上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第三十一章

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第三十一章 主君の薬

 亥の刻を告げる鐘が、遠くで鳴り始めていた。

 一つ。

 二つ。

 夜気を震わせる音を背に、新之介は戸田家上屋敷へ向かって走った。

 隣には笠原陣内がいる。

 腰に刀はない。

 真誠組の頭として御救い米を焼こうとした男が、今はその計画を裏から操った者を止めるために走っている。

 人は変わる。

 だが、変わったからといって過去の罪が消えるわけではない。

 新之介は陣内を許したのではなかった。

 ただ、今この瞬間、同じ方角へ走っているだけである。

「榊原」

 陣内が息を弾ませながら言った。

「本当に門から入るつもりか」

「そのつもりだ」

「三宅主膳が家中を押さえているなら、門番も奴の手の者だ」

「だから正面から入る」

「斬られるぞ」

「裏から入れば、賊になる」

「すでに御家騒動へ首を突っ込んでいる」

「だからこそ、筋を通す」

 陣内は呆れたように笑った。

「面倒な侍だ」

「よく言われる」

 屋敷の塀が見えてきた。

 門前の篝火は落とされていない。

 だが以前訪れた時とは違い、門番は四人に増えていた。

 全員が槍を持っている。

 新之介は歩みを緩めた。

 息を整える。

 懐には、三宅主膳から三河屋へ宛てた密書。

 腰には、戸田家の替紋を刻んだ黒鞘の刀。

 そして陣内は丸腰。

 戦うための姿ではない。

 だが門番たちの槍先は、二人を見るなりわずかに上がった。

「止まれ」

「榊原新之介。戸田備前守様へ急ぎの御用がある」

「殿はお休みである」

「命に関わる」

「明朝にせよ」

「明朝では遅い」

 新之介は黒鞘の刀を差し出した。

「沢井新八殿の刀だ。家老・三宅主膳の密命を受けた者から取り戻した」

 門番の一人が刀を見た。

 目が動く。

 知っている。

 だが男はすぐに表情を消した。

「そのような者は知らぬ」

「戸田家の家臣を知らぬ門番がいるか」

「帰られよ」

 槍が交差する。

 陣内が小声で言った。

「やはり斬るしかない」

「まだだ」

 新之介は門番を見据えた。

「小林伊織殿に取り次げ」

 四人のうち、最も年長の男が答えた。

「小林殿は御役目で外出中だ」

「捕えられているのではないか」

 一瞬。

 本当に一瞬だけ、男たちの呼吸が止まった。

 新之介は続ける。

「三宅主膳が下屋敷に捕えている。沢井新八殿から聞いた」

「でたらめを」

「三河屋仁右衛門も捕えた。御救い米を焼く企ても潰えた」

 門番の顔色が変わった。

 企ての失敗は、まだ屋敷へ届いていない。

「そして今宵、亥の刻。戸田様の薬が改められる」

「黙れ!」

 年長の門番が槍を突き出した。

 新之介は避けなかった。

 切っ先が胸元で止まる。

「突け」

 新之介は静かに言った。

「何」

「私を賊と断じるなら突け。ただし、その後で懐の書付を戸田様へ届けよ」

 門番の手が震えた。

 槍先も揺れる。

「そなたは戸田家の門を守っているのか。三宅主膳の秘密を守っているのか」

「……」

「選べ」

 新之介は刀へ手をかけなかった。

 陣内も動かない。

 門番は槍を構えたまま、額に汗を浮かべている。

 その時、屋敷の奥から女の悲鳴が聞こえた。

 短い声。

 すぐに途切れた。

 新之介は槍を手で払った。

「遅い!」

 門番の脇を抜ける。

 二人が追おうとしたが、年長の男が制した。

「待て」

「しかし」

「薬方へ行け!」

 男はようやく決断した。

