上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第三十九章

目次

第三十九章 「海」の字の下

 街道寺を出たのは、丑の刻を少し回った頃だった。

 月は雲に隠れ、道は暗い。

 提灯の明かりは足元までしか届かず、その外側には田畑と林の影が広がっている。

 新之介。

 玄斎。

 半九郎。

 源太郎。

 大場。

 青山新六郎は寺へ残された。

 本人は最後まで江戸へ戻ると言い張ったが、立ち上がった途端に膝をついたため、誰も耳を貸さなかった。

「青山殿は怒っているでしょうか」

 半九郎が問う。

「怒る力があるなら大丈夫だ」

 新之介が答える。

「傷人は皆、自分だけは動けると思う」

 玄斎が言った。

「先生も同じです」

「わしは歩いておる」

「膝を引きずっています」

「道が悪い」

「無音寺でも同じことを申していました」

「今夜の道は本当に悪い」

 玄斎は棒を杖代わりにしている。

 無音寺で奪った棒だった。

 本来の木刀は、火事の中でも失われずに戻っている。

 それを腰へ差し、別の棒へ体重を預けていた。

「馬を借りればよかったのでは」

 源太郎が言う。

「夜道で落ちれば、膝より悪くなる」

「駕籠は」

「傷人扱いするな」

「十分、傷人です」

「青山ほどではない」

「比べる相手が悪いです」

 一行は歩みを速めた。

 第二冊の封は街道寺に残した。

 海防掛、町方、戸田家、そして農夫・佐吉の四つの印。

 だが封があるから安全とは限らない。

 見張る者の中に佐平の仲間がいれば、帳面は奪われる。

 誰も信用できない。

 それでも誰かへ任せなければ、一歩も動けない。

「信じないことと、任せないことは違うのでしょうか」

 半九郎が呟いた。

「何の話だ」

「第二冊です」

「気になるか」

「はい」

「戻るか」

「戻りません」

「ならば今は前を見ろ」

 玄斎が言った。

「置いてきた物ばかり見て歩けば、溝へ落ちる」

「先生は先ほどから二度落ちかけています」

「道が悪い」

「前を見てください」

 ◇

 夜明け前、一行は船橋宿へ着いた。

 宿場はまだ眠っている。

 開いていた茶屋の軒先を借り、水と握り飯を求めた。

 大場は海防掛の印を見せ、早馬を一頭借りた。

「先に江戸へ行くのか」

 新之介が問う。

「第四冊の探索へ向かった町方へ知らせます」

「何を」

「佐平が江戸へ戻る可能性を」

「旧宅の場所は知っているか」

「海防掛の記録にはありません」

「ならば、誰へ伝える」

「坂崎様へ」

「水野様ではなく」

 大場は一瞬迷った。

「水野様へも報告します」

「先に坂崎様か」

「青山様の命です」

「青山殿は水野様を疑っている」

「否定しません」

「そなたは」

「役目を疑うことはできません」

「人なら疑えるか」

「……はい」

 大場は正直に答えた。

「水野様が内通者だと思っているのか」

「分かりません」

「便利な言葉でしょう」

「榊原殿ほどは使いません」

 大場は馬へ乗った。

 吊られていた両腕には、まだ縄の痕が残っている。

「動けるのか」

 源太郎が問う。

「手綱は握れます」

「動けることと」

「行けることは違う。聞きました」

 大場は小さく笑った。

「ですが、今は私が先に知らせるべきです」

「なぜそなたが」

「青山様の部下だからです」

「役目か」

「それだけではありません」

 大場は一度、下総の方角を振り返った。

「青山様を置いてきました。せめて命じられたことは果たしたい」

「それも自分のためかもしれぬぞ」

 玄斎が言う。

「はい」

 大場は頷いた。

「だから、役目だけだとは申しません」

 玄斎は満足そうに鼻を鳴らした。

「行け」

「黒川殿に命じられる筋はありません」

「では行くな」

「行きます」

 大場は馬を走らせた。

 夜明け前の街道へ、蹄の音が遠ざかっていく。

「先生は、素直に送り出せないのですか」

 新之介が問う。

「戻ってくれば褒める」

「本人に言ってください」

「褒めると、次も無理をする」

「先生も随分、後見役らしくなりましたね」

「腹が立つ言い方だな」

 ◇

 江戸へ入った時には、空が白み始めていた。

 早朝の町には、すでに働く者がいる。

 魚河岸へ向かう棒手振り。

 大八車を引く人足。

 店先を掃く小僧。

 夜通し歩いた新之介たちの姿を見ても、誰も長く気に留めない。

 江戸では、それぞれが自分の朝を始めるのに忙しい。

「先に再起館へ」

 新之介が言った。

「旧宅ではなく」

 半九郎が問う。

「清太郎たちが戻っているかもしれぬ」

「戻っていなければ」

「場所を確かめて追う」

「その間に佐平が」

「再起館が襲われていないかも確かめる」

「すべて見ろ、ですか」

「ああ」

「足が遅くなります」

「それでもだ」

