上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十章

目次

第四十章 井戸の底の第一冊

 再起館へ近づくにつれ、煙の匂いが濃くなった。

 火事ではない。

 火薬。

 湿った土。

 そして、焼けた縄の匂い。

 新之介たちは町角を曲がった。

 再起館の門前に、戸田家の家臣が二人倒れている。

 一人は肩から血を流し、もう一人は額を切っていた。

 どちらも息はある。

「中は」

 新之介が膝をつく。

 負傷した家臣が目を開けた。

「賊が……六人」

「佐平は」

「井戸へ……」

「宗次郎たちは」

「道場の中です。女たちと子どもを……守っております」

 新之介は立ち上がった。

「大場、二人を医者へ」

「私は中へ」

「海防掛の役目か」

「人が先です」

「ならば、なおさら運べ」

 大場は反論しかけた。

 だが負傷者の顔を見て、頷いた。

「後から入ります」

「ああ」

 門は開け放たれている。

 新之介、玄斎、半九郎、兵庫が中へ入った。

 庭の土には、多数の足跡。

 木刀が一本折れている。

 井戸の脇には、縄。

 滑車。

 引き上げ用の巻き枠。

 誰かが井戸へ下りている。

 そして底から、再び音がした。

 ごん。

 一度。

 間を置いて、二度。

 三度。

「中に人がいる」

 半九郎が井戸を覗く。

 暗くて何も見えない。

「佐平か」

 兵庫が言う。

「おそらく」

「一人で下りたのか」

「縄の跡は二本あります」

 新之介は井戸端の泥を調べた。

「一人は下り、一人は上で引いていた」

「上の者は」

「道場へ入ったか、逃げたか」

 その時、道場の戸が内側から激しく打たれた。

「榊原様!」

 兵馬の声。

「開けるな!」

 新之介が叫ぶ。

「私だ!」

「証を!」

「またか!」

「必要です!」

「先生の膝が痛い!」

「道が悪かった!」

 玄斎が怒鳴る。

 内側で閂が外れた。

 戸が少しだけ開き、兵馬が顔を出す。

 新之介たちを見て、ようやく全開にした。

 道場の中には、宗次郎、志乃、お園。

 さらに近隣から逃げ込んだ子どもと老人が十人ほどいる。

 宗次郎は片手に刀。

 肩の傷が開き、着物へ血が滲んでいた。

「何をしている」

 新之介が声を荒らげる。

「見れば分かる」

「傷人が刀を持つな」

「持たなければ戸を守れなかった」

「誰か斬ったか」

「一人だけ」

「殺したのか」

「峰だ」

「本当に」

「確かめるか」

 道場の隅に男が一人、縄を打たれて転がされている。

 気を失っているが、息はある。

「吉松がいれば、もっと早く縛れた」

 宗次郎が言う。

「吉松は第四冊を守っている」

「では、こちらは私が守った」

「一人でか」

「兵馬もいる」

 兵馬が木刀を上げた。

「二人倒しました」

「一人は私です」

 志乃が言う。

 その手には短い棒。

「志乃殿まで」

「戸へ入ろうとしましたので」

「お園は」

「湯を沸かしました」

「何に使った」

「投げました」

「誰へ」

「賊へ」

 新之介は何も言えなくなった。

 玄斎が頷く。

「よい守りだ」

「褒めるところですか」

「生きておる」

 それが何よりだった。

「佐平は井戸へ下りた」

 新之介が告げる。

 宗次郎の顔が変わる。

「第一冊か」

「知っていたのか」

「井戸を掘り始めた時に、長兵衛の使いだと名乗った」

「なぜ止めなかった」

「止めた」

「ならば」

「火薬を持っていた」

 宗次郎は庭を見る。

「井戸の底へ火薬を落とすと脅した」

「帳面ごと燃やす気か」

「違う」

 兵庫が言った。

「第一冊は油布と銅箱で守られている」

「では何を」

「井戸の壁を崩す」

「取り出せなくするためか」

「あるいは、上の者を巻き込む」

 玄斎が井戸へ近づいた。

「佐平は、わしが来ると知っているか」

「知らぬはずだ」

