上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第九十三章

目次

第九十三章 渡してよい名

「本人抜きで」

「渡すことには」

「私は」

「反対します」

 新之介が。

 そう言った時。

 兄。

 新三郎は。

 すぐには答えなかった。

 鼠色の帳面。

 子替帳。

 その中には。

 名。

 顔。

 声。

 歩き方。

 傷。

 家族。

 弱み。

 そして。

 別の人間になるために。

 何を教えられたか。

 それが。

 書かれている。

「米利堅側は」

 新三郎が言う。

「なぜ欲しがる」

「本人確認」

「それだけだと思うか」

「思いません」

「なら」

「断る?」

「全部を」

「一括で渡すことは」

「反対です」

「一部なら」

「本人次第」

「では」

「この帳面にいる者を」

「全員探すのか」

「探せる人から」

「時間が」

 新三郎が言いかけ。

 自分で止まる。

「……言うと思った」

「何を」

「その言葉へ」

「そなたが嫌な顔をする」

「はい」

 ◇

 江戸城。

 仮交渉会議。

 新之介が戻ると。

 すでに。

 意見は割れていた。

「拒否すべきだ」

 水野。

「理由」

 家定。

「国の内側の記録を」

「外国へ渡す必要はない」

「本人確認が」

「できないと言われたら」

「別の方法を出す」

「何を」

「人を直接会わせる」

「全員?」

「必要な者だけ」

「誰が必要かを」

「相手に決めさせる?」

「……」

 水野が黙る。

 ◇

「私は」

 阿部が言う。

「限定して渡す案だ」

「どこまで」

「帰国者に関係するもの」

「何が」

「例えば」

「新三郎殿」

「竹吉殿」

「喜兵衛殿」

「梅殿」

「今」

「帰国を希望している者」

「本人の名」

「生年」

「出身」

「日本側との関係」

「必要最小限」

「本人の許可は」

 新之介が問う。

「取る」

「なら」

「一つの案です」

 阿部が。

 少し眉を上げる。

「珍しく」

「すぐ反対せぬな」

「本人に聞くなら」

「はい」

 ◇

 家定が。

 米利堅側の文書を読む。

「問題は」

「向こうが」

「『影武者・代替人の記録』と」

「明確に書いていることです」

「はい」

「ただの帰国者確認では」

「ない」

「そうです」

「何を」

「知っている?」

 新之介は。

 サラを見る。

 海の御影側として。

 会議へ参加。

「サラ殿」

「はい」

「米利堅側へ」

「どこまで」

「渡っています」

「私が確認した範囲では」

「家慶の代替」

「榊原新之介の代替」

「御影宗一」

「鷹見静山」

「一部」

「真崎半九郎は」

「断片だけ」

「誰が渡した」

「ジョナサン」

「前任の舵守」

「それと」

 サラが。

 少し止まる。

「私」

「そなたも?」

「はい」

「なぜ」

「海外で」

「本人確認を」

「しやすくするため」

「誰の」

「海へ出た御影」

「代替役」

「逃げた者」

「追ってきた者」

「混ざっていた」

「だから」

「識別のため」

「記録を共有した」

 新之介が。

 静かに問う。

「本人へ」

「聞いた?」

 サラは。

 目を閉じる。

「一部は」

「一部は?」

「聞いていない」

 ◇

「また」

 水野が。

 額を押さえる。

「何です」

 サラが睨む。

「いや」

「もう」

「どこへ行っても」

「同じ話だと思ってな」

「本人を守るため」

「本人へ聞かない」

「国を守るため」

「国の中の人へ聞かない」

「急ぐから」

「一人が決める」

「はい」

 新之介が言う。

「だから」

「ここで」

「また同じことをしない」

 ◇

 清太郎が。

 紙を広げる。

「では」

「分けます」

「何を」

 家定が問う。

「米利堅側が」

「何を求めているか」

「一」

「帰国希望者の本人確認」

「二」

「影武者・代替人制度の存在確認」

「三」

「今後」

「日本側の誰の命令を」

「正式と扱うか」

「その材料」

「四」

「海の御影が持つ記録と」

「日本側記録の照合」

「五」

「まだ何か」

 新之介が言う。

「分からない」

「分からない?」

「はい」

