上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第三十二章

目次

第三十二章 立った者の責

 再起館の門が開いたのは、朝日が神田の屋根を照らし始めた頃であった。

 新之介は一睡もしていない。

 戸田家の騒動を収め、捕らえた者を町方へ引き渡し、三宅主膳の治療を見届けてから屋敷を辞した。

 着物には煤と血が残っている。

 肩の古傷は、脈打つように痛んでいた。

 それでも足は自然と再起館へ向かった。

 戻る場所を守れ。

 自分で弟子たちへ言った言葉である。

 ならば後見役である自分も、戻らねばならない。

 門をくぐると、板の間には朝の冷たい空気が満ちていた。

 弟子たちはまだ稽古着のまま座っている。

 誰も帰らなかったらしい。

 辰蔵は壁にもたれて眠り、兵馬は木刀を抱えたまま目を閉じている。

 清太郎は帳面の上へ突っ伏し、お園は宗次郎のために使った布を畳んでいた。

 吉松だけが起きていた。

 道場の隅で、雑巾を握っている。

「お帰りなさい」

「寝なかったのか」

「寝ました」

「目が赤い」

「少しだけ起きていました」

 新之介は板の間を見た。

 宗次郎が拭き残した場所。

 薄く埃の筋があったはずの一角が、今はきれいになっている。

「拭いたのか」

 吉松は首を振った。

「片桐さんです」

「起きたのか」

「はい」

 吉松は奥座敷を指した。

「医者に止められたのに、這ってきました」

「止めなかったのか」

「止めました」

「ではなぜ」

「片桐さんだから」

 それで分かる気がした。

 新之介は奥座敷へ向かった。

 ◇

 宗次郎は布団の上に座っていた。

 左肩から胸にかけて厚く布が巻かれている。

 顔色は白く、唇にも血の気がない。

 だが目は開いていた。

 枕元には父の形見の刀。

 その隣には、折り畳まれた雑巾が置かれている。

「馬鹿者」

 新之介は座るなり言った。

「戻った者への最初の言葉がそれか」

「傷を開いて床を拭く者を、ほかに何と呼ぶ」

「拭き残しを自分で拭けと申したのは、そなただ」

「吉松に伝えただけだ」

「聞いた」

「今すぐ寝ろ」

「寝ている」

「座っている」

「戸田様のようなことを申すな」

 新之介は思わず笑いそうになった。

 宗次郎もわずかに口元を緩めたが、すぐ傷が痛んだのか顔をしかめた。

「御救い米は」

「無事だ」

「陣内は」

「自ら縄を受けた」

 宗次郎は目を閉じた。

「そうか」

「三河屋も捕えた」

「黒装束は」

「一部を捕縛した。その口から、戸田家の家老が関わっていたことも分かった」

「やはり」

 宗次郎は枕元の刀へ目を向けた。

「その黒鞘を奪った時、戸田家の者だとは思った」

「どうやって奪った」

「荒れ寺で襲われた後、陣内たちとはぐれた」

 宗次郎は途切れ途切れに話し始めた。

 真誠組の浪人たちを襲った黒装束は、口封じのために現れた。

 本堂での戦いの最中、宗次郎は裏手へ逃げた。

 だが逃げ道にも二人いた。

 一人を斬り、もう一人と組み合った。

 その男が黒鞘の刀を帯びていた。

「斬ったのか」

「斬った」

 宗次郎は目を逸らさない。

「殺したかは分からぬ」

「なぜ刀を持ち帰った」

「柄に紙を隠すところを見た」

 男は傷を負いながら、柄を外して密書を収めようとしていた。

 宗次郎は刀を奪った。

 だが、その直後に別の黒装束から肩を斬られた。

「逃げながら、紙を確かめたのか」

「目釘を外す余裕はなかった」

「では、なぜ柄にあると吉松へ」

「奪った男が申した」

「何と」

「これを三宅様へ届けねば、家族が死ぬ、と」

