東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第十三章

目次

第十三章 死者の管理者

一 写真の中の男

写真には、三人いた。

いや、正確には、二人と一つの影だった。

二〇一〇年六月十七日。

京都認知行動研究室の玄関前。

若い真壁修司と、野村真紀と名乗る女性が並んで笑っている。

その背後にあるガラス戸。

そこに、男が映り込んでいた。

奈良県警の画像解析室で、真壁はその写真を見つめていた。

「拡大してくれ」

解析担当の刑事が操作する。

画面いっぱいに男の姿が広がった。

背広。

白いシャツ。

短い髪。

左手首には黒いバンド。

しかし顔は、ガラスの反射と室内の照明が重なり、判別できない。

「これ以上は無理です」

担当者が言った。

「存在しない情報までは復元できません」

真壁は頷いた。

その答えに、むしろ安心した。

これまで見せられてきた映像は、どれも都合よく鮮明だった。

必要な人物が、必要な時刻に、必要な場所へ現れる。

そんな記録ばかりだった。

「高瀬の最後の映像をもう一度」

画面が切り替わる。

取調室。

椅子に座る高瀬浩二。

顔色は悪い。

カメラに向かって唇を動かしている。

音声はない。

読唇による推定結果が字幕として表示される。

《最初の写真には、三人写っていた》

《三人目は消されたんじゃない》

《最初から、そこにいる》

そして最後。

《本当の管理者は、死者の中にいる》

野村亮介が言った。

「死者って、誰のことでしょう」

「候補はいくらでもいる」

真壁は答えた。

「葛城。秋月。高瀬。お前の母親。それに神谷と関係する人間たち」

「でも、全員が本当に死んだわけじゃありません」

「ああ」

「なら、この言葉も罠かもしれません」

真壁は野村を見る。

「そうだ」

野村は少し驚いた。

「否定しないんですね」

「読唇の結果だって確定じゃない。高瀬が本当にその文章を伝えたかったかどうかもわからん」

「では何を調べます」

「写真の出所だ」

真壁は机の上に二枚の写真を置いた。

一枚は、野村真紀から届いた封筒に入っていたもの。

もう一枚は、高瀬の遺留品から発見されたもの。

同じ構図。

同じ人物。

同じ日付。

だが、よく見ると違いがあった。

高瀬の写真には、右端にわずかな余白がある。

「ここだ」

真壁が指した。

ガラス戸の横。

小さな金属製のプレート。

文字が刻まれている。

《研究室管理責任者》

その下に、名前があった。

しかし半分が切れている。

読めるのは二文字だけ。

《……崎》

野村が呟いた。

「崎?」

真壁は答えなかった。

高瀬は死ぬ直前、何かを伝えようとしていた。

だが、写真に映る男の顔ではなく、男の後ろにある名前を示していた可能性がある。

「元の写真を探す」

真壁は言った。

「複製じゃない。撮影したカメラに残っていた原本だ」

野村が頷いた。

「京都の研究所ですね」

「いや」

真壁は二枚を見比べた。

「先に、写真を撮った人間を探す」

二 撮影者

写真の裏面には、小さな印字があった。

《K-0617》

これまでなら、真壁は数字に意味を探しただろう。

だが今は違った。

「写真店の管理番号かもしれない」

野村が言った。

「調べてみます」

古い写真店の記録は、簡単には見つからなかった。

京都市内の写真現像業者。

二〇一〇年当時に営業していた店舗。

廃業した店。

統合された会社。

野村は一軒ずつ問い合わせた。

午後二時を過ぎたころ、一つの手がかりが見つかった。

京都市左京区。

かつて大学関係者が多く利用していた写真店。

すでに閉店していたが、店主は健在だった。

真壁と野村は、その日のうちに京都へ向かった。

古い住宅の応接間。

八十歳近い男性が、写真を手に取った。

「懐かしいですね」

真壁が訊いた。

「覚えていますか」

「この建物は覚えています」

「写真は?」

「たぶん、うちで現像したものです」

「なぜわかるんです」

男性は裏面を指した。

「この番号です」

《K-0617》

「うちでは、大学関係の依頼にKを付けていました」

「0617は?」

「六月十七日でしょう」

真壁は頷いた。

「撮影者はわかりますか」

男性は首を振った。

「十六年前ですからね」

「記録は残っていませんか」

「紙の台帳なら、少し」

男性は立ち上がった。

