第九十四章 海送り第一号
「海へ送られた」
「最初の一人が」
「何をされたのか」
「そこから」
「聞きます」
新之介が。
そう言った翌朝。
米利堅側から。
一艘の小舟が来た。
乗っているのは。
老人。
一人。
通詞。
一人。
護衛。
一人。
老人は。
六十を。
とうに越えている。
背は低い。
髪は。
ほとんど白い。
顔には。
火傷のような跡。
右手。
薬指が。
半分ない。
「沢渡玄隆殿?」
新之介が問う。
老人は。
すぐには答えなかった。
「今は」
「そう名乗っている」
「生まれ名」
「松平左京」
水野が。
思わず顔をしかめた。
「また左京か」
老人が。
笑う。
「そちらには」
「何人いる」
「確認できているだけでも」
「面倒です」
「そうか」
◇
場所は。
品川沖。
また。
中立舟。
新之介。
家定。
水野。
清太郎。
海の兵庫。
そして。
海から来た。
沢渡玄隆。
ただし。
城へ捕らえられている沢渡とは。
別人かもしれない。
「最初に」
新之介が言った。
「そなたが」
「本物の沢渡玄隆かは」
「今」
「決めません」
老人が。
少し目を細める。
「では」
「何を聞く」
「海送り第一号」
「その記録が」
「そなたを指している」
「それについて」
「はい」
「よい」
「なぜ」
「その話をするために」
「来た」
◇
「何年前」
「四十三年前」
家定が。
息を呑む。
「弁財丸より」
「ずっと前」
「そうだ」
「何歳」
「十五」
「何をしていた」
「江戸」
「旗本屋敷」
「小姓見習い」
「松平左京という名は」
「生まれた時から?」
「そうだ」
「父は」
「松平宗右衛門」
「母」
「お絹」
「記録は」
「ある?」
「あった」
「今は」
「知らぬ」
◇
「なぜ」
「海へ送られた」
老人は。
海を見る。
「一人を」
「見たからだ」
「誰」
「将軍」
全員が。
少し身構える。
「どの将軍」
「家斉公が」
「まだ若かった頃」
「本人?」
老人が。
新之介を見る。
「そなた」
「本当に」
「そこから聞くのだな」
「はい」
「当時」
「私は」
「本人だと思った」
「今は」
「分からぬ」
「では」
「そう残します」
◇
「私は」
老人が続ける。
「夜」
「廊下で」
「一人の男を見た」
「将軍家と」
「同じ顔」
「同じ声」
「でも」
「将軍家は」
「その時」
「別の部屋にいた」
「確認した?」
「翌日」
「御小姓へ」
「聞いた」
「何と」
「『昨夜』」
「『上様は』」
「『御座所を出ていない』」
「では」
「二人いた」
「そう思った」
「それを」
「誰へ話した」
「父」
「父は」
「何と」
「忘れろ」
「忘れられなかった?」
「十五だぞ」
「無理だ」
◇
「三日後」
「私は」
「病になった」
「本当に?」
「薬を」
「飲まされた」
「誰に」
「医師」
「名は」
「沢渡玄隆」
新之介の目が。
鋭くなる。
「今の」
「そなたの名」
「そうだ」
「その人は」
「実在した?」
「ああ」
「年齢」
「四十前後」
「医者」
「将軍家近くへ」
「出入りしていた」
「そなたを」
「診た」
「ああ」
「何を」
「『熱が高い』」
「『人へうつる』」
「そう言われた」
「実際は」
「熱などなかった」
「では」
「隔離された」
「七日」
「その後」
「夜」
「長持へ」
「入れられた」
◇
水野が。
顔をしかめる。
「人を」
「荷のように」
「はい」
老人は。
何でもないことのように。
言った。
「最初の三日は」
「悔しかった」
「その後は」
「息ができれば」
「どうでもよくなった」
誰も。
すぐには言葉を出せなかった。
「どこへ」
「長崎」
「そこまで」
「長持?」
「途中で」
「人として出された」
「誰に」
「商人」
「名は」
「分からぬ」
「名前を」
「呼ばれた?」
「松平左京とは」
「呼ばれなくなった」
「何と」
「十五」
「番号?」
「年齢だと」
「最初は思った」
「違った?」
「十五番目」
◇
「海送りは」
「すでに十四人いた?」
「そうだ」
「では」
新之介が言う。
「そなたは」
「第一号では」
「ない?」
「人としては」
「な」
「では」
「何が第一号」
老人は。
少し笑った。
「記録を」
「消された最初の者」
