」

「一人の宗伯が」

「勝手に決めないように」

「はい」

「その結果」

「宗伯本人が」

「宗伯をやめられなくなった」

「はい」

「何だ」

「それは」

 誰も。

 答えられない。

「制度です」

 志乃なら。

 そう言ったかもしれない。

 新之介は。

 少し違う言葉を。

 選んだ。

「人を守るために」

「作ったものが」

「人より」

「先になった」

 ◇

「その後」

 五十二歳。

 ――左京名保管案。

 ――再提出。

「何」

 宗太が。

 低く言う。

「ここで」

「私へ」

「はい」

「なぜ」

「宗伯本人の記述があります」

「読んで」

 清太郎。

 ――役名を。

 ――大人へ渡せば。

 ――権力欲と結びつく。

 ――ならば。

 ――子へ預け。

 ――成人後。

 ――本人意思を聞く。

 新之介が。

 目を閉じる。

「本人意思を」

「後で聞く?」

「はい」

「宗伯殿は」

「自分が七歳で」

「役を押しつけられた経験から」

「逆に」

「子どものうちは」

「名だけ預け」

「大人になってから」

「選ばせる仕組みを」

「作ろうとした?」

「そう読めます」

「でも」

 宗太の声が。

 冷たい。

「私には」

「聞かなかった」

「はい」

 ◇

「なぜ」

 次。

 ――成人確認前。

 ――対象。

 ――役構造を知る。

 ――危険。

 ――保護のため。

 ――海送り。

 宗太が。

 笑う。

「保護」

「ああ」

「結局」

「私は」

「選ぶ前に」

「邪魔になった」

「はい」

「宗伯は」

「本人に」

「成人後聞くと」

「書いた」

「でも」

「聞く前に」

「海へ」

「はい」

「つまり」

「仕組みが」

「自分で」

「約束を破った」

「そうです」

 ◇

 未定の男が。

 父の記録を。

 見つめる。

「父は」

「悪人だったのか」

 新之介は。

 答えない。

「榊原」

「はい」

「答えろ」

「その問いでは」

「答えません」

「なぜ」

「悪人か」

「善人か」

「一つへ」

「まとめるからです」

「では」

「何を」

「七歳で」

「役を着せられた」

「はい」

「弥市殿を」

「守るため」

「家斉役を受けた」

「はい」

「後に」

「自分で宗伯役を選んだ」

「はい」

「一人へ権力を」

「集めない仕組みを」

「作った」

「はい」

「本人が」

「役を降りられる規則も」

「最初は作った」

「はい」

「その後」

「非常時を理由に」

「降りられない仕組みに」

「なった」

「はい」

「子へ役名を」

「預ける仕組みを」

「再び作った」

「はい」

「宗太殿へ」

「聞かないまま」

「海へ送った」

「はい」

「全部」

「同じ人の行いです」

 ◇

「それを」

 新之介は続ける。

「一言で」

「悪人にしたら」

「最初の七歳が」

「消えます」

「善人にしたら」

「宗太殿の四十三年が」

「消えます」

 未定の男が。

 目を閉じる。

「どちらも」

「消すな」

「はい」

「難しいな」

「はい」

「でも」

「父は」

「それが」

「嫌で」

「自分で選んだと」

「言い続けたのかもしれない」

「それも」

「一つの見方です」

「決めない?」

「はい」

「本人に」

「もう聞けないので」

 ◇

 伊三郎が。

 静かに言う。

「父」

「弥市も」

「宗伯を」

「嫌ってはいなかった」

「何」

 未定の男が。

 顔を上げる。

「私が」

「十二の頃」

「一度だけ」

「御影宗伯が」

「家へ来た」

「いつ」

「父が」

「病だった」

「何を」

「二人で」

「喧嘩した」

「何を」

「宗伯が」

「『もう無理だ』」

「『宗伯を降りたい』」

「そう申した」

「父は」

「何と」

「『なら降りろ』」

「宗伯は」

「『周りが許さぬ』」

「父は」

 伊三郎の片目が。

 細くなる。

「『お前が』」

「『最初に許しを求めるからだ』」

 ◇

 新之介が。

 小さく。

「……」

「父らしい?」

 伊三郎が言う。

「かなり」

「続きは」

「宗伯が」

「『私が突然やめれば』」

「『皆が困る』」

「父が」

「『困らせろ』」

