第七十三章 父の名
朝風丸からの使者が告げた言葉を、半九郎は何度も頭の中で繰り返していた。
――自分を真崎玄十郎と名乗る老人がいる。
――だが、その老人は「私は半九郎の父ではない」と申している。
「どこにおります」
半九郎が問う。
「品川沖です」
「朝風丸に?」
「いえ」
使者が首を振る。
「小舟へ移し、御台場近くで待たせております」
「なぜ上陸させない」
水野が問う。
「本人が拒んでいます」
「理由は」
「『真崎半九郎本人が来るまで、陸へ上がらぬ』と」
半九郎の表情が固くなる。
「私を知っているのですか」
「名は」
「それだけか」
「もう一つ」
使者は半九郎を見る。
「『半九郎の右肩には、七歳の夏についた小さな焼け跡がある』と」
半九郎の手が止まった。
右肩。
幼い頃、庭で火鉢を倒した。
自分ではそう記憶している。
「あります」
新之介が聞く。
「知る者は」
「父」
「母」
「家の老女」
「ほかは」
「……おそらく」
「なら」
玄斎が言う。
「父から聞いた者かもしれぬ」
「あるいは」
新之介が続けた。
「父本人を長く知る者」
半九郎は即座に言った。
「行きます」
「はい」
新之介も立つ。
「新之介殿」
「何です」
「今回は止めないのですね」
「止める理由がありません」
「では急ぎましょう」
「ただし」
「何です」
「父だと思って会わないでください」
半九郎の顔が険しくなる。
「分かっています」
「本当に」
「……分かろうとしています」
「それで十分です」
玄斎が杖をつく。
「わしも行く」
「先生は」
「言うな」
「まだ何も」
「膝人と言うつもりだろう!」
「今回は舟なので」
「ほら見ろ!」
「舟へ乗るまで歩きます」
「新之介!」
◇
品川へ向かう舟には、半九郎、新之介、玄斎、水野。
それに清太郎と吉松が乗った。
「なぜ二人とも」
玄斎が問う。
清太郎が答える。
「今回の話は真崎家だけの話ではありません」
「誰が誰の名をいつ使ったか」
「記録が必要です」
「分かるが」
「吉松まで?」
「私は清太郎殿が聞き違えていないか聞きます」
「わしらは信用がないな」
「人間なので」
玄斎が苦笑する。
「だんだん榊原に似てきたぞ」
「嬉しくないです」
吉松が答えた。
新之介が振り返る。
「皆」
「同じことを申す、だろう」
玄斎が先に言った。
「はい」
半九郎だけは笑わなかった。
ずっと水面を見ている。
「半九郎殿」
「はい」
「無理に話さなくても」
「話したいのです」
「何を」
「父のことを」
半九郎は水面から目を離さない。
「私は父を尊敬していました」
「はい」
「腹も立っていました」
「はい」
「怖かった」
「何が」
「父が正しい人だったことが」
新之介は黙る。
「子どもの頃」
「父上なら間違わないと思っていた」
「少し大きくなると」
「父上は間違っても認めない人だと思った」
「さらに大きくなって」
半九郎は苦く笑う。
「実際は、認めるのが怖い人だったのかもしれない」
「今は」
「分かりません」
「それでよいと思います」
「もし、生きていたら」
「何を聞きます」
「なぜ黙っていた、と」
「最初に?」
「はい」
「殴るのでは」
玄斎が横から言う。
「それは二番目です」
「順番を決めておるのか」
「先生」
「何だ」
「父なら殴ってよいと言ったのは先生です」
「覚えておる」
「記録しますか」
清太郎が問う。
「そこは書くな!」
◇
品川沖。
朝風丸から少し離れたところに、小舟が一艘浮かんでいた。
船頭。
海防掛の役人二人。
そして中央に老人。
七十近い。
日に焼けた顔。
背中は曲がっていない。
白髪を後ろで束ねている。
刀は持っていない。
半九郎を見るなり。