 新之介は黙った。

 沢井新八も家族を人質に取られていた。

 黒装束の者たちも、すべてが金だけで動いていたわけではない。

 誰かを守るため、別の誰かを傷つける。

 その連なりが、江戸の闇を深くする。

「その後、どうした」

「陣内に会った」

「どこで」

「浅草寺の裏だ」

 陣内も傷を負いながら逃げていた。

 二人はそこで、三番蔵の本当の狙いを知った。

 御救い米を燃やす。

 陣内は信じなかった。

 自分たちは札差の証文を焼くのだと主張した。

「それで別れたのか」

「いや」

 宗次郎は首を振った。

「陣内は確かめるため、三番蔵へ向かった。私は再起館へ戻った」

「なぜ一緒に行かなかった」

「行けば、また同じ側へ戻る気がした」

 新之介は宗次郎を見た。

「逃げたのか」

「ああ」

 宗次郎は即座に認めた。

「だが、今度の逃げは恥じていない」

「なぜ」

「戻る場所を選んだからだ」

 その言葉に、新之介はしばらく答えられなかった。

 玄斎の教え。

 倒れた後に、どこへ戻るか。

 宗次郎は自分で選んだ。

 それでも罪は残る。

 押し借りで得た米を受け取ったこと。

 真誠組の企てを知りながら、すぐには町方へ知らせなかったこと。

 荒れ寺で人を斬ったこと。

 立ったからといって、倒れていた間に踏みつけたものが消えるわけではない。

「片桐」

「何だ」

「そなたは町方の詮議を受ける」

「分かっている」

「真誠組との関わりも話してもらう」

「話す」

「押し借りで得た米を食ったこともだ」

「それも話す」

 宗次郎は父の刀へ手を置いた。

「逃げぬ」

「よい」

「ただし」

「何だ」

「母には、私から話したい」

 新之介は頷いた。

「傷が塞がってからだ」

「それまで縄を待ってもらえるか」

「私に決める権はない」

「そうか」

「源太郎へ頼むことはできる」

「十分だ」

 宗次郎は横になろうとした。

 だが片腕が使えず、身体を支えられない。

 新之介が背へ手を添えた。

「手を貸すのか」

「今は自分で立つ場面ではない」

「勝手だな」

「後見役だからな」

 宗次郎は布団へ身体を沈めた。

 目を閉じる前に、低く言った。

「榊原」

「何だ」

「戻ってきたのは、刀を置いた場所があったからだ」

 新之介は答えなかった。

 宗次郎も返事を求めず、静かに目を閉じた。

 ◇

 道場へ戻ると、玄斎が縁側に座っていた。

 いつの間に戻ったのか。

 木刀を膝へ置き、朝日に照らされた庭を眺めている。

「先生」

「話は終わったか」

「聞いておられたのですか」

「声が大きい」

「宗次郎は戻りました」

「見れば分かる」

「ですが、これから町方の詮議を受けます」

「当然だ」

「再起館へ置いてよいのでしょうか」

 玄斎は新之介を見た。

「なぜ迷う」

「罪を犯した者を弟子として扱えば、道場の名が傷つきます」

「名を守りたいか」

「守るべきでしょう」

「何のために」

 新之介はすぐには答えられなかった。

 再起館。

 倒れた者が、もう一度立つための場所。

 ならば罪を犯していない者だけを入れるのは矛盾している。

 だが、罪を曖昧にすれば、ただの逃げ場所になる。

「罪を隠させず、立ち直らせたい」

「ならばそうせよ」

「簡単に申されますね」

「難しく申しても、することは同じだ」

 玄斎は木刀を持ち上げた。

「斬った者には、斬った責がある。盗った者には返す責がある。嘘をついた者には、真を話す責がある」

「はい」

「立ち上がるとは、元の場所へ戻ることではない」

「では」

「倒れた時に壊したものを見て、その先へ進むことだ」

