上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第三十三章

目次

第三十三章 海上の米俵

 銃声は、海の上では陸よりも大きく響いた。

 火縄の赤い光が一瞬だけ廻船の舷側を照らし、その直後、小舟のすぐ脇で水柱が上がった。

「伏せろ!」

 伊助が怒鳴る。

 新之介たちは舟底へ身を沈めた。

 二発目。

 鉛玉が舟縁を削り、木片が飛ぶ。

 辰蔵が頬を押さえた。

 指の間に血が滲む。

「当たったか」

「かすっただけです!」

「火事場より物騒だな」

「火は逃げませんから!」

 辰蔵は強がって笑った。

 伊助は舵を切り、小舟の向きを大きく変えた。

 正面から廻船へ近づけば、鉄砲の的になる。

 波を斜めに受け、船尾へ回り込むつもりらしい。

「弥助、左の櫂を強く引け!」

「おう!」

「源太郎、重心を動かすな!」

「町方に舟の乗り方まで求めますか!」

「落ちたら泳げ!」

「泳げません!」

 源太郎の返事に、玄斎が顔を上げた。

「役人が泳げぬのか」

「江戸で捕物をするのに泳ぎは要りません!」

「今日は要る」

 玄斎は平然と言った。

 三発目の銃声。

 今度は弥助の櫂が砕けた。

 半分に折れた木が海へ落ちる。

 小舟が大きく揺れた。

「櫂が!」

「予備を出せ!」

 辰蔵が舟底から別の櫂を引き出す。

 弥助へ渡そうとしたが、波に足を取られ、膝をついた。

 米俵がまた一つ、廻船から落ちる。

 海面へ叩きつけられた俵は、しばらく浮いていた。

 だが縄の隙間から水を吸い、ゆっくり沈んでいく。

 一俵。

 二俵。

 船上の人足たちは、止めどなく米を捨て続けている。

「全て沈めるつもりか」

 新之介が呟く。

 伊助が歯を食いしばる。

「千俵全部は無理だ。船の釣り合いが崩れる」

「では、どれほど」

「百俵でも二百俵でも、海へ捨てたと噂になれば米価は動く」

 実際に失われた米の量より、江戸へ米が入らないという噂の方が早く広がる。

 相模屋が狙うのは、米だけではない。

 人の不安だった。

「近づけるか」

「船尾なら鉄砲の死角になる」

「ならば急げ」

「急いでいる!」

 伊助の怒声が返る。

 小舟は廻船の後方へ回り込んだ。

 大船と小舟。

 その差はあまりに大きい。

 廻船の船尾は、小さな城壁のように見える。

 垂れ下がる縄はない。

 梯子も上げられている。

「どう乗り移る」

 源太郎が問う。

 辰蔵は船尾を見上げた。

「鳶口を使います」

「届くのか」

「届けます」

 辰蔵は舟底に置いた長い鳶口を手にした。

 火消しが屋根や壁を崩すための道具。

 先端には鋭い鉄の鉤がついている。

 縄を結び、廻船の手すりへ引っかける。

「揺れますよ」

「海だからな」

「そういう意味ではありません!」

 辰蔵は立ち上がった。

 小舟が波で持ち上がる。

 その頂点で、鳶口を投げた。

 鉄の鉤が廻船の舷へ当たり、弾かれる。

「失敗だ」

 玄斎が言う。

「見れば分かります!」

 辰蔵は縄を手繰り寄せる。

 再び構える。

 廻船の上から人影が覗いた。

 短筒を持っている。

「撃たれるぞ!」

 新之介は鞘に入れたまま刀を投げた。

 鞘尻が男の手元へ当たる。

 短筒が海へ落ちた。

「刀を投げるな!」

 玄斎が叱る。

「投げなければ辰蔵が撃たれます!」

「戻ってこなかったらどうする」

「先生の木刀を借ります」

「断る」

 辰蔵が二度目の鳶口を放った。

 鉤が手すりを越える。

 強く引く。

 今度は外れない。

「かかった!」

 弥助と源太郎が縄を掴む。

 小舟が廻船へ引き寄せられた。

 舷側へ激しくぶつかる。

 舟板が軋んだ。

「一人ずつ上がれ!」

 新之介は縄を掴んだ。

「私から行く」

「刀がありませんよ」

 源太郎が言う。

 新之介は頭上を見た。

 先ほど投げた刀は、廻船の甲板へ落ちている。

「上にある」

「取る前に斬られます」

「ならば取るまで斬られぬ」

「理屈になっていません!」

 新之介は縄を登り始めた。

 波が小舟を持ち上げては落とす。

 縄が手のひらへ食い込む。

 肩の古傷が痛む。

 上から刀が振り下ろされた。

 新之介は片手を離し、身体を横へ振った。

 刃が縄の脇を通る。

 もう一度。

 今度は足を狙う。

 縄に身体を巻きつけ、膝を上げる。

 刀が船板へ当たった。

 相手が身を乗り出す。

 新之介はその腕を掴んだ。

「何を!」

 強く引く。

 男は均衡を失い、舷から落ちた。

 海へ叩きつけられる。

「助けろ!」

 新之介が下へ叫ぶ。

「敵ですよ!」

 源太郎が返す。

「それでもだ!」

 弥助が舟から身を乗り出し、落ちた男の襟を掴んだ。

「重い!」

「生きた証人だ!」

「先に言ってください!」

 新之介は手すりへ手をかけた。

 甲板へ身体を引き上げる。

 すぐに二人の船員が棒を持って迫ってきた。

 刀を抜いていない。

 普通の船乗りにも見える。

「退け!」

 新之介が叫ぶ。

 一人が棒を振る。

 受ける物がない。

 新之介は踏み込み、相手の懐へ入った。

 肘で胸を押し、足を払う。