老人は言った。
「大きくなったな」
半九郎の顔が歪んだ。
「父のような言い方をするな」
「すまない」
「名を」
新之介が先に問う。
老人は彼を見る。
「榊原新之介か」
「そう名乗っています」
「面倒な男だと聞いている」
「誰から」
老人は半九郎を見る。
「この男の父から」
半九郎が一歩出る。
「父は」
「待て」
老人が手を上げた。
「まず私の名だろう」
新之介が頷く。
「お願いします」
「今の名は」
老人は言った。
「真崎玄十郎」
半九郎の拳が固くなる。
「生まれた名は」
「喜一」
「姓は」
「ない」
「どこの生まれ」
「天草」
「年は」
「六十八」
「真崎玄十郎の名を使い始めたのは」
「八年前」
清太郎の筆が動く。
「誰から受け取った」
老人――喜一は答えた。
「真崎玄十郎本人から」
半九郎の呼吸が止まる。
「どこで」
「長崎」
「八年前」
「ああ」
「父は生きていた」
「その時は」
「確実に?」
新之介が問う。
「私の目の前にいた」
「顔は」
「知っていたのですか」
「知らなかった」
「ではなぜ本人と」
「本人しか持っていないものを見せられた」
「何」
喜一は懐から小さな布包みを出した。
「これだ」
水野が止める。
「そのまま」
「誰も一人で触るな」
喜一が笑った。
「聞いた通りだ」
「誰から」
「玄十郎から」
「またですか」
◇
布包みを舟板へ置く。
清太郎。
水野。
半九郎。
三人で見る。
中にあったのは。
小さな木片。
折れた鍔。
「これは」
半九郎が息を呑む。
「父の刀の鍔です」
「確かか」
「はい」
「なぜ」
「子どもの頃」
半九郎が手を伸ばしかけ。
止める。
「私が欠けさせた」
「どうして」
「父の刀を勝手に持ち出して」
玄斎が笑う。
「そなたもやったか」
「先生」
「新之介も昔」
「今は私の話です!」
半九郎は鍔を見る。
「庭石へ落とした」
「その時、ここが欠けた」
半月形の傷。
「父は激怒した」
「誰が知る」
新之介が問う。
「家族」
「玄斎先生も」
「わしは後で聞いた」
「鍔を持っていたから本人とは限らない」
半九郎が新之介を見る。
「分かっています」
「なら続けます」
喜一が頷く。
「玄十郎は私へこれを渡した」
「そして名も」
「なぜ」
「追っ手を西へ引くため」
「誰の追っ手」
「御影ではない」
「では」
「幕府の中にいた、始帳の古い考えを守る者たち」
新之介の表情が変わる。
「国主の系統?」
「その名は知らぬ」
「川辺主馬を」
「知らない」
「なら別の流れ」
「おそらく」
「決めない」
「そうだったな」
喜一は苦笑した。
◇
「なぜ父の名を」
半九郎が問う。
「玄十郎は、自分の名に追っ手を集めていた」
「それは根帳にも」
「七年で名を渡す」
「ああ」
「私が受け取った」
「なぜあなたが」
「私は元々、四十七人の一人だ」
新之介たちが固まる。
「朝風丸で戻った二十三人の」
「そうだ」
「なら十五年前」
「弁財丸へ」
「乗った」
「番号は」
「九」
「九番?」
「名前では呼ばれなかった」
「船では九」
「海の向こうでも」
「最初の数年は九だった」
「なぜ玄十郎殿と」
「長崎で会った」
「いつ」
「八年前」
「海外から戻っていた?」
「一度だけ密かに」
「誰と」
「鷹見宗一郎」
玄斎の目が鋭くなる。
「先生と」
「ああ」
「宗一郎は玄十郎を知っていた」
「深く」
「では」
「宗一郎殿を呼べますか」
水野が海上を見る。
「朝風丸にいる」
「呼びます」
「いや」
喜一が止める。
「まず私の話を聞け」
「なぜ」
「宗一郎と玄十郎では、話が違う」
「どちらが本当」
「両方だ」
新之介が少し笑う。
「分かってきましたね」