「相手の意図を」

「全部分かったと」

「しない」

 清太郎が。

 五の横へ。

 ――目的不明部分あり。

 と書く。

「それだけで」

 志乃が言う。

「少し怖さが減りますね」

「なぜ」

「何を欲しがっているか」

「一つだと思うより」

「分かれていた方が」

「聞ける」

 ◇

「では」

 家定が問う。

「日本側は」

「何を渡せる」

 沈黙。

「私は」

 新之介が言う。

「私自身の記録なら」

「一部」

「渡してもよい」

 水野が驚く。

「何」

「何を」

「今の顔」

「今の声」

「今の筆」

「ただし」

「代替候補の記録は」

「本人たちへ」

「聞く」

「昔の家族情報」

「必要がなければ」

「出さない」

「傷」

「身体特徴」

「本人確認に」

「本当に必要なら」

「一つずつ」

「確認」

「面倒だな」

「はい」

 ◇

「家慶甲殿は」

 家定が見る。

 家慶甲。

 黙っていた。

「私は」

「顔」

「声」

「現在の筆」

「出す」

「傷は」

「必要なら」

「ただし」

「沢渡の針位置」

「身体の秘密」

「全部は」

「渡さぬ」

「なぜ」

「それが」

「次の偽物を作る材料になる」

 新之介が。

 すぐ頷く。

「その通りです」

「では」

 家定が言う。

「本人確認のための情報が」

「代替作成の情報にもなる」

「はい」

「では」

「確認を強くしすぎると」

「偽物を」

「作りやすくする」

「はい」

 阿部が呻く。

「厄介だな」

「だから」

 新之介が言う。

「一つの特徴へ」

「頼らない」

「何を」

「顔」

「声」

「傷」

「筆」

「記憶」

「それぞれ」

「全部」

「真似られる可能性がある」

「では」

「何を信じる」

「信じません」

「またか」

「照らし合わせる」

 ◇

「さらに」

 新之介は続ける。

「その人が」

「過去に何をしたか」

「誰が」

「その行いを」

「覚えているか」

「そこも」

「入れる」

 家定が言う。

「失敗も?」

「はい」

「むしろ」

「失敗の方が」

「真似しにくいことも」

「あります」

 宗次郎の。

 言葉。

 弥吉。

 米。

 役目を盾にするな。

 半九郎。

 母が死んだ日の。

 父の不在。

 人は。

 成功より。

 失敗で。

 つながることもある。

 ◇

「でも」

 志乃が。

 手を上げる。

「何です」

「外国側に」

「そこまで」

「人の人生を」

「渡すのですか」

 新之介が止まる。

「……」

「本人確認のためなら」

「過去の失敗まで」

「聞かれる?」

「そうなります」

「私は」

「嫌です」

「なぜ」

「私が」

「誰か本人かを」

「確認するために」

「その人の」

「一番恥ずかしいことまで」

「外国へ話す必要は」

「ないと思う」

 新之介が。

 ゆっくり頷く。

「そうですね」

「では」

「どうする」

「日本側で」

「確認する」

「外国側へは」

「確認済みという」

「仕組みだけ」

「見せる」

「誰が」

「確認済みと」

「保証する」

「一人ではなく」

「複数」

 ◇

「また」

 水野が言う。

「見分?」

「はい」

「構成」

 清太郎が筆。

「本人」

「本人を知る者」

「役所」

「町側」

「必要なら」

「海側」

「反対者」

「なぜ反対者」

「同じ仲間だけで」

「本物と言い合わないため」

「なるほど」

 阿部が。

 少し頷く。

「ただし」

「誰でも」

「人の秘密を見られるわけではない」

「はい」

「情報ごとに」

「見る人を」

「分ける」

「顔や声」

「広く」

「身体」

「医師」

「家族」

「本人の許可」

「過去の犯罪」

「それは」

「別の見分」

「帰国確認と」

「混ぜない」

 ◇

「これを」

 家定が言う。

「米利堅側へ」

「提案する」

「その前に」

 新之介が言う。

「代替本人へ」

「聞きます」

「誰から」

「近い人」

「庄吉殿」

「新八殿」

「伊之吉殿」

「源七殿」

「平助殿」

「竹吉殿」

「新三郎殿」

「それから」

「久殿」

「久も?」

「代替半九郎として」

「記録されています」

「はい」

 ◇

 再起館。

 最初。

 庄吉。

