第二十九章 御救い米
片桐宗次郎の身体は、ひどく冷えていた。
再起館の奥座敷へ運び込まれると、志乃とお園が傷口の布を切り、真崎半九郎が医師を呼びに走った。
左肩の傷は深い。
刃は肩口から背へ抜けている。
さらに脇腹には、何か硬いもので打たれた痕があった。
刀傷だけではない。
捕えられ、痛めつけられたのだろう。
「片桐さん」
吉松が座敷の隅で呼びかけた。
「聞こえるか。戻ってきたぞ」
宗次郎は目を閉じたまま、荒い息を繰り返している。
新之介は枕元へ膝をつき、その顔を見つめた。
宗次郎は戻った。
玄斎の言葉どおりだった。
床を拭き残した者は戻る。
しかし戻るために、どれほどの血を流したのか。
吉松が宗次郎の手を握った。
「片桐さん。俺の握り飯、まだ返してもらってねえぞ」
「そなたがもらったのではないか」
兵馬が小さく言った。
「だから今度は俺が返すんだ」
吉松は目を赤くしながら答えた。
志乃が振り返る。
「静かに。傷に障ります」
吉松は口を閉じた。
だが手は離さなかった。
新之介は立ち上がり、道場へ戻った。
板の間の中央には、宗次郎が持ち帰った黒鞘の刀が置かれている。
鍔には戸田家の替紋。
浅草の荒れ寺で拾った印籠と同じ紋であった。
玄斎は刀の前に座し、鞘と柄を丹念に見ている。
源太郎もすでに呼び戻されていた。
「戸田家のもので間違いありませんか」
新之介が問う。
「拵えだけならな」
玄斎は刀を鞘からわずかに抜いた。
白い刃が灯を反す。
「中身は古い。二十年以上前の刀だ」
「銘は」
「ない」
玄斎は完全に抜き、茎を改めた。
「磨り上げられておる。銘を消したか、元から無銘か」
源太郎が鍔を手に取った。
「戸田家の替紋を使った拵えは、家臣なら誰でも持てるものですか」
「誰でもではない」
新之介は答えた。
「先ほど戸田様が申された印籠は、中間への褒美物だった。だがこの刀は違う」
「家臣のうちでも、相応の者だけ」
「おそらく」
真崎が戻ってきた。
「医師が参ります」
「宗次郎の容体は」
「今夜が峠だろうと」
吉松に聞かせられぬ言葉だった。
真崎は刀を見て眉をひそめた。
「鞘の栗形に傷があります」
新之介も確かめた。
刀を帯へ通すための部分に、二本の平行した傷。
「何かを外した痕か」
「下緒でしょう」
真崎が言う。
「通常なら紐を通します。ですが、別の物を結んでいたようです」
源太郎が床へ顔を近づけた。
「血がついています」
宗次郎のものか。
それとも、この刀の持ち主のものか。
玄斎は刃を灯へかざした。
「こちらにも血がある。拭ってはいるが、完全ではない」
「宗次郎が奪ったのでしょうか」
「本人に聞くしかない」
新之介は刀を鞘へ戻した。
「御救い米の蔵は、どこだ」
源太郎が蔵前の絵図を広げた。
「幕府の御救い米は一か所ではありません。浅草御蔵のほか、火災や飢饉に備え、幾つかの蔵へ分けられております」
「宗次郎は蔵前と申した」
「ならば、この一帯です」
源太郎は隅田川沿いの蔵を指した。
「ただし、どの蔵かまでは」
清太郎が帳面を抱えて近づいた。
「分かるかもしれません」
「なぜだ」
「御救い米には、普通の蔵米とは違う印がつきます」
皆の視線が少年へ集まった。
清太郎は少し緊張しながら続ける。
「火事や飢饉の時、急いで配れるように、俵の縄の結び方と札を変えます。札差の店で、父が話していました」
「どの蔵にあるかも知っているのか」
「正確には知りません。でも、出し入れの帳面を見れば」
新之介は真崎を見る。