 新之介は宗次郎へ伝えようと思っていた言葉を思い出した。

 倒れた後に立つだけでは足りない。

 立った者は、自分が倒したものにも目を向けねばならない。

「先生」

「何だ」

「同じことを考えておりました」

「ならば、お前の考えが間違っているかもしれぬ」

「なぜです」

「師と弟子が同時に同じことを考えるのは危うい」

 玄斎は真顔だった。

 新之介は一瞬考え、やがて笑った。

「では、真崎殿にも聞きます」

「それがよい」

 ◇

 朝餉の後、再起館では全員が集められた。

 新之介は三番蔵と戸田家で起きたことを説明した。

 御救い米が無事だったこと。

 三河屋が米価を上げるため、真誠組を利用したこと。

 戸田家家老・三宅主膳が借財を隠し、主君を殺そうとしたこと。

 その背後に廻船問屋・相模屋の名が出たこと。

 そして、宗次郎が町方の詮議を受けること。

 吉松が真っ先に立ち上がった。

「片桐さんは、御救い米を守ったんでしょう」

「知らせを持ち帰った」

「なら、罪は消えるんじゃ」

「消えぬ」

 新之介ははっきり答えた。

「なぜです」

「後でよいことをしたからといって、前の悪いことがなくなるわけではない」

「でも」

「吉松」

 新之介は少年を見た。

「そなたが店の魚を一尾盗み、その後で二尾分働いたら、盗みはなかったことになるか」

「ならないけど……親父なら許すかも」

「許すことと、なかったことにするのは違う」

 吉松は黙った。

 清太郎が手を上げた。

「盗った米を返せばよいのですか」

「返すだけで済むかは、裁く者が決める」

「では再起館では」

 真崎が問う。

 新之介は一同を見回した。

「宗次郎を門から追い出すつもりはない」

 兵馬が眉を寄せる。

「罪人を弟子として置くのですか」

「詮議を受け、処分が決まり、それでも本人が戻るなら」

「道場の名が汚れます」

 新之介が先ほど抱いた迷いを、兵馬はそのまま口にした。

「そうかもしれぬ」

「それでもですか」

「再起館は、傷のない者のためだけに作ったのではない」

 兵馬は納得していない顔だった。

「では、どんな罪人でも」

「違う」

 新之介は首を振った。

「罪を隠す者、繰り返す者、他人へ押しつける者は置けぬ」

「宗次郎殿は違うと」

「それをこれから確かめる」

 お園が口を開いた。

「私たちも確かめるのですか」

「ああ」

「なぜです」

「同じ場所で学ぶからだ」

 新之介は板の間を指した。

「宗次郎が戻れば、そなたたちの隣へ座る。その者を受け入れるかどうか、私一人では決めぬ」

 道場が静かになる。

 玄斎は何も言わない。

 真崎も口を挟まない。

 弟子たちは、それぞれ考えていた。

 最初に辰蔵が言った。

「私は構いません」

「理由は」

「火事場では、昨日どこの組だったかより、今水を運ぶかを見る」

 清太郎も続く。

「私は帳面を見たいです」

「何の」

「片桐様が受け取った米と、返すべきものです」

 吉松が言う。

「俺も働きます」

「そなたの罪ではない」

「片桐さんに握り飯をもらったから」

「それは返すと言っていただろう」

「だから別です」

 兵馬はまだ黙っている。

 新之介が問う。

「兵馬」

「私は……」

 旗本の次男である兵馬は、家名や武士の面目を重く考える。

 宗次郎のような浪人を、以前は見下していた。

「罪人と並んで学ぶことには、抵抗があります」

「正直でよい」

「ですが」

 兵馬は宗次郎のいる奥座敷を見た。

「御救い米が焼けていれば、我が家の下男たちも困ったでしょう」

「そうだな」