「長く生きたのでな」
◇
「玄十郎は」
喜一が続ける。
「十六人を助けたことを後悔していた」
半九郎の顔が歪む。
「助けたことを?」
「違う」
「助け方を」
喜一は半九郎を見る。
「お前の名を使ったこと」
「お菊を城へ入れたこと」
「十六人へ別の名を与えたこと」
「人を救うたび」
「別の人間を役へ入れた」
「だから父は」
「償おうとした」
「どうやって」
「自分の名を使わせた」
半九郎が怒りを浮かべる。
「また名か」
「ああ」
「父は何も学んでいないではないか!」
喜一は静かに答える。
「私もそう言った」
半九郎が止まる。
「何と」
「『お前は人の名を使って人を救った罪を、また自分の名を使って償うのか』と」
「父は」
「笑った」
「何と」
「『他のやり方を知らぬ』」
半九郎の目が赤くなる。
「馬鹿だ」
「ああ」
「父上は」
「馬鹿だ」
喜一は否定しなかった。
「だが」
「何です」
「その後、名を捨てた」
「根帳にも」
「西へ、と」
「ああ」
「どこへ」
「海だ」
水野が顔を上げる。
「長崎から」
「外国へ?」
「いや」
「日本の海を」
「名なしで」
「何をしていた」
「弁財丸で売られた者の行方を追った」
「四十七人の?」
「それだけではない」
喜一は暗い顔になる。
「弁財丸の前にも、船はあった」
全員が黙る。
「何隻」
「知らない」
「人数は」
「分からない」
「いつから」
「少なくとも二十年以上前」
新之介は水面を見る。
一つの事件ではなかった。
弁財丸が最初でもない。
「玄十郎殿はそれを」
「調べていた」
「一人で」
「最初は」
「後は」
「仲間ができた」
「誰」
喜一が答えた。
「船頭」
「漁師」
「密貿易をする商人」
「役人」
「僧」
「名前は」
「記録がある」
「どこ」
「玄十郎が持っていた」
「今は」
喜一が半九郎を見る。
「お前へ渡すはずだった」
◇
「父は今どこです」
半九郎が問う。
喜一は答えない。
「生きているのですか」
「……」
「喜一殿」
新之介が口を挟む。
「知っている範囲で」
「最後に会ったのは」
「三年前」
「どこ」
「伊豆沖」
「何を」
「小舟に乗っていた」
「一人で?」
「いや」
「誰と」
喜一が少し迷う。
「沢渡玄隆」
水野が立ち上がる。
「何だと!」
舟が揺れる。
「座ってください!」
船頭が怒鳴る。
水野は座る。
「なぜ沢渡と!」
「知らぬ」
「話は」
「聞いた」
「何を」
「玄十郎が沢渡へ申していた」
「『もう声を作るな』」
「沢渡は」
「『声を作ったのは私ではない。求めた者だ』」
「玄十郎は」
「『それでも手を貸したのはそなただ』」
新之介が静かに問う。
「その後」
「二人は別れた」
「玄十郎は」
「東へ」
「沢渡は」
「南」
「それが最後」
「では三年間」
「知らない」
半九郎が歯を食いしばる。
「生きているとも」
「死んでいるとも」
「言えない」
「はい」
◇
「父から、私へ何か」
半九郎が問う。
喜一はまた布包みを出した。
「手紙?」
「違う」
「帳面だ」
小さな薄い冊子。
表紙に文字。
――半九郎へ。
半九郎の手が震える。
「開けても?」
新之介が言う前に。
半九郎自身が止まった。
「立会いを」
玄斎が少し笑う。
「成長したな」
「嬉しくありません」
「皆」
「今は申さないでください!」
清太郎、水野、喜一、半九郎。
四者で封を見る。
古い。
破られていない。
「開けます」
半九郎が封を切る。
第一頁。
父の筆跡。
半九郎はすぐ分かった。
「父です」
「筆跡確認は後で」
新之介が言う。
「はい」
半九郎は読み始める。
――半九郎。
――これを読む時、私はそなたの前にいないだろう。
