第1章 水の音
最初に異変に気づいたのは、音だった。
深夜二時十三分。
岸本悠真は、仕事用モニターの前で顔を上げた。
部屋は静かだった。いや、静かすぎたと言うべきかもしれない。東京都新宿区の古いワンルーム。窓の外では、遠くの幹線道路を走るトラックの低い唸りが、途切れ途切れに響いている。
そのわずかな生活音の隙間に、確かに聞こえた。
――ポタ。
悠真は視線を動かした。
台所の蛇口かと思った。だが違う。音はもっと遠く、もっと湿っている。排水管の奥から響いてくるような、水気を含んだ音だった。
――ポタ。
また聞こえた。
悠真は椅子を回転させ、背後を見た。
六畳の狭い部屋。脱ぎ散らかした服。コンビニ弁当の空き容器。床に転がる外付けハードディスク。どこにも異常はない。
なのに、妙な圧迫感があった。
まるで誰かが、部屋のどこかに立っているような。
悠真は小さく舌打ちした。
「疲れてるな……」
ここ数日、ほとんど眠っていなかった。
フリーの動画編集者になって三年。企業案件から心霊配信まで、依頼が来れば何でも編集する。最近は特に、ネット配信用の動画編集ばかりだった。
事故映像。
監視カメラ。
心霊検証。
失踪事件。
再生数が伸びるものほど、人間の暗い好奇心を刺激する。
悠真はそれを理解していたし、利用もしていた。
モニターの中で、一時停止した女がこちらを見ていた。
ホテルの監視カメラ映像。
白いワンピース姿の若い女。
エレベーターの中で、何かに怯えるように左右を見回している。
悠真は煙草を探したが、切れていることを思い出した。
代わりに缶コーヒーを口に含む。
ぬるい。
机上のデジタル時計は二時十三分を表示していた。
その瞬間。
モニターの女が動いた。
悠真は凍りついた。
一時停止していたはずだった。
再生バーも動いていない。
なのに女だけが、不自然に顔をこちらへ向けた。
ゆっくりと。
まるで、画面の外にいる誰かを見つけたみたいに。
悠真は反射的にマウスを掴んだ。
クリック。
映像が動き出す。
女はエレベーターのボタンを何度も押していた。
開ボタン。
閉ボタン。
開ボタン。
そして突然、廊下へ飛び出す。
誰かを避けるように。
だが監視カメラには誰も映っていない。
女は廊下の奥を見つめ、口を動かした。
音声はない。
ただ、何かを必死に訴えている。
再びエレベーターへ戻る。
今度は隅に身を縮める。
怯えた子供のように。
そして――。
画面が一瞬乱れた。
ノイズ。
水滴のような歪み。
その瞬間だけ、女の背後に黒い影が映った気がした。
悠真は息を止めた。
影は、髪だった。
濡れた長い髪。
次の瞬間には消えていた。
「……なんだよ」
思わず声が漏れる。
悠真は再生を止め、タイムラインを戻した。
問題の箇所を拡大する。
ノイズ。
白飛び。
圧縮エラー。
だが、何度確認しても、そこに何かがいる。
女の肩越し。
エレベーターの奥。
暗がりの中に。
人の輪郭のようなもの。
悠真は背筋に冷たいものを感じた。
この映像は、ネット掲示板経由で送られてきたものだった。
依頼主は匿名。
件名は一行だけ。
『修復してください』
添付ファイル名は、
SHIRAN_CAM_0213
ホテル白蘭。
都内に実在する古いホテルだ。
悠真も名前だけは知っていた。
昔から妙な噂の多い場所だった。
自殺。
失踪。
孤独死。
特に近年は、心霊配信者が頻繁に出入りしている。
悠真は再び映像を見た。
女はエレベーターの外を覗いている。
何かを確認するように。
逃げ場を探すように。
そして突然、こちらを見た。
悠真は思わず椅子を引いた。
違う。
気のせいじゃない。
女は確かにカメラを見ていた。
いや。
カメラではない。
もっと奥。
映像を見ている側を。
悠真の喉が乾いた。
その時。
――ポタ。
また水音がした。
今度は近い。
悠真はゆっくり立ち上がった。
ユニットバスの扉を開ける。
暗い浴槽。
曇った鏡。
蛇口からは何も落ちていない。
なのに床が濡れていた。
裸足の足裏に冷たさが張りつく。
「……は?」
天井を見る。
染みがある。
茶色い、小さな染み。
昨日まではなかった。
――ポタ。
今度は真上から聞こえた。
悠真は顔をしかめた。
このアパートの上階は空室のはずだった。
一ヶ月前、独居老人が死んで以来、誰も入居していない。
なのに。
ギシ。
と、天井が鳴った。
誰かが歩いている。
悠真は息を止めた。
ゆっくり。
一歩ずつ。
部屋の中央を横切る足音。
ギシ。
ギシ。
そして。
ぴたりと止まった。
悠真の真上で。
沈黙。
エアコンの低い駆動音だけが聞こえる。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
通知。
非通知番号。
悠真は眉をひそめながら通話を取った。
「もしもし」
返事はない。
ザー……というノイズだけ。
まるで遠くで水が流れているような音。
「誰ですか?」
数秒の沈黙。
そのあと。
女の声がした。
『……まだ、見えてないの?』
悠真は全身の血が冷えるのを感じた。
「誰だよ」
『上……』
ブツッ。
通話が切れる。
同時に。
天井から、
ドン。
と重い音が響いた。
悠真は反射的に見上げた。
天井の染みが広がっている。
じわじわと。
まるで水の中から、何かが押し当てられているみたいに。
そして。
染みの中央から。
黒い髪の毛が一本、
垂れてきた。
(第2章につづく)

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