上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第三十八章

目次

第三十八章 無音寺の鐘

 山道へ入ると、鐘の余韻は消えた。

 木々の間には風が通っている。

 葉も揺れている。

 鳥の声もする。

 それなのに、道の奥だけが不自然に静かだった。

 無音寺。

 正式な寺号ではないと玄斎は言った。

 人の声を外へ漏らさず、外の音も中へ届きにくい谷あいに建っているため、鷹見塾の者たちがたそう呼んだらしい。

「十五年前も、この道を通ったのですか」

 半九郎が問う。

「途中までだ」

 玄斎は前を見たまま答えた。

「寺までは行かなかったのですね」

「ああ」

「なぜ途中まで」

「鐘を聞いたからだ」

「三度の鐘を」

「一度目は、危急を知らせる合図。二度目は、書を移せ。三度目は、来るな」

「鷹見塾で決めていたのですか」

「先生と数人だけが知る合図だった」

「では十五年前、先生は来るなと知らせた」

「そう思った」

 玄斎の足が、わずかに遅くなる。

「本当に先生が鳴らしたのかは分からぬ」

「別の者が罠として鳴らした可能性も」

「ある」

「それでも先生は引き返した」

 新之介が言うと、玄斎は頷いた。

「怖かったからな」

 何度も口にした言葉だった。

 だが山へ入ってからの玄斎の「怖い」は、以前より重く聞こえた。

 恐れを認めれば消えるわけではない。

 むしろ形が見える分だけ、足へ絡むこともある。

 先頭を歩く青山新六郎が手を上げた。

「止まれ」

 一行が立ち止まる。

 青山は肩を負傷しているため、刀を右手だけで抜かねばならない。

 それでも歩みは乱れていなかった。

「何かあるか」

 新之介が問う。

「足跡だ」

 道の泥へ複数の跡が残っている。

 草鞋。

 藁沓。

 そして馬の蹄。

「何人だ」

 源太郎がしゃがみ込む。

「少なくとも七人。先ほどの雨の後についた跡です」

「佐平たちか」

「すべて同じ方角へ向かっています」

「戻った跡は」

「ありません」

 寺へ入ったまま。

 それが意味することは二つ。

 まだ中にいる。

 あるいは、別の道から出た。

「無音寺に裏道は」

 新之介が玄斎へ問う。

「ある」

「どこへ」

「寺の裏から谷を下り、香取へ向かう旧道へ出る」

「帳面を持って逃げるなら、そちらだ」

「だが道は崩れているはずだ」

「十五年前の話でしょう」

 青山が言う。

「直されているかもしれません」

「そうだな」

 玄斎は認めた。

 道の脇に血が落ちていた。

 一滴。

 少し先に、また一滴。

 先ほど農夫が言っていた吊られた侍のものかもしれない。

 新之介たちは足跡を追った。

 山道は急になり、左右の杉が密集してくる。

 やがて、木々の向こうへ黒い屋根が見えた。

 瓦は落ち、軒は傾いている。

 寺というより、捨てられた大きな家に近い。

 石段の下に、古びた山門。

 扁額はない。

 門の片側には縄が垂れていた。

 縄の先に、人が吊られている。

「青山殿」

 源太郎が低く言う。

 吊られている男の袖に、波の印が見えた。

 海防掛の役人である。

 首を吊られているのではない。

 両手首を縛られ、腕を上へ伸ばした姿で門へ吊るされている。

 足は地面へわずかに届いていない。

 頭が垂れていた。

「大場!」

 青山が駆け出そうとする。

 新之介が腕を掴んだ。

「待て」

「部下だ!」

「見えている」

「生きているかもしれぬ!」

「だから待て」

 新之介は周囲を見た。

 門。

 木立。

 屋根。

 石段の陰。

 誰の姿もない。

 だが、見られている感覚がある。

「弓がいる」

 玄斎が呟いた。

「どこです」

「分からぬ」

「勘ですか」

「半分は」

 次の瞬間、矢が飛んだ。

 吊られた大場のすぐ横を通り、石段へ刺さる。

 警告。

 狙えば大場へ当てられたはずだ。

「動くな!」

 寺の中から声がした。

 佐平ではない。

 若い男の声。

「一人でも石段へ上がれば、この侍を射る!」

 青山が歯を食いしばる。

「大場は生きているのか!」

「今はな!」

「何を望む!」

「黒川玄斎だけ、門へ来い!」

 新之介が玄斎を見る。

「先生を知っている」

「名を呼ばれたな」

「行かせません」

「呼ばれておるのはわしだ」

「罠です」

「見れば分かる」

「分かっていて行くのですか」

「人質がいる」

 玄斎は木刀を握り直した。

「武器を置けと言われていない」

「すぐ言われます」

 寺内の声が続く。

「黒川玄斎! 木刀を置き、一人で上がれ!」

「ほら」

 新之介が言う。

 玄斎は不満そうに木刀を地面へ置いた。

「言われなければ持っていけた」

「言わせたのは先生ではありません」

「分かっておる」

「私が行きます」

 青山が前へ出た。

「狙いは黒川殿だ」

「大場は私の部下だ」

「そなたが出れば、すぐ射る」

 新之介は寺へ向かって叫んだ。

「大場殿を先に下ろせ!」

「応じられぬ!」

「黒川殿が門へ着いたら下ろせ!」

「こちらが決める!」

「ならば人質を生かすつもりはないと見る!」

 返事が止まった。

 源太郎が小声で言う。

「強く出すぎでは」

「大場殿を殺すなら、先生が出ても同じです」

「ですが」

「相手も帳面の場所を知りたい。先生をすぐ殺せない」

