第九十二章 母の選び
――新之介を。
――御影へ渡さない代わりに。
――新三郎。
――そなたを。
――差し出した。
お澄の手紙。
その一行は。
夜が明けても。
新之介の頭から離れなかった。
兄。
新三郎も。
ほとんど眠っていない。
榊家の座敷。
二人は。
向かい合っていた。
「新之介」
「はい」
「昨日」
「そなたは」
「私が捨てられたのか」
「分からないと申した」
「はい」
「今も?」
「今もです」
新三郎が。
目を細める。
「手紙には」
「書いてある」
「はい」
「母上自身が」
「私を差し出したと」
「はい」
「なら」
「何が分からない」
「誰が」
「どんな条件を出したか」
「母上に」
「本当に断る道があったか」
新三郎が。
黙る。
「選んだことと」
新之介は続けた。
「選ばされたことは」
「同じではありません」
「でも」
「選んだのは」
「母上だ」
「はい」
「そこも」
「消しません」
◇
宗次郎。
現在の榊家当主。
家督名。
榊兵庫。
彼が。
古い箱を持って入ってきた。
「残っていた」
「何が」
「お澄の書き物」
「全部?」
新之介が聞く。
宗次郎が睨む。
「今は」
「その言葉に」
「いちいち噛みつくな」
「では」
「見つかった範囲」
「そうだ」
「ありがとうございます」
箱。
日記。
手紙。
薬包紙。
寺への願書。
役所への訴え。
そして。
一冊。
薄い覚え書き。
表紙。
――子二人。
新三郎の手が。
止まる。
「母上の字?」
「おそらく」
宗次郎が答える。
「確認は」
「女中」
「寺僧」
「わし」
「三者」
新之介が頷く。
「では」
「今のところ」
「母上の筆と」
「見てよいでしょう」
◇
一頁目。
――新三郎。
――六つ。
――新之介。
――生後七月。
二人。
兄弟。
同じ頁。
新三郎が。
指で。
自分の名へ触れる。
「並んでいた」
「はい」
「母上の中では」
「そなたと私が」
「同じ頁に」
「はい」
次。
――御影より申し入れ。
――榊家の子一人。
――預かり。
新之介の目が。
鋭くなる。
「一人?」
「はい」
「最初から」
「新三郎殿ではない」
「兄上」
「何です」
「今」
「兄でよい」
「分かりました」
宗次郎が。
低く言う。
「では」
「どちらでもよかった?」
「御影側には」
「そう見えます」
◇
次。
――目的。
――家伝記憶の保存。
――家督不測への備え。
――期間三月。
「三月?」
新三郎が。
笑った。
乾いた笑い。
「私は」
「三十年以上」
「戻らなかった」
「はい」
さらに。
――断れば。
――榊家家督の継承につき。
――再見分。
宗次郎の顔が変わる。
「再見分」
「何を意味する」
「当時」
宗次郎が言う。
「兄の死が」
「完全に認められていなかった」
「つまり」
「榊家そのものを」
「不安定にする?」
「そうだ」
「家禄停止」
「役目停止」
「家臣の扶持」
「全部」
「影響が出る」
「では」
新三郎が言う。
「母上は」
「一人の子と」
「家中全体を」
「比べさせられた」
「そう見えます」
◇
次の頁。
お澄の字。
乱れている。
――宗次郎は。
――新三郎を。
――出すべきと申す。
宗次郎が。
顔を上げた。
「私は」
「……」
「父上」
新之介が見る。
「覚えていますか」
「覚えている」
「何と」
「新之介は」
「まだ赤子」
「連れ出せば」
「命を落とすかもしれぬ」
「新三郎は」
「六つ」
「言葉も分かる」
「三月なら」
「耐えられると思った」
新三郎が。
宗次郎を見る。
「私なら」
「耐えられる?」
「そう思った」
「なぜ」
「六つだから?」
「それとも」
「そなたの実子では」
「なかったから?」
宗次郎の顔が。
白くなる。
「違う」
「本当に?」
「……」
「宗次郎殿」
新三郎の声は。
静かだった。
「今」
「分からないなら」
「分からないと」
「言ってください」
長い沈黙。
「分からない」
宗次郎が答えた。
◇