「外国へ」

「私の資料を?」

「本人確認に」

「必要最小限」

「顔」

「声」

「筆」

「今のもの」

「過去の訓練記録は」

「渡したくない」

「理由」

「恥ずかしい?」

「違います」

「誰かに」

「また使われる」

「はい」

「では」

「渡さない」

「そんなに簡単に?」

「本人が」

「嫌と言ったので」

 庄吉が。

 少し戸惑う。

「国のために」

「必要だと」

「言われたら」

「その時」

「改めて」

「何が必要か」

「理由を聞く」

「嫌なら」

「断れる?」

「はい」

「……」

「何です」

「十五年前」

「その言葉を」

「聞きたかった」

 ◇

 新八。

「私は」

「顔も」

「出したくない」

「なぜ」

「海外へ」

「行くつもりはない」

「帰国確認にも」

「関係ない」

「はい」

「なら」

「なぜ私の顔が」

「外国へ必要なのです」

「今のところ」

「必要だと」

「説明できません」

「では」

「出しません」

「分かりました」

「それだけ?」

「はい」

「……」

「何です」

「役所に」

「『それだけ』と」

「言われたのは」

「初めてです」

 ◇

 伊之吉。

 七年。

 家定として生きた男。

「私の資料は」

「出してよい」

「全部?」

「はい」

 新之介が。

 すぐ言う。

「全部は」

「危ない言葉です」

 伊之吉が笑う。

「家定殿から」

「聞きました」

「では」

「どこまで」

「顔」

「声」

「字」

「海外で」

「家定として出した文」

「なぜ」

「私が」

「何をしたか」

「隠したくない」

「身体情報は」

「不要」

「家族は」

「出したくない」

「越後の家?」

「はい」

「私が」

「家定になったことで」

「関係ない家族へ」

「外国から」

「何か来るのは」

「嫌です」

「分けましょう」

 ◇

 源七。

 阿部伊勢守役。

「私は」

「外国交渉の記録を」

「全部見せたい」

「なぜ」

「私が」

「何を知っているか」

「外国側へ」

「分からせたい」

「それは」

「本人確認?」

「違う」

「自分の能力を」

「示したい」

「はい」

「では」

 新之介が言う。

「本人確認資料とは」

「別に」

「出します」

「何」

「外交経験資料」

「源七として」

「阿部伊勢守の名ではなく?」

「必要なら」

「当時阿部伊勢守の役を」

「使用したと」

「併記」

 源七が。

 長く考え。

「それが」

「よい」

 ◇

 平助。

「私は」

「足の記録を」

「出したくない」

「はい」

「理由を」

「聞かない?」

「言いたければ」

「聞きます」

「……」

「では」

「言います」

 平助が。

 右足へ触れる。

「この足は」

「私が」

「役になるため」

「傷つけた」

「はい」

「外国側に」

「これを」

「『堀田新三郎の特徴』と」

「記録されたくない」

「なぜ」

「そうなれば」

「また」

「誰かが」

「同じ傷を」

「作る」

 新之介が。

 黙って頷く。

「出しません」

 ◇

 竹吉。

「私は」

「出してよい」

「何を」

「黒川玄斎を」

「名乗っていた期間」

「人を斬った事実」

 玄斎が。

 隣で。

 顔をしかめる。

「それを」

「外国へ」

「なぜ」

「向こうで」

「起きたことだからです」

「斬られた方の家族は」

 新之介が問う。

「本人の名を」

「出してよいと」

「聞いた?」

 竹吉が止まる。

「……聞いていない」

「なら」

「竹吉殿の行いは」

「出せる」

「被害者の名は」

「別」

「そうか」

「責任を負うために」

「被害者の情報まで」

「勝手に出さない」

 竹吉が。

 長く。

 考え。

「それも」

「責任なのですね」

「そう思います」

 玄斎が。

 小さく言う。

「学べ」

「先生もです」

「何だと」

 ◇

 久。

「私の」

「半九郎代替記録?」

「はい」

「出したくない」

「理由」

「私は」

「久で」

「今」

「生きている」

「はい」

「外国側へ」

「真崎半九郎候補として」

「また登録されたくない」

「分かりました」

「でも」

「何です」

「私が」

「その役で」

「宗一郎殿を」