「意味が」
「分かりません」
「それ以前の十四人は」
「流罪」
「密航」
「口減らし」
「それぞれ」
「理由が」
「帳面に残った」
「私は」
「違う」
「何もなかったことに」
「された」
「なぜ」
「将軍の代替を」
「見たから?」
「おそらく」
「それだけ?」
「分からぬ」
◇
「家からは」
「どう記録」
「病死」
「遺体は」
「なし」
「確認」
「沢渡玄隆が」
「した」
新之介が。
ゆっくり言う。
「そなたを」
「死んだことにした医師の名を」
「後に」
「そなたが使った?」
「そうだ」
「なぜ」
老人の顔から。
笑いが消えた。
「奪った」
「復讐?」
「最初は」
「そうだった」
「本人を」
「殺した?」
老人は。
答えない。
「沢渡殿」
「今」
「その名を使っている方として」
「聞きます」
「四十年前の沢渡玄隆を」
「そなたは」
「殺しましたか」
長い沈黙。
「分からぬ」
「何」
「私は」
「刺した」
「はい」
「川へ落ちた」
「はい」
「遺体は」
「見ていない」
「では」
「殺したと」
「断定しない」
「だが」
「殺すつもりでは」
「あった」
「それは」
「残します」
「そうしろ」
◇
「その後」
「なぜ」
「沢渡玄隆を」
「名乗った」
「男の荷に」
「医師の道具」
「印」
「文」
「全部あった」
「それで」
「本人になった?」
「最初は」
「追われないため」
「沢渡は」
「江戸側で」
「信用があった」
「その名なら」
「船へ乗れた」
「薬も買えた」
「役人も」
「話を聞いた」
「大きな名」
「はい」
「人を」
「大きく見せる」
「そうだ」
竹吉の。
言葉。
また。
同じところへ。
戻ってくる。
◇
「では」
家定が問う。
「今」
「江戸城にいる沢渡玄隆は」
「誰です」
老人は。
家定を見る。
「会っていない」
「知らない?」
「顔は」
「米利堅側の写しで見た」
「同じ人?」
「違う」
「では」
「そなたの代替?」
「分からぬ」
「なぜ」
「私も」
「沢渡の名を」
「一人へは」
「戻さなかったからだ」
新之介の眉が。
動く。
「何人へ」
「使わせた」
「四人」
水野が。
天を仰ぐ。
「また増えた」
「増えたのでは」
「最初から」
新之介が言いかけ。
水野が。
先に言った。
「分かっている!」
「最近」
「早いですね」
「嬉しくない!」
◇
「四人へ」
新之介が戻す。
「なぜ」
「医者の役を」
「残したかった」
「人を治すため?」
「半分」
「残り」
「死んだことにする仕組みを」
「逆に使うため」
「何」
「消される人を」
「生かす」
「どうやって」
新之介が。
すぐ手を上げる。
「細かい方法は」
「要りません」
老人が。
笑った。
「慎重だな」
「最近」
「仕組みを知ると」
「皆」
「使いたくなるので」
◇
「沢渡の名を」
「使った者は」
「死を確認する役にも」
「生存を隠す役にも」
「なった」
「では」
「城の沢渡玄隆が」
「多くの死亡証明を」
「偽ったのは」
「そなたの仕組み?」
老人は。
しばらく黙った。
「可能性はある」
「指示した?」
「していない」
「でも」
「そうできる場所を」
「作った?」
「……ああ」
新之介が。
静かに言う。
「命令を出した者だけが」
「責任を負うのではありません」
「出せる場所を」
「作った者にも」
「別の責任があります」
老人が。
苦く笑う。
「海の宗一にも」
「同じことを申したか」
「似たことを」
「なら」
「私も」
「同じか」
「同じ部分があります」
◇
「ただし」
新之介は続ける。
「城の沢渡殿が」
「実際に何をしたかは」
「その方自身の行い」
「そなたが」
「全部背負う話でもない」
「分ける?」
「はい」
「便利だな」
「楽には」
「なりません」
「……そうだな」
◇
「海送り」
清太郎が問う。
「そなたが」
「十五番として」
「海外へ出た後」
「どうなった」
「増えた」
「誰が」
「同じように」
「記録から消された人」
「何人」
「私が知るだけで」
「三十一」
サラの番号と。
別。
「三十一人」
「いつまで」
「十五年前より前」
「弁財丸は」
「その延長?」
「一部は」
「違う」
「何が違う」
「海送りは」
「消すため」
