第九十七章 捨てた者の理由
「御影宗伯」
その名を。
宗太は。
何度も。
口の中で。
転がした。
四十三年前。
長崎。
自分を。
海へ送り出した男。
そう記憶している。
だが。
今。
米利堅側の船にいる男は。
「徳川家斉」を。
名乗っている。
さらに。
出生名として。
「御影宗伯」を。
申告した。
「会いますか」
新之介が問う。
宗太は。
すぐには答えなかった。
「会わなければ」
「どうなる」
「その方の話を」
「聞かずに」
「四十三年前を」
「決めることになります」
「会えば」
「何が分かる」
「分かりません」
「またか」
「はい」
宗太は。
朝の川を見る。
「会う」
「分かりました」
「ただし」
「何です」
「一人で」
「行く」
「反対です」
「なぜ」
「そなたが」
「四十三年前の当事者だから」
「だからこそ」
「一人で」
「違います」
宗太が。
新之介を睨む。
「何が」
「当事者だから」
「一人にしません」
◇
「私が」
「復讐すると?」
「可能性は」
「あります」
「正直だな」
「はい」
「では」
「誰を」
「立ち会わせる」
「そなたが」
「決めてください」
「……」
「選べるのか」
「はい」
宗太は。
少し考え。
「伊三郎」
「はい」
「清太郎」
「はい」
「そなた」
「私も?」
「そなたが」
「一番うるさい」
「褒め言葉として」
「受け取ります」
「やめろ」
◇
米利堅側は。
最初。
四人の乗船を。
嫌がった。
「会談は」
「本人同士」
「それが条件」
通詞。
新之介が問う。
「誰の条件です」
「家斉殿」
「御影宗伯殿?」
「本人は」
「徳川家斉を」
「希望」
「では」
新之介が言う。
「その方の」
「希望として」
「記録してください」
「日本側は」
「出生名について」
「まだ確認していません」
通詞が。
少し困る。
「面倒ですね」
「よく言われます」
◇
結局。
中立舟。
また。
同じ場所。
宗太。
伊三郎。
清太郎。
新之介。
米利堅側。
通詞。
護衛。
そして。
一人の男。
七十を。
越えているように見える。
痩せている。
髪。
ほぼ白。
右手。
親指の爪。
半分。
伊三郎が。
息を呑んだ。
「……同じだ」
「誰と」
新之介が問う。
「四十三年前」
「長崎にいた」
「御影宗伯」
「顔も?」
「老けた」
「でも」
「似ている」
「断定は」
「しない」
伊三郎が。
自分から言った。
「学びましたね」
「黙れ」
◇
男が。
宗太を見る。
「左京」
宗太の顔が。
硬くなる。
「違う」
「何」
「宗太だ」
男の目が。
僅かに動く。
「そうか」
「覚えているか」
「何を」
「私が」
「四十三年前」
「そう言ったことを」
「覚えている」
宗太が。
完全に止まる。
「では」
「そなたが」
「いた?」
「ああ」
「長崎に」
「ああ」
「私を」
「船へ」
「乗せた?」
男は。
新之介を見る。
「この者は」
「誰だ」
「榊原新之介です」
「どの」
水野がいれば。
頭を抱えただろう。
「今」
「そう名乗っている」
「本人です」
「本人と」
「どう確認した」
「その話は」
「後で」
新之介が言う。
「先に」
「宗太殿の問いへ」
「答えてください」
◇
男は。
宗太を見る。
「私が」
「船へ乗せた」
宗太の手が。
震える。
「なぜ」
「助けるため」
宗太が。
笑った。
「やはり」
「その言葉か」
「何」
「私のため」
「私を」
「海へ捨てた?」
「そうだ」
「ふざけるな!」
宗太の拳が。
机を打つ。
米利堅側護衛が。
動く。
新之介が。
手を上げる。
「座ってください」
「宗太殿」
「止めるのか!」
「止めません」
「なら」
「言わせてください」
宗太は。
男を見る。
「私は」
「十五だった!」
「父がいた!」
「母がいた!」
「家があった!」
「名前があった!」
「それを!」
「そなたは!」
「『助けるため』の一言で!」
「全部!」
「海へ!」
◇
男は。
逃げない。
「その通りだ」
「認める?」
「ああ」
「なら」