 玄斎が新之介を見る。

「分かったように申すな」

「分かっていません」

「では」

「相手も迷っていると見ます」

 寺から再び声がした。

「黒川が門へ来たら、侍を下ろす!」

「縄を切る者は」

「こちらでやる!」

「先に姿を見せろ!」

「条件を増やすな!」

「疑うことと決めつけることは違うので!」

 青山が新之介の袖を引いた。

「今、それを使う場面か」

「便利です」

「相手は意味が分からぬ」

 寺内から別の声が聞こえた。

「構わぬ。玄斎を来させろ」

 低い声。

 頬に火傷のある男。

 佐平だろう。

 玄斎の顔が変わる。

「知っている声ですか」

 半九郎が問う。

「いや」

「ではなぜ」

「鷹見先生の名を呼ばぬ」

「何」

「先生と関わる者なら、わしを『黒川』とは呼ばぬ。『玄斎』と呼ぶ」

「それが何を」

「こやつらは帳面の場所だけを聞いた。人を知らぬ」

 玄斎は石段を見上げた。

「行く」

「先生」

「大場殿を先に下ろさせる」

「どうやって」

「口で」

「先生は問いの前に木刀を出す方でしょう」

「今日は置いた」

 玄斎は一人で進み始めた。

 一段。

 二段。

 石段へ上がるたび、周囲の空気が張る。

 新之介はいつでも飛び出せるよう、腰を低くした。

 青山は大場だけを見ている。

 源太郎は木立の弓手を探す。

 半九郎は山門の奥へ目を凝らしていた。

 玄斎が石段の中ほどへ来た時、門の陰から男が一人出た。

 編笠。

 短い弓。

 頬に火傷はない。

 男は吊られた大場の縄を持った。

「そこで止まれ」

 玄斎が止まる。

「縄を切れ」

「先に無音寺の鍵を出せ」

「持っておらぬ」

「嘘をつくな」

「寺へ来る鍵なら、ここへ来た時点で用はない」

「帳面の鍵だ」

「知らぬ」

 男が弓を大場へ向ける。

「次は外さぬ」

「ならば射て」

 青山が息を呑む。

「先生!」

 新之介も思わず叫んだ。

 玄斎は振り返らない。

「射れば、わしは寺へ入らぬ」

「部下が死ぬぞ!」

「わしの部下ではない」

「黒川殿!」

 青山の怒声が飛ぶ。

 玄斎は続けた。

「だが射した者の顔は忘れぬ」

 男の弓が揺れた。

「脅すか」

「約束だ」

 玄斎の声に力はない。

 だからこそ恐ろしかった。

「わしを寺へ入れたいなら、大場殿を下ろせ。死体を増やせば帳面が出ると思うな」

 門の奥で誰かが舌打ちした。

 佐平の声。

「下ろせ」

「しかし」

「下ろせ!」

 男が縄を緩めた。

 大場の身体がゆっくり下がる。

 足が地面へつく。

 そのまま倒れた。

「青山殿!」

 新之介が言うより早く、青山が走った。

 矢が飛ぶ。

 新之介は刀を抜き、矢を叩き落とした。

 二本目は源太郎が十手で逸らす。

 青山は大場へ辿り着き、身体を門の柱の陰へ引いた。

「息は」

 青山が首筋へ手を当てる。

「ある!」

「縄を切れ!」

 源太郎が石段を駆け上がる。

 半九郎も続く。

 人質を失った敵は、一斉に門を閉じようとした。

「先生!」

 新之介が叫ぶ。

 玄斎は地面を蹴った。

 門扉が閉じる前に肩を入れる。

 片側の扉が止まった。

 敵二人が内側から押す。

 玄斎は歯を食いしばる。

「歳寄りに重い物を押させるな!」

 新之介が飛び込み、共に扉を押し返した。

 半九郎も加わる。

 門扉が開く。

 内側の男たちが均衡を失い、後ろへ倒れた。

「殺すな!」

 新之介が言う。

「分かっています!」

 半九郎が刀の峰で一人の肩を打つ。

 玄斎は武器を持っていない。

 倒れた男の棒を奪い、腹へ突き入れた。

「木刀ではない」

「同じようなものです!」

 寺の境内には、十人近い男がいた。

 その奥。

 本堂の前に佐平が立っている。

 頬から顎にかけて、古い火傷の痕。

 右手に短銃。

 左手には火のついた松明。

「近づくな!」

 松明の先には、油を染み込ませた縄。

 縄は本堂の中へ続いている。

「帳面を燃やす気か」

 新之介が問う。

「帳面だけではない」

 佐平は笑った。

「寺ごとだ」

「ならば、なぜ私たちを呼んだ」

「鍵が必要だった」

「先生は持っていない」

「持っている」

 佐平は玄斎を見る。

「本人が知らぬだけだ」

「何を知っている」

 玄斎が問う。

「鷹見静山は、元帳をただ箱へ入れるような男ではなかった」

「会ったことがあるのか」

「ない」

「ならば分かったように申すな」

「調べた」

「人を帳面だけで調べたか」

「帳面の方が、人より正直だ」

 長兵衛と似た言葉。

 だが佐平の声には商人の軽さがない。

 信じている。

 人間より記録の方が確かだと。

「黒川玄斎」

 佐平が言った。

「鷹見は、第二冊をお前へ託した」

「受け取っておらぬ」

「鍵だけを渡した」

「銅片ならここにある」

 玄斎は懐へ手を入れた。

 新之介が止める。

「出さないでください」

「見せるだけだ」

「先生の見せるだけは信用できません」

 佐平が短銃を上げる。

 銃口は玄斎。

「銅片を投げろ」

「投げるなと言われておる」

「誰に」

「弟子に」

 玄斎は新之介を見る。

「そなたの刀より大事らしい」

「そういう話ではありません」

「ならば、どうする」

 境内の敵はまだ六人動ける。

 青山と源太郎は大場を庇っている。