押し入れから古い箱を持ってくる。

中には帳簿が並んでいた。

二〇一〇年。

六月。

十七日。

野村がページをめくる。

「あった」

真壁が覗き込む。

《京都認知行動研究室》

《集合写真 二十枚》

《依頼者 岡崎》

真壁の指が止まった。

「岡崎」

写真のプレート。

《……崎》

一致する。

「下の名前は?」

野村が訊いた。

帳簿には記されていなかった。

しかし、備考欄に一つの記述があった。

《本人受取不可。代理人・高瀬》

真壁は息を止めた。

高瀬浩二。

十六年前から、写真に関わっていた。

「店主さん」

「はい」

「高瀬という人を覚えていますか」

男性は少し考えた。

「眼鏡をかけた、細い人でしたか」

「そうです」

「ああ、覚えています」

「なぜ」

「何度も来ましたから」

「写真の現像で?」

「ええ」

男性は懐かしそうに笑った。

「ただ、あの人は変わった注文をするんです」

「どんな」

「同じ写真を二種類作ってくれ、と」

真壁の目が細くなった。

「二種類?」

「一つは普通に。もう一つは、少し切り取って」

「何を切り取るんです」

男性は写真を見た。

「人です」

沈黙。

「写っている人を、最初からいなかったようにしてほしいと」

野村が顔を上げた。

「実際に加工したんですか」

「当時でも、デジタルならできました。でも私は断りました」

「なぜ」

「写真屋ですから」

男性は静かに答えた。

「人を消す仕事はしたくなかった」

真壁は、初めて少しだけ救われた気がした。

十六年間、記録を作り替える人間ばかり追ってきた。

だが、記録を変えなかった人間もいた。

「原本は残っていますか」

男性は頷いた。

「昔のデータを保存した外付けディスクがあります」

真壁と野村は顔を見合わせた。

ようやく。

誰かが用意した証拠ではなく、別の経路から残った記録にたどり着いた。

三 四人目

古い写真データは、全部で六枚あった。

同じ日の撮影。

研究所の玄関。

研究室。

廊下。

集合写真。

そして、問題の写真。

真壁と野村真紀が並んだ一枚。

しかし原本は、二人だけではなかった。

真壁は画面を見つめた。

「四人いる」

野村が呟いた。

写真の右側。

切り取られていた部分。

そこに、もう一人の女性が立っていた。

四十代。

白い上着。

短い髪。

真壁は知らない顔だった。

野村も首を振った。

「母じゃありません」

「そうだな」

「叔母でもない」

真壁は女性の胸元を見る。

名札。

《岡崎》

「写真の依頼者か」

野村が言った。

真壁は頷いた。

その女性の隣。

ガラス戸に映る黒いバンドの男。

そして写真の中央。

真壁。

野村真紀。

四人。

少なくとも、撮影現場には四人がいた。

「名前を調べよう」

真壁が言った。

写真店主が保存していた別の画像。

研究室の集合写真。

十人ほどの男女。

その中に、岡崎という女性がいた。

写真の下には全員の名前が印字されていた。

《岡崎玲子》

真壁は声に出した。

「岡崎玲子」

野村が検索する。

二〇一〇年。

京都認知行動研究室。

研究管理責任者。

岡崎玲子。

一九六四年生まれ。

専門は心理統計。

二〇一〇年六月十八日死亡。

真壁の表情が変わった。

「六月十八日?」

「はい」

「俺が倒れた日だ」

野村が頷いた。

「同じ日です」

「死因は」

「転落事故」

「場所」

「研究所の三階」

真壁は写真を見た。

岡崎玲子。

死亡。

六月十八日。

そして高瀬の言葉。

《本当の管理者は、死者の中にいる》

「見つけたかもしれない」

真壁が呟いた。

だが野村は首を振った。

「待ってください」

「何だ」

「死亡記録だけでは、また同じです」

真壁は野村を見る。

そして笑った。

「その通りだ」

二人は写真店主へ礼を言い、店を出た。

夕方の京都は、薄い雲に覆われていた。

真壁は空を見上げた。

十六年前の六月十八日。

自分が倒れた日。

岡崎玲子が死んだ日。

偶然なのか。

それとも、同じ出来事の二つの結果なのか。

四 六月十八日の転落

京都府警の協力を得て、岡崎玲子の死亡事件を調べた。

当時の捜査資料。

研究所三階。

非常階段。

午前十時四十六分。

岡崎玲子が転落。

搬送先で死亡確認。

目撃者なし。

事件性を示す証拠なし。

事故として処理。