「斬ったこと」

「それは」

「残したい」

「日本側へ?」

「まず」

「日本側」

「外国へ」

「必要なら」

「本人確認ではなく」

「行為記録として」

「はい」

 ◇

 新三郎。

 兄。

「私は」

「顔も」

「声も」

「出してよい」

「なぜ」

「日本へ戻る」

「本人確認が」

「必要」

「子替帳は」

「渡すな」

「全部?」

「全部」

「なぜ」

「私の頁だけでは」

「他の子が」

「つながる」

「確かに」

「私のことを」

「説明するために」

「久や」

「半九郎や」

「そなたや」

「知らない子の情報まで」

「外国へ」

「出す必要はない」

 新之介が。

 頷く。

「では」

「兄上の頁も」

「そのまま渡さない」

「必要事項だけ」

「本人確認用に」

「別紙」

「はい」

 ◇

 最後。

 サラ。

「私の資料も」

「出す」

「そなたは」

「米利堅側に」

「すでに」

「多くを知られている」

「だからこそ」

「何を知っているか」

「逆に確認したい」

「どうやって」

「向こうが持つ」

「私の記録を」

「先に見せてもらう」

「交換?」

「違う」

「照合」

「こちらが」

「出す前に」

「向こうが何を持つか」

「確認」

 水野が。

 即座に頷く。

「それは必要だ」

「ただし」

 新之介が言う。

「相手の記録に」

「別人の情報が」

「混ざっている可能性」

「あります」

「そこも」

「見る」

 ◇

 その夜。

 仮交渉会議。

 米利堅側へ。

 返答案。

 清太郎が読む。

 ――日本側は。

 ――影武者・代替人の記録を。

 ――一括では提出しない。

 次。

 ――帰国希望者の本人確認について。

 ――本人の同意を得た情報。

 ――必要最小限。

 ――日本側複数立会いで。

 ――確認書を作成する。

 さらに。

 ――本人確認に不要な。

 ――家族情報。

 ――身体の秘事。

 ――他者の弱み。

 ――訓練方法。

 ――代替作成に転用可能な情報。

 ――原則提供せず。

 水野が言う。

「『原則』か」

「はい」

「例外」

「本人が」

「自ら出したい場合」

「または」

「明確な理由が」

「別にある場合」

「誰が判断」

「本人」

「仮交渉会議」

「必要なら」

「別見分」

 ◇

「もう一つ」

 志乃が言う。

「何です」

「向こうの記録も」

「同じように」

「扱うべきでは」

「どういう」

「米利堅側が」

「日本人の個人記録を」

「すでに持っている」

「なら」

「誰の許可で持っているか」

「聞く」

 サラが。

 顔を上げる。

「そうですね」

「渡した側だけでなく」

「持っている側にも」

「責任がある」

「はい」

 清太郎が追記。

 ――米利堅側保有記録について。

 ――入手経路。

 ――利用目的。

 ――保管者。

 ――複写の有無。

 ――第三者提供の有無。

 ――開示を求める。

 阿部が。

 苦い顔。

「相手が」

「怒るぞ」

「怒るでしょう」

 家定が言う。

「でも」

「こちらだけ」

「裸になる必要はない」

 ◇

「さらに」

 家慶甲が言った。

「何です」

「今後」

「本人確認のためと称して」

「国外へ」

「人の顔」

「声」

「身体」

「家族」

「全部が流れることを」

「止める仕組みが要る」

「法?」

「そこまで」

「今すぐ」

「決めなくてよい」

「でも」

「当面」

「誰か一人が」

「勝手に持ち出せないようにする」

「期限付き?」

「はい」

「では」

 新之介が言う。

「仮の持出規則」

「誰が」

「御記録所」

「海防」

「町方」

「本人代表」

「複数」

「一つの印では」

「出せない」

 家定が。

 少し笑う。

「将軍印一つでも?」

「はい」

「父上」

 家慶甲を見る。

「よいですか」

 甲は。

 しばらく。

 自分の手を見る。

 将軍の印。

 一つで。

 国を動かしてきた。

「……よい」

「本当に?」

「今の私が」

「それを嫌がれば」

「結局」

「また一人の名へ」

「戻る」

 ◇

 翌日。

 中立舟。

 米利堅側。

 ウィリアム・ハリス。

 士官。

 通訳。

 ジョナサン。

 日本側。