 新之介が答える。

「ならば、今は帳面を探すことへ集中している」

「下りるのですか」

「わしが行く」

「先生は膝を」

「井戸では歩かぬ」

「そういう問題ではありません」

 兵庫が縄を手に取った。

「私が行く」

「そなたは佐平の師だ」

「だからだ」

「斬れるのか」

 兵庫は答えなかった。

「斬れぬなら、下りるな」

 玄斎が言う。

「そなたも、鷹見先生を見捨てた」

「見捨ててはいない」

「ならば、佐平も見捨てぬか」

「止める」

「殺してでもか」

「必要なら」

「必要という言葉を、あやつに教えたのはそなただ」

 兵庫の手が止まる。

 新之介は二人の間へ入った。

「私が下りる」

「榊原」

 宗次郎が言う。

「今度は私も」

「傷人だ」

「井戸なら歩かぬ」

「先生と同じことを申すな」

「役に立つ」

「片手で縄を掴めるか」

 宗次郎は黙った。

 新之介は井戸の中へ目を向ける。

「兵庫殿は上で縄を持て」

「なぜ私が」

「佐平が上がってきた時、そなたがいれば話を聞くかもしれぬ」

「聞かぬ」

「それでもだ」

「新之介」

 玄斎が言う。

「一人では下りるな」

「先生が」

「わしではない」

「では誰が」

 半九郎が前へ出た。

「私が行きます」

「父上の帳面だ」

「だからではありません」

「では」

「佐平は藤吉を射た。重吉を殺した。父のことも知っている」

「怒りで追うなと申した」

「怒っています」

 半九郎は否定しなかった。

「だから、一人では行きません」

 新之介は半九郎を見た。

「私を止めてください」

「そなたも私を止めろ」

「はい」

「決まりだ」

 ◇

 縄を二本用意した。

 一方を新之介。

 もう一方を半九郎。

 兵庫と玄斎が巻き枠を持つ。

 宗次郎、兵馬、志乃が井戸端を守る。

 大場も負傷者を運び終え、戻ってきた。

「私も下へ」

「遅い」

 新之介が言う。

「役人として」

「上を守れ」

「しかし」

「井戸の中で海防掛の役目はない」

「禁制品ならあります」

「まだ分からぬ」

「分かってからでは遅い」

「ならば、引き上げた物を最初に見る役を任せる」

 大場は納得していない顔だったが、縄へ手を添えた。

「合図は」

 兵庫が問う。

「一度で止める。二度で下ろす。三度で引け」

「井戸の鐘と同じだな」

「佐平も知っているかもしれぬ」

「知っている」

 兵庫は答えた。

「昔、私が教えた」

「ならば別の合図を」

 半九郎が言う。

「四度で引き上げる」

「四度目が聞こえるか」

「聞かせます」

「何で」

 半九郎は腰の小柄を見せた。

「壁を叩きます」

 新之介は頷いた。

 二人は縄を腰へ巻いた。

「下ろせ」

 ゆっくり井戸へ入る。

 石壁。

 湿気。

 苔。

 上からの光が小さくなる。

 水はない。

 古井戸と言っても、何年も前に涸れている。

 途中に横穴があった。

 昔の抜け道か。

 佐平が使ったらしい縄が、そこへ続いている。

「横だ」

 新之介が上へ声を送る。

「止めろ!」

 縄が止まる。

 新之介と半九郎は壁の足場へ立った。

 横穴は人一人が這えるほど。

 奥から薄い灯り。

「行くぞ」

 二人は縄を外さず、横穴へ入った。

 這って進む。

 土の匂い。

 古い木の根。

 そして火薬。

「臭います」

「ああ」

 佐平は本当に火薬を持ち込んでいる。

「刀は抜けますか」

「短く持てば」

「小柄を使います」

「斬るためか」

「壁を叩くためです」

「忘れるな」

「何を」

「そなたは怒っている」

「分かっています」

 少し進むと、横穴が広がった。

 石造りの小部屋。

 中央に古い釣鐘。

 上から聞こえた音は、これを打ったものだ。

 鐘の奥には銅箱が置かれている。

 そして佐平がいた。

 左脚へ布を巻き、壁へ寄りかかっている。

 手には短銃。

