上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第二十八章

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第二十八章 病床の疑い

 戸田備前守の上屋敷は、以前より静まり返っていた。

 門前には供侍が二人。

 庭には手入れの行き届いた松。

 玄関には磨かれた式台。

 見たところ、何の変わりもない。

 だが新之介は、門をくぐった瞬間から、屋敷の空気に薄い強張りを感じていた。

 使用人たちは足音を忍ばせ、廊下ですれ違っても目を伏せる。

 主が病床にあるためだけではない。

 家中の者が、互いを疑っている。

 そのように見えた。

 新之介は庄司源太郎を連れず、一人で訪れていた。

 腰には刀。

 懐には、浅草の荒れ寺で拾った印籠。

 戸田家の替紋に似た傷痕が残っている。

 玄斎は同行を申し出なかった。

 ただ出がけに一言だけ告げた。

 ――信じている相手ほど、正面から疑え。

 新之介は、その言葉を胸に病間へ向かった。

 ◇

 戸田備前守は、寝所の中で書付を読んでいた。

 毒を盛られてから幾日も経つ。

 命は取り留めたものの、頬は削げ、指先にも以前の力はない。

 それでも枕元には帳面が積まれている。

「お休みになっておられませぬな」

 新之介が言うと、戸田は書付から目を上げた。

「横になっている」

「読んでおられます」

「目は横にならぬ」

「医師が嘆きます」

「医師は嘆くのが商いだ」

 戸田は書付を畳んだ。

「再起館とやらはどうだ」

「ご存じでしたか」

「江戸に新しい道場ができ、武士の子と町人の子が同じ板の間で学ぶ。噂にならぬ方がおかしい」

「悪い噂でしょうか」

「よい噂ほど早くは広まらぬ」

 戸田は薄く笑った。

「旗本の中には、身分を乱す道場だと申す者もおる」

「戸田様は」

「まだ見ておらぬものを裁く趣味はない」

 新之介は畳に手をついた。

「本日は、その道場に関わることで参りました」

「申せ」

 新之介は懐から印籠を出し、戸田の前へ置いた。

 戸田は一目見るなり、目を細めた。

「どこで拾った」

「浅草の荒れ寺です」

「誰が持っていた」

「片桐宗次郎と誠心組の残党を襲った、黒装束の者です」

 戸田の表情は動かない。

「戸田家の替紋に似ています」

「似ているのではない」

 戸田は印籠を手に取った。

「戸田家のものだ」

 新之介の背に冷たいものが走った。

「では」

「早まるな」

 戸田の声が鋭くなる。

「この印籠は、十年ほど前まで家中の中間へ褒美として渡していたものだ。今は用いておらぬ」

「なぜ廃したのです」

「紋を持つ者が多くなりすぎた」

 戸田は傷ついた表面を指でなぞった。

「暇を出した者。行方知れずになった者。売った者もおるだろう。これだけで戸田家の命とは言えぬ」

「承知しております」

「それでも疑ったか」

「はい」

 新之介は戸田の目を見た。

「疑わずに参れば、戸田様を信じていることにはならぬと思いました」

 戸田はしばらく黙っていた。

 やがて、低く笑った。

「忠左衛門の倅らしくなってきた」

「父上なら、もっと上手に疑います」

「いや。あれは昔、疑うべき相手を疑えなかった」

 鷹見塾。

 矢代左馬之助。

 二十年前の不正。

 戸田もまた、その過去を知る者である。

 戸田は印籠を枕元へ置いた。

「片桐宗次郎とは何者だ」

 新之介は宗次郎の事情を話した。

 小普請組御家人の子。

 父を病で失い、家も役目も失った浪人。

 誠心組の残党と出入りしていたこと。

 再起館へ通い始めたこと。

 そして、蔵前襲撃を知らせる血染めの紙を残して消えたこと。

「蔵前は明後日か」

「はい」

「狙いは証文」

「笠原陣内という男は、札差の証文を焼けば御家人が救われると申していたようです」

 戸田は目を閉じた。

「愚かな」

「ですが、借財に苦しむ者には魅力のある話です」