「何」

 家定が。

 思わず笑う。

「弥市殿は」

「強いですね」

「父は」

「口が悪かった」

 ◇

「さらに」

 伊三郎。

「『人が一人降りただけで』」

「『壊れる仕組みなら』」

「『先に壊れた方がよい』」

 部屋。

 静かになる。

 未定の男が。

 ゆっくり。

 顔を伏せる。

「父は」

「何と」

「答えた」

「『それができれば』」

「『私は』」

「『とうに宗伯ではない』」

 ◇

「では」

 新之介が問う。

「その日」

「宗伯殿は」

「降りなかった」

「はい」

「弥市殿は」

「止めなかった?」

「止めない」

「ただ」

「帰り際」

「一つ」

「何と」

 伊三郎が。

 昔の父の声を。

 思い出す。

「『戻る場所を』」

「『間違えるな』」

 新之介の顔が。

 動く。

 海で。

 今。

 何度も。

 使ってきた言葉。

「父上が」

「最初?」

「私は」

「そこしか知らぬ」

「では」

「最初とは」

「決めません」

「分かっておる」

 ◇

「宗伯は」

「何と」

「何も」

「そのまま帰った」

「その後」

「二人は」

「会った?」

「一度」

「いつ」

「父が死ぬ」

「二日前」

 未定の男が。

 息を呑む。

「父が」

「弥市殿の」

「最期へ?」

「ああ」

「何を」

「二人だけ」

「私は」

「部屋の外」

「全部は」

「聞いていない」

「聞こえた範囲」

「宗伯が」

「謝った」

「何を」

「七歳の時」

「自分のために」

「弥市が」

「海送りにされかけたこと」

「父は」

「何と」

 伊三郎は。

 少し笑った。

「『それは』」

「『お前の責任ではない』」

 次。

「『だが』」

「『その後』」

「『お前が人へしたことは』」

「『お前の責任だ』」

 未定の男の。

 目から。

 涙が落ちる。

 ◇

「父は」

 未定の男が。

 小さく言う。

「それを」

「私へ」

「話さなかった」

「話せなかったのかもしれぬ」

 伊三郎。

「なぜ」

「宗伯は」

「自分が」

「被害者だった話も」

「加害した話も」

「どちらも」

「嫌っていた」

「だから」

「自分で選んだ」

「それだけを」

「残した?」

「おそらく」

 ◇

 清太郎が。

 筆を置く。

「一つ」

「何です」

 新之介。

「この記録」

「どう分類します」

「誰の」

「宗伯殿」

「被害者?」

「加害者?」

 部屋。

 静まる。

「両方」

 家定が言う。

「でも」

「二つの箱へ」

「入れるだけでは」

「足りない気がします」

「はい」

 新之介。

「では」

「どうする」

「行為ごと」

「書きます」

 清太郎。

 筆。

 ――七歳。

 ――将来名を強制的に付与される。

 ――弥市の海送り回避のため、家斉役を受ける。

 ――後年、自ら御影宗伯役を選択。

 ――権力分散・降役規則を設ける。

 ――後に降役停止制度へ関与。

 ――左京名を幼児へ預ける案を再導入。

 ――宗太本人へ十分に聞かず、海送りを決定。

「これなら」

 清太郎が言う。

「被害者とも」

「加害者とも」

「一語で」

「閉じない」

「はい」

 ◇

 宗太は。

 長く。

 その記録を。

 見ていた。

「私を」

「海へ送った男も」

「七歳で」

「役へ」

「送られた」

「はい」

「なら」

「私は」

「許すべきか」

 新之介が。

 すぐ答える。

「いいえ」

 宗太が。

 驚く。

「なぜ」

「その必要は」

「ありません」

「相手が」

「昔」

「傷つけられたから」

「私が」

「今の傷を」

「許す?」

「別です」

「はい」

「事情を」

「知ることと」

「許すことも」

「別です」

「はい」

「なら」

 宗太が。

 少し。

 息を吐く。

「楽だ」

「何が」

「『可哀想な子だった』と」

「知った瞬間」

「私は」

「許さねばならない気がした」

「許さなくてよい」

「はい」

「でも」

「知ったことは」

「捨てない」

「それで」

「十分です」

 ◇

 その時。

 門外。

 急ぐ足。

「家定様!」

「何です」

「米利堅側より」