 その足元には、小さな火薬樽が二つ。

「遅かったな」

 佐平が言う。

「帳面は」

 新之介が問う。

「箱の中だ」

「開けたか」

「鍵がない」

「何の鍵だ」

「黒川玄斎の印」

「先生に印など」

「鷹見の門人印だ」

 新之介は知らなかった。

「兵庫が持っている」

「本当か」

「私から奪った」

「そなたへ渡された物ではない」

「私の師が持つなら、いずれ私の物になる」

「人も帳面も、受け継げば自分の物か」

「違うのか」

「違う」

 佐平は笑った。

「再起館の者たちも、鷹見の問いを自分の物にしている」

「自分の答えを探しているだけだ」

「同じだ」

「違いを聞く気はあるか」

「時間がない」

 佐平は火縄を持ち上げた。

 まだ火はついていない。

「兵庫を呼べ」

「上にいる」

「印を持って下りろと」

「断ったら」

「井戸を崩す」

「自分も埋まるぞ」

「帳面が誰にも渡らなければよい」

「国を変えるのではなかったか」

「腐った者へ渡るよりは、消えた方がよい」

「誰が腐っている」

「幕府。大名。札差。役人。商人」

「そなたは」

「私は違う」

「なぜ」

「変えようとしている」

 半九郎が低く言った。

「重吉を殺してか」

「必要だった」

「藤吉を射てか」

「必要だった」

「米を海へ捨てる者と同じだ」

「違う!」

「何が」

「私は私腹を肥やしていない!」

「重吉が生きていれば、そなたの腹が減ったのか」

「帳面が奪われる!」

「では名を呼べ」

 新之介が言った。

 佐平の顔が歪む。

「またそれか」

「海鼠屋重吉」

「黙れ」

「藤吉」

「黙れ」

「寺で倒れた大場」

「死んでいない!」

「そなたが火を放った小屋の者たち」

「私は国を」

「国の名で隠すな」

 佐平が短銃を新之介へ向けた。

「お前には分からない」

「分からぬ」

「ならば黙れ」

「分からぬから聞く」

「私は異国船を見た」

 佐平の声が震えた。

「長崎で、大砲を積んだ船を見た。あれが十艘来れば、江戸の舟など木片だ」

「だから元帳を」

「幕府は動かない。役人は金を抜く。大名は借財で動けない。砲台には弾がない」

「それを変えるために」

「一度、壊す」

「誰を」

「仕組みを」

「仕組みは血を流さぬ」

 新之介は佐平から目を逸らさない。

「流すのは人だ」

「少ない犠牲で、多くを」

「その少ない者を、そなたは選べるのか」

「選ばねば何も変わらぬ!」

「ならば最初に自分を選べ」

 佐平が黙った。

「何」

「自分を犠牲にすると申せばよいのではない」

 新之介は一歩進んだ。

「重吉の命を使わず、自分の名と命を差し出して、役人へ訴えればよかった」

「聞くものか!」

「聞かれぬなら、何度でも申せ」

「その間に異国船が来る!」

「だから人を殺したのか」

「時間がない!」

「時間がない者ほど、他人の命を使う」

 佐平の短銃が震える。

「近づくな」

「火薬へ火をつければ、第一冊も消える」

「それでよい」

「本当か」

「何」

「そなたは箱を開けようとした」

「……」

「燃やすつもりなら、先に火をつければよかった」

 半九郎も気づいた。

「帳面を読みたいのですね」

「違う」

「自分の正しさを証明したい」

「違う!」

「第四冊を兵庫殿へ渡したいのではありません」

 半九郎は佐平を見る。

「兵庫殿に認めてもらいたい」

 短銃の先が半九郎へ向く。

「黙れ!」

「父に認めてもらえぬ子と同じです」

「兵庫は父ではない!」

「養父だと聞きました」

「違う!」

「ならば、なぜ『師』ではなく兵庫と呼ぶ」

 佐平は答えられなかった。

 その隙に、新之介が間合いを詰める。

 銃声。

 狭い石室へ轟音が反響した。

 弾は新之介の脇を通り、釣鐘へ当たる。

 ごおん。

 耳を打つ大音響。

 佐平が火縄へ手を伸ばす。

 半九郎が飛び込む。

 小柄で手を打つ。

 火縄が落ちた。