「当時の私は」
「そなたを」
「息子として育てていた」
「はい」
「だが」
「兄の子でもあった」
「はい」
「新之介は」
「私とお澄の子」
「はい」
「その違いが」
「全く頭になかったと」
「今」
「言い切れぬ」
新三郎が。
目を閉じる。
「ありがとうございます」
「許すのか」
「いいえ」
「では」
「今」
「本当のことを」
「聞いたと思っただけです」
◇
次の頁。
――私は。
――新三郎を出したくない。
――新之介も出したくない。
そして。
その下。
――二人とも。
――出さぬ方法を問う。
新之介が。
少し息を吐く。
「母上は」
「二者択一を」
「拒んだ」
「最初は」
「はい」
次。
――御影側。
――不可と答う。
――一人は必要。
新三郎の拳が。
握られる。
「誰」
「この時」
「御影側として」
「誰が来た」
宗次郎が答える。
「男二人」
「一人は」
「御影宗太郎と名乗った」
「本人?」
「今となっては」
「分からぬ」
「もう一人」
「沢渡玄隆」
新之介が。
低く息を吐く。
「やはり」
◇
頁をめくる。
――沢渡。
――幼子は。
――記憶の採りようなしと申す。
――六歳なら。
――家の記憶。
――父母の癖。
――家臣の名。
――採れると。
新三郎が。
唇を噛む。
「最初から」
「私だったのではないか」
「何が」
「二人から選ぶふりをして」
「実際は」
「六つの私が」
「欲しかった」
新之介が。
すぐには答えない。
「可能性は」
「高いです」
「では」
「母上へ」
「選ばせる形を」
「作っただけ?」
「それも」
「確かめる必要があります」
◇
次。
――私は。
――新三郎を選ぶ。
その一行。
新三郎の呼吸が。
少し乱れる。
だが。
その下。
まだ文が続く。
――選ぶのではない。
――新之介を。
――乳から離せぬ。
――新三郎なら。
――話して聞かせられる。
――三月。
――三月なら。
――迎えに行ける。
新三郎が。
目を閉じた。
「母上は」
「私なら」
「戻ると思った」
「はい」
「捨てるつもりでは」
「なかった」
「少なくとも」
「この時は」
◇
「でも」
新三郎が言う。
「結果は」
「同じだ」
「戻らなかった」
「はい」
「母上の気持ちが」
「どうであれ」
「私は」
「出された」
「はい」
「だから」
「母上を」
「悪く思っても」
「よい?」
新之介が。
兄を見る。
「それは」
「私が許すことではありません」
「では」
「そなたは」
「どう思う」
「母上も」
「責任があると思います」
宗次郎が。
新之介を見る。
「新之介」
「はい」
「母を」
「責めるのか」
「責めるところは」
「責めます」
「でも」
「選ばされた形も」
「同時に残す」
「どちらか一つに」
「しません」
新三郎が。
小さく頷いた。
「それで」
「よい」
◇
さらに。
覚え書き。
――三月過ぐ。
――戻らず。
――問い合わせ。
――沢渡。
――熱あり。
――もう七日。
――さらに十日。
――面会不可。
次。
――一月。
――御影宗太郎。
――新三郎。
――家督見分のため。
――もう少し預かると。
「話が」
新之介が言う。
「変わっている」
「はい」
「最初は三月」
「次は病」
「次は家督見分」
「理由が」
「後から増えた」
「人を返さないために」
新三郎が。
低く言う。
「本当の言葉を」
「並べた?」
「かもしれません」
◇
次の頁。
――私は。
――新之介を連れ。
――沢渡のもとへ行く。
「何」
宗次郎が。
顔を上げる。
「これは」
「知らない」
「父上に」
「隠して?」
「おそらく」
――新之介を。
――代わりに置く。
――新三郎を返せ。
部屋が。
静まる。
「母上は」
新之介が呟く。
「今度は」
「私を」
「差し出そうとした?」
新三郎が。
すぐに言う。
「読む」
◇
次。
――沢渡。
――笑う。
――赤子では。
――役に立たぬと。
――新三郎は。
――すでに。