「なぜ!」
「そなたは」
「三日後に」
「殺される予定だった」
静かになった。
「何」
宗太の声が。
小さくなる。
「誰に」
「当時の」
「御小納戸筋」
「理由」
「そなたが」
「見てはいけないものを」
「見た」
「将軍の影?」
「そうだ」
「では」
「それが理由?」
「半分」
「残り」
「そなた自身が」
「左京という名を」
「持っていた」
新之介の目が。
鋭くなる。
◇
「左京は」
男が言う。
「もともと」
「非常時に」
「使う名だった」
「誰が」
「複数」
「何のため」
「身分を越えて」
「命令を通す」
「調整役」
「それを」
「なぜ」
「子どもへ」
「預けた」
「役名だと」
「知られないため」
「では」
「宗太殿は」
「出生時から」
「役の保管場所にされた?」
「そうだ」
宗太が。
目を閉じる。
昨日。
想像したこと。
それを。
今。
別の口から。
聞く。
「誰が」
宗太が問う。
「決めた」
「私ではない」
「では」
「誰」
「御影宗伯」
「そなたではないか!」
「違う」
◇
男は。
自分を指す。
「私は」
「二代目だ」
全員が。
止まった。
「御影宗伯が」
「代替名?」
新之介が問う。
「最初から?」
「いや」
「最初の宗伯は」
「実在した」
「私の父」
「生まれ名は」
「御影宗一」
「父が」
「宗伯?」
「ああ」
「では」
「そなたの出生名は」
「御影宗一?」
「そうだ」
「宗伯は」
「父から継いだ?」
「ああ」
「いつ」
「父が」
「死んだ後」
「本当に死んだ?」
男が。
一瞬。
笑った。
「その質問は」
「よい」
「答えは」
「遺体を」
「私は見た」
「他に」
「医師」
「寺僧」
「妻」
「三人」
「では」
「現時点では」
「死去確認あり」
「そうしてくれ」
◇
「父の宗伯が」
「左京名を」
「宗太殿の家へ」
「預けた?」
「そうだ」
「目的」
「役名を」
「絶やさないため」
「それを」
「そなたは」
「どう思っていた」
「反対だった」
「本当に?」
「記録がある」
「却下案?」
「見つけたのか」
「はい」
「なら」
「分かるだろう」
「反対の署名が」
「残っています」
「でも」
「その後」
「試行された」
「誰が」
男は。
長く。
黙った。
「父だ」
◇
「父上が」
「自分の案を」
「却下された後」
「勝手に」
「試した?」
「そうだ」
「なぜ」
「役が」
「国を支えると」
「信じていた」
「人より」
「役?」
「父は」
「人は死ぬ」
「役は残る」
「そう申した」
宗太が。
低く言う。
「それで」
「私を」
「名の箱へ」
「した?」
「ああ」
「そなたは」
「止めなかった?」
「止めた」
「何を」
「父へ」
「三度」
「やめろと」
「言った」
「それだけ?」
宗太が。
鋭く問う。
男は。
口を閉じた。
◇
「それだけですか」
新之介が重ねる。
「……ああ」
「では」
「そなたも」
「伊三郎殿と」
「似ています」
伊三郎が。
少し顔をしかめる。
「言うな」
男は。
伊三郎を見る。
「そなた」
「まだ生きていたか」
「そなたもな」
「長崎で」
「一度」
「私へ」
「宗太殿を」
「江戸へ返せと」
「言いましたね」
「ああ」
「私は」
「拒んだ」
「なぜ」
「殺されるから」
「だから」
宗太が。
声を震わせる。
「なぜ!」
「私へ聞かなかった!」
男は。
答えない。
「私が」
「殺されるかもしれない」
「それでも」
「父母のところへ戻りたいか」
「なぜ!」
「聞かなかった!」
「十五の子へ」
「選ばせられないと」
「思った」
「なら!」
「海へ送ることは!」
「選ばせられたのか!」
◇
男が。
顔を伏せる。
「……できなかった」
「何が」
「私は」
「時間がないと」
「思った」
新之介の顔が。
変わる。
「あと三日」
「そなたを」
「死んだことにする手続きは」
「もう始まっていた」
「だから」
「私は」
「先に」
「海へ出した」
「時間がない者ほど」
新之介が。
静かに言う。
「他人の命を使う」
男が。