 無音寺で見つけた言葉。

 役目だけでは、人を失う。

 家だけでは、外を失う。

 人だけでは、明日を失う。

 第四冊だけを急いで、戻る場所を見ないわけにはいかない。

 ◇

 再起館の門は閉じていた。

 だが戸板に異変はない。

 血もない。

 新之介が戸を叩く。

「誰だ」

 内側から兵馬の声。

「私だ」

「私では分からぬ」

「新之介だ」

「証を」

「開けなければ、先生が戸を壊す」

「それは証になります」

 閂が外された。

 戸が少しだけ開く。

 兵馬が木刀を構えている。

 新之介の顔を見て、ようやく全開にした。

「戻ったか」

「ああ」

「先生も」

「見れば分かる」

 玄斎が不満そうに入る。

「膝を痛めていますね」

「なぜ皆、膝を見る」

「歩き方が変です」

「道が悪かった」

「江戸の道もですか」

「下総の道の痛みが残っておる」

 道場の中では、宗次郎が起きていた。

 吉松と清太郎の姿はない。

 志乃、お園、辰蔵がいる。

「清太郎は」

 新之介が問う。

 志乃が答えた。

「まだ戻っていません」

「出たのはいつだ」

「昨日の昼前です」

「町方と一緒か」

「捕り手二人。それと吉松も」

「なぜ吉松が」

 新之介の声が強くなる。

「清太郎一人では記録の荷が持てないと」

 兵馬が答えた。

「誰が許した」

「私です」

 志乃が言う。

「危険が少ないと思いました」

「第四冊を探す場所だぞ」

「だから、町方が二人つきました」

「それでも」

「新之介様」

 志乃の声は静かだった。

「危険があることは、二人にも伝えました」

「子どもだ」

「再起館へ来た時から、何も知らない子どもではありません」

「知っていれば危険へ出してよいのか」

「止めれば、二人は自分で隠れて行ったでしょう」

 新之介は言葉に詰まった。

 清太郎なら、確かにそうするかもしれない。

 吉松も一人で行かせまいとついていく。

「だから正面から送り、町方をつけました」

「それでも戻っていない」

「はい」

 志乃の顔にも不安がある。

 平然としているわけではない。

 不安を抱えたまま、送り出すことを選んだ。

「責めるなら、戻ってからにしてください」

「戻らなければ」

「探しに行きます」

「今からだ」

「私も」

「残れ」

「なぜです」

「ここを守る者が要る」

「また私だけ」

「それも役目だ」

「役目を盾にしないでください」

 新之介は志乃を見た。

 水野へ向けた言葉が返ってくる。

「……すまぬ」

「謝る前に、二人を」

「ああ」

 宗次郎が立ち上がろうとした。

「私も行く」

「座れ」

「清太郎と吉松だ」

「分かっている」

「ならば」

「そなたは傷人だ」

「歩ける」

「何度申させる」

「今は傷より」

「人を小事にするな」

 新之介は宗次郎へ近づいた。

「そなた自身も人だ」

 宗次郎の顔が歪む。

「ここで待つだけは嫌だ」

「ならば仕事がある」

「何だ」

「手紙を書いたか」

「藤吉へか」

「ああ」

「途中だ」

「仕上げろ」

「今か」

「戻った時に読ませる」

「藤吉が生きていれば」

「生きていると思って書け」

 宗次郎は拳を握った。

 やがて座り直す。

「戻ってこい」

「戻る」

「清太郎たちも」

「連れて戻る」

 今度は、できぬ約束だと誰も言わなかった。

 できるかどうかではない。

 そうするために出る。

 ◇

 半九郎の旧宅は、本所の外れにあった。

 細い水路と長屋の間を抜けた先。

 小さな門構えの町家。

 今は古道具屋「杉屋」の看板が出ている。

 戸は半分開いていた。

 店先には茶碗、古い煙管、破れた屏風、農具が並んでいる。

 人の姿はない。

「杉屋殿」

 半九郎が呼ぶ。

 返事はない。

 源太郎が戸口の土を調べる。

「足跡が多い」

「店だからだろう」

「新しい草鞋の跡が五つ。裏へ続いています」

「町方二人、清太郎、吉松」

「あと一人」

 新之介は刀へ手を置いた。

 店へ入る。

 棚が倒れている。

 古道具が床へ散らばっていた。

 争った跡。

「清太郎!」

 返事はない。

 奥の部屋へ進む。

 襖には血がついている。

「誰の」

 半九郎が手を触れようとする。

「触るな」

 源太郎が止めた。

「量は少ない。指か腕の傷でしょう」

 襖を開ける。

 部屋の柱に、大きく墨の跡があった。

 古く薄れているが、一文字だけ読める。

 ――海。

 子どもの手で書いた字。

 左の払いが長く、右側が潰れている。

 半九郎が近づいた。

「これです」

「覚えているか」

「字は覚えていません。ただ、この柱の前で父に叱られると思い、泣いたことは」

「叱られたのか」

「いいえ」

「何と」

「海へ行ったこともないのに、なぜ海と書いた、と聞かれました」

「何と答えた」

「広いから、と」

「見たこともないのにか」

