第九十五章 誰が捨てたのか
――立会い。
――御影宗伯。
――徳川家斉。
その二つの名を。
誰も。
すぐには口にしなかった。
海送り第一号。
十五歳。
生まれ名。
松平左京。
後に。
沢渡玄隆を名乗る男。
その人間を。
海へ送る命令。
しかも。
本人と同じ。
「松平左京」の名で。
書かれている。
「榊原」
海の沢渡が言った。
「はい」
「私は」
「誰を探せばよい」
「まず」
「命令を書いた人」
「立ち会った人」
「実際に運んだ人」
「病死扱いにした人」
「そして」
「そなたを」
「海へ出すことで」
「何を得た人」
「それぞれ」
「別に」
海の沢渡が。
苦く笑う。
「最後の一人だけ」
「見つけて」
「斬れば」
「楽だった」
「楽には」
「なったかもしれません」
「否定しないのか」
「気持ちは」
「分かるからです」
「だが」
「それで」
「四十三年全部の理由には」
「なりません」
◇
城の沢渡玄隆が。
縄をかけられたまま。
口を開く。
「御影宗伯なら」
「私は」
「一度」
「聞いている」
「何を」
新之介が見る。
「海送り」
「本人から?」
「そうだ」
「いつ」
「二十八年前」
「どこ」
「長崎」
「何と」
「『海へ送ることは』」
「『殺すことではない』」
「そう申した」
海の沢渡の目が。
鋭くなる。
「宗伯が?」
「ああ」
「続きは」
「『だが』」
「『戻る道を残さなければ』」
「『殺したのと同じになる』」
新之介が。
少しだけ。
顔を上げる。
「それは」
「宗伯殿自身が」
「海送りを」
「作った言い方には」
「聞こえません」
「では」
水野が問う。
「反対していた?」
「分からぬ」
城の沢渡。
「私は」
「その一言しか」
「直接は聞いていない」
「なら」
「宗伯が」
「立会人として」
「署名した理由は」
「まだ分からない」
「そうだ」
◇
「家斉公は」
家定が言う。
「四十三年前」
「まだ若い」
「将軍になる前か」
阿部が。
記憶をたどる。
「時期による」
「では」
「もし」
「本人なら」
「将軍名での命令ではない?」
「可能性はある」
「家定殿」
新之介が言う。
「家斉公だから」
「本人だろうと」
「先に置かないでください」
「分かっています」
「でも」
「徳川の名が」
「一つあるだけで」
「皆が」
「少し信じた顔をした」
「私もです」
「はい」
「それを」
「記録します」
清太郎。
筆。
――徳川家斉の名。
――参加者の受け止めに。
――権威として影響あり。
――本人確認未了。
◇
「では」
家定が問う。
「どこから」
「確かめる」
新之介は。
すぐには答えない。
「左京殿」
「どの」
海の沢渡が。
自分で言って。
苦笑する。
「……今は」
「私か」
「はい」
「十五の頃」
「家に」
「誰が」
「出入りしていました」
「多い」
「御医師」
「小姓」
「家臣」
「学問所」
「父の知己」
「御影宗伯は」
「知っていた?」
「名前だけ」
「会った記憶は」
「ない」
「徳川家斉は」
「当然」
「遠くから」
「見た程度」
「では」
「二人とも」
「直接」
「そなたへ」
「海へ行けと」
「言った記憶はない」
「ない」
◇
「松平左京という名を」
「当時」
「ほかの人が」
「使っていると」
「聞いたことは」
海の沢渡が。
しばらく。
考えた。
「一度」
「父が」
「怒っていた」
「何に」
「手紙」
「差出人」
「松平左京」
「父が」
「何と」
「『息子の名で』」
「『勝手な指図をするな』」
「そう怒鳴った」
新之介の目が。
鋭くなる。
「その手紙」
「内容」
「知らぬ」
「誰宛」
「父宛」
「いつ」
「海送りの」
「半年ほど前」
「では」
「そなたの名は」
「海送り以前から」
「役名として」
「使われていた可能性」
「ある」
「はい」
海の沢渡が。
自分の胸へ手を当てる。
「私が」
「十五で」
「生きているのに」
「私の名が」
「先に」
「私から離れていた」
◇
「おかしい」
城の沢渡が言った。
「何が」
「その頃の左京役は」
「もっと年上だったはずだ」
「知っている?」
新之介が問う。
「沢渡の古記録に」
「出てくる」
「どんな」
「三十代」
「武家」