目を閉じる。
「その通りだ」
◇
「でも」
宗太が言う。
「私は」
「生きた」
「ああ」
「四十三年」
「ああ」
「なら」
「そなたは」
「正しかった?」
男が。
答えない。
「言え!」
「分からぬ!」
初めて。
男の声が。
大きくなる。
「私は」
「そなたを」
「生かした!」
「だが!」
「そなたの人生を!」
「奪った!」
「どちらが」
「大きい!」
「今でも!」
「分からぬ!」
宗太も。
黙った。
◇
新之介は。
その言葉を。
急いで。
「反省」と。
記録しなかった。
「清太郎殿」
「はい」
「今の言葉」
「そのまま」
「要約しない」
「はい」
清太郎。
筆。
――本人発言。
――「宗太を生かした。」
――「同時に人生を奪った。」
――「どちらが大きいか、今も分からない。」
男が。
紙を見る。
「それでよい」
◇
「では」
新之介が問う。
「宗太殿を」
「海へ出すことを」
「そなた一人で」
「決めた?」
「違う」
「誰と」
「三人」
「誰」
「私」
「久松平蔵」
宗太の顔が。
動く。
「そして」
「徳川家斉」
「本人?」
「……」
「そこです」
新之介が言う。
「本人でしたか」
「私には」
「本人に見えた」
「何をもって」
「顔」
「声」
「側近」
「秘密の印」
「傷」
「全部」
「今なら?」
「分からない」
「では」
「家斉を名乗る者」
「はい」
◇
「その家斉は」
「何と」
「最初」
「宗太を」
「処分すべきだと」
「言った」
家定が。
顔を上げる。
「処分?」
「殺す?」
「はい」
「なぜ」
「影を見た」
「左京名の仕組みを知った」
「将来」
「政争へ使われる可能性」
「三つ」
「久松平蔵は」
「反対?」
「強く」
「何と」
「『子を』」
「『大人の都合で』」
「『死なせるな』」
「平蔵が」
「そう言った?」
「はい」
宗太が。
目を伏せる。
その男が。
後に。
救小屋で。
人を。
中と外へ。
分ける側へ。
「人は」
新之介が言う。
「変わる」
「はい」
「善い言葉を」
「一度言ったから」
「後の行いまで」
「善くなるわけではない」
「逆も」
「はい」
◇
「では」
「海送り案は」
「誰が」
「そなた?」
「私だ」
「なぜ」
「殺さずに」
「江戸から」
「消す方法として」
「久松平蔵は」
「賛成?」
「最初は反対」
「後で」
「何と」
「『戻る道を』」
「『残すなら』」
「そう言った」
宗太の顔が。
固まる。
「戻る道」
「残した?」
男が。
目を閉じる。
「残すつもりだった」
「何を」
「三年後」
「日本へ」
「戻す」
「どうやって」
「それは」
「必要ありません」
新之介が止める。
「結果だけ」
「戻した?」
「戻せなかった」
「なぜ」
「海側が」
「宗太を」
「返さなかった」
「誰が」
「海の御影?」
「当時は」
「まだ」
「その名ではない」
「では」
「何」
「海継衆」
◇
「海継衆」
新之介が。
初めて聞く。
「海の御影の」
「前身?」
「そう言える」
「誰が」
「父の宗伯が」
「作った」
「では」
「そなたは」
「父の仕組みへ」
「宗太殿を」
「預けた?」
「はい」
「戻す条件は」
「三年後」
「本人希望を確認」
「江戸側安全確認」
「それを」
「書いた?」
「書いた」
「記録は」
「米利堅側に」
「あるはずだ」
「なぜ」
「その原本が」
「日本側へ返還予定の」
「宗太記録だ」
◇
そこで。
米利堅側の。
交換条件。
もう一度。
問題になる。
宗太の原本を。
返す。
代わりに。
日本側の。
徳川家斉代替記録を。
渡せ。
「そなたが」
新之介は男を見る。
「求めた条件ですか」
「違う」
「では」
「米利堅側?」
「そうだ」
「なぜ」
「私が」
「徳川家斉を」
「今」
「名乗っているから」
「本人確認?」
「それだけではない」
「何」
男は。
少し。
言いにくそうにする。
「私が」
「家斉の名で」
「米利堅側へ」
「いくつか」
「約束をした」
家定の顔が。
険しくなる。
「何を」
「港」
「通商」