「不自然ですね」

野村が言った。

「何が」

「研究管理責任者が死亡しているのに、研究所はその後も続いている」

「責任者が代われば続く」

「でも、死亡翌日に新しい責任者が就任しています」

「誰だ」

野村は資料を見た。

「秋月浩平」

真壁は目を閉じた。

秋月。

また秋月。

「秋月は知ってた」

「何をです」

「岡崎の死を」

「当然でしょう」

「そうじゃない」

真壁は言った。

「俺が倒れた理由も、知っていたはずだ」

野村は黙った。

真壁は資料を読み進めた。

岡崎の死亡現場には、一つの遺留品があった。

黒い革の手帳。

中には研究記録。

最後のページ。

《M-17》

《観測終了》

《対象者の同意撤回》

真壁の指が止まった。

「同意撤回?」

野村が覗き込む。

「真壁さんのことですか」

「おそらく」

次の行。

《六月十八日午前九時三十分》

《対象M、全記録の廃棄を要求》

「俺が研究をやめさせようとした」

真壁が言った。

さらに。

《管理責任者、拒否》

《対象M、警察への通報を予告》

そして最後。

《記録保全のため、第三者へ複製を移送》

真壁は眉を寄せた。

「第三者?」

野村が訊いた。

「誰でしょう」

「わからん」

その下には、文字が一つだけあった。

《K》

葛城か。

神谷か。

高瀬か。

真壁は考えた。

どれも可能性がある。

だが、ここで決めてはいけない。

「六月十八日の朝、俺は岡崎と会っている」

「はい」

「研究をやめるよう要求した」

「はい」

「そのあと岡崎が転落した」

野村が真壁を見る。

「真壁さん」

「ああ」

「まさか」

真壁は首を振った。

「まだ何もわからん」

だが胸の奥に、重いものが沈んでいった。

自分が岡崎を殺した可能性。

それを隠すために記憶を封印した可能性。

誰かがそう思わせようとしている可能性。

どれも捨てられない。

真壁は資料を閉じた。

「現場へ行こう」

五 封鎖された階段

京都認知行動研究室。

三階。

非常階段。

真壁と野村は、管理会社の立ち会いのもとで現場を確認した。

十六年前の転落場所。

金属製の手すり。

コンクリートの踊り場。

現在は立入禁止になっている。

「ここから落ちた」

野村が言った。

真壁は手すりを見る。

高さ。

位置。

階段の幅。

「事故だった可能性はある」

「はい」

「だが誰かと争った可能性もある」

「そうですね」

「当時の鑑識記録は」

「争った痕跡なし」

「それだけでは決められない」

真壁は階段の壁を見る。

古い塗装。

剥がれた部分。

小さな金属板。

《管理用配線》

野村が言った。

「何かありますか」

「いや」

真壁は階段を下りた。

二階。

一階。

そして地下。

小さな倉庫。

管理会社の担当者が言った。

「ここは昔、機械室だったようです」

真壁が訊いた。

「何の機械です」

「防犯カメラの録画装置です」

真壁は立ち止まった。

「当時のものは?」

「撤去済みです」

「いつ」

「二〇二二年です」

野村が顔を上げた。

「四年前?」

「はい」

「撤去した会社は」

担当者が資料を確認する。

「東和ビジュアルラボ」

真壁は野村を見る。

高瀬の勤務先。

すべてがつながっている。

「撤去記録は残っていますか」

「あります」

担当者が書類を渡す。

作業日。

二〇二二年七月七日。

事件前日。

担当者。

高瀬浩二。

そして、作業内容。

《旧型録画装置回収》

《保管媒体一式廃棄》

真壁は紙を見つめた。

「廃棄したのか」

野村が言った。

「そう書いてあります」

「高瀬は本当に捨てたと思うか」

野村は首を振った。

「わかりません」

真壁は頷いた。

「俺もだ」

そのとき、野村の携帯電話が鳴った。

岸田だった。

『真壁は一緒か』

「はい」

『代わってくれ』

真壁が電話を受け取る。

「真壁です」

『高瀬の司法解剖の速報が出た』

「死因は」

『急性の循環不全だ』

「原因は」

『まだ特定できていない』

「外傷は」

『目立ったものはない』

真壁は黙った。

岸田が続ける。

『それより、妙なことがある』

「何です」

『高瀬の衣服から、小さな紙片が出てきた』

「何が書いてある」

『住所だ』

「どこ」

『京都市内』

真壁の目が細くなる。

「建物名は」

岸田が答えた。