――多くを覚えた。
さらに。
――返せぬ。
お澄の字が。
大きく乱れる。
――なら。
――私を使え。
新之介が。
息を止める。
――母なら。
――榊家のことを。
――新三郎より知る。
――私を。
――御影へ入れよ。
新三郎の目から。
涙が落ちた。
「母上」
◇
「沢渡は」
次。
――女は。
――家督代替にならぬ。
――だが。
――大奥なら使える。
全員が。
止まった。
「大奥」
新之介が。
お夏。
藤尾。
お藤。
声を集めた者たち。
そこへ。
つながる。
「母上が」
「大奥へ?」
宗次郎が。
首を振る。
「聞いていない」
「でも」
新三郎が言う。
「母上は」
「後に」
「大奥へ手を伸ばした」
「はい」
「お久と」
「はい」
「最初は」
「私を返すため」
「自分を」
「差し出そうとした」
新之介が。
手紙を見る。
◇
最後。
――私は断る。
――新三郎も。
――新之介も。
――私も。
――誰も。
――役へ渡さぬ。
「断った」
新三郎が言う。
「はい」
「でも」
「私を」
「取り返せなかった」
「はい」
「では」
「母上は」
「そこで終わらなかった」
「だから」
「探した」
◇
宗次郎が。
突然立つ。
「お久」
「何です」
「お久を」
「探せ」
「久殿の母上と」
「同じか」
「はい」
「なぜ」
「お澄が」
「最後まで」
「新三郎を探した相手」
「お久なら」
「その後を」
「知っているかもしれぬ」
新之介が。
少し考える。
「久殿へ」
「先に聞きましょう」
「なぜ」
「自分の母上の話です」
「本人抜きで」
「進めない」
宗次郎が。
苦笑する。
「今のわしなら」
「すぐ探せと命じる」
「はい」
「それが」
「駄目か」
「駄目とは」
「言いません」
「でも」
「まず」
「久殿へ」
「聞きます」
◇
再起館。
久。
傷は。
かなり癒えている。
ただ。
顔には。
まだ疲れがある。
「母の名?」
「はい」
「お久」
「そうです」
「榊家に」
「仕えていた?」
「私は」
「知らない」
「母上と」
「会った記憶は」
「ない?」
「ない」
「でも」
久が。
少し考える。
「老いた女から」
「聞いたことがある」
「誰」
「私が」
「十三の頃」
「沢渡のところで」
「手当てをしていた女」
「名は」
「お滝」
「何と」
「母は」
「昔」
「榊家の女中だったと」
「それだけ?」
「もう一つ」
「何」
「母は」
「一人の子を」
「ずっと探していた」
新三郎が。
息を呑む。
「私?」
久が。
新三郎を見る。
「年からすれば」
「可能性は」
「ある」
「でも」
「名前は」
「聞いていない」
◇
「お滝殿は」
「生きている?」
「五年前には」
「生きていた」
「どこ」
「深川」
「それ以上は」
「分からない」
「探してよい?」
久が。
少し驚く。
「私に」
「聞くのか」
「母上につながる話です」
「でも」
「私も」
「会いたいか」
「まだ」
「分からない」
「なら」
「先に」
「お滝殿を探すだけ」
「会うかどうかは」
「後で」
久が。
考える。
「探してほしい」
「分かりました」
「ただし」
「何です」
「見つかったからと」
「すぐ私へ」
「連れてくるな」
「はい」
「今」
「母を」
「知るのが」
「怖い」
「はい」
「でも」
「知らないままも」
「嫌だ」
「分かりました」
◇
深川。
お滝は。
見つかった。
古い。
小さな長屋。
八十近い。
目は。
片方が。
ほとんど見えない。
だが。
耳は。
よい。
「榊家?」
新之介の声を聞き。
老人は。
すぐに言った。
「お澄様の」
「何」
「息子か」
「どちらの」
お滝が問う。
新之介は。
少し驚いた。
「どちらも」
「来ています」
◇
お滝の前。
新三郎。
新之介。
二人。
老人は。
顔を。
交互に見る。
「新三郎坊ちゃま」
兄の肩が。
震える。
「私を」
「覚えて」
「顔は」
「分からぬ」
「でも」
「声」
「声?」
「六つの頃」
「よく」