「返答!」

「何の」

「宗太殿の」

「原本返還!」

 宗太が。

 立つ。

「来た?」

「はい!」

 使者。

 箱。

 一つ。

 小さい。

 封。

 米利堅。

 海の御影。

 日本側。

 三つ。

「なぜ」

 新之介が問う。

「日本側の封まで」

「先ほど」

「阿部様が」

「受け取り時に」

「追加されました」

「では」

「複数立会い」

「はい」

 ◇

 宗太が。

 箱を見る。

 四十三年。

 自分について。

 誰かが。

 勝手に書いた。

 自分を。

 死者にし。

 役にし。

 海へ送り。

 将来。

 別の名へ。

 渡そうとした。

 その原本。

「開けますか」

 新之介が問う。

 宗太は。

 手を伸ばし。

 止めた。

「今は」

「開けない」

「なぜ」

「怖い?」

「ああ」

「では」

「後で」

「いや」

 宗太は。

 箱を。

 自分の前へ。

「私だけでは」

「開けない」

「誰と」

 宗太が。

 伊三郎を見る。

「そなた」

「私?」

「ああ」

「なぜ」

「私を」

「荷から人へ」

「最初に戻したのは」

「そなたらしいから」

「……」

「でも」

「そなたは」

「私を」

「二度」

「見捨てた」

「ああ」

「だから」

「両方」

「見ろ」

 伊三郎が。

 長く。

 頭を下げる。

「分かった」

 ◇

「もう一人」

 宗太が言う。

「誰」

「この男」

 未定の男を見る。

「私?」

「そなたの父が」

「私を」

「海へ出した」

「はい」

「そなたは」

「父ではない」

「はい」

「でも」

「父が何をしたか」

「見届けたい?」

 男は。

 目を閉じる。

「見たい」

「なら」

「三人」

「清太郎殿は」

 新之介が問う。

「外」

「何」

「なぜ」

「記録を」

「読む前に」

「私は」

「自分で」

「見たい」

「それを」

「どう感じたかまで」

「先に」

「役所の文字へ」

「したくない」

 清太郎が。

 少し驚き。

 そして。

 頷く。

「分かりました」

 ◇

 宗太。

 伊三郎。

 未定の男。

 三人。

 箱。

 別室。

 扉が。

 閉まる。

 新之介は。

 外で。

 待つ。

 水野が。

 隣へ来る。

「入らないのか」

「呼ばれていません」

「珍しいな」

「何が」

「そなたなら」

「何でも」

「見たがるかと」

「見たいです」

「では」

「なぜ」

「見たいことと」

「見てよいことは」

「別です」

 水野が。

 少し笑う。

「本当に」

「面倒な男だ」

「最近」

「褒め言葉に」

「聞こえます」

「違う」

 ◇

 半刻。

 一刻。

 長い。

 やがて。

 扉。

 開く。

 最初に。

 伊三郎。

 顔。

 青い。

 次。

 未定の男。

 泣いている。

 最後。

 宗太。

 箱を。

 抱えている。

「宗太殿」

「榊原」

「はい」

「一つ」

「聞いてよいか」

「何です」

「人が」

「自分の名前を」

「選ぶ前に」

「誰かが」

「名前を付けた」

「それは」

「仕方ないことか」

「子どもなら」

「多くは」

「そうでしょう」

「では」

「その名に」

「役まで」

「入っていたら」

「……」

「その子は」

「いつ」

「断ればよい」

 新之介は。

 答えを。

 急がない。

「断れると」

「知った時」

「では」

「知るまで」

「何十年かかったら」

「その時でも?」

「はい」

「遅すぎない?」

「本人にとって」

「遅すぎるとは」

「誰も」

「決められません」

 ◇

 宗太は。

 箱から。

 一枚。

 出した。

「これを」

「見てくれ」

「よいのですか」

「ああ」

 紙。

 海送り第一号。

 松平左京。

 宗太。

 その末尾。

 これまで。

 米利堅側の写しには。

 なかった一文。

 ――成人後。

 ――本人へ。

 ――帰国または継続を問うこと。

 その下。

 朱。

 ――未実施。

「聞かれるはずだった」

 宗太が言う。

「はい」

「私へ」

「戻るか」

「海に残るか」

「役を使うか」

「全部」