『京都認知行動研究室』

真壁は息を止めた。

今、自分たちがいる場所。

『それと、もう一つ』

「何です」

『地下倉庫』

真壁はゆっくり周囲を見た。

地下倉庫。

まさに今いる。

『真壁』

「はい」

『紙にはこう書いてある』

岸田は読み上げた。

《廃棄記録を信じるな》

真壁は目を閉じた。

高瀬。

最後まで、何かを残そうとしていた。

「岸田さん」

『何だ』

「この建物の地下にいます」

『何?』

「高瀬が示した場所です」

電話の向こうで沈黙。

『すぐ応援を送る』

「お願いします」

真壁は電話を切った。

野村が訊いた。

「どうします」

真壁は倉庫の奥を見た。

「探す」

六 壁の向こう

倉庫には古い棚が並んでいた。

段ボール。

使われなくなった事務機器。

壊れた椅子。

真壁は壁を見た。

一部分だけ、塗装の色が違う。

「野村」

「はい」

「ここを見ろ」

野村が近づく。

「新しいですね」

「ほかよりな」

壁を軽く叩く。

鈍い音。

少し横。

乾いた音。

「空洞?」

野村が言った。

真壁は頷いた。

「可能性がある」

管理会社へ確認し、応援が到着するのを待った。

建物の図面を取り寄せる。

地下倉庫。

奥に小さな機械スペース。

しかし現在の壁の位置とは合わない。

「ここに空間があります」

野村が図面を指した。

真壁は頷いた。

「塞がれてる」

管理会社の許可を得て、専門業者が壁面の一部を調査した。

薄い化粧板。

その奥に扉。

錆びた金属製。

鍵穴。

扉の上には古いプレート。

《記録保管室》

真壁は息を吐いた。

「十六年前の記録か」

鍵はなかった。

業者が慎重に開ける。

中は狭い。

三畳ほど。

棚。

古い録画機器。

箱。

そして、金属製のキャビネット。

野村が言った。

「残ってたんですね」

真壁は首を振った。

「まだ中身を見てない」

鑑識担当者が写真を撮る。

指紋。

封印状態。

記録。

その後、キャビネットが開けられた。

中には、

ビデオテープが十七本。

野村が真壁を見る。

「十七……」

真壁は苦笑した。

「今回は本当に十七本あるな」

一本ずつ番号。

001。

002。

003。

そして。

017。

真壁は最後のテープを見る。

ラベル。

《20100618》

その下。

《M-17》

さらに、

赤い文字。

《最終観測》

真壁は何も言わなかった。

十六年前。

自分が忘れた一日。

その記録が、ようやく目の前に現れた。

七 最終観測

映像の確認は、京都府警の設備を借りて行われた。

原本の状態を保全し、複製を作成する。

映像の改変がないと確認できたわけではない。

だが少なくとも、保管室に残されていた媒体そのものは古かった。

真壁と野村は、解析担当者と一緒に画面を見る。

日付。

二〇一〇年六月十八日。

午前九時二十七分。

研究室。

真壁修司。

野村真紀。

岡崎玲子。

三人。

真壁は画面へ近づいた。

十六年前の自分。

真紀。

そして岡崎。

映像の真壁が言う。

『もう終わりにしてください』

岡崎。

『何をですか』

『研究です』

『なぜ』

『人間を壊している』

岡崎は黙った。

真紀が言う。

『私も同じ意見です』

岡崎は真紀を見る。

『あなたが始めた研究でしょう』

『だから止めたいんです』

岡崎が笑った。

『止められると思いますか』

真壁。

『警察へ届けます』

岡崎は首を振る。

『何の罪で?』

『子どもを無断で実験に使った』

『母親が同意しています』

真紀が顔を伏せる。

岡崎が続ける。

『映像もあります』

『同意書もあります』

『研究倫理審査の書類も』

真壁は机を叩いた。

『書類があれば何をしてもいいのか』

岡崎は答えなかった。

そのとき。

映像の奥で扉が開いた。

男が入ってくる。

背広。

白いシャツ。

左手首。

黒いバンド。

真壁の呼吸が止まった。

男はカメラに背を向けている。

顔は見えない。

岡崎が言った。

『遅かったですね』

男は答えた。

『すみません』

声。

低い。

落ち着いている。

真壁は聞き覚えがあった。

しかし思い出せない。

岡崎が男へ書類を渡す。

『対象Mが中止を求めています』

男が真壁を見る。

『そうですか』

真壁が言った。

『あんたは誰だ』

男は答えた。

『管理を担当しています』