「父の持っていた海図で見ました」

 半九郎は柱の「海」を指でなぞった。

「父は笑って、そのまま残した」

「下とは」

 柱の根元。

 床板。

 壁。

 どこにも掘り返した跡はない。

「清太郎たちは、まだ見つけていなかったのか」

 源太郎が問う。

「いや」

 新之介は部屋を見回した。

 倒れた文机の上に、小さな帳面がある。

 清太郎の字。

 調べた場所が記されていた。

 ――柱の下、異常なし。

 ――床下、空。

 ――壁土、古いまま。

 最後の行。

 ――「字の下」とは、場所ではなく書き順かもしれない。

「書き順」

 半九郎が呟く。

 海の字。

 氵。

 毎。

「下に書いた字か」

「子どもの手習いなら、同じ紙へ何度も書く」

「柱には一字しかない」

 新之介は帳面を裏返した。

 裏表紙に、炭で急いで書かれた文。

 ――吉松と裏蔵へ行く。町方一名負傷。もう一名は杉屋夫婦を逃がす。知らぬ侍が「海」の字を見て笑った。

「知らぬ侍」

「佐平か」

「頬の火傷があれば書くはずです」

「別の者だ」

 半九郎が柱を見る。

「裏蔵は、昔の物置です」

「案内を」

「こちらです」

 ◇

 庭の奥に小さな土蔵があった。

 扉は開いている。

 錠が地面へ落ちていた。

 新之介たちは左右へ分かれ、慎重に近づく。

 中から物音。

 ごとり。

「誰だ」

 新之介が呼ぶ。

「榊原様?」

 清太郎の声。

「清太郎!」

「中へ入らないでください!」

「なぜ」

「床が抜けています!」

 土蔵へ入ると、中央の床板が外され、大きな穴が開いていた。

 穴の底から清太郎が顔を出している。

 隣に吉松。

 捕り手の一人もいる。

 三人とも泥だらけだった。

「何をしている」

「落ちました」

 清太郎が答えた。

「見れば分かる」

「梯子を外されました」

「誰に」

「知らない侍です」

「顔は」

「白い頭巾で隠していました」

「人数は」

「一人」

「一人にやられたのか」

 捕り手が悔しそうに言う。

「手練れです。後ろから梯子を蹴り落とされました」

「怪我は」

「吉松が足をくじきました」

「くじいていません」

 吉松が言う。

「少し痛いだけです」

「傷人は皆、同じことを申す」

 玄斎が穴を覗く。

「先生も穴へ落ちればよかったのに」

 吉松が言う。

「口は元気だな」

 源太郎が縄を下ろした。

 三人を順に引き上げる。

 最後に吉松。

 新之介が抱えると、右足へ力が入っていない。

「くじいている」

「歩けます」

「座れ」

「でも」

「命だ」

「後見役のですか」

「今は私のだ」

 吉松は不満そうに座った。

「帳面は」

 半九郎が問う。

 清太郎が穴を指す。

「下に、古い箱がありました」

「開けたか」

「いいえ」

「なぜ」

「罠かもしれないので」

 新之介は清太郎を見る。

「よく待った」

「本当は開けたかったです」

「正直だな」

「吉松に止められました」

「また吉松か」

 吉松は足を押さえながら言った。

「箱より人です」

「誰に教わった」

「皆です」

 ◇

 縄を固定し、新之介、半九郎、源太郎が穴へ下りた。

 玄斎は膝を理由に上へ残る。

 本人は認めなかったが、誰も聞かなかった。

 穴の底は、古い地下蔵になっていた。

 柱の真下から横へ伸びる狭い空間。

 壁は板張り。

 湿気が強い。

 奥に木箱が一つある。

 表面には、子どもの字で何度も「海」と書かれた紙が貼られていた。

「私の字です」

 半九郎が息を呑む。

 紙は何枚も重なっている。

 一枚目は大きく歪んだ海。

 二枚目は少し整った海。

 三枚目。

 四枚目。

 書くたびに形が変わっていく。

「父は残していた」

「そなたが初めて書いた一文字の下」

 新之介が言う。

「柱の下ではない」

「最初の字の下に、次の字を重ねた」

「では帳面は、何枚目の下だ」

 源太郎が問う。

 箱の蓋に錠はない。

 代わりに、重ねられた手習い紙が封のように貼られている。

 一枚目を剥がせば、次の紙が現れる。

「破らずに剥がせるか」

 半九郎が問う。

「湿気で糊が緩んでいます」

 源太郎が端を確かめる。

「ゆっくりなら」

 半九郎が自分で剥がそうとする。

 手が震えている。

 新之介が止めた。

「急ぐな」

「私の字です」

「だからだ」

「父が残した」

「だからこそ、破れば戻らぬ」

 半九郎は息を整えた。

「お願いします」

 源太郎が小刀の背を使い、一枚ずつ剥がす。

 一枚目。

 二枚目。

 三枚目。

 十枚ほど重なっていた。

 最後の紙は、ほとんど正しく書かれた「海」。

 その下に、玄十郎の字があった。

 ――海を知ったと思うな。

 ――広さを知ったと思うな。

 ――見たものは一部である。

「父らしい」

 半九郎が呟く。