「それを知らせたことまで、罪人だからと見ぬふりをするのも違うと思います」

「では」

「戻るなら、私が見ます」

 新之介は小さく頷いた。

 最後に志乃が言った。

「許すかどうかを急ぐ必要はないと思います」

「なぜです」

 吉松が問う。

「許すことを、早く決めすぎると、許した自分に満足してしまいます」

 志乃は静かに続けた。

「片桐様が何をしたのか。誰が傷ついたのか。何を返せるのか。長く見てからでも遅くはありません」

 新之介は、大久保家の罪を背負う志乃だからこそ出る言葉だと思った。

 玄斎が木刀で床を一度叩いた。

「決まったな」

「何がです」

 真崎が問う。

「今日の稽古だ」

「今からですか」

「考えた後は体を動かせ。頭だけ使うと、人は己が立派になったと錯覚する」

 弟子たちが立ち上がる。

 新之介も木刀を取ろうとした。

 玄斎が止める。

「お前は寝ろ」

「私は後見役です」

「寝不足の後見役は、弟子を怪我させる」

「先生も寝ておられないでしょう」

「わしは師範だ」

「理由になりません」

「年寄りは寝たふりが上手い」

 新之介は追い出されるように奥へ向かった。

 ◇

 昼過ぎ。

 新之介が短い眠りから目を覚ますと、源太郎が来ていた。

 宗次郎の詮議について話すためである。

「医師が動かしてよいと申すまで、ここで見張ります」

「縄は」

「打ちません」

「よいのか」

「逃げられる傷ではありません」

 源太郎は苦笑した。

「それに、再起館から逃げれば、吉松に捕まりそうです」

「それはあり得る」

「笠原陣内は、すべて話し始めました」

「三河屋との関わりも」

「はい。ただし陣内は、三河屋仁右衛門本人とは会っていません」

「誰が間に立った」

「相模屋の番頭を名乗る男です」

 新之介の表情が変わる。

「名は」

「佐野屋清兵衛」

「相模屋の番頭ではないのか」

「相模屋にその名の者はいません」

「偽名か」

「おそらく」

 源太郎は一枚の人相書きを出した。

 陣内の話をもとに描かせたものだ。

 年は四十ほど。

 左目の下に小さなほくろ。

 痩せた顔。

 髷の結い方は町人風。

 だが立ち居振る舞いには武家の癖があったという。

「相模屋そのものが背後とは限りません」

「名を使われた可能性もある」

「はい」

 新之介は戸田家で得た支払い覚えを思い出した。

 黒装束への金の受取先。

 相模屋。

 だが、それも偽装かもしれない。

「また名義か」

「金を動かす者は、名を着替えます」

 源太郎は言った。

「人は顔を変えにくいですが、屋号は変えられる」

「相模屋を改められるか」

「表向きの証は薄いです。三河屋から支払い覚えが出ましたが、相模屋は知らぬと言うでしょう」

「実際、知らぬかもしれぬ」

「ええ」

「ならば人相書きの男を捜す」

「すでに手配しました」

 源太郎は少し迷うように言葉を止めた。

「もう一つございます」

「何だ」

「片桐宗次郎の父が斬った浪人についてです」

 新之介は身を起こした。

「分かったのか」

「近江屋の古い帳面を追いました」

 近江屋。

 宗次郎の父へ借財の減免と引き換えに、人斬りを命じた札差。

「十二年前、近江屋から多額の金が渡った先があります」

「誰へ」

「相模屋です」

 再び同じ名。

 源太郎は続ける。

「そして斬られた浪人は、相模屋の廻船が運ぶ米の抜け荷を調べていた可能性があります」

「抜け荷」

「幕府へ届け出ず、別口で米を売ることです。飢饉や米不足の折なら、莫大な利になります」

 御救い米を焼き、米価を上げる。

 十二年前には、抜け荷を調べた浪人を斬らせる。