「殿の御様子を確かめろ!」

 門番の一人が屋敷の奥へ走る。

 新之介と陣内も続いた。

 門は開いた。

 だが、戸田家の内側には、門よりも重い壁が待っていた。

 ◇

 屋敷の廊下には灯が少なかった。

 夜半とはいえ、不自然である。

 主が重病なら、寝所へ続く廊下には医師や小姓が控えているはずだった。

 今は人影がない。

 代わりに、庭の木立から複数の気配を感じる。

「右に三人」

 陣内が囁いた。

「左にも二人だ」

「刀がないのによく分かるな」

「刀を持たぬから、よく見える」

 新之介は陣内を一瞥した。

 再起館へ来れば、玄斎が喜びそうな答えである。

 廊下の角を曲がる。

 前方に侍が二人立っていた。

 戸田家の家臣らしい。

 だが新之介を見ると、無言で刀を抜いた。

「榊原新之介だ。戸田様へ御用がある」

 返事はない。

「三宅主膳の命か」

 侍の一人が斬り込んできた。

 速い。

 新之介は鞘で受け流す。

 もう一人が陣内を狙う。

 丸腰の陣内は廊下の柱を背にし、相手の刃をぎりぎりでかわした。

「刀を貸せ!」

「持っていない!」

「そなたの脇差だ!」

「これは沢井殿の証だ!」

「命より証が大事か!」

「今は同じだ!」

 新之介は最初の侍の肘を柄頭で打ち、刀を落とさせた。

 その刀を足で陣内の方へ滑らせる。

「使え!」

 陣内は拾い上げた。

「初めからそうしろ!」

「借り物だ。斬るな!」

「注文が多い!」

 陣内は相手の刀を受け、鍔元を押し込んだ。

 足を払う。

 侍が倒れる。

 その胸元へ刀を突きつけたが、刃は入れなかった。

「命じたのは誰だ」

「……」

「三宅か」

 侍は唇を結んだ。

 新之介が言った。

「戸田様が亡くなれば、家中は救われると思っているのか」

 男の目が動いた。

「借財を隠すために主君を殺す。それが忠義か」

「黙れ」

「答えよ」

「家を守るためだ!」

 倒れた侍が叫んだ。

「殿は借財整理を進める。だが御家の台所は、すでに三河屋なしでは立たぬ。殿が全てを知れば、家臣の半ばが処分される!」

「だから殺すのか」

「病で亡くなられるだけだ」

 陣内の顔が歪んだ。

「同じことを申すのだな」

「何」

「大事の前の小事。病死に見せればよい。家を守るためなら一人の命は軽い」

 陣内は自分へ言い聞かせるように続けた。

「私も先ほどまで同じだった」

 侍は陣内を睨んだ。

「浪人に何が分かる」

「分からなかった。今も全部は分からぬ」

 陣内は刀を引いた。

「だが、分からぬまま人を焼くことだけは、もうせぬ」

 新之介は倒れた二人を柱へ縛った。

「寝所はどこだ」

 侍たちは答えない。

 だが屋敷の奥から、物の割れる音が響いた。

 新之介は走り出した。

 ◇

 戸田備前守の寝所では、老医師が畳へ押さえつけられていた。

 薬碗は床へ落ち、黒い液が畳へ染みている。

 枕元には三宅主膳。

 五十を越えた、骨太な武士だった。

 以前、新之介が戸田家を訪れた時にも顔を合わせたことがある。

 口数は少なく、主君の病を案じる忠臣に見えた。

 その三宅が今、戸田の上体を起こし、別の薬碗を口元へ運ぼうとしていた。

「そこまでだ!」

 新之介が障子を開け放った。

 三宅は驚かなかった。

 静かに薬碗を置く。

「騒がしいぞ、榊原殿」

「その薬を戸田様から離せ」

「医師が調合したものだ」

 畳へ押さえつけられた老医師が叫んだ。

「違う! その薬は私のものではない!」

 家臣二人が医師をさらに押さえる。

 陣内が刀を構えた。

 三宅はその姿を見て眉を寄せる。

「浪人まで屋敷へ入れたか」

「そなたの手の者が御救い米を焼かせようとした浪人だ」