「分かっておる」

 戸田は静かに答えた。

「証文を焼けば、借りた金まで消えると思う。だが札差には控えがある。奉行所にも証が残る。焼けるのは紙だけだ」

「その火に町が巻き込まれます」

「そして、困窮する御家人への目はさらに厳しくなる」

 戸田は小さく息を吐いた。

「救うつもりで、同じ者を追い詰める。正しさに酔う者がよくすることだ」

 新之介は矢代を思った。

 宗次郎が、同じ道へ進むかもしれない。

「戸田様」

「何だ」

「黒装束の者が残党を襲った理由は、何だと思われますか」

「口封じ」

「誰の」

「それが分かれば苦労せぬ」

 戸田は指を折るように、ゆっくり可能性を挙げた。

「第一に、誠心組の残党を使おうとした者が、計画の変更で消しにかかった」

「はい」

「第二に、札差側が蔵前襲撃の噂を知り、先に潰そうとした」

「第三は」

「戸田家の名を使い、そなたにわしを疑わせようとした」

「何のために」

「そなたとわしを離すためだ」

 新之介は黙った。

 敵が自分の動きを見ている。

 再起館も、宗次郎も、源太郎との繋がりも。

 ならば道場を開いたこと自体が、新たな争いを招いたことになる。

 戸田は新之介の顔を見て言った。

「後悔しておるのか」

「何をです」

「再起館を開いたことだ」

「いいえ」

 新之介は即座に答えた。

 戸田は頷いた。

「ならばよい」

「ですが、弟子たちを巻き込みます」

「役目を持てば、誰かを巻き込む」

「それでよいのでしょうか」

「よくはない」

 戸田の声は乾いていた。

「よくないから、巻き込んだ者を最後まで見捨てぬ。それしかできぬ」

 新之介は畳へ手をついた。

「戸田様。蔵前の警固にお力をお貸しください」

「断る」

 意外な答えだった。

 新之介は顔を上げた。

「なぜです」

「わしが兵を出せば、敵は動かぬ」

「襲撃を防げます」

「その夜だけはな」

 戸田は印籠を持ち上げた。

「しかも、この印籠が出た直後に戸田家が蔵前を固めれば、戸田家が何かを知っていたと疑われる」

「では、黙って見ておけと」

「そうは申しておらぬ」

 戸田は枕元の呼び鈴を鳴らした。

 入ってきた用人へ命じる。

「小林を呼べ」

 しばらくして、一人の侍が現れた。

 三十代半ば。

 細身で、顔色の白い男である。

「小林伊織にございます」

「この者は家中の目付を務めておる」

 戸田は新之介へ紹介した。

「印籠の出所を洗わせる」

 小林は印籠を受け取り、表裏を確かめた。

「古い褒美物でございますな」

「見覚えは」

「同じ物なら幾つも」

「これが誰へ渡ったか、記録はあるか」

「古い御用留を調べます」

 戸田は頷いた。

「ただし家中の誰にも悟らせるな」

「承知いたしました」

 小林が退室する。

 その足音が遠ざかるのを待って、新之介は口を開いた。

「信用できるお方ですか」

「分からぬ」

 戸田は平然と答えた。

「分からぬ者へ任せるのですか」

「わしの家中で、印籠の記録へ触れられる者は限られる。小林が敵なら、動く。味方なら、証を持ってくる」

「危険です」

「疑うとは、危険を避けることではない。相手が何をするか見届けることだ」

 新之介は、まだ自分の疑い方が浅いことを知った。

 戸田は目を閉じる。

「蔵前へは、町方を使え」

「源太郎がすでに動いております」

「札差へは知らせるな」

「なぜです」

「札差の中にも、襲撃を待つ者がいるかもしれぬ」

 新之介は眉をひそめた。

「自らの証文を焼かせるのですか」

「一部の証文が焼ければ、控えを使って二重に取り立てることもできる」

「そこまで」

「金に善悪はない。扱う者にある」

 かつて大黒屋宗兵衛が不正に手を染めた。

 だが大黒屋が潰れても、札差そのものは残っている。

 借財の仕組みも消えていない。

 新之介は再び頭を下げた。

「宗次郎を捜します」

「生きていると思うか」

「思います」

「根拠は」

「血染めの文を届けました」