 家定。

 阿部。

 水野。

 新之介。

 清太郎。

 サラ。

 町側。

 志乃。

 文書を。

 渡す。

 相手側。

 読む。

 長い。

 沈黙。

 やがて。

 ウィリアムが言った。

 通訳。

「日本側は」

「記録提出を」

「拒む?」

 家定が答える。

「一括では」

「はい」

「本人確認が」

「できない場合」

「日本側で」

「複数確認し」

「その結果を」

「文書で示します」

「信用できない」

 水野の顔が。

 僅かに動く。

 家定が。

 答える。

「では」

「そちらが持つ」

「日本人の記録を」

「まず」

「見せてください」

 米利堅側。

 ざわめく。

 ◇

「なぜ」

「本人確認のためです」

「そちらが」

「何を」

「本人だと」

「考えているか」

「分からなければ」

「こちらも」

「何を確認すればよいか」

「分かりません」

 ウィリアムが。

 ジョナサンを見る。

 ジョナサンは。

 少し顔を伏せる。

「あなた方は」

 通訳を介し。

 ウィリアム。

「我々が」

「人を偽造すると」

「疑っている?」

 新之介が。

 家定を見る。

 家定は。

 今度は。

 自分で答えた。

「疑っています」

 相手側の顔が。

 硬くなる。

「同時に」

「自分たちも」

「疑っています」

 少し。

 空気が変わった。

「だから」

「互いに」

「一つの記録へ」

「全部を預けない方法を」

「作りたい」

 ◇

 ウィリアムが。

 長く。

 英語で話す。

 通訳。

「米利堅側も」

「全記録を」

「ただちに」

「開示することはできない」

「理由」

「軍務」

「外交」

「個人の秘密」

「では」

 家定が言う。

「同じです」

「同じ?」

「はい」

「それを」

「日本側だけ」

「出せとは」

「言わないでください」

 水野が。

 小さく笑った。

「強くなったな」

 阿部が。

 小声。

「誰の影響だ」

 家定が。

 前を向いたまま。

「今は」

「私の言葉です」

 新之介は。

 何も言わなかった。

 ◇

 交渉。

 一度。

 止まる。

 米利堅側。

 協議。

 日本側。

 待つ。

 その間。

 新之介は。

 サラへ問う。

「怖いですか」

「何が」

「向こうの記録が」

「出ること」

「はい」

「なぜ」

「私が」

「忘れたことまで」

「残っているかもしれない」

「消したことも」

「はい」

「見たい?」

「見たくない」

「でも」

「見る」

「なぜ」

「私が」

「何を渡したか」

「私自身」

「確かめないと」

「もう」

「『全部出した』とも」

「『これだけだ』とも」

「言えない」

「はい」

 ◇

 米利堅側。

 戻る。

 ウィリアム。

「限定的な相互照合」

「受け入れる」

 家定が。

 少し息を吐く。

「条件」

 清太郎が筆。

「第一」

「帰国者本人に関するもののみ」

「第二」

「双方」

「本人または本人代表が立会う」

「第三」

「複写は」

「その場で作らない」

「第四」

「本人確認に不要な部分は」

「覆う」

「第五」

「照合後」

「どの情報を」

「双方が保持するか」

「改めて決める」

 新之介が。

 頷く。

「よいと思います」

 ◇

「では」

 ウィリアムが言う。

「最初の一人」

「誰」

 日本側。

 少し考える。

 喜兵衛?

 梅?

 新三郎?

 竹吉?

「私から」

 声。

 サラ。

「よいのですか」

 新之介が問う。

「はい」

「なぜ」

「私が」

「一番多く」

「人の情報を」

「勝手に渡した」

「だから」

「最初に」

「自分の記録を見る」

 新之介が。

 少し考え。

「それを」

「償いのためだけに」

「しないでください」

 サラが。

 新之介を見る。

「どういう」

「自分を罰するために」

「情報を」

「全部出す必要はない」

「……」

「そなたにも」

「守ってよいものがあります」

 サラが。

 苦く笑った。

「難しいね」

「はい」

 ◇

 米利堅側。

 箱。

 一つ。

 鍵。

 二人。

 開ける。

 中。

 紙。

 何十枚。

 表。

 ――SARA MILLER.