「何の話か分からぬ」

 新之介は懐から密書を出し、畳へ投げた。

「では、これも知らぬか」

 三宅は書付へ目を落とした。

 表情は変わらない。

「偽書だ」

「三河屋は捕えた」

「商人の言葉で、武家の家老を疑うか」

「沢井新八殿も生きている」

 三宅の眉がわずかに動く。

「沢井の黒鞘の刀から、この書付が出た」

「盗んだのであろう」

「小林伊織殿をどこへ捕えた」

 今度は、三宅の沈黙が少し長かった。

 寝床の戸田が目を開けた。

「……小林を、捕えたのか」

 弱い声だった。

 だが部屋中が静まった。

 三宅はすぐに主君へ向き直る。

「殿、お休みください」

「答えよ」

「小林は、家中を乱す疑いがありましたゆえ」

「わしの命か」

「御病中の殿に代わり、家を守るのが家老の役目」

「わしの命かと聞いた」

 三宅は答えなかった。

 戸田は苦しそうに息をした。

「薬を……こちらへ」

 新之介が止める。

「戸田様」

「飲むのではない」

 戸田は薬碗を見た。

「三宅。そなたが飲め」

 部屋の空気が凍りついた。

 三宅の顔から、初めて表情が消えた。

「殿」

「わしのための薬であろう」

「はい」

「ならば毒ではない。そなたが飲んでも害はあるまい」

「御家老に薬を試せとは」

「家を守るためなら、命も惜しくないのであろう」

 戸田の声はかすれていた。

 だが一語一語が三宅を追い詰める。

 三宅は薬碗へ手を伸ばさない。

 沈黙が答えだった。

「三宅」

 戸田は目を閉じた。

「いつからだ」

 長い間の後、三宅は膝をついた。

「十年前より」

「何が」

「御家の台所が立たなくなりました」

 声は低く、疲れていた。

「御役目に伴う出費。家臣の扶持。屋敷の修繕。婚礼、葬儀、登城の支度。禄米だけでは到底足りませぬ」

「だから三河屋から借りたか」

「初めは一時のつもりでした」

「皆、そう申す」

 戸田は小さく咳き込んだ。

 三宅は続けた。

「借りた金を返すために、また借りました。利は重なり、証文は増えた。御家の名を守るため、帳面を別にしました」

「わしに隠して」

「殿に申せば、家中の費えを削られます」

「削るべきだった」

「家臣を暇に出すことになります」

「それも含めて、わしが決めることだ」

「殿には決められませぬ!」

 三宅の声が初めて荒れた。

「殿は正しすぎる!」

 戸田は目を開けた。

「正しさだけで家は保てませぬ。家臣の子が病んでも、正しさは薬を買わぬ。屋敷が傾いても、理想は柱を直さぬ」

「だから民の米を焼くか」

 新之介が問う。

 三宅は新之介を睨んだ。

「米価が上がれば御家の禄米も高く売れる。三河屋からの借財も整理できる」

「町人は」

「一時の辛抱だ」

「御救い米を失った者に、辛抱せよと申すのか」

「江戸には米がある!」

「買えぬ者もいる」

「町人一人一人を見て、政ができるか!」

 戸田が静かに言った。

「見るのだ」

 三宅は主君を見る。

「全員を救えぬとしても、見えぬふりをしてはならぬ」

「そのような政では御家が潰れます」

「ならば潰れ方を選ぶ」

 その言葉に、新之介は松井へ告げた自分の言葉を思い出した。

 腐って崩れるより、痛みを受けて正す。

 戸田も同じ答えへ辿り着いていた。

 三宅の目に涙が浮かんだ。

「私は、御家を守りたかった」

「分かっておる」

 戸田は答えた。

 三宅が顔を上げる。

「分かっておられるなら」

「だが、そなたが守ろうとしたものは、わしの家ではない」

「何を」

「そなたが考える戸田家だ」

 戸田はゆっくり息を吐いた。

「主君を殺し、家臣を騙し、民の米を焼いて残る家など、戸田家ではない」

 三宅の肩が落ちた。