 新之介は佐平の短銃を蹴り飛ばした。

 佐平は懐から短刀を抜く。

 半九郎の胸へ突く。

 新之介が腕を掴む。

 三人がもつれる。

 火薬樽が転がった。

「樽を!」

 半九郎が短刀を受け止めながら叫ぶ。

 新之介は佐平を壁へ押しつける。

「半九郎、火薬を遠ざけろ!」

「一人で大丈夫ですか」

「早く!」

 半九郎が樽を釣鐘の反対側へ転がす。

 佐平は新之介の顔へ頭を打ちつけた。

 視界が揺れる。

 腕が緩む。

 佐平の刃が新之介の肩を裂く。

「榊原!」

 半九郎が戻ろうとする。

「来るな!」

 新之介は佐平の手首を掴んだまま、身体を沈めた。

 腰へ肩を入れる。

 投げる。

 佐平が石床へ叩きつけられた。

 短刀が離れる。

 新之介はその胸へ膝を置いた。

「終わりだ」

「終わっていない」

「火はない」

「上に兵庫がいる」

「そなたを救うかもしれぬ」

「私は救われぬ」

「なぜ決める」

「重吉を殺した」

 初めて、佐平が自分から名を口にした。

 新之介は力を緩めなかった。

「そうだ」

「藤吉も射た」

「そうだ」

「戻れぬ」

「戻ることと、罪が消えることは違う」

「再起館へ入れろとでも」

「入れるかどうかは、皆で決める」

「ふざけるな」

「ふざけてはいない」

「私を許すのか」

「許さぬ者もいる」

「ならば」

「それでも生きて話せ」

 佐平は笑った。

 乾いた、力のない笑いだった。

「皆、同じことを申す」

「誰が」

「兵庫だ」

「何と」

「人を殺す前に戻れ、と」

「聞かなかった」

「ああ」

「なぜ」

「正しいと思ったからだ」

 佐平は目を閉じた。

「今もか」

「分からぬ」

 新之介は短く息を吐いた。

「便利だろう」

「腹が立つ」

「皆そう申す」

 ◇

 佐平へ縄を打った。

 火薬樽を遠ざけ、銅箱を確かめる。

 蓋には四角い窪みが一つ。

 兵庫が持つという門人印が鍵らしい。

「上へ合図を」

 半九郎が小柄で石壁を打つ。

 一度。

 二度。

 三度。

 そして四度。

 しばらくして、横穴の奥から玄斎の声がした。

「生きておるか!」

「はい!」

「佐平は」

「捕えました!」

「帳面は」

「箱の中です!」

「怪我は」

「榊原様が肩を」

「浅い!」

 新之介が答える。

「傷人は皆、同じことを申す!」

 宗次郎の声まで聞こえた。

「なぜそなたが下りてきた!」

「横穴の入口までだ!」

「戻れ!」

「命じるな!」

「傷人だ!」

「お互い様だ!」

 佐平が石床へ横たわったまま、小さく笑った。

「騒がしい館だな」

「再起館だ」

 半九郎が答えた。

「何の道場だ」

「説明すると長い」

 ◇

 佐平を先に引き上げた。

 横穴を抜け、井戸の縄へ結ぶ。

 上では兵庫と玄斎、大場が巻き枠を回した。

 宗次郎も片手で縄を引こうとしたが、志乃に棒で手を払われた。

「傷が開きます」

「すでに開いている」

「だからです」

 佐平が地上へ出ると、兵庫が待っていた。

 二人は顔を合わせた。

 佐平は何も言わない。

 兵庫もすぐには口を開かなかった。

 やがて兵庫が問う。

「重吉を殺したか」

「ああ」

「藤吉を射たか」

「ああ」

「私の命か」

「違う」

「誰の」

「私が選んだ」

 兵庫は目を閉じた。

「そうか」

「斬らぬのか」

「斬りたい」

「ならば」

「斬れば、私が教えたことの始末を、お前一人へ負わせることになる」

 佐平が兵庫を見る。

「私の罪だ」

「お前の罪だ」

 兵庫は否定しなかった。

「だが、私の責でもある」

「同じではない」

「ああ」

「ならば私だけを」

「逃げるな」

 兵庫の声が強くなる。

「死ぬ方へ逃げるな」

 佐平の顔から、初めて反抗の色が消えた。

「生きて何をする」

「話せ」

「誰に」

「重吉の家族。藤吉。海防掛。町方。帳面へ名のある者たち」

「許されぬ」