 半九郎は本堂へ回り込む道を探している。

 寺の裏には逃げ道がある。

 佐平へ時間を与えれば、帳面を持って逃げるか、寺を燃やす。

「銅片を渡す」

 新之介が言った。

「榊原!」

 玄斎が睨む。

「ただし、先に火を消させる」

「取引か」

 佐平が問う。

「ああ」

「お前たちは取引を嫌うのではなかったか」

「嫌うことと、しないことは違う」

「帳面を渡す者たちと同じだな」

「違いは後で決める」

「また迷うのか」

「迷わぬ者ほど、人を焼く」

 佐平の顔から笑みが消えた。

「火を消せ」

 新之介が言う。

「銅片を見せる」

「渡せ」

「本堂へ入るまでだ」

「条件が多い」

「人質を吊った者に言われたくない」

 佐平は少し考え、近くの男へ顎を動かした。

 男が油縄の火を踏み消す。

 だが松明は佐平の手に残っている。

「これでよいか」

「足りぬ」

「何が」

「境内の者を下がらせろ」

「一人ずつ条件を増やすな」

「そなたも一つずつ人を傷つけた」

 佐平の目が細くなる。

「重吉を殺したのは、そなただな」

 源太郎が問う。

 佐平は答えない。

「藤吉の小屋へ火をつけたのも」

「焼くべき物を焼いた」

「人がいた」

「帳面を隠す者だ」

「それで殺してよいのか」

「一人を残せば、百人が死ぬこともある」

 佐平は松明を持ったまま言った。

「海防の弱みが異国へ渡れば、江戸が焼かれる」

「ならば、なぜ元帳を異国へ売ろうとした」

 井沢から聞いた話を、新之介はぶつけた。

 佐平の表情がわずかに変わった。

「誰から聞いた」

「そなたが長崎言葉を使う男と会っていた」

「井沢か」

「答えろ」

「異国へ売るのではない」

「では」

「買わせる」

「同じだ」

「違う」

 佐平は本堂を背にした。

「四冊を一つの手へ集めれば、この国の腐った役人を動かせる」

「誰の手へ」

「国を変える者へ」

「名を申せ」

「名はまだない」

「何」

「今の幕府でもない。大名でもない。商人でもない」

「異国人か」

「異国の力を借りる日本人だ」

 新之介は佐平を見た。

 この男は相模屋のためだけに動いているのではない。

 三河屋。

 水野。

 戸田家。

 それらの間へ入り込み、元帳を集めようとしている別の勢力。

「誰がそなたへ命じた」

「命じられてはいない」

「ならば自分で」

「ああ」

「重吉を殺すことも」

「必要だった」

 半九郎の刀がわずかに動く。

 新之介が手で制した。

「必要という言葉で、人を小さくするな」

「小さくしていない」

「ならば名を呼べ」

「何」

「殺した者の名を申せ」

 佐平は黙った。

「海鼠屋重吉だ」

 新之介は続ける。

「妻を亡くし、父の仕事を継ぎ、海底から箱を見つけた男だ」

「知っている」

「ならばなぜ名を呼ばぬ」

「名を呼べば、何が変わる」

「そなたが一人を殺したと分かる」

「私は国を変えるために」

「国が重吉を殺したのではない。そなたが殺した」

 佐平の頬の火傷が引きつる。

「黙れ」

「流れではない。仕組みでもない。そなたの選びだ」

「黙れ!」

 短銃が火を噴いた。

 新之介は身体を捻った。

 弾が左袖を裂く。

 後方の柱へ当たる。

 半九郎が駆ける。

 佐平は松明を油縄へ投げようとした。

 玄斎が銅片を投げた。

 銅片が松明へ当たり、火の向きが逸れる。

「投げた!」

 新之介が思わず叫ぶ。

「必要だった!」

 玄斎が返す。

 松明は石畳へ落ちた。

 半九郎が踏み消す。

 佐平の部下たちが一斉に動く。

 青山は大場を源太郎へ預け、片腕で刀を抜いた。

「海防掛だ! 武器を捨てろ!」

「海防掛が何だ!」

 男が斬りかかる。

 青山は一歩引き、相手の刃を受け流した。

 負傷した肩が揺れる。

 顔が歪む。

 それでも返す刀で相手の柄を打った。

 新之介は佐平へ向かう。

 佐平は空になった短銃を投げ、腰の刀を抜いた。

 町人の刀ではない。

 細身。

 反りが浅い。

 異国風の鍔がついている。

「剣も使うか」

「剣ではない」

 佐平が構えた。

「生きるための道具だ」

「同じことを言う者が多い」

「お前たちは刀へ意味をつけすぎる」

「そなたは意味を捨てすぎる」

 二人の刃がぶつかった。

 佐平の剣筋は、野々村主水とは違う。

 形がない。

 短く持ち、突きと斬りを不規則に混ぜる。

 甲板で戦う異国の船員から習ったのかもしれない。

 新之介は最初の突きを鞘で受けた。

 次の斬撃を刀で逸らす。

 佐平は距離を取らず、身体ごと押し込んでくる。

 狭い場所の戦いに慣れている。

「海賊か」

「商いだ」

「何を売った」

「何でも」

「人もか」

「必要なら」

 佐平の刃が新之介の頬をかすめる。

 薄く血が流れた。

 新之介は下がらず、鍔元へ入った。

 肩をぶつける。

 佐平がよろめく。

 玄斎が棒で別の敵を倒しながら叫んだ。

「腰を見ろ!」

「船ではありません!」

「相手は同じだ!」

 佐平の腰が沈む。

 突き。

 新之介は刃が来る前に身を外した。

 刀の峰で佐平の手首を打つ。

 だが刀は落ちない。

 佐平は左手へ持ち替え、逆手に振る。

 新之介の脇腹を狙う。

 鞘を差し込む。

 木が裂けた。

 新之介は鞘を捨て、佐平の足を払った。

 佐平は倒れず、本堂の縁へ飛び乗る。

「帳面はどこだ!」