「再起館に、そのような帳面はない」
「三河屋ならあります」
清太郎が答えた。
「御救い米は札差の持ち物ではない」
「はい。ですが、蔵の人足を手配するのは札差や米問屋です。どの蔵へ何人出したか、米問屋の勘定に残ります」
源太郎が感心したように言った。
「よく見ているな」
「父は、商いでは品物より人足の数を見ろと」
「なぜだ」
「品物は隠せても、運ぶ人までは消せないからです」
忠左衛門が聞けば喜ぶだろう。
帳面は金だけを見るものではない。
そこに動く人を読むものでもある。
「三河屋の帳面を改めるには、奉行所の手が要る」
新之介が言うと、源太郎は難しい顔をした。
「今すぐ令状に当たる御用書きを取るには、証が足りません」
「宗次郎の証言は」
「意識がありません」
「刀は」
「戸田家の紋があるだけでは、三河屋を改める理由になりません」
辰蔵が口を挟んだ。
「帳面を盗んでくればいい」
源太郎が睨む。
「町方の前で堂々と盗みを勧めるな」
「燃やされるよりましでしょう」
「理屈の問題ではない」
辰蔵は不満そうに腕を組んだ。
新之介は絵図を見つめた。
時間がない。
襲撃は明日の夜。
だが敵が計画を早める可能性もある。
宗次郎を取り逃がし、再起館へ戻ったと知れば、今夜動くかもしれない。
「三河屋へ正面から参る」
新之介が言った。
源太郎が顔を上げる。
「何と申されるのです」
「御救い米が狙われている。人足帳を見せよ、と」
「拒まれます」
「拒む理由を見る」
「帳面は見られません」
「顔は見られる」
玄斎が小さく笑った。
「正面から疑うか」
「はい」
「誰が行く」
「私と清太郎です」
「私も」
源太郎が言った。
新之介は首を振る。
「奉行所の者が行けば、相手は身構える」
「榊原様でも十分身構えます」
「私は出仕差し控え中の旗本だ。今は公の役目がない」
「だから危険なのです」
「危険でない道があるか」
源太郎は黙った。
玄斎は木刀を取った。
「わしも行こう」
「先生は道場を」
「ここは真崎がおる」
真崎が頷いた。
「お任せください」
新之介は弟子たちを見回した。
「今夜は全員、ここから出るな」
辰蔵が口を開きかける。
「辰蔵」
「まだ何も」
「顔に書いてある」
吉松と同じことを言われ、辰蔵は口を閉じた。
「再起館を守れ。宗次郎を守れ。火が出た時の支度をせよ」
「火が出なければ」
「出ぬ方がよい」
「それでは火消しの腕を見せられません」
「見せるな」
道場にかすかな笑いが起こった。
だが緊張は消えない。
新之介は黒鞘の刀を風呂敷へ包んだ。
「清太郎、参るぞ」
「はい」
少年の返事には、恐れと誇りが混じっていた。
◇
三河屋は、蔵前でも大きな店構えを持っていた。
日が暮れかけているというのに、表にはまだ人足が出入りしている。
米俵。
帳箱。
証文を持った小身の武士。
手代たちは忙しく動き、そろばんの音が絶えない。
店の暖簾をくぐると、番頭が新之介を迎えた。
「これは榊原様」
名を告げる前に呼ばれた。
こちらの顔を知っている。
「主人に会いたい」
「手前どもの主人にございますか」
「いるのだろう」
「生憎、体調が優れず」
「ならば寝所へ参る」
番頭の笑みが固まった。
「それは」
「急ぎの用だ」
新之介は風呂敷を置いた。
黒鞘の刀を見せる。
番頭の目がわずかに動いた。
それだけで十分だった。
知っている。
「この刀に見覚えがあるな」
「武士様の刀など、手前どもには」
「嘘が下手だ」
玄斎が後ろから言った。
番頭は玄斎を見た。
老商人のような姿だが、木刀を持っている。