「許されるためではない」

「では」

「そなたが何を選んだか、名を隠さず残すためだ」

 佐平は目を伏せた。

 兵庫はそれ以上言わなかった。

 ◇

 銅箱を開けるため、兵庫が門人印を出した。

 丸い青銅の印。

 表には、鷹が海を見下ろす図。

 裏には一文字。

 ――問。

「鷹見先生の印か」

 玄斎が問う。

「ああ」

「なぜそなたが」

「先生から預かった」

「わしではなく」

「水野でもなく」

「なぜ」

「最も遠くへ逃げる者へ持たせる、と申した」

「見抜かれていたか」

「そうだ」

 兵庫は自嘲した。

「私は長崎へ逃げた。だから印は残った」

 銅箱の窪みへ門人印を当てる。

 ぴたりとはまる。

 だが兵庫は回さなかった。

「誰が開ける」

「そなたではないのか」

 新之介が問う。

「一人では開けぬ」

「またか」

「鷹見先生は、一人を信用しなかった」

「自分もか」

「ああ」

 箱の周囲には、小さな取っ手が四つある。

「四人で持ち上げる」

 玄斎。

 兵庫。

 新之介。

 半九郎。

 それぞれが一つずつ取っ手へ手を置く。

「宗次郎は」

 新之介が問う。

「私は見ている」

「よいのか」

「今は、見届ける役だ」

 宗次郎は井戸端へ座った。

「ただし、書かれた者の名を勝手に隠すな」

「全部出すとも決めていない」

「ならば、読んでから決めろ」

「分かっている」

「急いで決めるな」

 新之介は宗次郎を見た。

「そなたに言われるとは」

「便利だ」

 四人が同時に取っ手を持ち上げる。

 兵庫が門人印を回した。

 かちり。

 銅箱の内部で錠が外れる。

 蓋を開く。

 油紙。

 さらにその内側に、厚い帳面。

 第一冊。

 札差。

 大名家。

 借財。

 蔵米。

 担保。

 利息。

 返済のために行われた秘密の取引。

 表紙には、鷹見静山の字。

 ――米を数えるな。腹を見よ。

 新之介は言葉を失った。

 帳面へ並ぶ数字の向こうに、人の腹がある。

 蔵に何俵あるかではない。

 誰が食べられず、誰が余らせ、誰が値を動かしているか。

 第一冊の最初の頁には、こう書かれていた。

 ――借財は家の罪にあらず。

 ――返せぬ仕組みを作り、返せぬ者へ恥のみを負わせることが罪である。

 戸田家。

 ほかの大名家。

 札差。

 三宅主膳。

 相模屋。

 すべての始まりが、この一冊にある。

「これで四冊ですか」

 兵馬が問う。

「第三冊はまだ箱の中だ」

 新之介が答える。

「だが所在は分かった」

「四冊揃えば国を買える」

 志乃が言う。

「誰が買うのです」

「買わせぬ」

 兵庫が答えた。

「では、どうする」

「皆で決める」

「皆とは」

 兵庫は庭を見回した。

 武士。

 町方。

 火消し。

 女。

 子ども。

 傷人。

 罪人。

 元商人の手先。

 それぞれが、同じ井戸を囲んでいる。

「ここにいる者だけでは足りぬ」

 兵庫が言う。

「だが、役人だけでも足りぬ」

 玄斎が第一冊を閉じた。

「まず四冊を同じ場所へ集めぬことだ」

「また分けるのですか」

 半九郎が問う。

「ああ」

「奪われます」

「写す」

「さらに狙われます」

「持つ者を増やす」

「誰へ」

 新之介は答えなかった。

 水野。

 坂崎。

 戸田。

 了順。

 米問屋。

 火消し。

 町人。

 再起館。

 誰も完全には信用できない。

 だから一人へ預けない。

「榊原」

 宗次郎が呼ぶ。

「何だ」

「先に、誰が四冊を読むか決めろ」

「なぜ」

「写す前に、何を写さぬかを勝手に決める者が出る」

 新之介は宗次郎を見る。

「そなた、寝ている間に賢くなったか」

「動けぬと考えるしかない」

「役に立つな」

「褒めているのか」

「半分は」

 ◇

 昼前、戸田備前守、水野隼人正、坂崎修理が再起館へ集まった。