「はい」

「でも」

「誰も」

「聞かなかった」

「はい」

「四十三年」

「はい」

 宗太は。

 紙を。

 静かに。

 机へ置いた。

「なら」

「今」

「聞いてくれ」

 新之介が。

 宗太を見る。

「何を」

「全部」

 新之介は。

 一度。

 息を吸った。

「宗太殿」

「はい」

「日本へ」

「戻りたいですか」

 宗太は。

 すぐには。

 答えない。

 四十三年。

 その問いを。

 待っていた。

「戻りたい」

「どこへ」

「まだ」

「分からぬ」

「では」

「日本へ戻り」

「行き先は」

「未定」

「ああ」

「松平左京の名を」

「使いたいですか」

「使いたくない」

「沢渡玄隆は」

 宗太が。

 少し考える。

「それも」

「降りたい」

「では」

「今の名は」

 宗太は。

 初めて。

 迷わなかった。

「宗太」

「はい」

「役は」

「なし」

「はい」

「何か」

「日本で」

「したいことは」

 宗太は。

 窓の外を見る。

 江戸。

 自分が。

 四十三年前。

 消された町。

「父の墓を」

「探したい」

「はい」

「それから」

「何です」

「分からぬ」

「それで」

「十分です」

 ◇

 清太郎が。

 呼ばれる。

 筆。

 ――名。

 ――宗太。

 ――役。

 ――なし。

 ――帰国意思。

 ――あり。

 ――帰国後居所。

 ――未定。

 ――希望。

 ――父の墓を探す。

 宗太が。

 紙を見る。

 何度も。

 見る。

「これだけか」

「今は」

「はい」

「左京も」

「沢渡も」

「書かない?」

「過去記録には」

「残します」

「でも」

「今の欄には」

「宗太」

「それだけです」

 宗太が。

 笑った。

「四十三年」

「かかった」

「はい」

「四十三年かけて」

「ようやく」

「名前が」

「短くなった」

 ◇

 その時。

 家定が。

 宗伯記録の。

 最後の頁を。

 めくる。

「あれ」

「何です」

「まだ」

「一枚」

「貼り付いています」

 清太郎が。

 慎重に。

 離す。

 裏。

 宗伯。

 晩年の筆。

 短い。

 ――弥市へ。

 伊三郎が。

 顔を上げる。

「父へ?」

 ――私は。

 ――戻る場所を。

 ――また間違えた。

 次。

 ――人を守るため。

 ――役を作った。

 ――その役を守るため。

 ――人を使った。

 未定の男の。

 肩が震える。

 さらに。

 ――宗一へ。

 男が。

 息を止める。

 父から。

 自分へ。

 ――私の名を。

 ――継ぐな。

 部屋が。

 静かになる。

 未定の男。

 出生名。

 御影宗一。

 父の出生名も。

 御影宗一。

 父は。

 最後に。

 その名を。

 継ぐなと。

 書いていた。

「父は」

 男が。

 震える声。

「私へ」

「宗一と」

「付けた」

「はい」

「なのに」

「継ぐな?」

「この文を」

「いつ」

「書いたか」

 清太郎が確認。

「死の」

「四日前」

 ◇

「では」

 男が。

 笑う。

「遅い」

「何が」

「父が」

「気づくのが」

「私へ」

「名前を付けてから」

「四十年以上」

「遅い」

「はい」

「私は」

「もう」

「宗一として」

「生きた」

「はい」

「宗伯にも」

「なった」

「家斉にも」

「なった」

「はい」

「今さら」

「継ぐなと」

「言われても」

「はい」

「どうすれば」

 新之介が。

 男を見る。

「従わなくてよい」

 男が。

 驚く。

「父の遺言だぞ」

「はい」

「でも」

「そなたの名前です」

「……」

「父上が」

「後悔したからと」

「そなたまで」

「その名を」

「捨てる必要はない」

「では」

「使っても」

「よい?」

「それも」

「私が」

「許す話ではありません」

 男は。

 長く。

 黙った。

 ◇

「御影宗一」

 自分で。

 ゆっくり。

 口にする。

「嫌いではない」

「はい」

「父の名でも」

「ある」

「はい」

「でも」

「私の名でも」

「ある」

「はい」

「なら」