 源太郎が叫ぶ。

「探せ!」

 半九郎が本堂へ入ろうとする。

 玄斎が止めた。

「待て!」

「なぜ」

「床だ」

 本堂の入口。

 板の一部だけ色が新しい。

 踏めば仕掛けが動く可能性がある。

「佐平はここへ入ったのか」

「別口がある」

 玄斎は本堂の側面を見た。

 破れた障子。

 そこから人の出入りした跡がある。

「回れ!」

 半九郎と源太郎が側面へ向かう。

 佐平は新之介と距離を取りながら、本堂の縁を後退した。

「黒川玄斎!」

 佐平が叫ぶ。

「鍵は使わせてもらう!」

 先ほど投げられた銅片を、部下の一人が拾っていた。

 男は本堂裏へ走る。

「止めろ!」

 青山が追う。

 だが別の敵が前へ出る。

 青山の肩へ体当たりした。

 青山が倒れる。

 傷口から血が滲む。

「青山殿!」

 大場が意識を取り戻し、縛られた手で身を起こそうとする。

「動くな!」

 青山が怒鳴った。

「お前は寝ていろ!」

「青山様こそ!」

「上役の命だ!」

「今は聞けません!」

 源太郎が大場の縄を切る。

「動けますか」

「足が痺れているだけです」

「では青山殿を」

「自分で立てる!」

「傷人は皆、同じことを申しますね!」

 源太郎は青山を無理に支えた。

 ◇

 本堂の裏手には、鐘楼があった。

 寺は捨てられているが、鐘だけは残っている。

 青銅の表面は緑青に覆われ、下半分へ大きなひびが入っていた。

 鐘の下に、小さな石塔。

 佐平の部下は石塔の前へ膝をつき、銅片を溝へ差し込もうとしている。

「そこか!」

 半九郎が走る。

 男が振り返り、懐から小刀を投げた。

 半九郎は刀で払う。

 源太郎が十手で男の肘を打った。

 銅片が地面へ落ちる。

 男は拾おうとしたが、玄斎の棒がその手を押さえた。

「それは、わしのだ」

「鷹見の物だ!」

「だから、わしが預かる」

 玄斎は銅片を拾った。

 石塔を見る。

 正面に小さな穴がある。

 銅片と同じ形。

「鍵穴ですね」

 半九郎が言う。

「そのままだな」

 玄斎は銅片を差し込んだ。

 ぴたりとはまる。

「回すのか」

「分からぬ」

「押すのでは」

 源太郎が言う。

「皆、離れろ」

 玄斎は銅片を押した。

 石塔の内部で音がした。

 ごとり。

 だが何も開かない。

「失敗ですか」

「上だ」

 半九郎が鐘を見上げる。

 鐘の内側から、細い縄が下りてきた。

 今まで影に隠れて見えなかった。

「鐘を鳴らせということか」

 玄斎が縄を持つ。

「待ってください」

 新之介が佐平と刃を合わせながら叫ぶ。

「鳴らせば何が起きるか」

「分からぬ!」

「それで鳴らすのですか!」

「先生は問いを残した!」

「答えが鐘とは限りません!」

「では、お前が佐平を早く倒せ!」

「簡単に言わないでください!」

 佐平が笑う。

「師弟で相談している暇があるか」

「そなたよりはある」

 新之介は佐平の刀を強く弾いた。

 佐平の手が開く。

 細身の刀が宙へ上がる。

 だが佐平は袖から小さな刃を出した。

 新之介の腹へ突く。

 新之介は左腕で手首を受け止めた。

 刃先が着物を破る。

 皮膚へ食い込む。

 痛み。

 新之介は佐平の手首を捻った。

 骨が鳴る。

 刃が落ちる。

 柄頭で顎を打つ。

 佐平は本堂の柱へ倒れかかった。

 それでも意識を失わない。

 懐から火打石を取り出す。

「まだ火か!」

 新之介が手を伸ばす。

 佐平は火打石を床下へ投げた。

 火花。

 床下から炎が上がる。

 すでに油を撒いていた。

「火だ!」

 辰蔵がいれば、すぐに鳶口を持って走っただろう。

 だがここにはいない。

 本堂の床下を火が走る。

「帳面が!」

 半九郎が叫ぶ。

「鐘を鳴らせ!」

 玄斎は縄を引いた。

 ごうん。

 ひびの入った鐘から、低い音が出る。

 一度。

 石塔の側面がわずかに動く。

「もう一度だ!」

 二度目。

 ごうん。

 石塔の下の地面が震えた。

 本堂の床板の一部が沈む。

 火が広がる。

「三度!」

 玄斎が縄を引く。

 ごうん。

 三度目の音。

 石塔の裏側が開いた。

 中から鉄の棒が一本飛び出す。

 半九郎が掴んだ。

「何です、これは」

「梃子だ!」

 玄斎は棒を取り、石塔脇の石板の隙間へ差し込む。

 力を入れる。

 石板が持ち上がる。

 下に階段が現れた。

 地下。

「帳面は下か」

 源太郎が覗く。

 暗い。

 冷たい空気が上がってくる。

「火が回る前に入る」

 半九郎が階段へ足をかける。

 新之介が止めた。

「待て」

「時間がありません」

「佐平が罠を仕掛けているかもしれぬ」

「佐平は鍵を知らなかった」

「知っているのは開け方だけとは限らない」

 佐平が柱にもたれたまま笑った。

「もう遅い」

「何が」

「鐘を三度鳴らした」

「それがどうした」

「鷹見の仕掛けは、帳面を守るためではない」

 佐平は血の混じった唾を吐いた。

「燃やすためだ」

 地下から、焦げた臭いが上がった。

「何だと」

 玄斎が階段へ身を乗り出す。

 奥で小さな火が見える。

 鐘を三度鳴らすと、地下の灯火へ火がつく仕掛け。

 侵入者が無理に開けた場合、帳面を焼くためか。

「下りるぞ!」

 新之介が佐平を源太郎へ任せる。

「縛れ!」

「分かりました!」