『名前は』

『名前が必要ですか』

真壁の背筋が冷たくなった。

同じ言葉。

四年後。

水島と名乗った男。

だが声は違う。

男は続けた。

『研究を中止するかどうかは、私が決めることではありません』

真壁。

『誰が決める』

男。

『あなたです』

真壁の顔が変わる。

『俺?』

『はい』

男は書類を差し出した。

『最初の同意書をご覧ください』

真壁が読む。

しばらくして、

表情が変わる。

『何だ、これは』

男。

『あなたの署名です』

『違う』

『筆跡を確認しますか』

『そんなことじゃない』

真壁が書類を叩く。

『俺は、こんな条件に同意していない』

男は静かに言った。

『ですが、記録があります』

真壁は画面を見つめた。

十六年前から、

同じ言葉で追い詰められていた。

八 落ちた女

映像。

午前九時四十二分。

岡崎玲子が立ち上がった。

『もう結構です』

真壁が言う。

『どこへ行く』

『外です』

『話は終わってない』

岡崎は答えなかった。

部屋を出る。

真壁も追う。

カメラが切り替わる。

廊下。

非常階段。

岡崎が早足で歩いている。

後ろから真壁。

『待ってください』

岡崎は振り向く。

『何ですか』

『同意書の原本を見せてください』

『今はありません』

『どこにある』

『管理者が持っています』

真壁は近づく。

『あの男か』

『違います』

『じゃあ誰だ』

岡崎が答えようとした。

その瞬間。

非常階段の扉が開いた。

もう一人。

男。

画面には背中しか映らない。

岡崎の顔が変わる。

『どうしてここに』

男は答えない。

真壁が言う。

『誰だ』

男は岡崎へ近づく。

岡崎が一歩下がる。

手すり。

『来ないで』

真壁が動く。

『危ない!』

映像が揺れる。

岡崎の体が傾く。

真壁が腕を伸ばす。

指先。

届かない。

岡崎が階段の向こうへ消える。

画面の外。

鈍い音。

真壁は動けなくなった。

野村が小さく言った。

「事故……」

真壁は答えなかった。

映像の中で、真壁が叫んでいる。

『救急車!』

男が立っている。

動かない。

真壁が振り向く。

『何をしてる!』

男は答えない。

『お前が押したのか!』

沈黙。

男はゆっくり首を振った。

そして言った。

『記録には、そう残りません』

真壁の顔から血の気が引いた。

映像が終わった。

午前九時四十六分。

岡崎玲子が転落した時刻。

真壁は椅子に座ったまま動かなかった。

十六年前。

自分は人が落ちる瞬間を見ていた。

しかし、

その記憶がない。

「真壁さん」

野村が言った。

「大丈夫ですか」

「大丈夫だ」

声がかすれていた。

「でも」

「俺は押していない」

真壁は言った。

「少なくとも、この映像では」

野村が頷いた。

「はい」

「だが、あの男が何をしたかも映っていない」

「はい」

「だから結論は出せない」

野村は真壁を見る。

その目には、少しだけ安堵があった。

真壁はまだ、

自分に都合のいい結論を選んでいなかった。

九 十六年前の声

解析担当者が言った。

「続きがあります」

真壁が顔を上げる。

「何?」

「映像はここで終わっていますが、別の音声トラックが残っています」

「再生してくれ」

ノイズ。

足音。

真壁の声。

『救急車を呼べ!』

別の男。

『もう呼んであります』

真壁。

『何?』

男。

『予定通りです』

真壁は息を止めた。

『予定?』

男。

『観測を終了します』

真壁。

『人が死んだんだぞ!』

男は答えた。

『それも記録です』

真壁は机に拳を置いた。

十六年前の自分も、同じように怒っていた。

『ふざけるな!』

男。

『真壁さん』

『何だ!』

『あなたは今、何を見ましたか』

真壁。

『岡崎さんが落ちた』

『誰かが押しましたか』

『わからない』

『あなたが押しましたか』

『違う!』

『では、なぜ岡崎さんは落ちたのですか』

沈黙。

男が続ける。

『あなたは目撃者です』

『……』

『しかし、原因はわからない』

『……』

『その空白を、人間は何で埋めると思いますか』

真壁は目を閉じた。

記録。

推測。

物語。

十六年前から同じだった。

男が言った。

『あなたなら、正しく判断できると思っていました』

真壁。

『何を』

『空白です』