「厳しい方だったのか」

「自分にも、他人にも」

「そなたには」

「優しかったと思います」

「思います、か」

「今になって分かることが多い」

 最後の紙を外す。

 箱の蓋に、三つの窪みが現れた。

 丸。

 三角。

 四角。

「鍵が要る」

 源太郎が言う。

「海図の銅板では」

 半九郎は懐から弁財丸の銅板を出した。

 形は四角に近い。

 四角の窪みへ当てる。

 ぴたりとはまった。

「一つ」

「残り二つは」

「父の遺品かもしれません」

「何を持っている」

 半九郎は懐を探る。

 玄十郎の手紙。

 海図。

 家紋の入った小柄。

 小柄の鍔部分は三角形だった。

「これか」

 三角の窪みへ差し込む。

 合う。

「丸は」

 何もない。

「銭では」

 源太郎が一文銭を当てる。

 大きさが違う。

「父がいつも持っていた丸い物」

 半九郎が考える。

「印判」

「どこに」

「父の死後、私が受け取りました」

「今は」

「家を売る時、藤吉へ預けた」

 藤吉は西徳寺。

 江戸の別の場所にある。

「取りに戻るか」

「時間がない」

「無理に開ければ罠が」

「知らない侍は、丸い鍵を持っているかもしれません」

 源太郎が床を見る。

 新しい泥の跡。

 木箱の前まで来ている。

「相手も開けられなかった」

「だから私たちを穴へ落とし、鍵を取りに行った」

「藤吉殿が危ない」

 半九郎が立ち上がる。

「待て」

「父の印判を取りに行ったなら」

「その可能性はある」

「急がねば」

「箱をどうする」

「ここへ残す」

「相手が戻る」

「持ち出せますか」

 三人で箱を持ち上げようとする。

 動かない。

 床へ固定されている。

 無音寺の箱と同じ。

「また仕掛けです」

 源太郎が底を探る。

「鎖があります」

「切れるか」

「何につながっているか分かりません」

「無理に切れば燃えるかもしれぬ」

「父も鷹見先生と同じことを」

「人は師に似る」

 新之介は箱を見つめた。

 残せば奪われる。

 動かせば仕掛けが動く。

 開ける鍵は西徳寺。

 誰かがすでに取りに向かった可能性。

「源太郎」

「はい」

「町方をここへ残せ」

「人数が足りません」

「再起館から兵馬と辰蔵を呼ぶ」

「子どもと火消しです」

「火が出るなら辰蔵が要る」

「それはそうですが」

「戸田家にも知らせる」

「海防掛は」

 新之介は迷った。

 水野をどこまで信用するか。

 だが単独で守れば、同じ失敗をする。

「知らせる」

「水野様へ」

「青山殿へ先に」

「青山殿は下総です」

「大場が戻れば伝わる」

「時間が」

「ならば高梨殿へ」

「水野様の側近です」

「だから外せば疑われる」

 半九郎が言った。

「私は西徳寺へ行きます」

「一人では行かせぬ」

「誰が」

「私が行く」

「榊原様はここを」

「源太郎がいる」

「私一人で十分です」

「佐平か、白頭巾の侍がいる」

「藤吉が危ない」

「分かっている」

「ならば」

「一緒に行く」

 新之介は決めた。

「玄斎先生と清太郎は再起館へ戻り、兵馬と辰蔵を連れてくる。源太郎は箱を守る。捕り手一人は杉屋夫婦の無事を確かめ、町方へ報告」

「吉松は」

 清太郎が問う。

「医者へ」

「行きません」

「足をくじいている」

「ここへ残ります」

「なぜ」

「清太郎が戻ってくる場所が要ります」

 吉松は真顔だった。

「私が再起館へ行きます」

 清太郎が言う。

「吉松を連れて」

「歩けません」

「背負います」

「重いです」

「そなたよりは軽い」

「同じくらいです」

「言い争うな」

 玄斎が穴の上から顔を出した。

「二人とも、わしと戻る」

「先生が二人を」

「不満か」

 新之介が問う。

「膝が」

「道が悪いだけだ」

「江戸の道です」

「今は蔵の床だ」

 ◇

 役目を分け、一行は再び二手に分かれた。

 源太郎と捕り手は地下蔵。

 玄斎、清太郎、吉松は再起館へ。

 吉松は結局、玄斎と清太郎が交代で背負うことになった。

「先生に背負われるのは怖いです」

「落とすぞ」

「ほら」

「黙っておれ」

 新之介と半九郎は西徳寺へ急いだ。

 朝の江戸は、すでに人で満ち始めている。

 人混みを縫い、橋を渡る。

「白頭巾の侍に心当たりは」

 新之介が問う。

「ありません」

「父上の印判を知る者は」

「藤吉。私。父の古い弟子たち」

「ほかの弟子は」

「多くは亡くなりました」

「生きている者は」

「一人だけ」

「名は」

「榊兵庫」

 新之介が足を止めかけた。

「榊」

「ご存じですか」

「いや。だが、どこかで」

 鷹見塾の古い記録。

 戸田家。

 相模屋。

 これまで見た名の中にあった気がする。

「どこにいる」

「十五年前に江戸を離れました」

「行き先は」

「長崎」

 長崎。

 異国との取引。