「殺すな!」

「分かっています!」

 新之介、玄斎、半九郎が地下へ下りた。

 青山も続こうとする。

「そなたは残れ!」

 新之介が言う。

「海防掛として確認する!」

「傷人だ!」

「今は役人だ!」

「だから役目を盾にするな!」

「盾ではない!」

 青山は片手で壁を支えながら下りてくる。

「見張る者が必要だ!」

「そなたを誰が見張る!」

「榊原殿が!」

「面倒な者が増えた!」

 ◇

 地下は細い石造りの通路だった。

 壁には油灯。

 その一つへ火がつき、細い導火縄が奥へ燃え進んでいる。

「消せ!」

 半九郎が足で踏む。

 だが縄は溝の中へ入っている。

 玄斎が棒を差し込む。

 火のついた部分を引き出し、踏み消した。

「止まったか」

 焦げた臭いは残る。

「先に見ろ」

 新之介が刀の先で溝を探る。

 導火縄はさらに二本へ分かれている。

 一方は消えた。

 もう一方には、すでに火が走っている。

「奥だ!」

 四人は通路を進んだ。

 突き当たりに小部屋。

 中には木箱が三つ並んでいた。

 壁際に紙束。

 そして、床の中央に小さな火鉢。

 導火縄の火が火鉢へ届こうとしている。

 半九郎が飛び込み、手で縄を掴んだ。

「熱い!」

 新之介が刀で縄を切る。

 玄斎が火鉢を蹴り倒した。

 炭が床へ散る。

 青山が外套をかぶせ、火を消す。

 煙が部屋に満ちる。

「帳面は」

 半九郎が木箱へ手を伸ばす。

「待て!」

 新之介が止める。

「また仕掛けがある」

 木箱には錠がない。

 蓋の上に文字が書かれていた。

 第一の箱。

 ――役目を守る者へ。

 第二の箱。

 ――家を守る者へ。

 第三の箱。

 ――人を守る者へ。

「どれが第二冊だ」

 青山が問う。

「全部かもしれぬ」

 玄斎は箱の前へ座った。

「鷹見先生らしい」

「何がです」

「開ける者へ選ばせる」

「三つとも開ければよい」

 青山が言う。

「それでは問いへ答えたことにならぬ」

「帳面を守る方が先です」

「火は消えた」

「本堂が燃えています」

 天井から灰が落ちる。

 地上の火が回れば、地下も蒸し焼きになる。

「急いでください」

 半九郎が言う。

「先生なら、どれを」

 新之介が問う。

 玄斎は三つの箱を見る。

 役目。

 家。

 人。

 これまで何度も使われた言葉。

 役目を守るため。

 家を守るため。

 人を守るため。

 どれも正しく、どれも言い訳になる。

「分からぬ」

 玄斎が答えた。

「では全部運ぶ」

 青山が第一の箱を持とうとする。

 箱の下で金属音がした。

「動かすな!」

 新之介が叫ぶ。

 青山が止まる。

 箱の底から細い鎖が床へつながっている。

 不用意に持ち上げれば、別の仕掛けが動く。

「これも選びか」

 半九郎が言う。

「正しい箱だけ外れる仕組みかもしれません」

「間違えば」

「全て燃える」

 玄斎は箱の文字を見つめた。

「先生は、わしが来ると考えていた」

「ならば先生へ向けた問いです」

「わしは昔、役目も家もなかった」

「人は」

「守らなかった」

 玄斎の声が沈む。

「鷹見先生が捕えられた時、わしは逃げた」

「だから今、人を守る箱では」

 半九郎が言う。

「それでは、わしに都合がよすぎる」

「先生」

「過去を償うために人を選ぶなら、それも己のためだ」

「ならば何も選べません」

「そうだ」

 新之介は三つの箱を見た。

 答えは言葉の中ではないかもしれない。

 箱。

 床。

 鎖。

 文字。

「先生は、鷹見様から剣の稽古帳を受け取った」

「ああ」

「そこに何と書かれていました」

「足運び。構え。呼吸。間合い」

「最後の教えは」

 玄斎は思い出そうとした。

「最後の頁は二重になっていた」

「その前です」

「……刀を見るな。人を見よ」

「それだ」

 新之介は第三の箱を見る。

 ――人を守る者へ。

「人を選べという意味ではありません」

「何」

「箱を見るな。人を見よ」

 新之介は部屋を見回した。

「この場にいる人を見る」

「どういうことです」

「役目を守る青山殿。父の家と名を追う半九郎殿。先生を守ろうとした私」

「お前は自分で申すか」

「今は申します」

「三人いる」

 玄斎が気づく。

「三つの箱へ、一人ずつ立てということか」

 箱の前の床には、薄い輪が刻まれている。

 これまで煙で見えなかった。

「同時に触れる」

 半九郎が言う。

「一つを選ぶのではなく、三つを同時に」

「役目も家も人も、どれか一つでは足りぬ」

 青山が第一の箱の前へ立つ。

「私は役目か」

「不満ですか」

「否定できぬ」

 半九郎は第二の箱。

「家を守る者」

「父の家は、もう売りました」

「それでも、父上の名を追っている」

 新之介が第三の箱へ立つ。

「私は人ですか」

 玄斎が問う。

「先生は中央へ」

「なぜ」

「全員を見てください」

「役目がないな」

「後見役です」

「それはお前だ」

「今日は譲ります」

 天井から火の粉が落ちた。

「急げ!」

 三人が同時に箱の蓋へ手を置く。

 玄斎が中央の石へ足を置いた。

 箱の下で音がした。

 かちり。

 一つ。

 続けて二つ。

 三つ。

 鎖が緩む。

「開けろ!」

 三つの蓋を同時に持ち上げる。

 第一の箱には、石。