「『なぜ』と聞いた」
新三郎が。
少し笑う。
「今も」
「弟が」
「同じです」
「私は」
「そこまで」
「新之介が言うと。
お滝が笑った。
「兄弟だ」
◇
「お久殿について」
新之介が問う。
お滝の顔が。
変わる。
「生きているか」
「分かりません」
「五年前」
「江戸にいたと」
「聞いています」
「ああ」
「いた」
「どこ」
「会った」
「何」
◇
「お久は」
お澄様と」
「新三郎坊ちゃまを」
「探していた」
「なぜ」
「お久殿が」
新三郎が問う。
「自分の子も」
「探していたからだ」
「久殿」
「ああ」
「二人の母親が」
「同じように」
「子を」
「取られた」
「そうだ」
「それで」
「一緒に?」
「最初は」
お滝が言う。
「お澄様が」
「お久を」
「使った」
新之介の目が。
少し細くなる。
「使った?」
「はい」
「母上が」
「はい」
「何を」
「沢渡のところへ」
「女中として」
「入れた」
◇
新三郎の顔が。
強張る。
「本人の同意は」
新之介が問う。
「最初は」
「分からぬ」
「後では」
「自分で」
「続けた」
「なぜ」
「自分の子も」
「そこにいると」
「知ったから」
「つまり」
「お澄様は」
「自分の子を探すため」
「お久殿を」
「沢渡のところへ」
「入れた」
「ああ」
「それで」
「お久殿の子まで」
「見つかった?」
「見つからなかった」
「でも」
「お久は」
「戻らなかった」
「なぜ」
「中に」
「ほかの子が」
「いたからだ」
◇
「何人」
「分からぬ」
「十人以上」
「新三郎坊ちゃま」
「久坊」
「それだけではない」
「名を変えられた子」
「声を変えられた子」
「歩き方を教えられた子」
「それを」
「お久殿は」
「見た」
「ああ」
「母上も」
「知った?」
「知った」
「それで」
お滝の顔が。
苦くなる。
「お澄様は」
「選んだ」
新之介が。
静かに問う。
「何を」
「新三郎坊ちゃま一人を」
「取り戻すか」
「中にいる子を」
「まとめて出す道を」
「探すか」
新三郎の目が。
揺れる。
「母上は」
「どちらを」
「後者」
◇
長い。
沈黙。
「だから」
新三郎が言う。
「私を」
「すぐには」
「助けなかった?」
「はい」
「また」
「私ではない誰かを」
「選んだ?」
「そうとも」
「言える」
新之介が。
お滝を見る。
「お澄様本人は」
「何と」
「申していた」
「毎晩」
「泣いた」
「『新三郎だけなら』」
「『今夜でも連れ出せる』」
「『でも』」
「『あの子だけ連れ出せば』」
「『残りの子は場所を変えられる』」
「そう申した」
「本当?」
「私が」
「聞いた」
「ほかに」
「お久も」
「聞いていた」
◇
新三郎が。
拳を握る。
「では」
「母上は」
「私を」
「二度」
「使った」
「一度目は」
「新之介を守るため」
「二度目は」
「ほかの子を守るため」
誰も。
否定できない。
「兄上」
新之介が言う。
「はい」
「怒ってよいと思います」
「母上を?」
「はい」
「でも」
「母上が」
「何を見て」
「どう迷ったかも」
「同時に残る」
「……」
「どちらかを」
「消さない」
新三郎が。
目を閉じる。
「難しいな」
「はい」
「母上を」
「悪人にすれば」
「楽だ」
「はい」
「聖人にしても」
「楽だ」
「はい」
「でも」
「どちらでもない?」
「人だったのでしょう」
◇
「お澄様は」
お滝が続ける。
「最後に」
「失敗した」
「何を」
「子どもたちを」
「まとめて逃がす」
「計画」
「誰と」
「お久」
「寺の者」
「船頭」
「そして」
「御影宗伯」
新之介が。
顔を上げる。
「宗伯殿?」
「ああ」
「当時」
「御影の中でも」
「子を役にすることへ」
「反対していた」
「では」
「宗伯殿が」
「助ける側?」
「その時は」
「そうだった」
「計画は」
「失敗?」
「半分」
「何人」
「七人」
「逃げた」
「残り」
「移された」
「どこ」
「分からぬ」