「弁財丸は」
「売るため」
全員が。
静かになる。
「ただし」
老人は言う。
「途中から」
「二つが混じった」
「消したい人を」
「売る」
「売る人を」
「消す」
「どちらが先か」
「分からなくなった」
「御影は」
「関係」
「あった」
「幕府は」
「関係」
「あった」
「商人」
「関係」
「あった」
「誰が」
「中心」
「それを」
「一人にすると」
「また間違う」
◇
新之介が。
老人を見る。
「そなた」
「私たちと」
「同じことを」
「考えるように?」
「四十年」
「同じ失敗を」
「見ればな」
「では」
「なぜ」
「沢渡という名を」
「四人へ」
「配った」
老人が。
目を閉じる。
「一人の医師が」
「権力を持つのが」
「怖かった」
「だから」
「分けた」
「はい」
「でも」
「結果」
「四人が」
「同じ役を」
「使った」
「はい」
「また」
「一から四へしただけ?」
「そうだ」
「人選は」
「誰が」
「私」
「本人へ」
「役を降りる道は」
「十分に」
「作っていなかった」
「……」
「なら」
「同じですね」
「言うな」
「でも」
「はい」
「同じだ」
◇
家定が。
静かに問う。
「そなたが」
「今」
「日本へ戻るのは」
「何のためです」
老人は。
海を見る。
「沢渡を」
「殺すため」
水野の手が。
刀へ。
新之介は。
老人の顔を見る。
「どの沢渡を」
「名を」
「です」
老人が。
少し笑う。
「人ではない」
「沢渡玄隆という役を」
「終わらせる」
「どうやって」
「私が」
「本来の松平左京だと」
「名乗る」
「それで」
「沢渡は偽物だと」
「証明する」
新之介は。
すぐ答えた。
「反対します」
「なぜ」
「そなたが」
「本来の松平左京だと」
「決まっていない」
「記録が」
「ある」
「記録を」
「今まで」
「疑ってきた人が」
「それを言う?」
老人が。
黙る。
「それに」
新之介は続ける。
「そなたが」
「沢渡を降りても」
「城の沢渡殿が」
「何者かは」
「別です」
「でも」
「役は」
「弱くなる」
「だから」
「そなたが」
「終わらせる?」
「……」
「始めた者が」
「終わらせる者まで」
「やらなくてよい」
老人の顔が。
変わった。
「誰の言葉だ」
「私が」
「別の左京殿へ」
「言いました」
「……左京へ」
「はい」
「何人いる」
「面倒です」
◇
「では」
老人が問う。
「私は」
「何をすれば」
「まず」
「城の沢渡殿と」
「会いますか」
「……」
「怖い?」
「腹が立つ」
「なぜ」
「私の名を」
「使って」
「人を消したかもしれぬ」
「でも」
「そなたも」
「元の沢渡殿の名を」
「奪った」
「そうだ」
「なら」
「相手へ」
「最初から」
「盗人と言うのは」
「少し違う」
老人が。
苦笑する。
「本当に」
「腹が立つな」
「よく言われます」
◇
江戸城。
その日の午後。
二人の沢渡玄隆。
対面。
一人。
海送り第一号。
生まれ名。
松平左京と申告。
一人。
これまで。
江戸で。
医師。
役人。
死亡確認。
代替訓練。
記録焼却。
多くへ関わった。
沢渡玄隆。
城の沢渡は。
痩せている。
以前より。
さらに。
頬が落ちた。
手には。
縄。
だが。
目は。
まだ鋭い。
「久しぶりだな」
城の沢渡が言った。
全員が。
止まる。
海の沢渡も。
目を細める。
「覚えているのか」
「ああ」
「いつ」
「二十四年前」
新之介が。
すぐ問う。
「どこで」
「長崎」
「何を」
城の沢渡が。
海の男を見る。
「この人から」
「沢渡玄隆を」
「もらった」
◇
「もらった?」
水野が言う。
「本人から?」
「ああ」
海の沢渡が。
目を閉じた。
「本当ですか」
新之介。
「本当だ」
「では」
「城の沢渡殿は」
「勝手に名を盗んだのでは」
「ない?」
「少なくとも」
「最初は」
城の沢渡が笑う。
「最初は、か」
「その後」
海の沢渡が言う。
「私は」
「やめろと」
「言った」
「いつ」
「十二年前」
「なぜ」
「死亡証明を」
「使いすぎた」
「何人」
城の沢渡が。
答える。
「分からぬ」
「分からない?」
「本当に」
「数えていない」
新之介の顔が。
険しくなる。
「人を」
「死んだことにして」