「死ぬ前にも書ける」

「再起館の床を拭き残しています」

 戸田が目を開いた。

「何だ、それは」

「師が申しました。途中の者は戻る、と」

 戸田はしばらく新之介を見つめ、やがて声を上げて笑った。

 笑った途端、激しく咳き込む。

「戸田様」

「騒ぐな」

 口元を押さえた手拭いに血が滲んでいた。

 それでも戸田は笑みを残していた。

「黒川玄斎らしい」

「はい」

「ならば、戻る場所を閉じるな」

 ◇

 戸田家を辞した新之介は、再起館へ戻らず本郷へ向かった。

 宗次郎の母が身を寄せる親類宅を訪ねるためである。

 長屋ではない。

 だが、武家屋敷とも言い難い小さな家だった。

 表札には、山岡とある。

 戸を叩くと、五十ほどの女が出た。

「榊原新之介と申します。片桐宗次郎殿のことで」

 女の顔が強張る。

「宗次郎が何か」

「母上にお会いしたい」

 奥へ通される。

 六畳ほどの部屋に、一人の女性が横たわっていた。

 宗次郎の母・千世。

 年は四十を越えたほどだろうが、病のためか老いて見える。

「宗次郎がご迷惑を」

 千世は上体を起こそうとした。

「そのままで」

 新之介は床近くへ座った。

「宗次郎殿が、昨日から姿を消しております」

 千世の顔から血の気が引いた。

「また、あの方たちと」

「あの方たちとは」

 千世はすぐには答えなかった。

 親類の女が部屋を出る。

 二人きりになってから、千世は言った。

「主人が亡くなる前から、宗次郎の周りには家を失った若い侍が集まっておりました」

「笠原陣内も」

「その名は存じません。ただ、額に傷のある方なら、一度ここへ」

 笠原で間違いない。

「何を話したのです」

「主人の死は札差のせいだと」

「宗次郎殿は」

「初めは否定しておりました。けれど、家を明け渡すことになり、私がここへ身を寄せてから……」

 千世は目を伏せた。

「人を恨まねば、自分を保てなかったのでしょう」

「父君について、お尋ねしたいことがあります」

「何でしょう」

「亡くなる前、役目ではない人斬りを悔いていたと」

 千世の指先が震えた。

「宗次郎から聞かれたのですか」

「はい」

「それを、あの子に話してしまったのですね」

「何があったのです」

 千世はしばらく口を閉ざしていた。

 やがて、枕元の小箱を取る。

 中から古びた紙を一枚出した。

「主人が亡くなった後、刀箱の底から見つけました」

 新之介は受け取った。

 血判のある請書だった。

 そこには、ある浪人を密かに斬るよう命じる文言が書かれている。

 命じた者の名はない。

 ただし、依頼を取り次いだ札差の屋号があった。

 近江屋。

「大黒屋ではない」

「はい」

 千世は言った。

「主人は借財を減らす代わりに、人を斬ったのです」

「斬られた浪人の名は」

「書かれておりません」

「いつ頃です」

「十二年前」

 鷹見塾が崩れ、誠心組が生まれるより少し後。

「主人はその後、酒を飲むようになり、剣も取らなくなりました」

「宗次郎殿は、この書付を知っていますか」

「知りません」

 新之介は紙を見つめた。

 宗次郎は、父が役目ではない人斬りをしたことだけを知っている。

 その裏に借財と札差があることまでは知らない。

 もし笠原陣内がこの事実を知れば、宗次郎の怒りを札差へ向けるには十分だった。

「この書付をお借りしても」

 千世は不安そうに新之介を見た。

「主人の罪が明らかになります」

「はい」

「片桐家は、もう何も残っておりません」

「宗次郎殿が残っています」

 千世の目に涙が浮かぶ。

「この書付が、あの子を救うのでしょうか」

「分かりません」

 新之介は正直に答えた。

「ですが、隠したままでは、誰かが都合よく父君の死を語ります」

 千世は長く目を閉じた。

 やがて頷く。

「お持ちください」

 新之介は書付を懐へ収めた。

「宗次郎殿を連れ戻します」

「約束できますか」

「できません」