「筆は」
「この命令と」
「似ている?」
「見せろ」
清太郎が。
写しを。
城の沢渡へ。
男は。
じっと見る。
「似ている」
「同じ?」
「断定できぬ」
「なぜ」
「左京役は」
「筆まで」
「複数へ」
「教えられたからだ」
「また」
水野が。
天を仰ぐ。
「いや」
「もう言わぬぞ」
「賢明です」
「そなたが言うな」
◇
「では」
海の沢渡が問う。
「松平左京という役は」
「私より前から」
「あった?」
「可能性が高い」
新之介が答える。
「それなら」
「私は」
「生まれた時から」
「役名と同じ名前を」
「持たされた?」
部屋が。
静かになる。
「父上が」
「付けた名前では」
「なかった?」
「それを」
「確かめる必要があります」
「父は」
「死んでいる」
「母も」
「はい」
「なら」
「どうする」
「出生記録」
「産婆」
「寺」
「家臣」
「日記」
「それぞれ」
「そなたの父が」
「名前を決めたのか」
「誰かに勧められたのか」
「残っているか」
「探します」
「もし」
海の沢渡が言う。
「私の名前まで」
「最初から」
「誰かに決められていたら」
「はい」
「私に」
「何が残る」
新之介は。
少し考えた。
「そなたが」
「その名で」
「十五年」
「生きたこと」
「沢渡として」
「その後を」
「生きたこと」
「名を付けた人が誰でも」
「そなたが」
「生きた時間までは」
「取れません」
◇
その日の午後。
御記録所。
古い松平家の。
出生関係。
埃。
虫。
欠け。
清太郎。
神谷。
阿部。
そして。
新之介。
「ありました」
清太郎が。
一枚。
薄い紙。
――松平宗右衛門嫡男。
――出生。
――名。
空白。
その横。
別筆。
――左京。
「別筆」
「はい」
「いつ書かれた」
「朱書」
「出生から」
「三日後」
「誰の筆」
「照合」
古い。
御小納戸記録。
寺。
家中。
三種。
数刻。
「一致しません」
清太郎が言う。
「では」
「不明」
「ただ」
「似た筆が」
「一つ」
「どこ」
――海防掛旧控。
「海防?」
「四十三年前より」
「さらに前」
「誰の書き付け」
清太郎が。
読む。
「役名整理」
「何」
新之介が。
紙を取る。
――松平左京。
――家督不測時。
――名を絶やさず。
――適任者へ継ぐ。
阿部が。
顔をしかめる。
「家名継承の」
「控か」
「でも」
新之介が言う。
「本人が」
「まだ生まれていない頃から」
「役名として」
「松平左京が」
「存在する」
「では」
「名前を付けたのは」
「役を残すため?」
「可能性は」
「あります」
◇
さらに。
もう一枚。
――左京名。
――幼少者へ預ける。
――成人後。
――必要に応じ。
――役へ戻す。
新之介の指が。
止まる。
「幼少者へ」
「預ける?」
清太郎が呟く。
「名前そのものを」
「子どもへ」
「保管させる?」
「そう見えます」
阿部が。
低く言う。
「つまり」
「役名を」
「誰かが持っていると」
「不自然だから」
「普通の子どもの」
「生まれ名にしてしまう」
「そして」
「将来」
「必要になった時」
「その人間ごと」
「役へ戻す」
新之介の顔が。
硬くなる。
「子替帳より」
「古い」
「はい」
「では」
「子を役へ変える考えは」
「沢渡の時代より」
「前」
「かなり前」
◇
清太郎が。
下へ。
小さな書き込み。
「ここ」
「何です」
――左京名。
――預け先。
――松平宗右衛門家。
新之介は。
目を閉じた。
「決まっていた」
「海の左京殿が」
「生まれる前から?」
「少なくとも」
「その家へ」
「左京という名を」
「置くことが」
「予定されていた」
◇
夜。
海の沢渡へ。
結果を伝える。
老人は。
何も言わない。
「左京殿」
「その名で」
「呼ぶな」
新之介が止まる。
「嫌ですか」
「今は」
「嫌だ」
「では」
「沢渡殿」
「それも」
「少し嫌だ」
「では」
「何と」
「……」
「未定?」
老人が。
顔をしかめる。
「皆」
「そこへ逃げるな」
「便利です」
「本当に」
「腹が立つ」
「よく言われます」
◇
「私の名は」
老人が。
小さく言う。
「私のために」
「付けられたものでは」
「なかった」