 そして。

 その下。

 日本語。

 ――小夜。

 ――三十一。

 サラの顔が。

 固まる。

「三十一」

「まだ」

「残っていた」

 次。

 顔の絵。

 傷。

 声。

 身長。

 利き手。

 歩幅。

 家族。

 出身。

 好きな食べ物。

 恐れるもの。

 新之介が。

 眉をひそめる。

「本人確認に」

「好きな食べ物まで」

「必要ですか」

 ウィリアム側。

 答える。

「行動確認」

「代替防止」

 サラが。

 紙を取ろうとして。

 止める。

「触らないで」

 清太郎が言う。

 サラが。

 思わず笑う。

「はい」

 ◇

 一枚。

 サラ自身も。

 知らない紙。

「これは」

 何です」

 日本語。

 ――三十一。

 ――情緒不安定時。

 ――故郷の話をすれば。

 ――判断が鈍る。

 サラの顔から。

 血の気が引く。

「誰が」

「これを」

 ジョナサンが。

 目を逸らす。

「私だ」

「何」

「三年前」

「なぜ」

「交渉で」

「そなたが」

「暴走した時」

「止めるため」

「私の弱みを」

「外国へ渡した?」

「……」

「私を守るため?」

「そう思った」

 サラが。

 笑った。

 だが。

 目は。

 泣いている。

「同じだね」

「何が」

「私が」

「庄太へしたことと」

「同じ」

 ジョナサンが。

 何も言えない。

 ◇

 新之介が。

 ウィリアムへ向く。

「これは」

「本人確認ではありません」

「交渉操作の情報です」

「日本側は」

「この項目を」

「確認資料として」

「認めません」

 通訳。

 相手側。

 少し揉める。

「すでに」

「持っている情報」

「はい」

「だから」

「消せと?」

「今」

「すぐ消せとは」

「私一人では」

「決めません」

「でも」

「何です」

「本人が」

「保持を望むか」

「聞いてください」

 ウィリアムが。

 サラを見る。

 サラは。

 はっきり言った。

「望みません」

「理由」

「私の弱みを」

「交渉へ使うための記録だから」

 ◇

「米利堅側は」

「国家安全上」

「保持したい」

「では」

 新之介が問う。

「誰の安全です」

「何」

「サラ殿?」

「艦隊?」

「交渉官?」

「国?」

「分けてください」

 通訳。

 長い。

 協議。

 ウィリアムが。

 少し苛立ちながら。

「交渉官の安全」

「では」

「サラ殿が」

「暴力を振るう可能性への備え?」

「それも」

「なら」

「暴力行為の記録だけ」

「残せばよい」

「故郷の話で判断が鈍る」

「そこまで」

「必要?」

 沈黙。

 ◇

 家定が。

 低く言う。

「人を」

「本人確認するための記録と」

「人を」

「動かすための記録」

「分ける必要があります」

 清太郎が。

 すぐ筆。

 ――確認情報。

 ――操作情報。

 志乃が。

 その紙を見て言う。

「もう一つ」

「何」

「本人が」

「自分で残したい情報」

「何と呼ぶ」

「本人情報?」

「それでは全部」

「では」

 少し考え。

「自己申告」

「よいですね」

 清太郎。

 三つ。

 ――確認。

 ――操作。

 ――自己申告。

「操作情報は」

 新之介が言う。

「原則」

「本人の同意なく」

「外国へ」

「渡さない」

「日本側でも」

 志乃が言う。

「同じでは」

「はい」

 ◇

 サラが。

 自分の記録を。

 見る。

 一枚。

 ――帰国後。

 ――日本政府内部へ。

 ――影響力を持つ可能性高し。

 次。

 ――必要時。

 ――三十一番としての罪悪感を。

 ――利用可能。

 サラが。

 紙を見たまま。

 動かない。

「これは」

「誰が」

 ジョナサンが。

 答えない。

 ウィリアム側も。

 すぐ答えない。

 新之介が言う。

「書いた者」

「確認できますか」

「署名なし」

「なら」

「今のところ」

「作成者不明」

 清太郎が。

 書く。

 ――操作情報。

 ――作成者不明。

 ――本人、保持を望まず。

 ――米利堅側、保持理由を再確認。

 サラが。

 その文字を見る。

「消さないの?」

「今は」

「勝手に消しません」

「私が」

「消してほしいと言っても」

「相手が持つ記録です」

「でも」

「そなたの希望は」

「残す」

 サラが。

 静かに頷く。

 ◇

 その時。

 米利堅側の箱の。

 一番下。