そして、

最後の一言。

『あなたが見ていないものを、見たことにしないでください』

音声が止まった。

野村が言った。

「変ですね」

「何が」

「この男、真壁さんを追い詰めているようで」

「……」

「最後は助言している」

真壁は頷いた。

「俺もそう思った」

男は何者なのか。

観測を管理していた人間。

それとも、観測を止めようとしていた人間。

真壁は音声をもう一度聞いた。

低い声。

抑揚。

語尾。

どこかで聞いた。

そして、ある瞬間。

記憶が戻った。

二〇一八年。

神谷直人の失踪事件。

雨の夜。

車内。

神谷が言った。

『記録も記憶も、どちらも信じないでください』

その声ではない。

だが、

神谷の隣にいた男。

あの男の声だった。

真壁は立ち上がった。

「野村」

「はい」

「神谷の二〇一八年の写真を全部出せ」

「今ですか」

「今だ」

野村がパソコンを操作する。

神谷直人。

重要参考人。

事情聴取。

ホテル。

監視カメラ。

そして、一枚。

二〇一八年十一月二十六日。

神谷が男と並んで歩いている。

男の顔は半分しか見えない。

だが真壁はわかった。

「こいつだ」

野村が顔を上げる。

「誰です」

真壁は画面を指した。

「十六年前、岡崎が転落した現場にいた男だ」

野村は写真を見る。

「名前は」

真壁は答えた。

「石倉雅人」

野村が動きを止めた。

石倉雅人。

葛城慎一の後輩。

二〇二二年七月七日。

京都の交通事故で死亡した男。

そして、

その遺体を使って葛城の死亡記録が作られた人物。

「石倉が……」

野村が呟いた。

真壁は頷いた。

「十六年前から関わっていた」

「でも石倉は二〇二二年に死んでいます」

「そうだ」

「なら本当の管理者は」

真壁は答えなかった。

高瀬の最後の言葉。

《本当の管理者は、死者の中にいる》

それは、

岡崎玲子のことではなかったのかもしれない。

石倉雅人。

四年前に死んだ男。

十六年前から記録を管理していた男。

そして、

葛城の死亡記録に利用された男。

「遺体を確認したのは誰だ」

真壁が訊いた。

野村は資料を開いた。

「石倉本人としての確認は、されていません」

「何?」

「事故の遺体は葛城慎一として処理されています」

真壁の表情が変わった。

「じゃあ」

「石倉雅人が死んだという独立した確認はありません」

真壁は椅子に座った。

四年前。

事故。

遺体。

葛城の偽の死亡記録。

自分が身元確認したことになっていた書類。

すべてが偽造されていた。

そして、

石倉が本当に死んだという証拠もない。

「野村」

「はい」

「石倉は生きているかもしれん」

野村は頷いた。

「はい」

「なら探す」

そのとき。

真壁の携帯電話が鳴った。

非通知。

画面には短いメッセージ。

《石倉雅人を探す必要はありません》

真壁は動きを止めた。

次。

《彼は、あなたたちのすぐ近くにいます》

野村が画面を見る。

「また監視されてる」

真壁は周囲を見回した。

解析室。

刑事。

職員。

警察官。

誰もが普通に仕事をしている。

真壁は言った。

「もう驚かん」

次のメッセージ。

写真。

現在の奈良県警。

廊下。

一人の男。

背広。

左手首に黒いバンド。

顔は見えない。

その男が、

岸田の執務室へ入っていく。

真壁は電話をかけた。

岸田。

呼び出し音。

一回。

二回。

三回。

出ない。

真壁の顔が変わった。

「野村、奈良へ戻るぞ」

「はい」

真壁は走り出した。

十六年前。

二〇一〇年六月十八日。

岡崎玲子が転落した日。

自分が記憶を封印した日。

そこにいた男。

石倉雅人。

その男が、

四年の空白を越えて、

再び警察内部へ現れた。

そして真壁はまだ知らなかった。

石倉が岸田の執務室へ入った理由を。

それは、

岸田を殺すためではなかった。

十六年前の記録を、

真壁修司へ返すためだった。

ただし、

その記録には、

真壁自身が書いた、

一枚の告白書が含まれていた。

題名。

《岡崎玲子死亡事件について》

その下に、

真壁修司の署名。

そして本文の第一行。

《岡崎玲子を死なせたのは、私です。》

(第十四章に続く)

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