 第二の箱にも、石。

 第三の箱には、厚い帳面が一冊入っていた。

「人の箱だ」

 半九郎が言う。

「違う」

 玄斎は第一と第二の箱の石を取り上げた。

 石の下に紙がある。

 第一の紙。

 ――役目だけでは、人を失う。

 第二の紙。

 ――家だけでは、外を失う。

 第三の帳面の下にも紙。

 ――人だけでは、明日を失う。

 最後に、三枚を並べると一つの文章になる。

 ――ゆえに三つを見よ。いずれかを大事とし、残りを小事とするな。

 新之介はその言葉を見つめた。

 これまで自分たちが何度も考えてきたこと。

 鷹見静山も、同じ問いの中にいた。

「第二冊です」

 半九郎が帳面を開く。

 役職。

 金額。

 渡した者。

 受け取った者。

 日付。

 膨大な名が並ぶ。

 その最初の頁に、鷹見静山の筆で書かれていた。

 ――この帳面は、人を裁くためだけにあらず。仕組みを改めるために使え。

「持ち出すぞ」

 青山が言う。

「三人で持つ」

 玄斎が答えた。

「一冊ですが」

「それでもだ」

 帳面を布へ包む。

 新之介、青山、半九郎の三人が、それぞれ布の端を持つ。

 玄斎が前を歩く。

 地下の通路へ戻る。

 上から煙が流れ込んでいる。

 石段の先が赤い。

「本堂が崩れるぞ!」

 源太郎の声が上からした。

「急げ!」

 階段を上がる。

 玄斎が先に地上へ出た。

 新之介たちが帳面を持ち上げる。

 その瞬間、鐘楼の柱が焼け落ちた。

 鐘が傾く。

「離れろ!」

 巨大な鐘が石塔へ倒れた。

 轟音。

 石が砕け、地下への入口が半分塞がる。

 新之介は帳面を抱えたまま地面へ転がった。

 青山も倒れる。

 半九郎が咳き込む。

 だが三人とも外へ出た。

「先生は」

「ここだ」

 玄斎は鐘の脇に座り込んでいた。

 足へ木材が当たったらしい。

「立てますか」

「立てる」

「傷人は皆、同じことを」

「今は本当に立てる」

 新之介が肩を貸す。

「世話をするな」

「こぼされると掃除が増えます」

「吉松の真似か」

「便利です」

 ◇

 佐平は境内にいなかった。

 源太郎が縛ろうとした直前、部下の一人が煙玉を投げ、その隙に本堂の裏へ逃げたという。

 裏道。

 香取へ続く旧道。

「追う」

 半九郎が言う。

「帳面を先に運ぶ」

 新之介が止める。

「また逃がします」

「顔も声も知っている」

「藤吉を射た者です」

「分かっている」

「重吉を殺した」

「分かっている!」

 新之介の声が強くなる。

 半九郎が黙った。

「だからこそ、怒りで追うな」

「では、いつ追うのです」

「帳面を安全な場所へ移し、大場殿と先生を手当てし、兵が来てからだ」

「その間に消えます」

「消えれば探す」

「また誰かが傷つく」

「今追えば、ここにいる者が傷つく」

「大事の前の小事にするな、でしょう」

「ああ」

「佐平を逃がすことも、小事ではありません」

 新之介は答えられなかった。

 半九郎の言うとおりだ。

 どちらも小事ではない。

 だが今、選ばねばならない。

「私が追う」

 青山が言った。

「そなたは傷人だ」

「海防掛の兵へ道を示すだけです」

「一人で行くな」

「大場をつけます」

 大場は縛られていた腕をさすりながら立っている。

「動けるか」

「走れます」

「無理を申すな」

 青山が言う。

「青山様に言われたくありません」

「上役だぞ」

「今は傷人です」

 大場は源太郎へ向いた。

「町方から一人、帳面へついてください。海防掛は佐平を追います」

 役目を分ける。

 帳面を守る者。

 人を手当てする者。

 佐平を追う者。

 一つを選び、ほかを捨てるのではない。

「分けるか」

 新之介が言った。

「はい」

 源太郎は第二冊を受け取ろうとした。

 だが玄斎が止める。

「一人で持つな」

「では」

「布の端を持て」

 新之介、源太郎、半九郎。

 三人で帳面を包んだ布を持つ。

「歩きにくいです」

 源太郎が言う。

「奪われにくい」

「目立ちます」

「隠すために人が死んだ」

「それもそうですが」

 半九郎が少し笑った。

「父が見たら、何と申すでしょう」

「帳面一冊を三人で運ぶとは、頭が悪いと」

 玄斎が答えた。

「鷹見先生なら」

「もっと増やせと申す」

「では私も持ちます」

 大場が手を出す。

「そなたは佐平を追え」

「役目が違いますか」

「ああ」

「家は」

「何だ」

「先ほどの三つです。私には家を守る役目はない」

 青山が言った。

「生きて帰れば、家へ戻れる」

 大場は少し驚き、頷いた。

「承知しました」

 ◇

 寺の火は、後から到着した海防掛の兵と町方によって消し止められた。

 本堂の半分は焼け落ちた。

 鐘楼も倒れた。

 地下への入口は塞がったが、第二冊は地上へ出ている。

 佐平の部下六人を捕えた。

 二人は重傷。

 一人は逃亡。

 佐平を含め、三人が裏道へ入ったと見られる。

 青山と大場、海防掛の兵の半数が追跡へ向かった。

 新之介たちは第二冊を運び、山道を下る。

 途中、矢を受けた農夫を預けた村へ寄った。

 農夫は生きていた。

 傷は浅い。

「寺は」

 男が問う。

「燃えた」

 新之介が答える。

「鐘は」

「倒れた」

「では、もう鳴らねえか」

「ああ」

 農夫は安堵するように目を閉じた。