 別の束。

 ウィリアムが。

 閉じようとした。

 サラが言う。

「待って」

「何」

「それ」

「私の?」

 ウィリアムが。

 少し止まる。

「違う」

「誰の」

「本日の対象外」

「名を」

「今」

「答える必要は」

「ない」

 新之介は。

 箱を見る。

 束の端。

 日本語。

 少しだけ。

 見えた。

 ――榊原。

 新之介の目が。

 動く。

「私?」

 ウィリアムが。

 箱を閉じようとする。

「本日の対象外」

「それは」

「分かりました」

 新之介が言う。

 全員が。

 少し驚く。

「見ない?」

 サラが問う。

「今は」

「はい」

「怖くない?」

「怖いです」

「でも」

「私の記録だとしても」

「まず」

「私のものか」

「確認していない」

 ウィリアムが。

 箱を閉じる。

 ◇

 その直後。

 ジョナサンが。

 小さく言った。

「榊原」

「何です」

「その束」

「そなたではない」

「では」

「誰」

 ジョナサンが。

 答える前に。

 ウィリアムが。

 強く何か言う。

 止める声。

 だが。

 ジョナサンは。

 日本語で。

 続けた。

「榊原お澄」

 新之介の顔が。

 完全に止まった。

「母上?」

「なぜ」

 新三郎は。

 今日の会談には。

 来ていない。

 だが。

 子替帳。

 母。

 お澄。

 その名が。

 外国側の箱に。

 ある。

「いつ」

 新之介が問う。

 ジョナサンは。

 ウィリアムを見る。

 ウィリアムは。

 明らかに。

 話したくない。

「ジョナサン殿」

「三年前」

「誰から」

「海の御影」

「誰」

「前任舵守」

「内容」

「私は」

「全部を見ていない」

「では」

「何を」

「一つだけ」

 ジョナサンの声が。

 低くなる。

「お澄殿は」

「死ぬ前」

「日本側だけでなく」

「海外へも」

「記録を送っていた」

 ◇

「何のため」

「子どもの代替制度を」

「日本の中だけでは」

「止められないと」

「思った」

「だから」

「海外へ」

「証拠を?」

「ああ」

「誰へ」

「長崎の外国商館」

「海の御影」

「いくつか」

「その中の一つが」

「米利堅側へ」

「渡った」

「本人の許可で?」

「お澄殿本人が」

「送った」

 新之介が。

 箱を見る。

「では」

「本人が」

「国外へ渡した記録」

「はい」

「でも」

「今」

「本人は」

「もういない」

「はい」

「その記録を」

「どうするか」

「誰が決める」

 誰も。

 すぐには答えない。

 ◇

「家族?」

 家定が言う。

「新之介殿」

「新三郎殿」

「宗次郎殿」

「海の兵庫殿」

「でも」

 志乃が言う。

「お澄さんは」

「家族へ見せたくないことも」

「海外へ送ったかもしれません」

「では」

「遺言?」

「残っているか」

「分からない」

「米利堅側は」

「どうしている」

 ウィリアム。

 通訳。

「歴史資料」

「安全保障資料」

「両方として」

「保管」

「本人は」

「死去」

「そのため」

「同意更新は不可能」

 新之介が。

 静かに言う。

「では」

「死者の情報は」

「誰のものです」

 通訳が。

 少し困る。

 米利堅側。

 答え。

「国家が」

「必要に応じ」

「保管」

「利用」

 新之介の顔が。

 険しくなる。

「それは」

「日本でも」

「同じです」

 阿部が。

 小さく言った。

「はい」

「だから」

「今」

「聞く必要があります」

 ◇

「死者は」

 反対できない。

 訂正できない。

 撤回できない。

 だが。

 死んだから。

 全部。

 国のものになるのか。

 家のものになるのか。

 記録所のものになるのか。

「家定殿」

 新之介が言う。

「新しい議題を」

「何です」

「死者の記録」

「誰が」

「どこまで」

「使えるか」

 家定が。

 苦い顔。

「また」

「増えましたね」

「最初から」

「ありました」

「見えていなかっただけ?」

「はい」

 ◇

 その夜。

 榊家。

 新三郎。

 宗次郎。

 海の兵庫。

 新之介。

 四人。

 新之介が。

 米利堅側に。

 お澄の記録があることを。

 話した。

 宗次郎が。

 立ち上がる。

「返させろ」

「父上」

「何だ」

「今」

「すぐ?」

「あれは」

「お澄のものだ」

「では」