 もし同じ者たちが動いているなら、今回の企ては急に始まったものではない。

「斬られた浪人の名は」

「真崎玄十郎」

 新之介は息を呑んだ。

「真崎半九郎の父か」

「はい」

 鷹見塾の末席で、剣より筆を得意とした男。

 三年前に亡くなったと半九郎は言っていた。

 だが十二年前に斬られていたなら、話が合わない。

「死んだのではなかったのか」

「近江屋の帳面には、斬るよう命じた記録があるだけです。実際に死んだかは分かりません」

「宗次郎の父は、人を斬ったと悔いていた」

「斬ったが、殺しきれなかった可能性もあります」

 新之介は道場の方を見た。

 真崎半九郎は、今も弟子たちへ算術を教えている。

 彼は父の死について何を知っているのか。

 なぜ三年前に亡くなったと話したのか。

 疑う。

 だが決めつけない。

「真崎殿を呼ぶ」

 ◇

 半九郎は人相書きと近江屋の記録を見ると、長く黙った。

 顔色は変わらない。

 だが帳面を持つ指先に力が入っている。

「父上は十二年前に斬られたのか」

「知っていたのか」

 新之介が問う。

「傷を負ったことは」

「誰に斬られたかは」

「知りません」

「なぜ三年前に亡くなったと申した」

「三年前に亡くなったからです」

 半九郎は新之介を見た。

「父は十二年前、深手を負って戻りました。右足が動かなくなり、筆を持つ右手にも震えが残った」

「斬られた理由を話さなかったのか」

「抜け荷を調べていたとは申していました」

「相模屋の名は」

「聞きました」

「なぜ今まで黙っていた」

 半九郎は帳面から目を離した。

「証がなかったからです」

「私たちは証のない疑いも追ってきた」

「だからです」

「何」

「榊原殿は鷹見塾の記録を追い、酒井丹波守や稲葉備中守と対した。その中で私が相模屋の名を出せば、父の恨みで動いていると思われる」

「実際、恨んでいるのか」

「恨んでいます」

 半九郎ははっきり答えた。

「父は十二年、満足に歩けませんでした。筆も持てず、己の役目を失ったと苦しみました」

「それでも道場を開いた」

「父が、最後に望んだからです」

「何を」

「斬った者を恨むな。斬らせた仕組みを見よ、と」

 新之介は黙った。

 真崎玄十郎もまた、鷹見静山の門人だった。

 人を斬った者ではなく、人を斬らせる金と仕組みを見た。

「片桐宗次郎の父が、父上を斬ったと知ったら」

 半九郎の目が揺れた。

「……今、知りました」

「宗次郎をどうする」

「どうする、とは」

「道場から追い出すか。恨むか」

 半九郎はすぐには答えなかった。

 板の間から玄斎の声が聞こえる。

 弟子たちへ足の運びを教えている。

 宗次郎は奥座敷で寝ている。

 同じ屋根の下に、斬った者の子と、斬られた者の子がいる。

「片桐殿の父君は、金のために父を斬った」

 半九郎は低く言った。

「だが、借財を減らすためだった」

「許せるか」

「今は分かりません」

「よい」

 新之介は頷いた。

「分からぬことを、急いで決めるな」

 半九郎は苦く笑った。

「玄斎先生のようなことを申されますな」

「弟子だからな」

「ただし、一つだけ決めています」

「何だ」

「片桐宗次郎本人へ、父のことを話します」

「傷が癒えてからか」

「いいえ」

 半九郎は首を振った。

「今日です」

「なぜ急ぐ」

「知らぬまま同じ板の間へ戻れば、後から知った時、欺かれたと思うでしょう」

 新之介は半九郎の顔を見た。

 怒りはある。

 恐れもある。

 それでも隠さず向き合おうとしている。

「私も同席する」

「お願いします」

 ◇

 宗次郎は話を聞き終えると、布団の上で動かなかった。