「子どもの頃から、あの鐘は鳴らねえと言われてた」

「なぜだ」

「鳴る時は、人が死ぬ時だと」

「誰から聞いた」

「爺さまから」

「十五年前も鳴ったか」

「あの日も三度」

 玄斎が男を見る。

「その後、誰かを見なかったか」

「山を下りる侍を見た」

「どのような」

「顔は覚えてねえ。ただ、片足を引きずっていた」

「鷹見先生か」

「分からねえ」

「ほかには」

「若い侍が、その後を追っていた」

「誰だ」

「波の印があった」

 海防掛。

 十五年前、水野の配下が鷹見静山を追った。

「水野本人かもしれません」

 源太郎が言う。

「当時の水野は勘定方だ」

 玄斎が答える。

「では別の者」

「波の印が、当時も同じだったとは限らぬ」

「農夫殿」

 新之介が問う。

「その侍は、鷹見先生を捕えたのか」

「違う」

「では」

「背負って下りた」

 玄斎の顔が変わる。

「背負った」

「足を引きずっていた侍が倒れて、若い方が背負った」

「敵ではなかった」

「分からねえ。ただ、若い侍は泣いてた」

 水野か。

 あるいは別の海防掛の者か。

 鷹見静山は無音寺で捕えられたのではない。

 鐘を鳴らし、何かを守り、山を下りた。

 その後に水野の詮議を受けた。

「先生は、第二冊を置いた後に捕えられた」

 玄斎が呟く。

「誰かに裏切られたのではなく、自分から戻った可能性があります」

 半九郎が言う。

「なぜ」

「第二冊を守るために、追っ手を江戸へ戻した」

「囮になった」

 新之介は焼けた寺の方角を振り返った。

 鷹見静山も選んだ。

 帳面。

 弟子。

 自分の命。

 すべては守れなかった。

「先生は正しかったのでしょうか」

 半九郎が問う。

 玄斎は長く黙った。

「分からぬ」

「そうですね」

「だが」

 玄斎は山道を見た。

「来なかったわしが、正しくなかったことだけは分かる」

「先生が来れば、死んでいたかもしれません」

「そうだ」

「では」

「死ぬことと、来ることは別だ」

「どういう意味です」

「来て、逃げてもよかった。来て、何もできなくてもよかった」

 玄斎は自分へ言い聞かせるように続けた。

「わしは来ることさえ選ばなかった」

 新之介は玄斎の歩みに合わせた。

「今日は来ました」

「ああ」

「帳面も持ち出した」

「ああ」

「それで十五年前が消えるわけではない」

「分かっておる」

「ですが、今日まで同じにはなりません」

 玄斎は新之介を見た。

「慰めか」

「事実です」

「お前は時々、先生のような口をきく」

「嫌ですか」

「腹が立つ」

「図星だからですか」

「水野の真似までするな」

 ◇

 夕刻、一行は街道沿いの寺へ第二冊を運び込んだ。

 江戸へ戻るには日が足りない。

 海防掛と町方、双方の見張りを置く。

 帳面を一室へ置き、戸へ三つの封をした。

 海防掛。

 南町奉行所。

 戸田家。

 新之介は第四の封を用意させた。

「何の封です」

 源太郎が問う。

「無音寺で救った農夫に頼む」

「民の立ち会いですか」

「ああ」

「字が書けないかもしれません」

「印でよい」

 農夫は戸惑った。

「俺がそんなものへ」

「そなたが鐘を聞き、矢を受け、寺へ行くなと知らせた」

「それだけだ」

「そのそれだけがなければ、大場殿は死んでいたかもしれぬ」

「侍の帳面へ、百姓の印を押してよいのか」

「だから押してほしい」

 農夫はしばらく自分の汚れた手を見た。

 やがて朱肉へ親指をつけ、封紙へ押した。

 四つ目の印。

 役人だけではない者が、帳面がそこにあると知る。

「名を」

 源太郎が帳面へ記録するために問う。

「佐吉だ」

「村は」

「八日市場の外れ」

 源太郎は丁寧に書いた。

 佐吉は不思議そうにその様子を見ていた。

「俺の名も帳面に載るのか」

「載ります」

「悪いことをしてねえのに」

「悪い者だけを記すものではありません」

 源太郎は答えた。

「守った者も記します」

 新之介はその言葉を覚えておこうと思った。

 帳面は、人を縛る武器にもなる。

 だが人が何をしたかを残すものでもある。

 悪事だけでなく、救ったことも。

 ◇

 夜。

 新之介たちは街道寺の一室で休んだ。

 玄斎は横になったが、眠っていない。

 半九郎は第二冊の写しを作る準備をしている。

 まだ封を開けられないため、紙と墨を整えるだけ。

 源太郎は佐平の部下から聞き取った内容をまとめていた。

「何か分かりましたか」

 新之介が問う。

「佐平は深川の松波屋で、異国船の通詞と会っていました」

「名は」

「日本名は久世屋文吉」

「本当の名は」

「分かりません」

「佐平の背後か」

「部下たちは、佐平が直接命じていたと申しています。ただ、資金は松波屋から出ていた」

「長兵衛との関わりは」

「相模屋の抜け荷を買っていたようです」

 海の外へ米や銅を出し、異国の銀や武器を入れる。

 佐平はその流れの中で働いていた。

 だが単なる密貿易の手先ではない。

 四冊を使い、国の仕組みを動かそうとしている。

「本当に国を変えるつもりでしょうか」

 半九郎が問う。

「本人は信じている」

 新之介が答えた。

「だから余計に危うい」

「金のためだけではない」

「金だけなら、値を上げれば止まることもある」

「正しさを信じる者は」

「止まりにくい」