 第一冊発見の知らせを受け、三者とも自ら来た。

 水野は佐平を見ると、すぐに捕縛を命じた。

 だが新之介が止めた。

「町方と海防掛、双方の縄を」

「二重に打つのか」

「一方だけでは消される恐れがある」

 水野は怒らなかった。

「よい」

 佐平の縄へ、町方と海防掛それぞれの封をつける。

 兵庫も自ら詮議を受けると申し出た。

「そなたもか」

 水野が問う。

「佐平を使った責がある」

「逃げられると思うな」

「逃げるために戻ったのではない」

 戸田は第一冊を前にして、長く黙っていた。

「私の家の名もあるのだろうな」

「あります」

 新之介が答える。

「借財の額も」

「はい」

「三宅の行いも」

「おそらく」

 戸田は帳面へ手を伸ばさなかった。

「怖いな」

「読むのがですか」

「読んだ後の己が」

 戸田は正直に言った。

「借財を消せる取引が記されていれば、心が揺れる」

「だから一人で読ませません」

「誰と読む」

 新之介は再起館の者たちを見た。

「役人。武家。商人。僧。町人。百姓」

「多すぎる」

 水野が言う。

「必要です」

「海防の箇所は」

「分ける」

「誰が分ける」

「それも一人では決めない」

 坂崎修理が深く息を吐いた。

「途方もない話だ」

「鷹見先生が残したのは、帳面だけではありません」

 玄斎が言う。

「決め方だ」

「三つの箱か」

 水野が問う。

「ああ」

「役目、家、人」

「どれかを大事とし、残りを小事とするな」

 水野は第一冊の表紙を見た。

「四冊を読む会を作るか」

「会?」

「名が要る」

「名をつけると、形だけ残る」

 新之介が言う。

「形がなければ、責任が残らぬ」

 坂崎が返す。

「どちらも必要だ」

 戸田が言った。

「名があり、入れ替わる者がいる」

「固定しないのですか」

「一人が長く持てば、力になる」

「では期限を」

「読んだ者の名も記す」

「誰が記す」

 清太郎が手を上げた。

「私が」

 全員が少年を見る。

「そなたがか」

 水野が問う。

「一人ではありません」

「では」

「複数で記録します」

「誰と」

 清太郎は吉松を見た。

「吉松」

「字があまり上手くありません」

「だから読み間違いを見つけられる」

「どういう理屈ですか」

「私が書き、吉松が声に出して確かめる」

「子ども二人へ任せるのか」

 水野が眉を寄せる。

 新之介が答えた。

「大人だけで隠してきた結果が、この四冊です」

 水野は反論できなかった。

「子どもだけでも駄目です」

 志乃が言う。

「私も立ち会います」

「女が政治の帳面を」

 高梨が思わず口を挟む。

 志乃が彼を見る。

「米価が上がれば、最初に食べる量を減らすのは女です」

 高梨は黙った。

「私も」

 辰蔵が鳶口を肩へ置いた。

「火事になった時、どの家から壊すか決めるのは火消しです」

「帳面を読む理由になるか」

「大事の前に小事を捨てると、町が全部燃えます」

 玄斎が笑った。

「皆、よく覚えておる」

「先生が何度も申すからです」

「わしではない。新之介だ」

「先生もです」

 ◇

 その日のうちに、四冊を扱うための仮の取り決めが作られた。

 第一冊は再起館には置かない。

 戸田家、南町奉行所、海防掛、寺、町人代表の五者で封をする。

 第二冊は街道寺から江戸へ移す。

 第三冊の鉄箱は、町方と海防掛の立ち会いで開く。

 第四冊は杉屋の火事で救い出された後、同じく五者の封を置く。

 どの一冊も単独では開かない。

 読んだ者の名と日時を残す。

 写しを作る場合、原本と同数の立会人を必要とする。

 海防に関する箇所は、内容を隠すのではなく、閲覧する者を制限し、その理由を記録する。

「理由もか」

 水野が問う。

「はい」

 清太郎が答える。

「なぜ隠したかを書かなければ、後で全て都合よくなります」

「厳しいな」

「帳面は、人より正直なのでしょう」

