――第六十章 戻しの川筋――
川の上では、言い訳が利かない。
陸では、人は足を止めて考えるふりができる。障子一枚隔て、帳面を閉じ、火を見つめ、誰かのせいにすることもできる。だが舟の上では違う。流れている限り、進むか、止まるか、沈むかしかない。だから伊織は、水の上の追いかけ合いを嫌いではなかった。紙よりはっきりしている気がしたからだ。だが今夜ばかりは、そのはっきりさが逆に不気味でもあった。
前を行く舟は、無駄なく水を切っていた。
若い男の櫂さばきは、船頭のように大きくはない。浅く、早く、流れに逆らわず、それでいて舟首をこちらへ向けぬように細かく調整している。つまり、川の仕事に慣れている。箱を積む手でありながら、水そのものも知っている手だ。
伊織は、追いながらその背を見ていた。
若い。
まだ二十代の終わり。
だが、その背には焦りが薄い。
逃げる者の背ではなく、“次の口へ戻る者”の背だ。
それが気味悪かった。
「速ぇな……!」
新兵衛が櫂を押しながら呻く。
「川を知ってやがる」
「ああ」
伊織は低く答えた。
「だが急いではいない」
「何だと」
「どこへ行くか、もう決めている」
風が強くなる。
舟のへさきにしぶきがかかる。
夜の川は暗いが、月が少し出ていた。波頭だけが白く光る。
前の舟が、急に左へ切れた。
本流ではない。
脇へ入る。
細い水路。
両岸に蔵と板塀が迫り、舟が一艘やっと通れるほどの暗い筋だ。
「まずいぞ」
新兵衛が言う。
「狭い」
「分かっている」
伊織は前を見据えた。
狭い水路は、追うには不利だ。
だが逃げる方にも、抜け道が決まる。
そして“戻す手”の男なら、戻す先がその先にある。
ここで見失えば、また箱は別の顔をかぶる。
「入る」
伊織が言うと、新兵衛は舌打ちしつつも櫂を強く押した。
二艘は、ほとんど間を置かずに細水路へ滑り込んだ。
水路へ入ると、音が変わった。
風の音が弱まり、水のこすれる音だけが残る。
両側の板壁が近く、空も細い帯のようにしか見えない。
紙の匂いはしない。
木と泥と、少しの油の匂いだ。
前の舟が、そこでようやく少し速度を落とした。
「詰めるぞ!」
新兵衛が声を上げる。
だがその瞬間、前の男が舟の底から何かを掴み上げ、こちらへ放った。
木箱ではない。
縄の束だ。
濡れた縄が空中で解け、こちらの舟の櫂とへさきに絡みつく。
「くそっ!」
新兵衛が櫂を引く。
舟が一瞬、大きくぶれる。
その隙に前の舟はまた距離を取る。
「縄を切れ!」
伊織が短刀で絡んだ縄を断つ。
水に落ちた縄は、すぐに闇へ消える。
あの男は、こういう足止めまで用意していた。
つまり本当に、ここへ来るつもりだったのだ。
やがて水路の先が少しだけ開けた。
左右に倉が並び、その先に小さな荷揚げ場がある。
前の舟はそこへ真っ直ぐ向かっている。
荷揚げ場には灯が一つ。
人影もある。
「迎えがいる」
伊織が言う。
「やっぱりな」
新兵衛が歯を剥く。
「戻す先だ」
前の舟が岸に着く。
若い男が飛び降りる。
待っていた人影が、すぐに箱を受け取ろうと手を伸ばす。
その顔を、伊織は見た。
見た瞬間、胸の奥が静かに冷えた。
「……秋庭?」
新兵衛も同時に言った。
「おい、あれ――」
まちがいない。
主水のもとに預けたはずの秋庭だった。
いや、預けたというより、別室に置かれていた。
縄はかけられていなかった。
まだ白紙を書かせぬ、と主水は言った。
だが今、秋庭はここにいる。
箱を受け取る側に。
一瞬、伊織の胸で多くのことがせめぎ合った。
主水がわざと放ったのか。
秋庭が逃げたのか。
あるいは、別の“秋庭”か。
だが考える時間はない。
箱が岸へ上がれば、また流れは分かれる。
「着けろ!」
伊織が叫び、舟を岸へ寄せた。
二人はほとんど同時に飛び降りた。
前の若い男が短く舌打ちし、箱を秋庭へ押しやる。
秋庭がそれを受ける。
伊織は迷わず秋庭へ向かった。
若い男は新兵衛が受ける。
「逃がすかよ!」
新兵衛が体ごとぶつかる。
若い男も身を捻って受ける。
木箱が一つ、板の上を滑って水際へ転がる。
伊織は秋庭の腕を掴んだ。
「なぜここにいる!」
秋庭の顔は青ざめていた。
だが目は開いている。
逃げる目ではない。
むしろ、何かを決めてここへ立っていた目だ。
「榊原殿……!」
「主水殿のところから逃げたのか!」
「違います!」
秋庭は箱を抱えたまま叫んだ。
「主水殿の命です!」
その一言に、伊織の手がわずかに止まる。
だが止まったのは一瞬だけだった。
「証は」
伊織が低く言うと、秋庭は懐から小さな紙片を出した。
濡れぬよう油紙で包まれている。
主水の短い筆。
間違えようがない。
――戻し帳の箱、戻る先を見よ。秋庭を使う。疑うな。
伊織は、紙片を見た瞬間、胸の奥に別の冷たさを覚えた。
主水は、最初から秋庭を“戻す手”として使っていたのだ。