 玄斎が横になったまま言う。

「鷹見先生も、正しさを信じていた」

「先生も危うかったのですか」

「当然だ」

 玄斎は天井を見る。

「正しい問いが、正しい答えを生むとは限らぬ」

「では、どうすれば」

「問いを一人で持たぬことだ」

 無音寺の三つの箱。

 役目。

 家。

 人。

 一つでは足りない。

「先生」

 新之介が言う。

「無音寺へ来て、何か変わりましたか」

「膝が痛い」

「それ以外です」

「十五年前を思い出した」

「後悔しましたか」

「している」

「それだけですか」

 玄斎は少し考えた。

「鷹見先生が、わしを待っていたと思っていた」

「違ったのですか」

「来るなと鐘を鳴らした」

「先生を守った」

「ああ」

「ならば」

「だが、わしはそれを理由に十五年逃げた」

 玄斎は身体を起こした。

「先生に来るなと言われた。だから行かなかった。長い間、そう思っていた」

「違うのですか」

「一度は従った。それはよい」

「では」

「その後、一度も確かめなかった」

 無音寺が残っているか。

 鷹見静山が何を守ったか。

 誰が鐘を鳴らしたか。

「言葉へ従うことと、考えることをやめるのは違う」

 玄斎は言った。

「これは宗次郎にも教えねばならぬ」

「自分で話してください」

「お前が話せ」

「先生の過去です」

「弟子は師の失敗を語るものだ」

「初めて聞きました」

「今決めた」

 ◇

 夜半を過ぎた頃、寺の門が叩かれた。

 全員が起きる。

 見張りが誰何する。

「海防掛、青山新六郎!」

 戸が開く。

 青山が戻ってきた。

 顔と着物は泥だらけ。

 肩の布は血で黒くなっている。

 大場と兵二人が支えていた。

「佐平は」

 新之介が問う。

「逃げた」

「またか」

「ああ」

「負傷は」

「私ではない」

「どう見てもそなたです」

「佐平もだ」

「どこを」

「左脚。大場が斬った」

 大場が頭を下げる。

「仕留められませんでした」

「生きていれば話を聞ける」

「捕えていません」

「次がある」

 青山は座ると、懐から小さな紙片を出した。

「佐平が落とした」

 異国文字。

 そして裏側に、日本語で地名が書かれている。

 ――松波屋。

 ――深川。

 ――七月二十六日、夜。

「明後日だ」

 源太郎が言う。

「何がある」

「船が入る」

 青山が答えた。

「どこから」

「海防掛の捕えた者が、一人だけ口を開いた」

「異国船か」

「表向きは薩摩から来た廻船。だが沖で異国船と接触する」

「積み荷は」

「武器と銀」

「元帳を買うためか」

「おそらく」

 深川の松波屋。

 佐平が逃げ込む可能性がある。

 異国の通詞・久世屋文吉。

 そこへ第二冊を持ち込めば、大金と交換できる。

「佐平は第二冊を奪えなかった」

 半九郎が言う。

「ならば第四冊を狙う」

 新之介が答えた。

 第四冊。

 真崎玄十郎が隠した帳面。

 幼い半九郎が初めて書いた「海」の字の下。

 今、清太郎と町方が旧宅を調べている。

「江戸へ戻る」

 新之介が立った。

「今からか」

 玄斎が問う。

「第四冊が危ない」

「帳面を置いていくのか」

「第二冊は封をし、四者の見張りがある」

「それでも襲われるかもしれぬ」

「兵を増やす」

「人だけ増やせば、内通者も増える」

「では先生はここへ残ってください」

「断る」

「なぜ」

「第四冊を追う」

「先生は第二冊の責が」

「三人で持った」

「今は封の中です」

「ならば、わし一人が残る理由はない」

「膝が痛いのでは」

「痛い」

「休んでください」

「断る」

「傷人は皆」

「同じことを申す」

 青山が弱々しく笑った。

「私も江戸へ」

「そなたは絶対に残れ」

 新之介、玄斎、源太郎、大場の声が重なった。

 青山は不満そうに目を閉じた。

「役人が四人で命じるな」

「先生は役人ではありません」

「細かいことを申すな」

 新之介は外へ出た。

 夜空。

 街道。

 江戸までは遠い。

 急げば明け方には着く。

 清太郎は第四冊を見つけただろうか。

 旧宅の夫婦は無事か。

 再起館へ危険が向かっていないか。

 第二冊を手にしたことで、敵の狙いはさらに絞られる。

 だが新之介の胸には、無音寺で見た三つの箱の言葉が残っていた。

 役目だけでは、人を失う。

 家だけでは、外を失う。

 人だけでは、明日を失う。

 どれか一つを選んで、残りを小事にしてはならない。

 すべてを同時に守ることはできない。

 それでも、すべてを見ることはできる。

「出るぞ」

 新之介が言った。

 半九郎と源太郎が支度をする。

 玄斎も立ち上がる。

「先生」

「何だ」

「戻ったら膝を見せてください」

「嫌だ」

「命です」

「誰の」

「後見役の」

「再起館のだろう」

「今夜だけ、先生のです」

 玄斎は鼻を鳴らした。

 寺の鐘は鳴らない。

 だが新之介の耳には、無音寺の三度の響きが残っていた。

 一度目は危急。

 二度目は書を移せ。

 三度目は来るな。

 十五年前、玄斎は三度目で立ち止まった。

 今夜、新之介たちはその先へ進む。

 鐘の言葉へ従うのではなく、なぜ鳴ったかを確かめるために。

(第三十九章へ続く)

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