「可能性は」
「高いです」
「なら」
「父も」
「知っていた?」
「そこは」
「まだ」
「分かりません」
「知らずに」
「左京と」
「呼んでいたかもしれない」
「はい」
「知っていて」
「呼んだかもしれない」
「はい」
「どちらなら」
「私は」
「父を許せる」
「それも」
「私には」
「決められません」
「そなたは」
「何も決めぬな」
「かなり」
「決めています」
「何を」
「誰か一人の話だけで」
「人を決めないことを」
老人が。
少しだけ。
笑った。
◇
「一つ」
海の沢渡が言う。
「思い出した」
「何を」
「父が」
「私を」
「左京と」
「ほとんど呼ばなかった」
「では」
「何と」
「宗太」
新之介の目が。
動く。
「幼名?」
「そう思っていた」
「いつまで」
「十五まで」
「正式名は」
「左京」
「でも」
「家では宗太」
「それなら」
「そなたの家族は」
「左京より」
「宗太を」
「本人として」
「呼んでいた?」
「そうかもしれない」
老人が。
遠くを見る。
「宗太」
「それを」
「今」
「使いたい?」
長い沈黙。
「……一度」
「呼んでみろ」
「宗太殿」
老人の顔が。
崩れた。
一瞬だけ。
十五歳の。
少年へ。
戻ったように。
「もう一度」
「宗太殿」
老人の目から。
涙が落ちる。
「それは」
「私だ」
「はい」
「沢渡でも」
「左京でもなく」
「宗太は」
「私だ」
新之介は。
何も足さなかった。
◇
清太郎が。
記録を書き直す。
――現名。
――沢渡玄隆。
――出生記録上。
――松平左京。
――家内呼称。
――宗太。
――本人。
――現在、宗太の呼称を希望。
老人が。
紙を見る。
「こんなに」
「長く書くのか」
「必要です」
「名前一つで」
「よいだろう」
「それで」
「四十三年」
「混乱しました」
「……そうだな」
◇
「では」
水野が問う。
「宗太殿」
「何だ」
「海送りの命令を」
「出した左京を」
「どう探す」
「それだ」
新之介も。
清太郎も。
黙る。
古い左京役。
御影宗伯。
徳川家斉。
そして。
幼児へ。
役名を預ける仕組み。
「まず」
新之介が言う。
「松平左京という役の」
「最初を」
「探します」
「また最初か」
「最初と」
「決めません」
「では」
「確認できる」
「最古の記録」
「そこから」
◇
最古。
三代前。
さらに。
四代前。
古い役名控。
左京。
宗一。
宗太郎。
静山。
御影。
同じような名が。
散らばっている。
だが。
一枚。
他とは違う。
表。
――非常時名代。
清太郎が読む。
「何」
家定が問う。
「将軍」
「老中」
「海防」
「家督」
「それぞれ」
「本人が」
「動けない時」
「代わりに」
「名を持つ者」
「いつの」
「六十七年前」
「古い」
「はい」
◇
その中。
――松平左京。
――役。
――身分間調整。
――生名として。
――一系へ預ける。
「生名」
新之介が。
繰り返す。
「正式名ではなく」
「生まれた名として」
「役を」
「預ける?」
「はい」
「理由」
清太郎が読む。
――役名として残せば。
――役と知れる。
――子の名なら。
――疑われぬ。
水野が。
低く吐く。
「子を」
「蔵にしたのか」
「名前を」
「預ける蔵」
「はい」
「でも」
家定が言う。
「名だけなら」
「まだ」
「子本人を」
「役へ」
「使わなければ」
「そうです」
新之介が答える。
「問題は」
「いつから」
「名を預けることが」
「人ごと預けることへ」
「変わったか」
◇
紙の最後。
署名。
一人。
――御影宗伯。
「また」
水野が。
声を落とす。
だが。
新之介は。
署名の下。
小さな文字を見る。
「待ってください」
「何」
――案、却下。
全員が。
顔を上げる。
「却下?」
「はい」
「では」
「宗伯は」
「賛成では」
「ない?」
「この書き方なら」
「少なくとも」
「この案は」
「通っていない」
「なのに」
「後で」
「実際に」
「宗太殿へ」
「左京名が」
「預けられた」
「つまり」
家定が言う。
「却下された仕組みが」
「後から」
「誰かに」
「使われた」
「はい」
◇
「誰が」
清太郎が。
裏を見る。
薄い。