半九郎の声が止まる。
玄斎が言う。
「無理なら」
「読みます」
――私は、多くの者を助けた。
――そう言えば聞こえはよい。
――だがそのために、そなたの名を使った。
――お菊を城へ送った。
――十六人へ、戻れぬ道を作った。
半九郎の目に涙が浮かぶ。
――私は正しかったとは書かぬ。
――間違っていたとも、一言では書けぬ。
――あの夜、十六人を船へ戻すことだけはできなかった。
――それでも。
――そなたへ聞かず、そなたの名を使ったことは、私の罪だ。
半九郎の声が震える。
新之介は何も言わない。
――十五になったら話すつもりだった。
――私はその約束から逃げた。
半九郎が顔を上げる。
「死んだからではない」
「父は」
続ける。
――死んだことにした後も、生きていた。
――だから話せなかったのではない。
――話さなかった。
――そなたの顔を見るのが怖かった。
玄斎が目を閉じる。
「玄十郎」
低い声。
「ようやく書いたか」
◇
手紙は続く。
――もし会えたなら、殴られてもよい。
半九郎が思わず笑った。
「父上」
涙の中で。
「玄斎先生と同じことを」
「わしなら二発だ」
「先生」
「今はよいだろう」
「……はい」
――ただし、一つだけ頼みがある。
――私を父だから許すな。
半九郎の笑いが消える。
――父だから憎むな。
――私が何をしたかを見ろ。
新之介が顔を上げた。
玄斎も。
「似ている」
「はい」
「誰の言葉だ」
「もう誰のでもよいでしょう」
半九郎が続ける。
――そして、そなた自身が何をされたかも見ろ。
――私の後悔を、そなたの許しへ使うな。
――私は私の責を負う。
――そなたは、そなたの人生を生きろ。
そこで文章は終わっていた。
半九郎は帳面を閉じた。
「……ずるい」
誰も答えない。
「こんなことを書いて」
「会わずに」
「ずるい」
喜一が言う。
「その通りだ」
半九郎が老人を見る。
「あなたも父へ言いましたか」
「何度も」
「聞きましたか」
「半分くらい」
「父らしい」
◇
「まだ後ろに頁があります」
清太郎が言った。
半九郎が見る。
白紙の後。
一頁だけ文字。
「これは父の筆ではありません」
「誰の」
「分かりません」
「読みます」
――真崎玄十郎を探す者へ。
――父を探すな。
半九郎の顔が強張る。
――玄十郎が最後に追ったものを探せ。
――名は人より遅れて残る。
――人を探せば、名に騙される。
新之介が問う。
「署名は」
「あります」
「誰」
半九郎が読む。
「――榊兵庫」
新之介の目が鋭くなる。
「兵庫殿が」
第四冊を書いた人物。
現在、大手門側にいる榊兵庫。
「いつ書いた」
「日付があります」
「何年前」
「二年前」
水野が驚く。
「玄十郎を最後に見たという三年前より後だ」
「なら兵庫殿は」
新之介が言う。
「玄十郎殿のその後を知っている可能性がある」
「江戸城へ戻ります」
半九郎が即座に言った。
「はい」
喜一が止めた。
「まだある」
「何が」
「玄十郎から受け取った名は」
「真崎玄十郎だけではない」
一同が老人を見る。
「もう一つ?」
「ああ」
「何という名」
喜一は懐から古い木札を出した。
そこには二文字。
――兵庫。
新之介の顔が変わる。
「榊兵庫?」
「違う」
「なら」
「玄十郎は申した」
喜一は静かに言う。
「『もし真崎玄十郎の名が追われすぎたら、次は兵庫を使え』」
半九郎が眉をひそめる。
「兵庫という名も役?」
「一時は」
「では榊兵庫殿も」
喜一が首を振った。
「そこまでは知らぬ」
「決めない」
新之介が即座に言う。
「確かめます」
玄斎がため息をつく。
「また一人増えたような気がする」
「増えたと決めないでください」