「家族のもの?」

「……」

「国へ」

「本人が送った記録かもしれない」

「でも」

「利用方法までは」

「許していないかもしれない」

「だから」

「先に」

「中身を」

「見たい」

 新三郎が言う。

「兄上は」

「見たい?」

「怖い」

「はい」

「でも」

「母上が」

「私たちへ」

「見せなかったものなら」

「見てよいか」

「分からない」

 ◇

 海の兵庫が。

 言う。

「お澄は」

「秘密を」

「多く持っていた」

「伯父上は」

「知っていた?」

「少し」

「何を」

「自分が」

「死んだ後」

「家族が」

「自分を」

「都合よく聖人にするのを」

「嫌っていた」

 新之介が。

 少し驚く。

「母上が?」

「ああ」

「何と」

「『死んだ女は』」

「『皆、良い母にされる』」

「『それは嫌だ』」

 新三郎が。

 思わず笑う。

「母上らしい?」

「かなり」

 宗次郎も。

 少し笑う。

「確かに」

 ◇

「なら」

 新之介が言う。

「米利堅側の記録を」

「聖人にするためでも」

「悪人にするためでもなく」

「見る」

「誰が」

「四人?」

「それだけでは」

「母上の記録に」

「他人が」

「入っている可能性」

「あります」

「では」

「先に」

「目録だけ」

「見せてもらう」

「内容ではなく」

「項目」

「人物」

「年代」

「それから」

「関係者を」

「入れる」

 新三郎が。

 頷く。

「それで」

「よいと思う」

 ◇

 翌朝。

 米利堅側から。

 お澄記録の。

 目録だけ。

 届いた。

 十七項目。

 ――榊家。

 ――沢渡玄隆。

 ――御影。

 ――子替。

 ――大奥。

 ――お久。

 ――松平左京。

 ――弁財丸以前。

 新之介の指が。

 止まる。

「弁財丸以前?」

「母上は」

「十五年前より」

「前に死んでいる」

「はい」

「では」

「人を船で」

「外へ出す仕組みは」

「もっと前から」

 新三郎が。

 目録の次を見る。

 ――海送り。

「海送り」

 宗次郎が。

 低く言う。

「何だ」

 海の兵庫の顔が。

 変わった。

「知っている?」

「昔」

「長崎で」

「聞いた」

「何を」

「罪人でも」

「流人でもない」

「記録から消したい者を」

「船へ」

「乗せる仕組み」

「誰が」

「幕府?」

「商人?」

「御影?」

「全部」

「混じっていた」

 ◇

 目録。

 最後。

 ――海送り第一号。

 ――氏名。

 紙。

 そこだけ。

 黒く塗られている。

「なぜ」

 新三郎が問う。

「米利堅側が」

「隠した?」

 使者が。

 答える。

「本人が」

「現在も生存している可能性あり」

「本人同意なし」

「だから」

「名を伏せた」

 新之介が。

 少し息を吐く。

「昨日の話を」

「向こうも」

「使い始めた?」

「おそらく」

「それなら」

「よい」

 宗次郎が。

 少し驚く。

「見たくないのか」

「見たいです」

「でも」

「本人が生きているなら」

「先に本人へ」

「聞く」

 ◇

 その時。

 別の紙。

 米利堅側から。

 短い。

 ――海送り第一号。

 ――現在名のみ。

 ――本人の許可あり。

 新之介が。

 読む。

 ――現在名。

 ――沢渡玄隆。

 部屋が。

 静まり返った。

「沢渡?」

 新三郎が。

 立ち上がる。

「沢渡玄隆は」

「城に」

「捕らえられている」

「はい」

「なら」

「海にいる沢渡が」

「もう一人?」

 宗次郎が呻く。

 だが。

 新之介は。

 紙から。

 目を離さない。

 その下。

 もう一行。

 ――本人申告。

 ――出生名。

 ――松平左京。

 海の兵庫が。

 声を失う。

 新之介は。

 ゆっくり。

 息を吐いた。

 沢渡。

 左京。

 また。

 同じ名。

 だが。

 今までとは。

 少し違う。

 海送り第一号。

 制度を作った側ではない。

 最初に。

 海へ捨てられた側。

「新之介」

 新三郎が言う。

「次は」

「誰が本物か」

「調べる?」

 新之介は。

 首を振った。

「いいえ」

「では」

「海へ送られた」

「最初の一人が」

「何をされたのか」

 紙を折る。

「そこから」

「聞きます」

(第九十四章へ続く)

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