「何をお疑いで」
「御救い米が狙われている」
新之介は正面から告げた。
番頭の顔に驚きは浮かばなかった。
知らぬ者なら、まず意味を問う。
だが男はすぐに否定した。
「そのようなこと、当店には関わりございません」
「まだ三河屋が関わっているとは申していない」
番頭は言葉を失った。
奥から声がした。
「お通ししろ」
五十過ぎの男が現れた。
三河屋仁右衛門。
丸顔に柔和な笑みを浮かべている。
大黒屋宗兵衛に似た、商人の顔だった。
「榊原様。お騒がせいたしました」
「この刀を知っているか」
三河屋は刀を見た。
表情は動かない。
「戸田様の御家中のものでしょうか」
「そう見えるだけだ」
「では、存じません」
「御救い米を運んだ人足の帳面を見せてもらいたい」
三河屋の笑みが薄くなる。
「なぜでございましょう」
「火をつけられる恐れがある」
「それは一大事」
「帳面を」
「しかし、当店の帳面には他家の借財も記されております。勘定方でも町奉行所でもない榊原様に、お見せすることはできませぬ」
筋は通っている。
新之介は清太郎を見た。
少年は店内の奥へ目を向けていた。
何かを数えている。
「清太郎」
「はい」
「分かるか」
三河屋が初めて少年を意識した。
「どちらのお子で」
「札差の手代の倅だ」
清太郎は小声で新之介へ言った。
「奥へ運んでいる帳箱が多すぎます」
「何がだ」
「店じまい前なら、蔵から帳場へ出した帳面を戻します。ですが、あれは外へ持ち出す包み方です」
三河屋の目が鋭くなった。
「子どもの戯言でございます」
「では、なぜ今夜帳面を移す」
「虫干しで」
「夜に虫干しか」
玄斎が笑った。
三河屋は番頭へ一瞬だけ目配せした。
新之介は見逃さなかった。
番頭が店の奥へ下がろうとする。
「止まれ」
番頭は止まらない。
新之介が追おうとした時、店先で大声が上がった。
「火事だ!」
外の人々が騒ぎ始める。
三河屋の向かいにある小さな米問屋から、煙が上がっていた。
辰蔵たちは再起館にいる。
偶然ではない。
人の目を外へ向けるための火だ。
三河屋の手代たちが一斉に動き出した。
ある者は水桶を持ち、ある者は帳箱を抱えて裏へ走る。
「帳面を持ち出す者を止めろ!」
新之介が叫ぶ。
「何の権で!」
三河屋が怒鳴る。
「火事場で帳面を盗む者を止めるのに権は要らぬ!」
新之介は番頭の前へ回った。
番頭が懐から短刀を抜く。
やはりただの商人ではない。
新之介は鞘で手首を打った。
短刀が落ちる。
玄斎は裏口へ向かう手代の足を木刀で払った。
清太郎は机の下へ潜り、落ちた帳面を拾う。
「これです!」
表紙には、人足覚とある。
新之介は受け取った。
日付を追う。
明日。
蔵前外れの三番蔵へ、人足四十名。
名目は俵の積み替え。
しかし夜半。
通常の仕事ではない。
「三番蔵だ」
新之介が言った。
三河屋の顔から笑みが消えた。
「何をするつもりだ」
「知りませぬ」
「この帳面は」
「勝手に書かれたもの」
「そなたの店の印がある」
「番頭が」
「何でも番頭へ預けるか」
三河屋は答えなかった。
外の火は大きくなっている。
しかし不思議なことに、三河屋の者は消火へ向かわず、帳箱ばかりを運んでいた。
「御救い米を燃やせば、米価が上がる」
新之介は三河屋を見た。
「そなたは焼ける前に米を買い集めたか」
三河屋の目がわずかに揺れる。
「清太郎」
「はい」
「米の買付帳を探せ」
三河屋が叫んだ。
「子どもを店の奥へ入れるな!」
手代が清太郎へ向かう。