「漂流民」
「人の移動」
「いつ」
「八年前から」
「日本政府の許可は」
「ない」
「ない」
「では」
「そなたは」
「徳川家斉の名を使い」
「日本を代表した?」
「そうだ」
◇
「なぜ」
「日本が」
「いつか」
「外へ開かざるを得ないと」
「思った」
「それで」
「先に?」
「はい」
「本人へ」
家定が言う。
「誰へ」
「日本にいる人たちへ」
「聞いた?」
「聞けなかった」
「では」
「また」
家定の声が。
低くなる。
「外から」
「日本を」
「変えようとした?」
「……はい」
サラ。
ジョナサン。
そして。
この男。
皆。
同じところへ。
戻ってくる。
日本で。
聞いてもらえなかった。
だから。
外へ出た。
そして。
今度は。
日本にいる人へ。
聞かずに。
日本を。
変えようとする。
◇
「私は」
男が言う。
「四十三年前」
「宗太へ」
「聞かなかった」
「はい」
「八年前」
「日本へも」
「聞かなかった」
「はい」
「何も」
「変わっていないな」
「変わったところも」
「あります」
新之介が言う。
「何が」
「今」
「それを」
「自分で言った」
「それだけか」
「大きいです」
宗太が。
男を見る。
「だが」
「言っただけだ」
「はい」
「それで」
「許されるわけではない」
「はい」
「そなた」
宗太が。
初めて。
男へ。
「宗伯」とも。
「家斉」とも。
呼ばず。
言った。
「今の名は」
「何だ」
男は。
長く。
黙った。
「徳川家斉」
「それを」
「使いたいのか」
「……」
「御影宗伯は」
「使いたい?」
「分からぬ」
「御影宗一は」
男の顔が。
僅かに。
揺れる。
「それは」
「久しく」
「呼ばれていない」
「嫌か」
「分からぬ」
「なら」
宗太が。
新之介を見る。
「何だったか」
「未定?」
「はい」
男が。
苦笑した。
「私まで」
「そこへ来るか」
「便利ですよ」
「腹が立つ」
◇
「では」
清太郎が。
記録。
――現役名。
――徳川家斉。
――前役名。
――御影宗伯。
――出生名申告。
――御影宗一。
――今後の呼称。
――未定。
「長いな」
「必要です」
◇
「宗太殿」
新之介が問う。
「今」
「何を」
「この方へ」
「聞きたいですか」
宗太は。
長く。
男を見る。
「一つ」
「何」
「私を」
「海へ出した日」
「そなたは」
「眠れたか」
男の顔が。
固まる。
「何」
「正しかったと」
「思って」
「眠ったのか」
男は。
下を向く。
「眠れなかった」
「なぜ」
「そなたが」
「最後に」
「宗太だと」
「言ったからだ」
「それで?」
「左京を」
「海へ出したつもりだった」
「何」
◇
「私は」
男が言う。
「役名の左京を」
「海へ逃がす」
「そう考えていた」
「人ではなく?」
「……ああ」
「だが」
「そなたは」
「宗太だと言った」
「その瞬間」
「私は」
「十五歳の子を」
「海へ」
「送っていると」
「分かった」
宗太の目が。
ゆっくり。
赤くなる。
「それでも」
「止めなかった?」
「止めなかった」
「なぜ」
「もう」
「船が出る」
「時間が」
男は。
そこで。
自分で。
口を閉じた。
「言うな」
宗太が。
低く言う。
「はい」
「その言葉は」
「四十三年」
「聞きたくない」
「はい」
◇
「私は」
宗太が続ける。
「そなたを」
「許さない」
男は。
頷く。
「分かった」
「でも」
「今」
「殺したいとも」
「思わない」
「はい」
「なぜか」
「分からぬ」
「分からなくて」
「よいと思います」
新之介が言う。
「そなたに」
「聞いておらぬ」
「失礼しました」
宗太が。
少しだけ。
笑った。
◇
「では」
新之介が。
米利堅側へ向く。
「宗太殿の原本返還」
「家斉代替記録との」
「交換条件」
「日本側は」
「今」
「受けません」
通詞が。
驚く。
「なぜ」
「記録と」
「記録を」
「人質のように」
「交換しない」
「だが」
「返還しない可能性」
「あります」
「はい」
「それでも?」
「はい」