 佐平が使った言葉。

 だが清太郎の意味は違う。

 帳面が正直なのではない。

 正直に書こうとする者が必要なのだ。

「名はどうする」

 坂崎が問う。

「取り決めに名を」

「鷹見帳見分会」

 水野が言う。

「役所の名のようだ」

 玄斎が嫌そうな顔をする。

「では、黒川殿が」

「無用会」

「嫌です」

 新之介が即座に答えた。

「なぜだ」

「先生の稽古帳と同じです」

「必要な物へ無用と書くのはよい」

「混乱します」

 吉松が手を上げた。

「井戸端の会は」

「なぜ」

「皆で井戸を囲んで決めたからです」

「町内の寄り合いのようだな」

 戸田が笑った。

「悪くない」

 水野が意外にも頷く。

「役人だけの名に見えぬ」

「では、井戸端見分」

 清太郎が帳面へ書く。

「正式な名ですか」

「仮だ」

 坂崎が言う。

「仮のまま残ることもある」

 玄斎が答える。

「再起館もそうだ」

「仮だったのですか」

 兵馬が問う。

「最初はな」

「誰が決めた」

「新之介だ」

「先生でしょう」

「どちらでもよい」

「記録しますので、はっきりしてください」

 清太郎に問われ、二人は同時に黙った。

 ◇

 夕暮れ。

 役人たちが引き上げた後、再起館の庭には静けさが戻った。

 井戸には新しい蓋が置かれた。

 第一冊はすでに別の場所へ移されている。

 それでも井戸の底から、鐘の余韻が上がってくるように思えた。

 宗次郎は縁側で手紙を書いている。

 藤吉へ宛てたもの。

 何度も書き直しているらしい。

 紙が三枚、丸められている。

「まだ終わらぬか」

 新之介が問う。

「何から謝ればよいか分からぬ」

「謝るためだけの手紙か」

「最初は、そのつもりだった」

「今は」

「父のことを書いている」

「何と」

「何をしたか。何を言わなかったか。私が何を知ったか」

「長くなるな」

「読んでもらえるか」

「藤吉殿なら読む」

「許すだろうか」

「それは藤吉殿が決める」

 宗次郎は筆を止めた。

「佐平も生きて話すのか」

「ああ」

「重吉の家族へも」

「そのつもりだ」

「斬った方が楽では」

「誰が」

「皆が」

 新之介は宗次郎の隣へ座った。

「楽な方を選ぶために、生かしたのではない」

「佐平は再起できるか」

「分からぬ」

「またか」

「罪を償うことと、やり直すことは同じではない」

「では」

「償いながら生きる者もいる」

「再起館へは」

「今は入れぬ」

「なぜ」

「本人がまだ、自分のしたことを全て話していない」

「話せば」

「皆で決める」

「私の時と同じか」

「ああ」

 宗次郎は庭を見た。

「私は運がよかった」

「何がだ」

「戻る場所があった」

「佐平には兵庫殿がいる」

「それは戻る場所か」

「今から作るのかもしれぬ」

 ◇

 玄斎は井戸端に座り、門人印を見ていた。

 兵庫はその向かい。

 二人の間に、酒も茶もない。

「返す」

 兵庫が印を差し出す。

「わしへか」

「鷹見先生は、最後にはそなたへ渡すつもりだった」

「なぜ」

「問いを持ち続けるからだ」

「逃げた」

「私もだ」

「ならば、そなたが持て」

「私は使い方を間違えた」

「わしも忘れた」

 二人は互いに譲らない。

 新之介が口を挟む。

「再起館で預かります」

「誰の物だ」

 玄斎が問う。

「誰の物でもないなら、場所へ預ける」

「また危険を持ち込むのか」

「危険はすでに来ています」

 吉松と同じ言葉だった。

 兵庫が印を見る。

「一人へ渡さぬか」

「ああ」

「誰が鍵を持つ」

「鍵を分ける」

「印は一つだ」

「保管する箱の鍵を分ける」

「何人へ」

「玄斎先生、兵庫殿、志乃殿」

 志乃が驚く。

「私もですか」

「二人だけでは、また師弟で喧嘩をします」

「それはある」

 兵庫が言う。

「そなたまで申すか」

 玄斎が睨む。

「三人が揃わなければ開けないようにする」