 千世は悲しげに笑った。

「あの子が言っておりました。榊原様は、できぬ約束をしない方だと」

「宗次郎殿が」

「はい。腹の立つ方だとも」

 新之介も少し笑った。

「それは本人からも聞いております」

 ◇

 家を出ると、路地の向こうに吉松が立っていた。

 魚籠を背負っている。

「なぜここにいる」

「魚を届けに」

「本郷までか」

「うちは魚屋ですから」

 明らかな嘘だった。

 新之介はため息をつく。

「再起館で待てと申したはずだ」

「待ってました」

「では、なぜここに」

「待ってても片桐さんは帰ってこないから」

 吉松は真っ直ぐ新之介を見た。

「片桐さんのお母さん、ここにいるんでしょう」

「誰に聞いた」

「清太郎です。札差の手代の倅は、いろんなことを知ってます」

「そなたたちは何をしている」

「探してます」

「誰を」

「片桐さんを」

 新之介は頭を抱えたくなった。

 だが、吉松の魚籠から紙が一枚覗いていることに気づく。

「それは何だ」

 吉松は紙を取り出した。

 蔵前周辺の簡単な絵図だった。

 子どもの字で、米蔵、札差の店、船着き場が書き込まれている。

「辰蔵さんが、火消し仲間から聞きました」

「何を」

「明日の夜、蔵前の外れで、使ってない米蔵に火消しの半纏を運ぶ仕事があるって」

「誰が頼んだ」

「分かりません。でも辰蔵さんは、火事もないのに半纏を集めるのはおかしいって」

 新之介は絵図を受け取った。

 火消しの半纏。

 火事場で着ていれば、町人は味方だと思う。

 以前、両国でも同じ手を使われた。

「辰蔵はどこだ」

「その米蔵を見に行きました」

「一人で?」

「兵馬さんと清太郎も」

 新之介の声が低くなった。

「お前たちは、何を考えている」

 吉松は怯みながらも言い返した。

「戻る場所を守れって言ったじゃないですか」

「道場で待つことだ」

「片桐さんが戻れなくなったら、場所だけあっても仕方ない」

 新之介は言葉を失った。

 正しい。

 だが危うい。

 正しさだけで動く者の危うさを、何度も見てきた。

「吉松」

「はい」

「今すぐ再起館へ戻れ」

「でも」

「これは命令だ」

「俺は侍じゃありません」

「再起館では私が後見だ」

「身分で分けないんじゃ」

「今は屁理屈を申すな!」

 吉松が口を閉じた。

 新之介は息を整えた。

 怒りで言葉を振るえば、相手を遠ざける。

「すまぬ」

「侍が謝るんですか」

「誤れば謝る」

 新之介は絵図を懐へ入れた。

「そなたたちが宗次郎を案じていることは分かった。だが、今度の相手は子どもを避けてはくれぬ」

「片桐さんも避けてもらえない」

「だから私が行く」

「連れて帰れますか」

「斬らずに済むよう動く」

 吉松は不満そうに唇を尖らせた。

 だが今度は頷いた。

「床、汚れたままです」

「何だ」

「片桐さんの拭き残し。まだ残してます」

「そうか」

「だから早くしてください」

 吉松は走り去った。

 新之介はその背を見送った。

 再起館を開けば、教える側になると思っていた。

 だが実際は、教えられてばかりである。

 ◇

 新之介は南町奉行所へ向かった。

 源太郎はすでに蔵前周辺の見張りを手配していた。

 戸田家の印籠、近江屋の請書、弟子たちが見つけた米蔵の絵図。

 机の上へ並べる。

「近江屋」

 源太郎が請書を見て眉をひそめた。

「ご存じか」

「十年ほど前に店を畳んだ札差です」

「なぜ」

「主人が急死したと聞いています」

「後を継いだ者は」

「店の名を変えました」

 源太郎は古い札差名簿を開いた。

 指で名を追う。

「ありました」

「どこだ」

「近江屋の番頭が独立し、蔵前で別の店を開いています」

「屋号は」

 源太郎は顔を上げた。

「三河屋」

 新之介は、その名を記憶の底から探った。

 三河屋。

 大黒屋が取り潰された後、御家人への貸付を急速に増やしている札差である。

 戸田が進める借財整理にも、表向きは協力する姿勢を見せていた。