 佐平が会っていた通詞。

「榊兵庫は、何をしていた」

「父とともに弁財丸を調べていたはずです」

「なぜ今まで名が出なかった」

「父が口にすることを嫌いました」

「裏切ったのか」

「分かりません」

「外見は」

「背が高く、左の眉に傷がありました。今なら五十を越えています」

「白頭巾では分からぬな」

「剣は強いです」

「町方を一人で穴へ落とすほどか」

「十分に」

 半九郎の顔が曇る。

「もし兵庫なら、なぜ今」

「第四冊を知っていた」

「父から聞いたのか」

「父を裏切って場所を吐かせた可能性もあります」

「決めつけるな」

「疑っています」

「そうだったな」

 二人は再び走った。

 ◇

 西徳寺の門前には、見慣れぬ駕籠が一つ止まっていた。

 担ぎ手はいない。

 門が開いている。

 境内は静かだった。

「了順殿!」

 新之介が呼ぶ。

 返事はない。

 本堂の脇に、寺男が倒れている。

 息はある。

 後頭部を打たれていた。

「藤吉!」

 半九郎が治療部屋へ走る。

 戸が開いている。

 布団は空。

 血の跡が廊下へ続いていた。

 部屋の隅に、了順が縛られている。

 新之介が縄を切る。

「何があった」

「白い頭巾の侍が」

「藤吉殿は」

「連れていかれました」

「印判は」

「分かりませぬ」

「どちらへ」

「裏門から」

 半九郎が藤吉の布団を探る。

 枕元に置かれていた壺は割れている。

 手紙はない。

 銭もない。

 床に、丸い印影だけが残っていた。

 朱肉へ押した跡。

「印判は持ち去られた」

 半九郎が言う。

「藤吉殿も」

「なぜ藤吉を連れていく」

「第四冊を開けた後、内容を確かめさせるためかもしれぬ」

「藤吉は中身を知らない」

「相手はそう思っていない」

 廊下の先から、かすかな声がした。

「若様……」

 半九郎が振り返る。

 縁の下。

 板の隙間から手が見える。

「藤吉!」

 床板を外す。

 藤吉が縁の下へ倒れていた。

 背の傷が開き、血に濡れている。

 だが生きている。

「連れていかれたのでは」

 新之介が問う。

 了順が答えた。

「偽の人を」

「何」

 藤吉は苦しげに笑った。

「寺男へ……私の着物を着せた」

「なぜ」

「印判を……渡さぬため」

「寺男は」

「無事です。縛られただけです」

「相手は気づかなかったのか」

「顔を布で隠していた」

 藤吉は懐から小さな袋を出した。

 丸い印判。

「守った」

 半九郎が受け取る。

「無理をするなと申しただろう!」

「若様に……言われたくない」

「誰も彼も同じことを」

 新之介が呟く。

「白頭巾の男は誰だ」

 半九郎が問う。

 藤吉の顔が固くなる。

「榊兵庫」

「やはり」

「生きていた」

「なぜ第四冊を」

「自分の物だと申した」

「父上の帳面だ」

「違う」

 藤吉は首を振った。

「第四冊を書いたのは、兵庫だ」

 半九郎が動きを止める。

「何」

「玄十郎様が隠した。だが記録したのは榊兵庫」

「父とともに」

「最初はな」

「その後、裏切ったのか」

「分からぬ」

「またか」

「玄十郎様は、兵庫を裏切り者とは申さなかった」

「では、なぜ名を隠した」

「恐れていた」

「誰を」

「兵庫が帳面を使うことを」

「何のために」

 藤吉は目を閉じ、息を整えた。

「異国を追い払うためなら、江戸を一度焼いてもよいと申した」

 新之介は佐平の言葉を思い出した。

 一人を残せば、百人が死ぬ。

 国を変える者。

 異国の力を借りる日本人。

「佐平の背後は榊兵庫か」

「佐平は兵庫の弟子だった」

「なぜ先に申さなかった」

「佐平の顔を知らなかった」

「名は」

「佐平は名を変えている。昔は榊左門」

 榊兵庫の血縁か。

「息子ですか」

 半九郎が問う。

「養子だ」

「では佐平は」

「第四冊を取り戻し、兵庫へ渡すために動いていた」

「兵庫は今、箱へ向かっている」

 印判を奪ったと思い込み、偽の藤吉を連れて。

「偽物だといつ気づく」

「印判がないと分かった時です」

「すぐ戻る」

 新之介が立ち上がった。

「半九郎、印判を持て」

「はい」

「了順殿、藤吉殿を」

「お任せください」

 藤吉が新之介の袖を掴む。

「待て」

「何だ」

「兵庫を……すぐ敵と決めるな」

「なぜ」

「玄十郎様は最後まで、兵庫を斬らなかった」

「理由は」

「聞けなかった」

「兵庫が父上を襲わせたのでは」

 半九郎が言う。

「分からぬ」

「父上を傷つけ、帳面を奪おうと」

「それでも玄十郎様は申した」

「何と」

「兵庫は、間違った答えを選んだ。だが問いは同じだ、と」

「何の問いだ」

「この国をどう守るか」

 藤吉の手から力が抜ける。

 新之介はその手を布団へ戻した。

「話を聞く」

「必ずだ」

「斬られなければな」

「できぬ約束を」

