――第五十七章 高津屋の裏貼り――
表具屋というものは、古いものを新しく見せ、新しいものを古く馴染ませる。
伊織は西徳寺を出て高津屋へ向かう道すがら、そのことを考えていた。破れた掛軸を継ぎ、擦り切れた経本を巻き直し、綻びた紙背に新しい裏打ちをする。表具とは、いわば“見える顔”を整える商いだ。だからこそ、白紙や札の流れがそこを通るのは理にかなっていた。顔を整える手は、隠すことにも長けている。
浅草の裏手へ入ると、町の色が少し変わった。
寺町の静けさとも、神田の紙の匂いとも違う。糊の匂い、古紙の匂い、乾いた竹の匂いが混じっている。高津屋は、その一角にあった。表から見れば何の変哲もない店である。軒先には修繕待ちの軸箱が二つ、暖簾はくたびれているが、掃き清められている。古くからあるまともな店の顔だ。
「まともすぎて嫌な顔だな」
新兵衛がぼそりと言った。
「そういう顔の方が、物はよく隠れる」
伊織は答えた。
二人はまず、客として入った。
店の奥では、若い弟子が紙を裁っている。手は早いが、まだ荒い。親方らしい男は見えぬ。代わりに番台に座る女が一人。年のころは四十前後か。目元に疲れがあるが、声は柔らかい。
「ご用は」
「寺の経本の綴じを少し見たい」
伊織が言うと、女はすぐに奥の棚を示した。商い慣れた動きだ。だがその目が、一瞬だけ二人の足元を見た。侍の足ではないか、町人の足ではないかを量る目だった。
伊織は棚の経本を手に取り、紙背を見た。
裏打ちに使われている紙は、ごく普通のもの。
だが一冊だけ、裏紙の端に小さな字が透けて見える。
経文ではない。
帳面の切れ端だ。
(使い回している)
表具屋なら珍しくはない。
古紙を裏打ちに使うことはある。
だが、帳面の切れ端となれば話は別だ。
わざとではなくても、紙の流れがここへ集まっている証になる。
「親方は」
伊織が何気なく尋ねると、女はわずかに笑った。
「外へ出ております」
「宗次という男を知っているか」
その名を出した瞬間、女の笑みが止まった。ほんの一瞬だが、止まった。
新兵衛もそれを見ている。
女はすぐに顔を戻した。
「さあ……よくある名ですから」
「この辺りに紙を持ち込んでいた」
伊織はさらに言った。
「寺の札を書く手でもあったらしい」
女はそれ以上答えなかった。代わりに奥へ声をかける。
「弥七、茶をお出しして」
弟子が顔を上げる。
茶を出す必要はない。
つまり、時間を作るつもりだ。
奥へ知らせる時間か、逃がす時間か、あるいは様子を見る時間か。
「いらぬ」
伊織は静かに言った。
「ただ聞きたいだけだ」
「お客様」
女の声が少しだけ硬くなる。
「うちは、まっとうに表具をしているだけです」
「まっとうな店ほど、紙が集まる」
伊織がそう返すと、弟子の手が止まった。
若い弟子は隠し事に慣れていない。
そこが綻びだ。
新兵衛が横で、経本をめくるふりをしながら奥を見ている。
店の奥、障子の向こうに人の気配がひとつ。
親方か。
あるいは宗次か。
「榊原殿」
低い声が、障子の向こうからした。
伊織の背筋が静かに張る。
「……顔を見せぬか」
障子がゆっくり開いた。
出てきたのは、五十前後の痩せた男だった。顔色は悪くない。だが頬がこけ、目の下に薄い影がある。町人の着物を着ているが、立ち姿にどこか寺子屋の師匠の癖が残っていた。人に文字を教える者特有の、少し前へ出る肩である。
「宗次」
伊織が言うと、男は小さく頭を下げた。
「そう呼ばれておりました」
過去形。
その言い方が、伊織には少し嫌だった。
もう自分は別の役だと言わんばかりだ。
「西徳寺の札を書いたな」
「書きました」
宗次はあっさり認めた。
「寺子屋の帳面もつけていた」
「つけました」
「いまは高津屋で何をしている」
宗次はすぐには答えなかった。
代わりに、店の中をぐるりと見回した。
女。
弟子。
新兵衛。
伊織。
その順で目を置き、やがて言った。
「顔を整えております」
やはりそうか、と伊織は思った。
表具屋にふさわしい言い方だ。
だがそれは同時に、紙の流れを“見苦しくないようにする”という意味でもある。
「寺の顔を借り、紙の顔を整え、水へ流した」
伊織が言うと、宗次はわずかに笑った。
「乱暴な言い方ですな」
「違うか」
「違わぬかもしれません」
宗次はそう言って、店の奥の小卓へ腰を下ろした。逃げる様子はない。最初から、逃げる場所ではなく話す場所だと決めていたのかもしれぬ。
「西徳寺は貧しかった」
宗次がぽつりと言う。
「紙一枚、墨一滴を惜しむ寺でした。子どもに字を教え、薬草を分け、年寄りに読み書きを手伝う。……立派なことです。だが立派なだけでは腹は満ちぬ」
新兵衛が鼻を鳴らす。
「また腹か」
「ええ」
宗次は平然と言った。
「結局はそこへ戻る」
伊織は黙って聞いた。
宗次の声には、土井や杉浦のような冷たさはない。
かといって玄応のような澄みもない。
ひどく疲れた声だった。
長く正しいことのそばにいて、その正しさだけでは寺も子どもも保たぬと知ってしまった者の声。
「寺子屋を閉じたあと、寺には紙だけが残った」
宗次は続けた。