 しかし次の瞬間、部屋の外から笛の音が響いた。

 短く二度。

 三宅の目が変わる。

「伏せろ!」

 新之介が叫んだ。

 庭から火縄銃の音。

 障子が破れ、銃弾が薬碗を砕いた。

 黒い薬が飛び散る。

 続いて、屋敷の各所で怒号が起こった。

 三宅の手の者か。

 それとも三河屋が送った口封じか。

 三宅自身も驚いている。

「これは」

「そなたの命ではないのか」

「違う!」

 庭に黒装束が現れた。

 戸田家の家臣を斬りながら、寝所へ迫ってくる。

 新之介は刀を抜いた。

 陣内も借りた刀を構える。

 三宅はしばらく動かなかった。

 やがて自らの刀を抜く。

「何のつもりだ」

 新之介が問う。

「殿を守る」

「今さらか」

「今だからだ」

 三宅は戸田の前へ立った。

「殿。お裁きは後で受けます」

 戸田は答えなかった。

 ただ、静かに目を閉じた。

 それは許しではない。

 役目を果たせという命令だった。

 ◇

 黒装束は五人。

 寝所へ続く廊下に、さらに数名の気配がある。

 一人目が障子を蹴破った。

 三宅が斬る。

 迷いのない一太刀だった。

 敵の肩口から血が飛ぶ。

 新之介は二人目を受けた。

 刃が重い。

 浪人ではない。

 雇われた武家の手勢。

 陣内は老医師を背に庇い、三人目の足を払う。

「丸腰よりはましだ!」

 借り物の刀を振るいながら叫ぶ。

「斬るなと言った!」

「向こうへ言え!」

 敵の一人が懐から火薬玉を出した。

 屋敷内で使えば、寝所ごと吹き飛ぶ。

 新之介は相手へ飛び込んだ。

 腕を掴む。

 火花が散る。

 火薬玉を庭へ蹴り出す。

 爆発。

 庭石が砕け、松の枝が折れる。

 熱風が障子を吹き飛ばした。

 混乱の中、黒装束の一人が戸田へ迫る。

 三宅が間に入った。

 刃が腹を貫く。

「三宅!」

 戸田の声が響いた。

 三宅は敵の腕を掴み、離さない。

「榊原殿!」

 新之介は踏み込んだ。

 柄頭で敵のこめかみを打つ。

 黒装束が倒れる。

 三宅も膝をついた。

 腹から血が流れている。

「なぜ」

 新之介が支える。

 三宅は苦く笑った。

「家老だからだ」

「先ほどまで主君を殺そうとしていた」

「だから……最後くらいは」

「最後と決めるな」

 戸田が寝床から言った。

「生きて裁きを受けよ」

 三宅の目が揺れた。

「殿……」

「死んで忠臣の顔をすることは許さぬ」

 厳しい言葉だった。

 だが三宅は、なぜか安堵したように目を閉じた。

「承知……いたしました」

 ◇

 門前から新たな足音が押し寄せた。

 源太郎の声。

「南町奉行所だ! 刀を捨てろ!」

 町方の捕り方。

 そして玄斎もいる。

 三河屋の始末を終え、駆けつけたのだ。

「遅いぞ、先生!」

 新之介が叫ぶと、廊下から木刀が飛んできた。

 残る黒装束の手首を打ち、刀を落とさせる。

「弟子が勝手に先へ行くからだ」

 玄斎が寝所へ入った。

 煤のついた着物。

 疲れた顔。

 それでも目は鋭い。

 残った敵は町方に囲まれ、次々と取り押さえられた。

 口に毒を含もうとした者もいたが、源太郎が顎を押さえた。

「今夜は誰も死んで逃がしません」

 その声には、この一連の事件で何度も証人を失った悔しさがこもっていた。

 最後の一人を縛り上げた後、源太郎は新之介へ小さな紙を渡した。

「三河屋の店から見つけました」

「何だ」

「黒装束への支払い覚えです」

 名義は三河屋。

 だが金の受取先には、見覚えのない屋号がある。

 相模屋。

「新たな札差か」

「いいえ」

 源太郎は首を振った。

「廻船問屋です」

「廻船」

「米を江戸へ運ぶ船を持っています」