「だから約束はせぬ」

 新之介と半九郎は寺を出た。

 ◇

 旧宅へ戻る道の途中で、鐘の音が聞こえた。

 寺の鐘ではない。

 火の見櫓。

 一度。

 続けて二度。

「火事か」

 新之介が空を見る。

 本所の方角に黒い煙。

 旧宅のある方角だった。

「まさか」

 半九郎が走り出す。

 火の手はまだ小さい。

 だが風がある。

 長屋へ移れば広がる。

 道を曲がると、人々が逃げてきた。

「古道具屋が燃えてる!」

「土蔵から煙だ!」

「子どもが中に!」

「清太郎か!」

 新之介たちは人波を逆に走った。

 杉屋の店先では、辰蔵が鳶口を持って屋根へ上がっている。

 兵馬と清太郎が桶を運ぶ。

 吉松は道端へ座らされ、怒鳴っていた。

「もっと右です! そこを崩して!」

「黙って足を冷やせ!」

 辰蔵が返す。

 玄斎は土蔵の前に立っている。

「先生!」

「遅い!」

「何が起きた」

「白頭巾が戻った!」

「榊兵庫か」

「名乗った」

「中にいるのか」

「ああ」

「源太郎は」

「地下だ!」

 土蔵の床下から煙が上がっている。

 第四冊の箱。

 榊兵庫。

 源太郎。

 三人とも地下。

「なぜ火が」

「箱を開けようとして、仕掛けが動いた!」

「印判がなければ開かぬはずだ」

「兵庫は別の鍵を持っていた!」

 玄斎が言う。

「三つの鍵が揃わぬまま動かしたらしい!」

 土蔵の奥で木が崩れる音。

「源太郎!」

 新之介が入口へ向かう。

 辰蔵が屋根から飛び降りた。

「待ってください!」

「中にいる」

「床が焼けています!」

「どう入る」

「壁を崩します!」

「帳面は」

「人が先です!」

 辰蔵は鳶口を土壁へ打ち込んだ。

 兵馬も木槌を持って加わる。

「清太郎、下がれ!」

「箱の場所を知っています!」

「だから何だ!」

「壁の向こうです!」

 清太郎は土蔵の側面を指した。

「地下蔵は、こちらへ伸びています!」

「確かか」

「調べた寸法では!」

 辰蔵が壁を叩く。

 音が違う場所。

「ここだ!」

 鳶口を入れ、土を剥がす。

 煙が隙間から噴き出した。

 中から咳の音。

「源太郎殿!」

 新之介が叫ぶ。

「こちらです!」

 返事。

 生きている。

「兵庫は」

「箱の前です!」

「何をしている」

「帳面を守っている!」

 新之介は一瞬、聞き違いかと思った。

「何だと」

「火から箱を守っています!」

 辰蔵が壁へ穴を開ける。

 人一人が通れるほど。

 新之介が入ろうとする。

「私が先です!」

 辰蔵が止めた。

「火事場は私の役目です!」

「地下に源太郎が」

「だからです!」

 辰蔵は濡らした布を頭からかぶり、穴へ入った。

 新之介も続く。

 半九郎。

 玄斎は入口へ残った。

「先生は」

「わしまで入れば、誰が外で引く」

「分かりました」

「急げ!」

 ◇

 地下蔵の中は煙でほとんど見えなかった。

 床の一部が燃えている。

 源太郎は倒れた梁の下に片脚を挟まれていた。

 白頭巾の侍――榊兵庫は、箱へ自分の外套をかぶせている。

 火の粉から守っていた。

 頭巾は外れ、左の眉に古い傷。

 五十を越えた顔。

「榊兵庫!」

 半九郎が叫ぶ。

 兵庫が振り返る。

「玄十郎の子か」

「父をご存じか」

「知っている」

「なぜ帳面を」

「話は後だ」

 兵庫は箱を押さえながら叫んだ。

「梁を先に上げろ!」

 新之介は源太郎へ走る。

「足は」

「折れてはいません!」

「なぜ一人で箱へ入った」

「守る者が要ると!」

「皆そればかりだ!」

 辰蔵が梁の端へ鳶口をかける。

「持ち上げます!」

 新之介と半九郎も加わる。

「せえの!」

 梁が少し浮く。

 源太郎が脚を抜く。

 だがその時、天井から火のついた板が落ちた。

 兵庫が箱を抱えるように覆う。

 背へ板が当たる。

「兵庫殿!」

 半九郎が呼ぶ。

「帳面を守るな! 離れろ!」

「これは私が書いた!」

「だから何だ!」

「私が始末する!」

「燃やすのか」

「違う!」

 兵庫は箱の蓋へ手を置いた。

 三つの窪み。

 四角には弁財丸の銅板。

 三角には玄十郎の小柄。

 丸だけが空いている。

「印判を!」

 兵庫が半九郎へ手を伸ばす。

「渡せば何をする」

「開ける!」

「その後は」

「読めば分かる!」

「答えになっていない!」

「玄十郎と同じだな!」

 兵庫は笑った。

「問いが多い!」

「父はそなたを恐れていた!」

「知っている!」

「それでも渡せと」

「火が回る!」

 辰蔵が怒鳴った。

「言い争いは外でしてください!」

 地下の奥から炎が迫っている。

 箱を残せば燃える。

 動かせば仕掛け。

 今開けなければ間に合わない。

「半九郎」

 新之介が言う。

「そなたが決めろ」

「私が」