「三河屋の証文蔵は」

「この絵図の米蔵の近くです」

 源太郎が地図を重ねる。

 半纏が運び込まれた空き蔵。

 襲われると思われた証文蔵。

 その間には細い水路がある。

「妙です」

「何がだ」

「残党が証文を焼くなら、三河屋が警固を固めるはずです」

「固めていないのか」

「むしろ明日の夜、手代を早く帰すよう命じています」

 新之介は戸田の言葉を思い出した。

 札差の中にも、襲撃を待つ者がいるかもしれぬ。

「三河屋は焼かせたい」

「何を」

「都合の悪い証文を」

 源太郎の目が鋭くなる。

「火事に見せかけて処分する」

「そして焼け残った控えを使い、必要な相手からだけ取り立てる」

「真誠組は利用されている」

「矢代と同じだ」

 正しさを掲げた浪人を使い、金を動かす者がいる。

 同じ構図が繰り返されようとしている。

 新之介は請書を指した。

「宗次郎の父君も、近江屋に使われた」

「では、宗次郎は三河屋にとって」

「過去を掘り起こす者になり得る」

「黒装束は三河屋の手の者か」

「まだ決めつけるな」

「分かっています」

 源太郎は苦笑した。

「榊原様に何度も言われましたから」

「明日の夜まで待てぬ」

「今夜、空き蔵を改めますか」

「いや」

 新之介は地図を見つめた。

「敵はすでに、こちらが蔵前を警戒していると知っているかもしれぬ」

「どうします」

「再起館を使う」

 源太郎が目を瞬いた。

「弟子を巻き込むのですか」

「逆だ」

 新之介は言った。

「巻き込まれた弟子たちを、再起館へ集める」

「それだけですか」

「道場を囮にする」

 源太郎の顔から笑みが消えた。

「真誠組は宗次郎を捜す。三河屋の手の者も、宗次郎が戻る場所を知っているかもしれぬ」

「再起館に現れると」

「宗次郎本人か、追う者が」

「危険です」

「だから町方を周囲へ置け」

「道場の中は」

「私と玄斎先生がいる」

 源太郎はしばらく考えた。

「志乃殿や子どもたちは、別の場所へ」

「いや」

「榊原様」

「全員に事情を話す」

「残ると言い出します」

「ならば、それぞれに選ばせる」

 源太郎は首を振った。

「それは危険を背負わせることです」

「黙って遠ざければ、また勝手に動く」

 吉松たちはすでに動いた。

 守るだけでは、彼らの意志までは止められない。

「ただし、戦わせはせぬ」

「どうするおつもりで」

「再起館で学んだものを使う」

「剣ですか」

「礼と算術だ」

 源太郎は怪訝な顔をした。

「それが何の役に」

「まだ分からぬ」

「分からぬのですか」

「分からぬから集める」

 玄斎なら、そう言うだろう。

 すべて分かったと思う者ほど危うい。

 新之介は立ち上がった。

「今夜、再起館で話す」

 ◇

 夕刻の再起館には、弟子たちが集められた。

 吉松。

 辰蔵。

 堀江兵馬。

 清太郎。

 お園。

 ほかの弟子たち。

 志乃、真崎半九郎、玄斎。

 新之介は隠さずに話した。

 宗次郎が真誠組と関わっていたこと。

 蔵前襲撃を知らせて消えたこと。

 空き蔵に火消しの半纏が運び込まれたこと。

 三河屋が襲撃を利用しようとしている疑い。

 再起館も見張られている可能性。

 話し終えると、道場は静まり返った。

 最初に口を開いたのは兵馬だった。

「我らを帰すおつもりですか」

「帰りたい者は、今夜からしばらく休め」

「残りたい者は」

「残ってもらう」

 辰蔵が笑った。

「なら、残ります」

「戦うためではない」

「火が出るなら、火消しの出番です」

「ここで火を出させぬためだ」

「同じようなものです」

 清太郎が手を上げた。

「帳面を見せてください」

「なぜ」

「三河屋が焼きたい証文を推し量れるかもしれません」

「そなたに分かるか」

「札差の手代の子です。店ごとに証文の束ね方が違うことくらい知っています」

 お園が言った。

「私は書状を書きます」

「誰へ」