「私は」

 男は。

 これまで。

 未定だった欄を。

 指差す。

「宗一で」

「よい」

 清太郎。

 筆。

 ――現名。

 ――御影宗一。

 ――本人選択。

 ――宗伯役、停止。

 ――家斉役、停止。

 ――今後の役。

 ――なし。

「なし?」

 宗一が問う。

「今は」

「はい」

「それで」

「よい」

 ◇

 伊三郎が。

 宗一を見る。

「父たちは」

「六十七年前」

「互いに」

「役を降りろ」

「戻る場所を間違えるな」

「そう言っていた」

「はい」

「それでも」

「間違えた」

「はい」

「我々も」

「間違えるだろうな」

「おそらく」

 新之介が言う。

「なら」

 家定が。

 静かに。

「間違えない仕組みを」

「作るのではなく」

「間違えた時」

「戻れる仕組みを」

「作る方が」

「よいのかもしれません」

 新之介が。

 家定を見る。

「はい」

「役からも」

「決定からも」

「記録からも」

「名前からも?」

「本人が」

「望むなら」

「ただし」

「した行為までは」

「消えない」

 宗太が。

 頷いた。

「それでよい」

 ◇

 夜。

 仮交渉会議。

 新しい一文が。

 加えられた。

 ――一時の役を。

 ――本人の恒久の身分としない。

 ――役を降りる道を。

 ――役を与える時点で。

 ――併せて定める。

 さらに。

 ――本人が。

 ――役を降りても。

 ――過去の行為記録は。

 ――消さない。

 そして。

 ――役を降りたことを理由に。

 ――帰国。

 ――居住。

 ――食。

 ――家族との連絡。

 ――これらを奪わない。

「かなり」

 家定が言う。

「大きな話ですね」

「はい」

「今日」

「決める?」

「仮です」

「期限」

「まず」

「帰国希望者の見分が」

「終わるまで」

「その後」

「町」

「藩」

「寺」

「帰国者」

「それぞれへ」

「聞く」

「はい」

 ◇

 その時。

 外から。

 新しい。

 知らせ。

「榊原殿!」

「何です」

「一番船より!」

「誰から」

「竹吉殿!」

 玄斎が。

 近くにいたら。

 真っ先に。

 立っただろう。

「内容」

 ――二十八人のうち。

 ――最後まで意思確認できなかった一人。

 ――話す用意あり。

「誰です」

 使者が。

 紙を見る。

「役名」

「大名」

「それは」

「分かっています」

「今の名」

 使者が。

 少し。

 戸惑う。

「本人は」

「名を」

「答えなかったそうです」

「未定?」

「違います」

「では」

 ――名は。

 ――ある。

 ――だが。

 ――日本へ着くまで。

 ――誰にも呼ばせない。

 宗太が。

 眉をひそめる。

「なぜ」

 使者は。

 最後を読む。

 ――その名を呼ばれると。

 ――私は。

 ――日本へ戻れなくなる。

 新之介の目が。

 細くなる。

「役名では」

「ない?」

「はい」

「生まれ名?」

「本人は」

「そう申しています」

「では」

「何が」

「問題なのです」

 使者は。

 もう一枚を。

 差し出した。

 ――本人申告。

 ――その名は。

 ――現在。

 ――江戸で。

 ――罪人として。

 ――処刑済みになっている。

 部屋。

 静かになる。

「本人は」

 新之介が問う。

「生きている」

「はい」

「では」

 新之介は。

 紙を折った。

「まず」

「その人へ」

「聞きましょう」

「なぜ」

「自分の名を」

「呼ばれると」

「帰れなくなるのか」

 宗一が。

 新之介を見る。

「また」

「名前か」

「はい」

「終わらないな」

 新之介は。

 少しだけ。

 笑った。

「人が」

「いる限り」

「たぶん」

「終わりません」

 今度の問題は。

 誰が本物か。

 ではない。

 自分の名を。

 取り戻すことすら。

 怖い人間がいる。

 その恐れを。

 国が。

 役所が。

 家が。

 どう受け止めるか。

 そこからだった。

(第九十九章へ続く)

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