「宗太殿」
「よいですか」
宗太が。
一瞬。
迷う。
自分の。
四十三年。
父。
戻る道。
海送り。
その原本。
「……欲しい」
「はい」
「今すぐ」
「欲しい」
「はい」
「でも」
「別の人の記録を」
「勝手に」
「差し出してまで」
「欲しいとは」
「言えない」
新之介が。
頷く。
◇
米利堅側。
協議。
長い。
男――。
御影宗一。
宗伯。
家斉。
今は未定の男が。
何か。
英語で。
強く言う。
ウィリアムと。
揉める。
サラも。
通訳へ入る。
やがて。
返事。
「米利堅側」
「条件を」
「変更」
「何と」
「宗太記録」
「原本は」
「日本側へ返還」
宗太が。
顔を上げる。
「無条件?」
「一つ」
新之介が。
眉をひそめる。
「条件は」
「ありますね」
「はい」
「何」
「日本側は」
「徳川家斉代替記録を」
「渡さない」
「代わりに」
「日本側で」
「見分を行い」
「結果だけを」
「共有」
家定が。
少し驚く。
「こちらの方式を」
「向こうが」
「受ける?」
「はい」
「ただし」
「米利堅側から」
「一名」
「見分立会いを」
「求める」
「誰」
通詞が答える。
「この方」
未定の男。
◇
「そなたが?」
宗太が問う。
「家斉記録の」
「当事者だからだ」
「確かに」
新之介が言う。
「一つの理由」
「日本側で」
「受け入れるか」
「今」
「決めます」
「ここで?」
「関係者が」
「います」
家定。
水野。
新之介。
清太郎。
宗太。
米利堅側。
「ただし」
新之介が言う。
「一人足りません」
「誰」
「家慶甲殿」
「なぜ」
「家斉代替記録が」
「将軍代替制度へ」
「つながっている可能性」
「あります」
「では」
「戻ってから」
「はい」
◇
帰り。
宗太は。
新之介へ。
「榊原」
「はい」
「私は」
「原本を」
「欲しがった」
「はい」
「それでも」
「他人の記録を」
「差し出すなと」
「言った」
「はい」
「偉いと思うか」
「いいえ」
「何」
「普通です」
宗太が。
顔をしかめる。
「もう少し」
「褒めろ」
「では」
「四十三年待った人が」
「自分の痛みだけで」
「他人を押しのけなかった」
「それは」
「大事だと思います」
「それなら」
「よい」
◇
午後。
江戸城。
家慶甲。
阿部。
神谷。
水野。
家定。
宗太。
未定の男。
新之介。
清太郎。
さらに。
家斉の役を。
使った可能性がある者。
あの。
左京の隠し子。
次郎。
傷は。
まだ。
完全ではない。
「なぜ」
次郎が。
未定の男を見る。
「私が」
「呼ばれた」
「そなたが」
新之介が言う。
「徳川家斉の役を」
「使ったからです」
「この男も?」
「はい」
「では」
「どちらが」
「本物」
「それを」
「決める会ではありません」
「……やはり」
◇
家斉代替記録。
箱。
一つ。
封。
三重。
立会い。
清太郎。
阿部。
家慶甲。
宗太。
未定の男。
新之介。
「開けます」
清太郎。
封。
一つ。
二つ。
三つ。
蓋。
中。
帳面。
二冊。
表。
――家斉影。
そして。
もう一冊。
――家斉死後。
「死後?」
家定が。
顔を上げる。
「家斉公が」
「死んだ後の」
「代替?」
新之介が。
帳面を。
まだ触らない。
「清太郎殿」
「はい」
「目録から」
一頁。
――徳川家斉。
――死去後も。
――必要時。
――名を用いる。
部屋が。
静まり返る。
「何のため」
水野が問う。
清太郎が読む。
――過去の権威は。
――現在の者より。
――反論されにくい。
家定の顔が。
変わる。
「死者の方が」
「強い?」
「はい」
◇
次。
――存命将軍の名では。
――命令が割れる時。
――先代・先々代の名を用いれば。
――争いを避けられる。
「馬鹿な」
家慶甲が言う。
「死者へ」
「反論できぬから?」
「そう見えます」
新之介が。
静かに言う。
「死者は」
「訂正できません」
「はい」
「だから」
「最も」
「使いやすい」
未定の男が。
顔を伏せた。
「私は」
「そのために」