「父上が残した鍵だ」

「兵庫を信じるのですか」

「信じぬ」

「では」

「今、帳面を守ろうとして火を受けたことは見た」

 半九郎は兵庫を見る。

「開けたら、勝手に持ち去らせません」

「それでよい」

「燃やさせません」

「中身を見てから申せ」

「それでもです」

「早くしろ!」

 半九郎は印判を丸い窪みへ押し込んだ。

 三つの鍵が揃う。

 箱の内部で金属音。

 かちり。

 だが蓋は開かない。

「何が足りぬ」

 兵庫が箱の側面を探る。

 半九郎は父の言葉を思い出す。

 海を知ったと思うな。

 広さを知ったと思うな。

 見たものは一部である。

「三つを一度に回すのでは」

 新之介が言う。

「無音寺と同じか」

「一人で開ける箱ではない」

 兵庫が銅板。

 半九郎が小柄。

 新之介が印判。

「なぜ私が」

「人を見ろ」

「鷹見の言葉か」

「先生から教わった」

「黒川か」

「話は後だ!」

 辰蔵が再び怒鳴る。

 三人が同時に鍵を回す。

 一度。

 二度。

 三度目。

 箱の蓋が開いた。

 中には厚い帳面。

 油紙に包まれている。

 その上に、一通の書状。

 表には二人の名。

 ――真崎玄十郎。

 ――榊兵庫。

「父と」

 半九郎が言う。

「私が書いた」

 兵庫が答えた。

「中身は」

「第四冊を世へ出す時の条件だ」

「今読むか」

「外へ出てからだ!」

 辰蔵は帳面を油紙ごと持ち上げた。

「一人で持つな」

 新之介が端を持つ。

 半九郎も。

 兵庫も手を出した。

「そなたは」

「私の帳面だ」

「皆の記録だ」

「ならば皆で持て」

 四人で帳面を抱える。

 源太郎は片脚を引きずり、辰蔵が支える。

 穴へ向かう。

 背後で箱が燃え始めた。

「箱は」

 半九郎が振り返る。

「置け」

 兵庫が言う。

「なぜ」

「守るべきは箱ではない」

「帳面か」

「違う」

 兵庫は半九郎を見た。

「書かれた者たちだ」

 ◇

 全員が穴から出た直後、土蔵の屋根が崩れた。

 辰蔵が周囲の壁を落とし、隣家への延焼を防ぐ。

 火消したちも到着し、桶の水が次々と運ばれる。

 杉屋夫婦は無事だった。

 避難させた捕り手も戻った。

 吉松は足を冷やしながら、帳面を睨んでいる。

「それが第四冊ですか」

「ああ」

「大きいですね」

「感想はそれか」

「重そうです」

「実際に重い」

 清太郎はすでに紙と筆を持っている。

「記録します。開封した時刻、立ち会った者、火事の状況」

「今からか」

 新之介が問う。

「忘れる前に」

「よい」

「榊兵庫殿も名を」

 兵庫は清太郎を見た。

「子どもが記録役か」

「清太郎です」

「年を聞いたのだ」

「名を聞かれたと思いました」

「口が強いな」

「再起館にいますので」

「何だ、それは」

「説明すると長いです」

 玄斎が近づいた。

 兵庫と向かい合う。

 二人は互いの顔を見たまま、しばらく何も言わない。

「黒川玄斎」

「榊兵庫」

「老いたな」

「そなたもな」

「無音寺へ行ったか」

「ああ」

「十五年遅い」

「分かっておる」

「鷹見先生は待っていた」

「来るなと鐘を鳴らした」

「それでも来る者を待っていた」

 玄斎の顔が固くなる。

「そなたは行ったのか」

「行った」

「先生を背負った若い侍は」

「私だ」

 農夫が見た、波の印の若い侍。

「そなたは海防掛だったのか」

「短い間だけな」

「水野と同じか」

「水野より先に、鷹見先生を追っていた」

「捕えたのか」

「助けた」

「その後、水野へ渡した」

「先生自身が戻ると申した」

「なぜ止めなかった」

「止めた」

「それでも」

「先生は、第二冊が見つかっていないと思わせる必要があると申した」

「それで自ら詮議へ」

「ああ」

「そなたも止められなかった」

「私も逃げた」

 兵庫は無音寺の方向を見るように目を細めた。

「玄十郎は帳面を隠した。私は長崎へ逃げた。そなたは江戸で忘れようとした」

「皆、逃げたか」

「鷹見先生だけが戻った」

「それを正しかったと思うか」

「思わぬ」

「では」

「先生一人へ背負わせたことを、正しかったとは思わぬ」

 玄斎は木刀へ手を置かなかった。

 代わりに第四冊を見た。

「佐平を動かしたのはそなたか」

「最初は」

 兵庫は認めた。

「何を命じた」

「四冊の所在を確かめろと」

「重吉を殺せとも」

「命じていない」

「佐平は必要だったと申した」

「それが、私の教えの行き着いた先だ」

「そなたの責だな」

「ああ」

「逃げぬか」

「そのために戻った」

 新之介が割って入る。

「兵庫殿」

「何だ」

「第四冊を、どうするつもりだった」

「異国との取引に関わった者を明らかにする」

「すべて世へ出すのか」

「最初は、そのつもりだった」

「今は」

「分からぬ」

 玄斎が笑った。