◇
「新三郎坊ちゃまも」
「その七人?」
新三郎が問う。
「違う」
「私は」
「残った?」
「いや」
お滝が。
新三郎を見る。
「坊ちゃまは」
「その前日」
「沢渡が」
「別の場所へ」
「移した」
「なぜ」
「お澄様の計画を」
「知っていたから?」
「分からぬ」
「では」
「母上は」
「私を逃がす計画を」
「立てたけれど」
「前日に」
「私だけ」
「消された」
「そうだ」
新三郎が。
笑った。
泣きながら。
「私は」
「いつも」
「一日」
「遅い」
◇
「違います」
新之介が言う。
「何が」
「兄上が」
「遅いのではない」
「では」
「兄上へ」
「届く前に」
「誰かが」
「先に決めた」
「……」
「そこを」
「混ぜないでください」
新三郎が。
弟を見る。
「そうか」
「はい」
「私は」
「待っていた側か」
「はい」
「ずっと」
「はい」
◇
「お久殿は」
新之介が問う。
「その後」
「五年前まで」
「何を」
「探した」
「自分の子」
「新三郎坊ちゃま」
「逃げた七人」
「移された子たち」
「そして」
「記録」
「何の」
「沢渡の」
「子どもの名を」
「役へ移した記録」
「どこへ」
「持っていった」
「分からぬ」
「でも」
「五年前」
「一度だけ」
「私へ来た」
「何と」
お滝が。
新之介を見る。
「『榊原新之介が』」
「『いずれ』」
「『この帳面を見る』」
「そう申した」
新之介が。
目を細くする。
「私を」
「知っていた?」
「お澄様から」
「聞いていた」
「何を」
「『新之介は』」
「『誰かをすぐ信じない』」
「『だから』」
「『あの子なら』」
「『帳面を一つの話にしない』」
新之介は。
何も言えなかった。
◇
「帳面は」
「どこ」
お滝は。
ゆっくり。
床を指した。
「ここ?」
「ああ」
「なぜ」
「お久が」
「預けた」
「五年前」
「何と」
「『まだ渡すな』」
「『新之介が』」
「『自分の名を』」
「『一度捨てるまで』」
新之介の顔が変わる。
「自分の名を」
「捨てる?」
「意味は」
「分からぬ」
だが。
新之介には。
一つ。
心当たりがあった。
小名木川。
刀を。
投げた日。
あるいは。
自分が。
榊原新之介という名を。
本物の印として。
使うことを。
やめた時。
「五年前に」
「お久殿は」
「未来を」
「予測した?」
「違う」
新三郎が言う。
「新之介なら」
「いつか」
「自分の名を」
「疑うと」
「思っただけだ」
「たぶん」
◇
床板。
古い。
お滝が。
場所を示す。
辰蔵なら。
すぐ剥がしただろう。
だが。
新之介は。
止めた。
「何だ」
新三郎が問う。
「お滝殿」
「はい」
「帳面を」
「今」
「出してよいですか」
老人が。
笑った。
「そこまで」
「聞くのか」
「はい」
「お久殿から」
「預かったのは」
「そなたです」
「なら」
「今」
「そなたが決める」
お滝は。
長く。
新之介を見る。
「出せ」
「はい」
「ただし」
「何です」
「一人で」
「読むな」
新之介が。
少し笑った。
「はい」
◇
床下。
布。
油紙。
一冊。
黒でも。
赤でもない。
ただの。
鼠色の帳面。
題。
――子替帳。
新三郎の顔が。
強張る。
新之介が。
開く。
一頁目。
――家督。
――役目。
――血筋。
――声。
――顔。
――記憶。
その下。
――子は。
――人より先に。
――役へ変えられる。
清太郎が。
いれば。
すぐ筆を取っただろう。
次。
名前。
新三郎。
半九郎。
新之介。
堀田新三郎。
久。
まだ。
知らない名。
知らない子。
何十人。
「こんなに」
新三郎が。
声を失う。
◇
だが。
一番下。
一つ。
朱線。
――交換未遂。
――榊原新之介。
――対象。
――新三郎。
新之介の指が。
止まる。
その横。
――母、お澄。
――交換を申し出る。
――拒否。
さらに。
――理由。
新之介が読む。
――新三郎は。
――すでに。