「数えていない?」
「ああ」
「なぜ」
「必要だったからだ」
◇
「何が」
城の沢渡の声は。
静か。
「生きていると」
「記録されれば」
「殺される者がいた」
「はい」
「逆に」
「死んだと」
「記録すれば」
「生きられる者がいた」
「はい」
「だから」
「私は」
「死を」
「薬にした」
新之介は。
以前。
この男が。
「迷いを病」と呼び。
記録を焼いたことを。
思い出す。
「薬?」
「はい」
「副作用は」
「大きい」
「何」
「家族が」
「その人を」
「失う」
「名が」
「別人へ」
「使われる」
「本人が」
「戻れなくなる」
「そなたは」
「それを」
「知っていた?」
「知っていた」
「それでも?」
「それでも」
◇
海の沢渡が。
低く言う。
「だから」
「やめろと言った」
「何と」
城の沢渡。
「『死を使いすぎるな』」
「曖昧だ」
「では」
「何と言えば」
「『この人は』」
「『死んだことにするな』」
「一人ずつ」
「言うべきだった」
海の沢渡が。
止まる。
「そなたは」
城の沢渡が続ける。
「仕組みだけ渡し」
「後は」
「私へ任せた」
「私は」
「使った」
「そなたが想定しなかったほど」
「使った」
「だから」
「全部」
「私の責任か」
新之介が。
口を挟む。
「全部ではありません」
二人が見る。
「役を」
「渡した責任」
「使った責任」
「止め方を」
「曖昧にした責任」
「止めろと言われた後も」
「続けた責任」
「分けます」
城の沢渡が。
笑った。
「噂通りだな」
「誰から」
「庄吉」
「どこで」
「捕らえられてから」
「皆」
「よく喋りますね」
◇
「一つ」
新之介が問う。
「城の沢渡殿」
「何だ」
「生まれた名は」
長い。
沈黙。
「今さら」
「はい」
「何のため」
「沢渡玄隆として」
「何をしたかは」
「別に残します」
「生まれ名を」
「出せば」
「家族が」
「巻き込まれる」
「では」
「今は」
「非公開で」
「本人だけ」
「記録する?」
城の沢渡が。
意外そうな顔。
「そんなことが」
「できるのか」
「やります」
「役所が」
「許す?」
家定が言った。
「今」
「考えます」
城の沢渡が。
家定を見る。
「将軍が」
「そんなことを」
「一人で決めるな」
海の沢渡が言う。
家定が。
苦笑する。
「分かっています」
◇
「では」
新之介が戻す。
「生まれ名を」
「今」
「皆へ」
「言わなくてよい」
「でも」
「そなた自身は」
「覚えている?」
城の沢渡が。
目を閉じる。
「ああ」
「戻りたい?」
「いや」
「なぜ」
「その名で」
「生きた時間が」
「短すぎる」
「沢渡の方が」
「長い?」
「ああ」
「では」
「沢渡玄隆を」
「今後も」
「使いたい?」
城の沢渡が。
海の沢渡を見る。
「それを」
「この人が」
「許すか」
新之介が。
即座。
「そなたの名を」
「この方一人が」
「決める話ではありません」
海の沢渡が。
少し笑った。
「そうだ」
「私は」
「終わらせに来た」
「でも」
「今」
「少し違うと思う」
「何が」
「沢渡玄隆という名を」
「殺しても」
「この男が」
「したことは」
「消えぬ」
「はい」
「私が」
「この名で」
「助けた者も」
「消える」
「はい」
◇
「なら」
海の沢渡が。
城の沢渡へ。
「そなた」
「この名を」
「使いたいか」
「……」
「誰かを」
「死んだことにするためではなく」
「医者として」
「使いたいか」
城の沢渡が。
初めて。
少しだけ。
迷った。
「私は」
「もう」
「医者ではない」
「なぜ」
「人を」
「治すより」
「人を役へ」
「治療した」
新之介が。
その言葉を。
聞き逃さない。
「治療?」
「私は」
「迷う人を」
「治したかった」
「迷いを」
「病と」
「思った」
「はい」
「今も?」
城の沢渡は。
答えない。
「沢渡殿」
「分からぬ」
新之介が。
少し驚く。
「初めてですね」
「何が」
「そなたが」
「分からぬと」
「言ったのは」
城の沢渡が。
苦く笑う。
「牢は」
「人を暇にする」
◇
「私は」
城の沢渡が続ける。
「迷いを」
「病と考えた」
「人が」
「迷うから」
「決められない」
「決められないから」
「多くが死ぬ」
「そう思った」