「家斉を」
「使った」
「知っていた?」
新之介。
「最初は」
「知らなかった」
「後で」
「知った」
「それでも」
「続けた」
「はい」
「なぜ」
「外国側が」
「徳川家斉の名なら」
「聞いた」
「生きた将軍より」
「死んだ大御所の名が」
「安定して見えた」
「だから」
「使った」
「はい」
◇
「次郎殿」
新之介が問う。
「そなたは」
「なぜ家斉を」
「父を」
「左京を」
「止めるため」
「死人の権威を」
「使った?」
「はい」
「では」
「二人とも」
「理由は違う」
「はい」
「でも」
「死者が」
「反論できないことを」
「利用した」
次郎が。
顔を伏せる。
「……はい」
◇
清太郎が。
次の頁。
そして。
止まった。
「何です」
「家斉影」
「最初の使用」
「いつ」
「家斉公」
「死去の」
「三日前」
全員が。
顔を上げる。
「死ぬ前?」
「はい」
「では」
「死後用の役が」
「本人が」
「まだ生きている間に」
「動いていた?」
「そうなります」
「命令」
「何を」
清太郎が。
声を低くする。
――家斉死去の報。
――三日後に出せ。
「何」
家定が。
立ち上がる。
「死ぬ日を」
「知っていた?」
「それとも」
新之介が言う。
「死ぬ日を」
「決めていた?」
部屋。
完全な沈黙。
◇
「家斉公は」
家慶甲が。
顔を強張らせる。
「病だった」
「はい」
「いつ死んでも」
「おかしくなかった」
「それでも」
「三日前に」
「三日後の死去報を」
「用意する?」
阿部が。
紙を見る。
「延期の可能性もある」
「死ななければ」
「出せぬ」
「では」
「なぜ三日後」
◇
清太郎。
次。
――三日後。
――家斉公。
――御役目を終える。
「死去」
ではない。
「御役目を終える?」
新之介が。
言葉を繰り返す。
「つまり」
「最初の文では」
「死亡ではなく」
「退役?」
「隠居?」
「別の何か?」
さらに。
別筆。
――死去として扱う。
「誰が」
宗太が問う。
清太郎が。
署名を見る。
顔が変わる。
「誰です」
――沢渡玄隆。
宗太。
城にいる沢渡。
海の宗太。
二つの線が。
また。
交わる。
「どの沢渡」
新之介が言う。
「そこです」
◇
次の頁。
――御役目を終えた家斉を。
――海へ。
全員が。
息を止める。
「海へ?」
家定が。
呟く。
「家斉公は」
「死んだのでは」
「なく?」
新之介が。
首を振る。
「まだ」
「決めません」
「でも」
「もし」
家慶甲が。
声を震わせる。
「大御所家斉が」
「死去扱いの後」
「海へ出たなら」
未定の男――。
家斉を名乗っていた男が。
ゆっくり。
顔を上げた。
「だから」
「私へ」
「この名が」
「来たのか」
「何」
「八年前」
「海の御影から」
「家斉の役を」
「渡された時」
「一つだけ」
「言われた」
「何と」
男は。
記憶を。
確かめるように。
「『この名は』」
「『一度』」
「『海へ帰った』」
◇
新之介は。
帳面の。
次の頁を見る。
そこに。
小さな。
行先。
――海送り。
番号。
――零。
「零」
宗太が。
息を呑む。
「私は」
「第一号」
「はい」
「では」
「零号が」
「家斉?」
「記録上は」
清太郎。
声が震える。
「そう読めます」
「いつ」
「宗太殿より」
「二十四年前」
「六十七年前?」
「はい」
◇
海送り。
第一号。
宗太。
その前。
零号。
徳川家斉。
だが。
歴史の年月は。
合わない。
その頃。
家斉本人は。
まだ。
生まれてさえ。
いない。
「おかしい」
家定が言う。
「はい」
「六十七年前なら」
「家斉公ではない」
「はい」
「では」
「徳川家斉という名そのものが」
新之介が。
ゆっくり言う。
「本人より」
「先にあった?」
誰も。
すぐには。
答えられなかった。
清太郎が。
零号の。
横。
小さな注記を見る。
「ここ」
「何です」
――人名ではない。
――将来名。
新之介の目が。
細くなる。
「将来名?」
さらに。
――次に生まれる。