墨。
――却下後。
――必要により。
――試行。
新之介の目が。
細くなる。
「署名」
「ありません」
「誰が」
「書いた」
「不明」
「でも」
紙の端。
印。
三本。
円。
さらに一本。
海の御影。
水野が。
顔を上げる。
「海側?」
「六十七年前から」
「海の御影が?」
「今の形とは」
「限りません」
「印だけ」
「似ている」
◇
「宗太殿」
新之介が言う。
「そなたの名を」
「役へした者は」
「一人では」
「ないかもしれません」
「分かっている」
「でも」
「一つ」
「何」
「そなたを」
「海へ出す命令へ」
「御影宗伯と」
「家斉の名がある」
「はい」
「もし」
「二人とも」
「制度を止めようとしていた側なら」
「何」
「署名を」
「逆に」
「使われた可能性」
宗太の目が。
鋭くなる。
「偽造?」
「可能性」
「また」
「分からない」
「はい」
「なら」
「何を信じる」
「署名ではなく」
「その前後」
「誰が」
「その命令を」
「持ってきたか」
「誰が」
「宗太殿を」
「長持へ入れたか」
「誰が」
「病死を」
「家へ伝えたか」
「誰が」
「長崎で」
「受け取ったか」
「行為を」
「追います」
◇
宗太は。
長く。
新之介を見る。
「四十三年」
「私は」
「名前を」
「追っていた」
「はい」
「左京」
「沢渡」
「宗伯」
「家斉」
「はい」
「だから」
「見つからなかった?」
「可能性は」
「あります」
「なら」
宗太は。
深く息を吐いた。
「最初に」
「誰が」
「長持の蓋を」
「閉めた」
「そこから」
「聞こう」
新之介が。
頷く。
「はい」
◇
その名は。
意外なところに。
残っていた。
長崎荷改帳。
四十三年前。
荷。
薬箱。
絹。
茶。
そして。
――病者一名。
受取人。
――伊三郎。
新之介の顔が。
変わる。
「伊三郎?」
水野が問う。
「知っているのか」
「はい」
「小名木川から」
「私の刀を」
「拾った方です」
「何」
「今」
「どこに」
「最近」
「見ていません」
宗太が。
紙を。
奪うように見る。
「伊三郎」
「覚えている?」
「ああ」
「長崎で」
「最初に」
「私を」
「人として」
「外へ出した男だ」
新之介の目が。
動く。
「何と」
「呼ばれた」
「十五ではない」
「左京でもない」
「何と」
宗太の声が。
少し震える。
「宗太」
◇
「なぜ」
新之介が問う。
「伊三郎殿は」
「その名を」
「知っていた」
「分からぬ」
「本人へ」
「聞ける」
「生きているなら」
「はい」
「江戸に」
「いる可能性が高い」
「そして」
「そなたの刀を」
「拾った」
宗太が。
新之介を見る。
「偶然か」
「決めません」
「だろうな」
「でも」
「探します」
◇
その夜。
伊三郎の行方を。
辰蔵。
志乃。
町方。
川筋。
船頭。
皆で探した。
夜半。
知らせ。
「榊原殿!」
「見つかった?」
「はい!」
「どこ」
「小名木川!」
「何を」
使者が。
息を切らす。
「伊三郎殿が!」
「川岸で!」
「一人の老人を!」
「待っていると!」
「誰を」
「名は」
使者が答える。
「宗太」
宗太本人が。
立ち上がった。
「私を?」
「はい!」
「何と」
「『四十三年』」
「『遅れた』」
「『戻すものがある』と!」
宗太の顔から。
血の気が引く。
「何を」
新之介が問う。
使者は。
小さな包みを。
差し出した。
古い。
木札。
そこに。
十五歳の手で。
削ったような文字。
――宗太。
宗太の手が。
震える。
「これは」
「私が」
「十五の時」
「自分で」
「彫った」
「いつ」
「海へ送られる前」
「父に」
「見せるため」
「なぜ」
「左京ではなく」
「宗太と」
「呼んでほしくて」
宗太は。
木札を。
胸へ。
押し当てた。
そして。
四十三年ぶりに。
声を上げて。
泣いた。
新之介は。
何も言わなかった。
戻る場所は。
いつも。
家でも。
国でも。
役でもない。
時に。
たった一枚の。
自分の名を書いた木札なのかもしれなかった。
(第九十六章へ続く)

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