玄斎の木刀が、その足元へ突き立った。
「子どもを相手に大人気ない」
「そちらが申されますか!」
玄斎は笑った。
清太郎は帳場奥の棚を探り、一冊の薄い帳面を引き出した。
「ありました!」
そこには、ここ十日ほどの米買付が記されている。
通常の三倍。
しかも蔵前だけではなく、深川、本所、日本橋の米問屋からも買っていた。
御救い米が焼け、江戸の米価が上がれば、三河屋は大きく儲かる。
「札差が浪人を使い、米を焼く」
新之介の声が低くなる。
「大黒屋と同じだな」
「違う!」
三河屋が初めて取り乱した。
「大黒屋は己のために幕府を売った。私は武士を助けるために」
「米価を上げてか」
「借財整理で札差を締めつければ、金が回らぬ。米価が上がれば、米で禄を得る旗本は救われる」
「町人は飢える」
「一時のことだ」
「御救い米を燃やして、御家人を救うと申すか」
「武士が立たねば天下は保たぬ!」
三河屋の叫びに、新之介は矢代や酒井の言葉を思い出した。
天下。
幕府。
武士。
大きな言葉を使い、その下で一人一人の暮らしを小事とする。
「そなたが救うのは武士ではない」
「何」
「そなたに金を借り続ける者だ」
三河屋の顔が歪んだ。
その時、裏口から一人の手代が飛び込んできた。
「旦那様!」
「何だ」
「三番蔵へ向かった者から知らせが!」
手代は新之介たちを見て口を閉じた。
「申せ」
新之介が迫る。
手代は後ずさる。
「申さぬなら、そなたも同じ罪を負う」
「……計画が、今夜に変わりました」
新之介の胸が凍った。
「いつ」
「すでに……半刻前に」
敵は宗次郎を逃がしたことで計画を早めた。
今ごろ三番蔵には、火消しの半纏を着た浪人たちが集まっている。
「源太郎へ知らせろ」
玄斎が言った。
「町方は近くにいるはずだ」
新之介は清太郎へ帳面を渡した。
「これを持って奉行所の者を捜せ」
「榊原様は」
「三番蔵へ行く」
「私も」
「ならぬ」
「でも」
「そなたは証を運べ」
新之介は清太郎の肩へ手を置いた。
「帳面を守るのも戦いだ」
清太郎は一瞬迷い、強く頷いた。
「必ず届けます」
三河屋が逃げようとする。
玄斎の木刀が首筋へ添えられた。
「そなたは残れ」
「私を斬るのか」
「斬らぬ」
玄斎は穏やかに言った。
「生きて帳面を読んでもらう」
新之介は黒鞘の刀を腰へ差した。
戸田家の紋。
宗次郎が持ち帰った証。
その持ち主も、三番蔵にいるかもしれない。
店の外では火の粉が上がり、蔵前の町が騒ぎ始めていた。
これは囮の火。
本当の火は、御救い米を狙っている。
「先生」
「行け」
「三河屋を」
「任せよ」
「無理をなさらず」
「その言葉は聞き飽きた」
新之介は店を飛び出した。
夜の蔵前を走る。
三番蔵。
御救い米。
火消しに化けた真誠組。
そして戸田家の刀。
宗次郎が命を懸けて届けた知らせを、無駄にはできない。
道の先で半鐘が鳴り始めた。
火事を告げる音。
だが鳴らしているのが本物の火消しか、敵かは分からない。
町人たちが戸を開け、空を見上げる。
子を抱く女。
荷を運び出す商人。
水桶を手に走る者。
この者たちへ配るための米が狙われている。
武士を救うという名目で。
新之介は走った。
武士の文化とは、刀や家名を守ることだけではない。
弱い者へ渡す米を守ることもまた、武士の役目である。
その答えを、今夜は刃で示さねばならなかった。
(第三十章へ続く)

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