――徳川嫡系男子の一人へ。
――預ける予定。
家定が。
息を呑む。
名前が。
人につくのではない。
人が。
先に用意された名前へ。
入れられる。
宗太の。
「左京」と同じ。
「では」
宗太が。
低く言う。
「私だけでは」
「なかった」
「はい」
新之介は答える。
「将軍家まで」
「同じだった可能性があります」
◇
家慶甲が。
紙を見つめる。
「なら」
「徳川家斉も」
「徳川家慶も」
「家定も」
「生まれる前から」
「役として」
「用意されていた?」
「全部は」
「まだ」
「分かりません」
「だが」
「少なくとも」
「家斉という名については」
「その可能性がある」
「では」
家定が。
自分の胸へ。
手を置く。
「徳川家定も?」
新之介が。
家定を見る。
「それを」
「次に」
「確かめましょう」
家定は。
少し笑った。
「怖いですね」
「はい」
「でも」
「見ます」
「はい」
◇
宗太が。
零号の頁を。
見つめる。
「榊原」
「はい」
「私は」
「第一号では」
「なかった」
「記録上は」
「はい」
「なら」
「私は」
「少し」
「楽になるのか」
新之介は。
首を振った。
「分かりません」
「私も」
「そう思う」
「誰かが」
「先に捨てられていたから」
「そなたの四十三年が」
「軽くなるわけではない」
「はい」
「でも」
「一人では」
「なかった」
「それは」
「少し」
「違う」
「はい」
宗太は。
木札を。
握る。
「零号が」
「誰だったのか」
「探す?」
「はい」
「名前ではなく」
「誰が」
「その役へ」
「入れられたのか」
「はい」
◇
清太郎が。
零号頁の。
最後。
薄い。
追記を見つける。
「まだあります」
「何」
「零号」
「実施中止」
全員が。
顔を上げる。
「中止?」
「はい」
「理由」
清太郎が読む。
――本人拒否。
新之介の顔が。
ゆっくり変わる。
「本人が」
「拒んだ?」
「はい」
「名前は」
次。
――呼称。
――弥市。
「弥市」
水野が呟く。
「知っている人は」
誰も。
すぐには。
答えない。
だが。
伊三郎が。
入口近く。
小さく。
声を出した。
「知っている」
全員が。
振り返る。
「誰です」
「私の」
伊三郎は。
ゆっくり。
言った。
「父だ」
新之介の目が。
見開かれる。
伊三郎は。
零号の頁を見る。
「父は」
「よく申していた」
「『役目より』」
「『人を先へ』」
辰蔵の。
言葉。
人が先。
その言葉は。
火消しから。
始まったのでは。
なかった。
もっと。
古いところから。
誰かが。
受け渡してきた。
「伊三郎殿」
新之介が問う。
「父上は」
「なぜ」
「徳川家斉という」
「将来名を」
「拒んだ」
伊三郎の片目が。
遠い。
遠い。
過去を見る。
「一言」
「覚えている」
「何と」
伊三郎は。
答えた。
「『生まれてくる子に』」
「『先に名前を着せるな』」
部屋は。
静かになった。
人より先に。
名を決める。
名より先に。
役を決める。
役より先に。
人生を決める。
その仕組みへ。
六十七年前。
一人。
拒んだ者がいた。
名。
弥市。
海送り零号になるはずだった男。
そして。
伊三郎の父。
新之介は。
帳面を閉じなかった。
まだ。
続きがある。
次の頁。
そこには。
弥市が。
拒否した後。
代わりに。
誰が。
「将来名」を。
預かったのか。
記されていた。
清太郎が。
その名を見て。
筆を落とした。
「どうしました」
「榊原殿」
「誰です」
清太郎が。
ゆっくり。
読み上げた。
「――御影宗伯」
未定の男が。
顔を上げる。
「父……?」
そして。
その横。
さらに。
一行。
――本人年齢。
――七歳。
新之介は。
息を止めた。
御影宗伯。
制度を。
作った大人だと。
皆が。
思っていた男も。
最初は。
七歳の子どもとして。
役を着せられた。
のかもしれない。
(第九十八章へ続く)

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