「誰が箱を作る」

「清太郎が設計し、辰蔵が作る」

「火消しが箱を」

「壊すのが得意なら、壊れにくい形も分かります」

 辰蔵は少し考えた。

「鉄張りにします」

「重くなる」

「投げられません」

 全員が新之介を見る。

「私は投げません」

「必要なら投げる」

 源太郎が脚を引きずりながら戻ってきた。

「なぜ来た」

「このやり取りを聞くためです」

「医者は」

「行きました」

「何と」

「捻っただけだと」

「ならば休め」

「榊原様に言われたくありません」

 新之介の肩にも布が巻かれている。

 確かに反論できなかった。

 ◇

 夜。

 再起館では、久しぶりに全員で夕餉を取った。

 清太郎と吉松も戻った。

 辰蔵。

 兵馬。

 志乃。

 お園。

 宗次郎。

 半九郎。

 玄斎。

 兵庫。

 新之介。

 源太郎は役所へ戻る前に、椀だけ受け取った。

「塩気が薄いですね」

 吉松が言う。

「海の米ではないからな」

 辰蔵が答える。

「普通の米ですか」

「ああ」

「普通の米は、こんな味でしたか」

「海水へ慣れすぎた」

 皆が笑った。

 短い笑いだった。

 だが再起館へ笑いが戻った。

「四冊揃えば、終わりですか」

 兵馬が問う。

「終わらぬ」

 新之介が答える。

「これから読む」

「読んだら」

「確かめる」

「確かめたら」

「変える」

「何を」

「仕組みを」

 佐平が使った言葉。

 だが、その意味は違う。

 人を殺して壊すのではない。

 何が人を追い込み、誰が得をし、誰が腹を空かせるのかを確かめる。

 そして一つずつ改める。

「刀より時間がかかりますね」

 兵馬が言う。

「ああ」

「面倒です」

「ああ」

「それでもやるのですか」

「やる」

「誰が」

 新之介は道場を見回した。

「皆でだ」

「大きすぎませんか」

 吉松が問う。

「だから小さく分ける」

「何から」

「明日の米から」

 清太郎が帳面を開く。

「再起館の米は、あと何日分ですか」

「急に現実へ戻すな」

 宗次郎が言う。

「大事です」

「四冊の元帳よりか」

「同じです」

 清太郎は真顔で答えた。

「誰が何を食べるかを書かないと、また腹が減ります」

 玄斎が笑った。

「鷹見先生が聞けば喜ぶ」

「怒るかもしれません」

 新之介が言う。

「なぜ」

「米を数えるな、腹を見よと書いてあった」

「では腹を見て数える」

 清太郎は筆を持った。

「人数を申してください」

 一人。

 二人。

 傷人は少し多め。

 子どもは年齢に合わせる。

 働く者。

 休む者。

 客。

 罪人。

 全員を同じ一人として数えず、それぞれの腹を見る。

 その夜、再起館で最初に作られた新しい帳面は、国を買うためのものではなかった。

 明日の朝、誰がどれだけ粥を食べるかを記した帳面だった。

 新之介は庭の井戸を見た。

 底にはもう何もない。

 だが空になったからこそ、水を汲める日が来るかもしれない。

 隠すための井戸から、生かすための井戸へ。

 それもまた、再起なのだろう。

 その時、門が静かに叩かれた。

 三度。

 一度目。

 二度目。

 三度目。

 全員の手が止まる。

 宗次郎が刀へ手を伸ばす。

 志乃が棒を持つ。

 兵馬と辰蔵が立つ。

 新之介は門へ向かった。

「誰だ」

 外から女の声がした。

「相模屋長兵衛の娘でございます」

 新之介は閂へ手をかけた。

「何用だ」

「父から、榊原様へ伝言を預かりました」

「何と」

 門の向こうで、女は答えた。

「四冊には、続きがある――と」

 道場が静まり返った。

 四冊で終わりではない。

 鷹見静山が残した問いには、まだ先がある。

 新之介は門を開けた。

(第四十一章へ続く)

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