 新之介は紙を見つめた。

 御救い米を焼く。

 米価を上げる。

 高値で米を売る者が利益を得る。

 札差だけではない。

 江戸へ米を運ぶ廻船問屋もまた、火を望んでいた。

「三宅を使ったのは三河屋」

「三河屋を使ったのは相模屋かもしれません」

 源太郎が答えた。

 戸田が寝床で小さく笑った。

「終わらぬな」

「戸田様」

「金の糸は、斬っても別のところへ繋がっておる」

 新之介は深く息を吐いた。

 三番蔵の火は消した。

 戸田の命も守った。

 三宅の罪も明らかになった。

 だが、その背後にまた別の影がある。

 廻船問屋・相模屋。

 米を運ぶ者。

 江戸の胃袋を握る者。

「今夜は追うな」

 戸田が言った。

「しかし」

「まず、ここを始末せよ」

 戸田は三宅を見た。

 老医師。

 捕えた黒装束。

 壊れた寝所。

「一つの始末をせぬ者に、次の闇は追えぬ」

 新之介は頭を下げた。

「承知しました」

 ◇

 夜明け近く。

 三宅主膳は治療を受け、一命を取り留めた。

 小林伊織も下屋敷の土蔵から救い出された。

 戸田家の印籠や刀を使い、真誠組を動かしたのは三宅の配下。

 だが彼らを消すための黒装束は、三河屋が相模屋を通じて雇った者たちだった。

 戸田家の家臣たちは、主君を守れなかった恥と、家老の裏切りに言葉を失っている。

 新之介は庭へ出た。

 東の空が白み始めている。

 玄斎が縁側に座り、木刀の傷を確かめていた。

「先生」

「何だ」

「人は、なぜ同じ過ちを繰り返すのでしょう」

「楽だからだ」

「楽?」

「自分だけは違うと思う方が楽だ」

 玄斎は木刀を布で拭いた。

「矢代の失敗を見た者は、矢代ほど愚かではないと思う。酒井を見た者は、自分は幕府のために動いていると思う。三宅を見た者は、自分こそ正しく家を守れると思う」

「では、繰り返すしかないのですか」

「そうかもしれぬ」

 玄斎はあっさり言った。

「だが、止める者もまた繰り返し現れる」

 新之介は朝焼けを見た。

「私も、いつか過ちますか」

「すでに何度も過っておる」

「それほどですか」

「自覚がないなら、なお悪い」

 玄斎は笑った。

「だから道場が要る。父が要る。友が要る。間違った時に申す者がな」

「何と」

「間違っておる、と」

 新之介も少し笑った。

 再起館には宗次郎がいる。

 傷は深いが、目を覚ましたという。

 吉松たちは床を残して待っている。

 陣内は町方へ自ら縄を受けた。

 三番蔵の御救い米は無事だった。

 だが相模屋という新たな名が現れた。

 物語は終わらない。

 江戸の暮らしが続く限り、米も金も動く。

 人の欲も、正しさも、弱さも動く。

 新之介は黒鞘の刀を見た。

 戸田家の紋が刻まれた、偽りの忠義の刀。

 この刀も、宗次郎が戻らなければ真実を語らなかった。

「先生」

「何だ」

「再起館へ戻ります」

「掃除か」

「宗次郎の拭き残しがあります」

「それは本人にさせよ」

「はい」

 新之介は屋敷の門へ向かった。

 背後では、戸田家の始末が始まっている。

 前には再起館。

 そして、その先には相模屋。

 朝の江戸は、何も知らずに目覚めようとしていた。

 米を炊く煙が上がり、魚屋が店を開き、船が川を行く。

 その平凡な営みこそ、守るべきものである。

 新之介は歩き出した。

 今度こそ、宗次郎へ続きを告げるために。

 倒れた後に立つだけでは足りない。

 立った者は、自分が倒したものにも目を向けねばならない。

 それが、再起の先にある役目だった。

(第三十二章へ続く)

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