――榊兵庫候補として。
――完成に近し。
新三郎の顔が。
歪む。
「完成」
「六つの子を」
「完成と」
「……」
その下。
――新之介は。
――別用途に残す。
新之介の目が。
鋭くなる。
「別用途」
「何」
新三郎が問う。
さらに。
――疑う癖。
――観察継続。
――将来。
――六人目候補。
部屋の空気が。
完全に止まった。
「六人目」
新三郎が呟く。
左京が。
見捨役を終わらせるため。
五人を疑い続ける。
六人目。
刀を持つ者。
新之介。
「では」
新三郎が。
弟を見る。
「そなたは」
「赤子の頃から」
「見られていた?」
「少なくとも」
「記録上は」
「はい」
◇
「誰の字」
新之介が問う。
お滝は。
首を振る。
「分からぬ」
「お久殿は」
「何と」
「この帳面は」
「一人が書いたのではない」
「そう申した」
「また」
「複数」
「はい」
「では」
「六人目の考えも」
「左京殿一人のものでは」
「ない可能性」
「あります」
新三郎が。
頁をめくる。
最後の方。
一枚。
挟まった紙。
別筆。
――六人目は。
――榊原新之介であってはならぬ。
新之介の目が。
止まる。
「何」
新三郎が読む。
――榊原新之介という名を。
――六人目にすれば。
――また。
――その名が役になる。
さらに。
――六人目は。
――名ではなく。
――行いで選べ。
新之介は。
長く。
紙を見る。
その下。
署名。
――お澄。
新三郎が。
息を呑む。
「母上?」
「筆跡を」
「確認します」
「はい」
だが。
二人とも。
もう。
分かっていた。
お澄は。
新之介を。
守るために。
新三郎を差し出した。
その責任を。
自分で書いた。
そして。
後には。
新之介まで。
役にされることを。
止めようとしていた。
善人ではない。
悪人でもない。
母だった。
失敗し。
迷い。
選び。
選ばされ。
それでも。
後から。
自分の間違いを。
書き直そうとした。
◇
「兄上」
新之介が言う。
「何です」
「母上を」
「どう思います」
新三郎は。
すぐに答えない。
「今は」
「腹が立つ」
「はい」
「会いたい」
「はい」
「でも」
「もう会えない」
「はい」
「だから」
「余計に腹が立つ」
「はい」
「それで」
「よい?」
「よいと思います」
「そなたは」
「私は」
新之介は。
母の署名を見る。
「感謝も」
「怒りも」
「あります」
「両方?」
「はい」
「面倒だな」
「家族ですから」
新三郎が。
初めて。
弟の肩を。
軽く叩いた。
「それは」
「理由になるのか」
「今だけは」
「少し」
二人。
小さく笑う。
◇
その時。
外。
馬。
一頭。
急ぐ音。
「榊原殿!」
水野の使者。
「何が!」
「江戸城!」
「仮交渉会議より!」
「米利堅側が!」
「どうしました」
「新たな条件を!」
「何を」
「帰国希望者を」
「日本へ返す代わりに!」
一呼吸。
「日本側も!」
「海の御影が保有する!」
「影武者・代替人の記録を!」
「米利堅側へ提出せよと!」
新之介の顔が。
変わる。
「本人の情報を?」
「はい!」
「なぜ」
「本人確認のため、と!」
新三郎が。
子替帳を見る。
名前。
顔。
声。
記憶。
傷。
人生。
すべて。
また。
誰かが。
安全のため。
交渉のため。
国のため。
差し出そうとしている。
「新之介」
兄が言う。
「何です」
「これは」
「断るか」
新之介は。
すぐ答えた。
「私一人では」
「決めません」
新三郎が。
少し笑う。
「やはり」
「でも」
新之介は。
子替帳を閉じた。
「一つだけ」
「何」
「本人抜きで」
「渡すことには」
「私は」
「反対します」
迷わなかった。
その言葉だけは。
誰かの役としてではない。
榊原新之介。
一人の人間として。
新之介自身が。
言った。
(第九十三章へ続く)

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