「今は」
「迷わず」
「私が決めたことで」
「別の人が」
「長く死んだように」
「生きた」
海の沢渡を見る。
「そなたのように」
「はい」
「名前を」
「失った」
「家族へ」
「戻れない」
「それも」
「生きながら」
「少し死ぬことかもしれぬ」
部屋が。
静かになる。
◇
「では」
家定が言う。
「必要な決定と」
「人を消す決定を」
「どう分ける」
「分からぬ」
「また」
新之介が。
少し笑う。
「何だ」
「よいと思います」
「馬鹿にしているか」
「いいえ」
「今まで」
「分からないのに」
「決めてきた人が」
「分からないと言った」
「そこから」
「やり直せます」
◇
その時。
清太郎が。
一枚の紙を持ってきた。
「榊原殿」
「何です」
「米利堅側から」
「海送り第一号について」
「追加記録」
「何が」
「第一号の」
「出航年月日」
「はい」
「出航船」
「はい」
「そして」
「送付命令」
海の沢渡の顔が。
変わる。
「誰の名」
清太郎が。
紙を見る。
「松平左京」
全員が。
止まる。
海の沢渡が。
自分の胸を指す。
「私?」
「年月日は」
「そなたが十五の時」
「なら」
「同じ名を」
「すでに」
「別の者が」
「使っていた?」
「そうなります」
◇
「署名だけでは」
新之介が言う。
「本人を」
「決めません」
「でも」
海の沢渡が。
震える声。
「私は」
「松平左京として」
「生まれた」
「はい」
「では」
「誰が」
「私の名で」
「私を」
「海へ捨てた」
それは。
あまりにも。
この物語らしい。
自分の名で。
自分が。
消される。
「命令文を」
清太郎が。
読み上げる。
――松平左京。
――病のため。
――家中より外す。
――海送り。
――本人のため。
「本人のため」
海の沢渡が。
笑った。
乾いた。
声。
「私のために」
「私を」
「消した」
◇
「もう一つ」
清太郎が言う。
「何です」
「命令の下」
「小さな追記」
「誰の」
「別筆」
「内容」
――この子は。
――将来。
――戻る。
――戻った時。
――沢渡玄隆へ渡せ。
城の沢渡が。
顔を上げる。
「何」
海の沢渡も。
動かない。
「つまり」
家定が言う。
「四十三年前に」
「誰かが」
「十五歳の左京殿が」
「将来」
「沢渡玄隆という名へ」
「つながることを」
「知っていた?」
「あるいは」
新之介が言う。
「そうなるよう」
「仕組んだ」
海の沢渡の顔が。
ゆっくり。
青ざめる。
「では」
「私は」
「自分で沢渡の名を」
「奪ったのでは」
「なく」
城の沢渡が。
低く続ける。
「最初から」
「その名へ」
「戻るよう」
「流された?」
誰も。
答えられない。
◇
清太郎が。
最後の欄を見る。
「命令立会い」
「二名」
「誰」
「一人」
――御影宗伯。
新之介の目が。
鋭くなる。
「もう一人」
清太郎が。
止まった。
「誰です」
「徳川」
一呼吸。
「家斉」
部屋。
完全に。
沈黙。
「本人?」
家定が。
自分で問う。
新之介が。
少しだけ。
笑った。
「そこから」
「確かめましょう」
海の沢渡は。
笑わなかった。
「榊原」
「はい」
「私は」
「四十三年」
「自分を海へ捨てた者を」
「探した」
「はい」
「もし」
「それが」
「私自身の名で」
「作られた役だったなら」
「はい」
「私は」
「誰を憎めばよい」
新之介は。
すぐには答えなかった。
そして。
静かに言った。
「名ではなく」
「誰が」
「いつ」
「何をしたかを」
「一つずつ」
「探しましょう」
「憎む相手まで」
「帳面で」
「決めないために」
海の沢渡は。
長く。
目を閉じた。
「……面倒だな」
「はい」
「だが」
「何です」
「四十三年で」
「初めて」
「少し」
「戻る場所が」
「見えた気がする」
新之介は。
何も言わなかった。
その言葉を。
急いで。
救いの話に。
変えたくなかった。
海送り第一号。
沢渡玄隆。
松平左京。
どの名も。
その男の全部ではない。
だが。
どの名の間にも。
確かに。
一人の人間が。
生きていた。
(第九十五章へ続く)

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