「片桐様へ」

「届く場所が分からぬ」

「戻る場所があると書きます」

 吉松が頷く。

「俺が届けます」

「ならぬ」

「まだ何も言ってません」

「顔に書いてある」

 道場に小さな笑いが起きた。

 張り詰めていた空気が少し緩む。

 志乃は新之介を見た。

「榊原様は、私たちを危険から遠ざけることを諦められたのですね」

「諦めてはおりません」

「では」

「危険を知ったうえで、どう動くかをともに考えます」

 志乃は静かに頷いた。

「それが再起館です」

 玄斎が木刀を床へ立てた。

「決まったなら、まず戸を閉めよ」

「先生」

「夜風が入る」

「それだけですか」

「敵も入る」

 皆が慌てて戸締まりへ動いた。

 玄斎は新之介の横へ座る。

「ようやく道場らしくなったな」

「剣を教えておりません」

「剣だけが道場ではない」

「明日、何が起こるでしょう」

「知らぬ」

「先生でも」

「分からぬから、皆で備えるのだろう」

 新之介は板の間を見た。

 辰蔵は火消し道具を点検している。

 清太郎と真崎は蔵前の絵図を広げる。

 志乃とお園は宗次郎へ宛てる文面を考えている。

 吉松は勝手に出て行かぬよう、兵馬から見張られていた。

 身分も年も違う。

 刀を差せる者も、差せぬ者もいる。

 だが今は、それぞれの役目を探している。

 これこそ、再起館を作った意味なのかもしれない。

 その時。

 門を三度叩く音がした。

 道場の動きが止まる。

 一度。

 間を置いて二度。

 宗次郎が門を訪れた時と同じ叩き方だった。

 吉松が立ち上がる。

「片桐さんだ」

「待て」

 新之介は刀の柄へ手を置いた。

 玄斎も木刀を取る。

 源太郎が配した町方の気配は、外から感じられない。

 門の向こうにいるのが宗次郎なら、なぜ見張りから合図がない。

「誰だ」

 新之介が問う。

 返事はない。

 再び三度。

 戸を叩く。

 今度は弱い。

 人が倒れかけながら叩いているような音だった。

 新之介は真崎へ目配せした。

 真崎が灯を消す。

 玄斎が門の横へ立つ。

 新之介は閂を外し、わずかに戸を開けた。

 人影が倒れ込んできた。

 片桐宗次郎だった。

 全身が血と泥にまみれている。

 左肩には深い傷。

 だが右手には、一本の刀を握っていた。

 父の形見ではない。

 黒鞘の短い刀。

 鍔には、戸田家の替紋。

「片桐!」

 新之介が抱き起こす。

 宗次郎は薄く目を開いた。

「蔵前は……罠だ」

「分かっている」

「違う……」

 血を吐きながら首を振る。

「証文を焼くのではない」

「何をする」

 宗次郎は新之介の襟を掴んだ。

「米を……燃やす」

 道場の空気が凍った。

「どこの米だ」

「御救い米……」

 飢饉や火事の際、町人へ配るために蓄えられた米。

 それを燃やせば、ただの札差騒ぎでは済まない。

 江戸の民が飢える。

 米価も上がる。

 町は混乱する。

 宗次郎は息を絞った。

「証文は……囮だ」

「誰の命だ」

「三河屋ではない……」

「では誰だ」

 宗次郎は黒鞘の刀を差し出した。

「戸田家の……」

 そこで言葉が途切れた。

 腕から力が抜ける。

「片桐!」

 吉松が駆け寄った。

「片桐さん!」

 宗次郎は意識を失った。

 新之介は黒鞘の刀を受け取った。

 戸田家の替紋。

 今度は印籠ではない。

 武士が正式に帯びる拵えである。

 疑いは、さらに深くなった。

 戸田家の中に敵がいる。

 あるいは戸田備前守その人が、まだ何かを隠している。

 蔵前襲撃まで一夜。

 狙いは証文ではなく、御救い米。

 そして、宗次郎が命を賭けて持ち帰った戸田家の刀。

 新之介は刀を見つめた。

 信じるために疑う。

 その言葉が、今ほど重く感じられたことはなかった。

(第二十九章へ続く)

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