 半九郎は父・玄十郎が十二年前に斬られ、その傷を抱えて生きたことを語った。

 宗次郎の父が斬り手であった可能性。

 借財の減免と引き換えだったこと。

 近江屋を通じ、相模屋へ繋がる金の流れ。

 宗次郎は父の刀を見た。

「この刀で」

「おそらく」

 半九郎が答えた。

「父上は、斬られた相手が生きていたことを知らなかった」

「そうかもしれません」

「それで、死ぬまで悔いていた」

「はい」

 宗次郎は目を閉じた。

「そなたは私を恨むか」

 半九郎は答えに迷った。

「今は、分かりません」

「正直だな」

「許すと申せば、嘘になります」

「では、道場を出ろと申すか」

「それも分かりません」

 宗次郎は小さく笑った。

「皆、分からぬことばかりだ」

 新之介が言った。

「分からぬままでも、話すことはできる」

「榊原」

「何だ」

「父の罪は、私が負うのか」

「負えぬ」

「なぜ」

「父君の罪は父君のものだ」

「だが私は、その借財を受け継いだ」

「金は受け継いだ。罪は違う」

「ならば、何をすればよい」

 新之介は半九郎を見た。

 これは自分だけで答える問いではない。

 半九郎は静かに言った。

「父が調べていた抜け荷を、最後まで調べたい」

「私に手伝えと」

「傷が治り、町方の裁きを受け、それでもここへ戻れたなら」

 宗次郎は頷いた。

「やる」

「簡単に申すな」

「簡単ではない」

 宗次郎は父の刀へ手を伸ばした。

「父が人を斬った刀だ。売ろうと思っていた」

「今は」

「残す」

「なぜ」

「罪を忘れぬためではない」

「では」

「刀だけが父ではなかったと、自分へ言い聞かせるためだ」

 半九郎は宗次郎を見つめた。

 やがて深く頭を下げた。

 宗次郎も、動く右手だけで畳へ手をついた。

 二人の間で、何かが解けたわけではない。

 許しも和解もない。

 ただ、真実が隠されずに置かれた。

 それだけだった。

 だが再起とは、そうしたところから始まるのかもしれない。

 ◇

 夕刻。

 南町奉行所から使者が来た。

 相模屋の主人・相模屋長兵衛が、今朝から姿を消しているという。

 店には帳面が残されていたが、廻船三艘も同時に江戸湊を離れていた。

「行き先は」

 新之介が問う。

 使者は書付を差し出した。

「表向きは大坂でございます」

「実際は」

「一艘だけ、品川沖で進路を変えました」

「どこへ」

「木更津方面へ」

 江戸へ入る米は、海からも運ばれる。

 廻船に米を積んでいるなら、相模屋は抜け荷の証を船ごと隠すつもりかもしれない。

 あるいは、まだ別の企てがある。

 源太郎が言った。

「海へ逃げられれば、町方の手だけでは追えません」

「船を借りる」

「どこから」

 再起館の庭から声がした。

「舟なら、わしが出そう」

 見知らぬ老人が門に立っていた。

 日に焼けた顔。

 厚い手。

 船頭の装いである。

 真崎半九郎が立ち上がった。

「伊助殿」

 山寺から江戸へ戻る際、舟を出した船頭だった。

「なぜこちらへ」

「相模屋の船が妙な動きをしていると聞いてな」

「ご存じなのですか」

「知っているも何も、十二年前、玄十郎を川から拾ったのはわしだ」

 半九郎の顔が変わった。

「父を」

「ああ」

 伊助は新之介を見た。

「相模屋の船を追うなら急げ。あの船は大坂へは行かねえ」

「どこへ向かう」

 伊助の顔から笑みが消えた。

「品川沖の先で、米を海へ捨てるつもりだ」

「なぜ」

「御救い米が焼けなかったからよ」

 蔵の米を燃やせなかった。

 ならば江戸へ入る米を海へ捨て、供給を減らす。