「分かっておる!」
◇
舟が江戸城へ戻る途中。
半九郎はずっと父の帳面を見ていた。
新之介が問う。
「少しは」
「何です」
「会いたいと思いますか」
「最初から会いたいです」
「殴るために?」
「それもあります」
「ほかは」
半九郎は笑った。
「聞きたい」
「何を」
「怖かったのか、と」
「自分の息子に会うのが」
「はい」
「そして」
「私も怖かったと」
新之介は頷いた。
「それで十分です」
「本当に?」
「会えれば」
◇
江戸城大手門へ近づくと。
様子がおかしかった。
兵が走っている。
阿部が門外まで出ている。
「榊原!」
「何がありました!」
「榊兵庫が消えた!」
半九郎が立ち上がる。
「いつ!」
「そなたたちが品川へ向かった後だ!」
「誰と」
「一人で!」
「確認は」
「見張り二人が!」
「どこへ」
「分からぬ!」
新之介が問う。
「何か残した」
「ああ」
阿部が紙を差し出す。
清太郎が開く。
一行。
――真崎玄十郎に会いに行く。
半九郎の顔が変わる。
「父が」
「生きている?」
新之介が紙を見る。
「誰の筆跡」
「榊兵庫本人に見える」
「確認を」
「する!」
「行き先は」
紙の裏。
小さな地図。
江戸から西ではない。
北東。
「これは」
水野が言う。
「小名木川」
新之介の目が止まる。
自分が刀を捨てた川。
その先。
さらに印。
古い倉。
「ここは」
玄斎が顔を近づける。
「十五年前」
「弁財丸へ乗せる前に、人を集めた場所の一つだ」
「まだ残っている?」
「廃蔵だ」
「なら」
半九郎が言う。
「父はそこに」
「いると決めない」
新之介が止める。
「ですが」
「兵庫殿が『会いに行く』と書いた」
「はい」
「なら少なくとも」
「兵庫殿は、そこに何かがあると思っている」
「行きます」
「私も」
玄斎が言う。
「先生は」
「言うな!」
「今度は夜になります」
「なおさら行く!」
「膝が」
「新之介!」
◇
日が落ちる。
小名木川。
舟を寄せる。
新之介は水面を見る。
あの日。
自分の刀を投げた場所。
「探せばまだあるでしょうか」
半九郎が問う。
「何が」
「刀」
「分かりません」
「拾わないのですか」
「今は父上でしょう」
「そうでした」
廃蔵。
扉は半分開いている。
中に灯り。
「人の気配」
水野が言う。
「何人」
「少なくとも二人」
「声は」
聞こえる。
一人。
榊兵庫。
「だから申しておる!」
もう一人。
老人。
低い声。
半九郎の足が止まった。
「……父上」
玄斎が彼を見る。
「分かるのか」
「声が」
「十五年前の?」
「少し違う」
「なら」
「でも」
半九郎の目に涙が浮かぶ。
「叱られた時の声です」
新之介は止めない。
「行きますか」
「はい」
半九郎が蔵の扉へ手をかける。
その向こうで。
老人の声が言った。
「兵庫」
「半九郎が来る前に」
「私はここを出る」
半九郎の手が止まった。
榊兵庫が怒鳴る。
「また逃げるのか!」
「そうだ」
「十五年前も!」
「知っている!」
「なら会え!」
「会えぬ!」
「なぜだ!」
長い沈黙。
そして老人が。
震える声で答えた。
「父だからだ」
半九郎は。
扉を開いた。
「なら」
蔵の中へ。
一歩。
「今度は息子から参りました」
灯りの奥。
白髪の老人が振り返る。
顔は痩せ。
片目に古い傷。
だが。
半九郎は、その顔を見た瞬間。
何も言えなくなった。
老人も。
動かなかった。
榊兵庫だけが、静かに二人を見る。
「玄十郎」
「逃げ道は」
兵庫が扉を閉めた。
「もうないぞ」
(第七十四章へ続く)

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