白紙に触れた者だからこそ、戻しの口へ入れた。
その理は分かる。
分かるが、痛い。
主水はそこまで先を読んでいたのだ。
「言え」
伊織が秋庭へ言う。
「箱はどこへ戻る」
秋庭は、すぐに答えた。
「この先の蔵です。帳面では《川向き三番》とだけ記されています。主水殿は、そこが“戻し帳の元”だと」
若い男が、そのやり取りの間に逃げかける。
だが新兵衛が足を払って叩き伏せた。
「こっちは逃がしてねぇ!」
伊織は頷き、前を向いた。
荷揚げ場の奥、板壁の向こうに、小さな蔵が見える。
目立たぬ。
むしろ目立たなすぎる。
紙も箱も、すべて最終的にはこういう“ただの蔵”へ戻るのだろう。
「行くぞ」
伊織が言うと、秋庭が一瞬ためらった。
「……私も」
「来い」
伊織は短く答えた。
秋庭の顔が、少しだけ変わった。
白紙に迷っていた若い顔ではない。
いまは、戻る側へ立つと決めた顔に見えた。
蔵の前には錠がかかっていた。
だが箱を戻す手には、当然その鍵もある。
若い男の懐を探ると、木の鍵札が出た。
《三番》。
伊織がそれを差し込む。
重い戸が、ぎ、と鳴って開いた。
中は暗い。
だが箱を置く台が幾つもあり、そのうち三つが空いている。
つまり、ここへ戻す箱の数まで決まっている。
ただの隠し蔵ではない。
戻し帳の“帳場”だ。
秋庭が箱を台へ置き、蓋を開けた。
中にあるのは、古帳面だけではなかった。
紙に包まれた札。
印の控え。
寺納め、学用、薬種、奉行所控――。
いずれも一度は表の顔をしたものばかりだ。
そしてその奥に、分厚い一冊がある。
戻し帳。
伊織は、それを両手で持ち上げた。
重い。
紙の重みだけではない。
ここへ戻ってきた“少しだけ”の積み重ねが、そのまま重さになっているようだった。
「これか……」
秋庭が低く言う。
「ええ」
伊織は帳面を開いた。
びっしりと記されている。
流した紙。
寺の札。
箱へ変えた日。
水へ乗せた刻。
戻した先。
戻し先の略号。
そして、その中の一頁に、見覚えのある名があった。
――《主水控差止 一》
伊織の指が止まった。
「どうした」
新兵衛が言う。
「……主水殿の名がある」
秋庭の顔色が変わる。
「何だと」
伊織は頁を追った。
名ではない。
控えの名だ。
主水のところで一度差し止められた文の控えが、ここへ一つ戻されている。
つまり誰かが、主水の“止めた文”そのものを、この戻し帳の筋へ流していたのだ。
「主水殿が……?」
秋庭が呟く。
疑いではない。
恐れだ。
主水すら汚れているのかと、一瞬でも思いたくない恐れ。
「違う」
伊織は即座に言った。
「主水殿の“止めた文”を、誰かが横から抜いた」
「誰が」
新兵衛が問う。
伊織は頁の端を見た。
そこに、小さな印がある。
三本線ではない。
主水の印でもない。
だが見覚えがある。
沼田宗十郎の検印方で見た、あの控え印。
つまり――。
「……沼田の前だ」
伊織が低く言う。
「沼田のさらに前で、止められた文を抜ける手がある」
秋庭が息を呑む。
「そんな……」
「ある」
伊織は、帳面を閉じた。
「だから戻し帳がここまで育った」
止める手。
通す手。
そのさらに前で、止まったものを“抜く手”がある。
白紙に書く前でも、流す前でもない。
いったん止められたものを、横から戻しの筋へ滑らせる手。
それはもう、紙でも箱でもない。
まさに“息”のような仕事だと伊織は思った。
文が死ぬ寸前に、別の口へ吹き込む。
そうやって流れをつなぐ。
「誰だ」
新兵衛が低く言う。
伊織はすぐには答えられなかった。
ここまで来ると、名を急げば足元が崩れる。
主水の控え文まで触る手。
それはもう、ただの下役ではない。
止める手と通す手のあいだにいる、もっと細い継ぎ目だ。
「……まだだ」
伊織は言った。
「だが、これで見えた。箱の先にあるのは、倉ではない。息だ」
秋庭が、静かにその言葉を反芻する。
「息……」
「止まった文に、別の命を吹き込む手だ」
伊織は帳面を抱え直した。
重い。
だがこの重さがある限り、まだ追える。
流れた一枚を悔やむ時は終わった。
ここからは、この帳面に残った“戻しの息”を読むしかない。
「主水殿のところへ戻る」
伊織が言うと、新兵衛が頷いた。
「今度は急いだ方がいいな」
「ああ」
「戻し帳は、燃やされる前に渡さねぇと」
その通りだった。
今夜は、戻る場所へ戻る前に、まず主水のところへ行かねばならない。
戻し帳は、白紙よりも重い。
そして、おそらく今までで一番、危うい。
波瀾万丈の物語は、箱の顔を剥ぎ、その中から“戻しの息”を掴んだ。
次に相手にするのは、文が死ぬ前に命を吹き込む手だ。
それはたぶん、これまでで最も見えにくい敵なのだろう。
(第六十一章につづく)

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