 米価を上げる企ては、まだ終わっていない。

「どれほど積んでいる」

「千俵はある」

 千俵。

 すべてが御救い米ではない。

 だが江戸の米価を動かすには十分な量である。

「出られる舟は」

「一艘ある。速いが、小さい」

「何人乗れる」

「六人が限りだ」

 新之介は道場を見回した。

 玄斎。

 源太郎。

 半九郎。

 辰蔵。

 そして自分。

 あと一人。

「私も行く」

 志乃が言った。

「海へは連れて行けません」

「では、なぜ一人分を数えたのです」

「船を扱える者が必要です」

 吉松が手を上げる。

「魚屋です」

「魚を売る者だろう」

「舟にも乗ります」

「子どもはならぬ」

 辰蔵が言った。

「うちの組に、元船頭がいます」

「呼べるか」

「すぐに」

 新之介は頷いた。

 宗次郎が奥座敷から声を出した。

「榊原」

「寝ていろ」

「相模屋を捕えろ」

「そのつもりだ」

「殺すな」

 新之介は振り返った。

「なぜだ」

「父がなぜ人を斬ったのか、本人の口から聞きたい」

「相模屋が命じたとは限らぬ」

「だから確かめる」

 新之介は小さく頷いた。

「生きて連れ戻す」

「約束できるのか」

「できぬ」

「そうだったな」

 宗次郎は目を閉じた。

 ◇

 日が完全に沈む前、新之介たちは品川の船着き場へ向かった。

 伊助の舟は、細身で低い。

 沖を走るには心もとないが、追うには速いという。

 乗るのは新之介、源太郎、玄斎、半九郎、辰蔵、そして辰蔵が連れてきた元船頭の火消し・弥助。

「先生も行かれるのですか」

 新之介が問う。

「海の上では役に立たぬかもしれぬ」

「ならばお残りください」

「だから行く」

「なぜです」

「役に立たぬ時の己を知るためだ」

 玄斎は平然として舟へ乗った。

 伊助が舵を握る。

「風が変わる前に出るぞ」

 舟は岸を離れた。

 品川沖へ向かう。

 夕闇の海には、大小の船影が浮かんでいる。

 そのどれかに、相模屋長兵衛がいる。

 米千俵。

 十二年前の抜け荷。

 真崎玄十郎への襲撃。

 三河屋と三宅主膳を繋いだ金。

 すべての糸が、一艘の廻船へ向かっていた。

 新之介は遠ざかる江戸の灯を見た。

 再起館も、その灯の中にある。

 倒れた者が戻る場所。

 だが立ち上がった者は、そこに留まるだけでは済まない。

 己が倒したもの。

 親から受け継いだ傷。

 知らずに食った米。

 誰かの犠牲の上に立っていた暮らし。

 それらへ目を向け、始末をつけねばならない。

 海風が強くなった。

 伊助が前方を指す。

「あれだ」

 闇の中に、大きな廻船が見えた。

 帆を半ば畳み、沖へ向かっている。

 その船尾で、小さな灯が三度揺れた。

 合図。

 直後、廻船の側面から、米俵が一つ海へ落とされた。

 水柱が上がる。

 続いて二つ目。

 三つ目。

 米が海へ捨てられ始めた。

「急げ!」

 新之介が叫んだ。

 伊助が櫂を強く水へ入れる。

 小舟は闇の海を切った。

 陸では刀と帳面を巡る戦いだった。

 今度は海。

 足場は揺れ、逃げ場はない。

 そして守るべきものは、一俵ごとに海へ沈んでいる。

 新之介は刀の柄に手を置いた。

 刀は米を浮かせない。

 剣だけでは、何も守れない。

 それでも船へ乗り移るには、刃を抜かねばならぬ時が来る。

 廻船の甲板に、人影が並んだ。

 火縄の赤い光が見える。

「鉄砲だ!」

 源太郎が叫ぶ。

 闇を裂いて、最初の銃声が響いた。

(第三十三章へ続く)

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