「帳面の癖も、札の癖も、私の手に残った。そこへ、表具屋が口をくれた。紙を選り、札を書き、寺の名前を“使う”だけで、少し銭が入ると」
女が、そこで初めて口を挟んだ。
「宗次さん」
声に痛みがある。
つまり、この女も事情を知っている。
ただの店の番ではない。
「もういいよ」
宗次は首を振った。
「ここまで来たら、隠しても同じだ」
伊織は女へ目を向けた。
「高津屋の者か」
女は少し迷ってから頷いた。
「主人の妹です」
「主はどこだ」
「朝から裏の仕事へ」
女は答えた。
裏の仕事。
隠すつもりもない言い方だった。
つまり高津屋の“表”と“裏”は、もう家の中で分かちがたくなっているのだろう。
「宗次」
伊織が言う。
「お前は、自分が悪いことをしていると知っていたか」
宗次は、すぐには答えなかった。
障子の外の光を見て、それからようやく口を開く。
「知っていたと思います」
「思う、か」
「気づきたくない時、人は“知っていた”を後に回します」
その言い方に、伊織は息を呑んだ。
おまつも似たことを言った。
気づかなかったのではない。
気づきたくなかった。
宗次はさらにその先で、知っていたことすら曖昧にしている。
それだけ長く“少しだけ”を続けていたのだろう。
「なぜ寺の札を使った」
「寺の顔は、人を安心させる」
宗次は言った。
「紙屋の札より、寺の札の方が人は疑わぬ。寺子屋用、薬草控え、写経紙――そう書いてあれば、誰もわざわざ中身を見ない。……それを知っていたのは、私です」
新兵衛が、苛立ちを隠さずに言う。
「だから使ったか」
「はい」
宗次は答えた。
「最初は、一度だけのつもりでした」
「皆そう言う」
伊織が低く言うと、宗次は苦く笑った。
「皆、でしょうな」
沈黙が落ちる。
店の外で、誰かが通る音がする。
町はいつも通りに動いている。
その何でもなさの中で、こういう紙と札の話だけが、ひどく重い。
「高津屋の主は、どこへ紙を回す」
伊織が問う。
宗次は首を振った。
「すべては知らぬ。だが寺の札を使った紙は、一度ここで表具の箱に入れ替えられ、水へ出る。そこから先は、嘉兵衛と徳兵衛の口だ」
「嘉兵衛は逃げた」
「でしょうな」
「どこへ行く」
「おそらく、品川筋ではなく本所の外れです」
宗次は言った。
「火を嫌う男ですから、水路の近くに潜る。だが表具屋の顔はもう使えぬ。なら、次は“紙の裏”ではなく“木の表”へ行くでしょう」
伊織の眉が動く。
「木の表?」
「箱屋です」
宗次が答えた。
「紙を隠すには、木箱がいちばん都合がよい。しかも表具屋の仕事と近い。怪しまれぬ」
また一つ、流れが先へ伸びる。
紙の口を押さえても、箱へ逃げる。
箱を押さえれば、また別の顔へ。
終わらぬ。
だがだからこそ、一つずつ顔を見ていくしかない。
「嘉兵衛の箱屋は」
伊織が問うと、宗次は言った。
「《松屋箱店》……本所の川沿いです」
その名を胸へ刻みながら、伊織は宗次を見た。
この男をどうするか。
西徳寺の札を書き、寺の顔を流れに使った。
罪は重い。
だがその顔は、どこかでまだ寺子屋の師匠のまま、止まっているようにも見える。
「西徳寺へ戻りたいか」
伊織が、不意に問うた。
宗次の目が揺れた。
その揺れは、今までで一番人間らしかった。
「……戻れるものなら」
「戻れぬかもしれぬ」
「でしょうな」
「それでも、顔は見せるか」
宗次は長く黙った。
やがて、深く頭を下げた。
「玄応様には、いずれ」
いずれ。
その曖昧さが、いまの宗次の限界なのだろう。
だが、限界があるだけまだましかもしれぬ。
土井も帳合も、自分の限界を見なかった。
「今夜は主水殿へ出す」
伊織が言うと、宗次は頷いた。
「承知しております」
女がその横で、静かに泣いていた。
声は出さぬ。
ただ袖で目を押さえている。
高津屋もまた、紙の顔を整えるうちに、自分たちの顔までどこかで見失ってしまったのかもしれぬ。
店を出ると、外はもう夕暮れだった。
空が赤い。
だが火の赤ではない。
ただの夕焼けだ。
それなのに伊織は、一瞬だけ火と見まがった。
紙と札と流れのことばかり見ていると、ただの赤まで別のものに見えてくる。
それは危ない徴かもしれぬ。
「おい」
新兵衛が肩を小突いた。
「空まで帳面に見えてきたか」
伊織は苦笑した。
「少しな」
「じゃあ今日はもう終いだ」
「嘉兵衛が」
「明日追え」
新兵衛はきっぱり言う。
「戻る寺と流す寺を見てきたばっかだろ。今度は戻る時間だ」
その通りだった。
嘉兵衛は逃げぬかもしれぬ。
逃げるかもしれぬ。
だが、ここで無理に追えば、また紙の顔になる。
いま必要なのは、寺へ戻り、宗次の口をどう主水へ渡すか考えることだ。
伊織は、一度だけ西の空を見てから頷いた。
「戻る」
その言葉は、昔より重く、今は昔より少しだけ温かかった。
波瀾万丈の物語は、また一つ、寺の顔をした流れの口を見つけた。
だがそれと同時に、戻る寺の顔も確かめることができた。
その違いを忘れぬ限り、まだ自分は大丈夫だと、伊織は静かに思った。
(第五十八章につづく)

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