「便利だろう」

「腹が立つ言葉だ」

「図星だからだ」

 兵庫は第四冊の上に置かれた書状を指した。

「玄十郎と私が決めた条件がある」

「読むのか」

「全員の前で」

「誰を集める」

「役人だけでは駄目だ」

 兵庫は清太郎、吉松、杉屋夫婦、火消したちを見る。

「書かれた者だけでなく、書かれたことで暮らしが変わる者も立ち会わせる」

「鷹見先生と同じ答えですか」

 新之介が問う。

「違う」

「何が」

「先生は答えを持っていなかった」

 兵庫は静かに言った。

「だから帳面を残した」

 ◇

 火が消し止められた頃、源太郎の部下が駆けてきた。

 南町奉行所からの知らせ。

 漂流していた鉄箱が、盤洲の浅瀬で発見された。

 海防掛と町方が同時に確保したという。

「第三冊か」

 新之介が問う。

「まだ開封しておりません」

「煙の箱は」

「岩瀬の瀬に残ったままです」

「では見つかったのは、流した方」

「はい」

 二冊目。

 三冊目。

 四冊目。

 三つの元帳が、ようやく人の目へ戻った。

「第一冊は」

 半九郎が言う。

 札差と大名家の借財を記した帳面。

 鷹見静山自身が預かった一冊。

 まだ行方不明。

 使者は続けた。

「もう一つ、相模屋長兵衛が話したそうです」

「何を」

「第一冊の場所です」

「どこだ」

「再起館」

 新之介は耳を疑った。

「何だと」

「鷹見静山は亡くなる前、第一冊を黒川玄斎殿の道場へ運ばせたと」

 皆が玄斎を見る。

「知らぬぞ」

 玄斎が言う。

「再起館は当時ありません」

「以前の道場です」

「焼けた」

「焼け跡から、古い井戸だけが残ったと」

 玄斎の顔が変わる。

「井戸」

「心当たりが」

「再起館の庭の井戸は、昔の道場から残したものだ」

 新之介は再起館を思い浮かべた。

 庭。

 古井戸。

 弟子たちが水を汲む場所。

 宗次郎が月を映して見た井戸。

 その底に第一冊があるのか。

「再起館へ戻る」

 新之介が言った。

「すぐに」

 その時、遠くから馬が一頭走ってきた。

 乗っているのは大場だった。

 顔色が変わっている。

「榊原殿!」

「何があった」

「再起館が襲われました!」

 新之介の胸が凍る。

「誰に」

「佐平です!」

「中の者は」

「戸田家の見張りと交戦中です!」

「宗次郎は」

「分かりません!」

 宗次郎。

 志乃。

 お園。

 兵馬。

 戻ったばかりの者もいる。

 そして庭の井戸。

 佐平は第一冊の場所を知った。

 どうやって。

 長兵衛からか。

 榊兵庫からか。

 あるいは最初から知っていたのか。

「兵庫殿」

 新之介が振り向く。

「そなたが教えたのか」

「違う」

「信じろと」

「言わぬ」

 兵庫は刀を拾った。

「ただ、佐平を止めるのは私の責だ」

「第四冊は」

「町方と火消しに預ける」

「一人へは」

「預けぬ」

 清太郎が帳面の布を握った。

「私も残ります」

「再起館へ戻らぬのか」

「第四冊を守ります」

「危険だ」

「分かっています」

「吉松は」

「私も残ります」

「足を怪我している」

「だから動かず帳面を見ます」

 新之介は二人を見た。

 子どもだ。

 だが、ただ守られるだけの者ではなくなっている。

「辰蔵」

「はい」

「二人と帳面を頼む」

「榊原様は」

「再起館へ」

「火が出れば」

「出させぬ」

「出た時は」

 辰蔵は鳶口を握った。

「呼んでください」

「ああ」

 新之介、玄斎、半九郎、兵庫、大場。

 源太郎は脚を痛めている。

 それでも立ち上がった。

「そなたは残れ」

「町方です」

「傷人だ」

「今は役人です」

「青山と同じことを申すな」

「榊原様も同じことを申します」

 源太郎は脚を引きずりながら笑った。

「遅れたら後から行きます」

「無理は」

「しません」

「信用できぬ」

「お互い様です」

 新之介たちは走り出した。

 町の向こうから、かすかに鐘の音が聞こえる。

 火の見櫓ではない。

 一度。

 少し間を置いて二度。

 そして三度。

 再起館の方角だった。

「鐘があったか」

 半九郎が問う。

「ない」

 新之介が答える。

「では、何の音だ」

 玄斎の顔が険しくなる。

「井戸だ」

「何」

「古井戸の底には、小さな釣鐘が沈められていた」

「なぜ」

「昔、鷹見先生が申した。帳面を引き上げる時は、地上の者へ三度知らせろと」

 誰かが第一冊へ辿り着いた。

 三度の音は、来るなではない。

 井戸の底からの合図。

 書を上げる。

 あるいは、助けを求める声。

 新之介は走った。

 戻る場所を間違えるな。

 今度こそ、その言葉の意味を試される時だった。

(第四十章へ続く)

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