 もう一人の棒が背へ当たる。

 息が詰まる。

 振り返りざまに手首を掴み、棒を奪った。

 棒の中ほどを持ち、二人から距離を取る。

 甲板の端には、新之介の刀が転がっていた。

 だが、その前に三人いる。

「刀を返してもらう」

「ここから落ちろ」

 男の一人が短刀を抜いた。

 武士ではない。

 構えに形がない。

 それでも狭い甲板では、短い刃ほど厄介である。

 新之介は棒を低く構えた。

 男が走る。

 短刀が突き出される。

 棒の先で手首を打つ。

 刃が落ちる。

 返す棒で膝を払う。

 男は甲板へ倒れた。

 残る二人が同時に来る。

 新之介は後ろへ下がった。

 足元に米粒が散らばっている。

 破れた俵からこぼれたものだ。

 滑る。

 無理に踏ん張れば倒れる。

 倒れ方を知れ。

 新之介は膝を折り、あえて身体を低くした。

 一人の腕の下をくぐる。

 棒を足首へ当てる。

 男が転ぶ。

 もう一人の腰へ肩を入れ、そのまま投げた。

 甲板の縁まで転がった男は、手すりへしがみついた。

 新之介は刀の元へ走り、拾い上げた。

 鞘から抜く。

「これで話ができる」

「刀を抜いてから話か」

 背後から声がした。

 振り返る。

 甲板の中央に、四十ほどの男が立っていた。

 町人髷。

 濃い色の羽織。

 左目の下に小さなほくろ。

 源太郎が持ってきた人相書きと一致する。

「佐野屋清兵衛か」

 男は薄く笑った。

「その名で呼ばれるのも久しい」

「相模屋の番頭ではないな」

「番頭であったことはある」

「相模屋長兵衛はどこだ」

 清兵衛は船首の方へ顎を向けた。

「そなたが会いに来たのは、あちらだろう」

「そなたも逃がさぬ」

「私は逃げぬ」

 男は腰の刀を抜いた。

 町人ではない。

 構えを見れば分かる。

 無駄がなく、足運びも静かだった。

「元武士か」

「元ではない」

「今も武士だと」

「刀を差す者が武士なら、江戸には武士が多すぎる」

「ならば何だ」

「武士であることを捨てぬ者だ」

 新之介は刀先を下げた。

「名を申せ」

 男はしばらく黙った後、答えた。

「野々村主水」

 新之介はその名を知らない。

 だが後ろから甲板へ上がってきた真崎半九郎が、息を呑んだ。

「野々村主水……」

 男は半九郎を見た。

「玄十郎の倅か」

「父をご存じなのか」

「知っている」

 半九郎の目が鋭くなる。

「十二年前、父を斬らせたのはそなたか」

「違う」

「では誰だ」

「その問いへ答えるために、ここまで来たのではない」

「答えろ!」

 半九郎が刀を抜こうとする。

 新之介が手で制した。

「急ぐな」

「ですが」

「疑うことと決めつけることは違う」

 半九郎は唇を噛んだ。

 野々村はわずかに笑う。

「鷹見静山の言葉か」

 新之介の目が細くなる。

「先生をご存じか」

「同じ塾にいた」

 野々村は刀を構えたまま答えた。

「短い間だがな」

「鷹見塾の門人か」

「門人であった者は多い。教えを守った者は少ない」

「そなたはどちらだ」

「守ろうとして、捨てた」

「何を」

「人を信じることを」

 その言葉と同時に、野々村が踏み込んだ。

 速い。

 新之介は刃を合わせた。

 甲高い音。

 重さではない。

 刀筋が鋭い。

 二撃目は喉。

 三撃目は手首。

 すべて最短の軌道で来る。

 新之介は受けながら下がる。

 甲板が揺れた。

 野々村は揺れを読んでいる。

 船上で戦い慣れている。

「足元を見るな」

 玄斎の声がした。

 ようやく甲板へ上がってきた。

「先生!」

「波を見るな。相手の腰を見ろ」

 野々村が横薙ぎに斬る。

 新之介は腰の動きを見た。

 刃が来る前に身体を沈める。

 踏み込み、鍔元を押す。

 野々村が初めて一歩下がった。

「黒川玄斎か」

「知っておるか」

「鷹見先生から聞いた」

「よい話ではなかろう」

「頑固な剣士だと」

「当たっておる」

 玄斎は木刀を構えた。

「二人で来るか」

 野々村が問う。

「わしは見ておるだけだ」

「弟子が死んでも」

「死なせぬために見ておる」

 新之介は息を整えた。

「先生、口より手を」

「教えておる」

「どこがです」

「喋っている間に息が戻っただろう」

 確かに呼吸は整っていた。

 野々村も同じだったが。

 船尾から次々と仲間が上がってくる。

 源太郎。

 辰蔵。

 弥助。

 最後に伊助。

 だが伊助は甲板へ上がるなり、顔をしかめた。

「船が軽くなりすぎている」

「何だと」

「片側の米ばかり捨てた。釣り合いが悪い」

 廻船はゆっくり傾いていた。

 米俵を一方の舷から海へ落とし続けたため、積み荷の均衡が崩れている。

 波を受けるたび、傾きが大きくなる。

「このままでは転覆するぞ!」

 船員たちが動揺する。

 米を捨てていた者も手を止めた。

 野々村は新之介から距離を取り、船首を見た。

「長兵衛は何をしている」

「知りません!」

 船員が答える。

「蔵へ籠もったままです!」

 甲板下にある船倉。

 米俵の一部はそこに積まれている。

「片側の荷を移せ!」

 伊助が怒鳴った。

「今すぐだ!」

「敵に命じられる筋はない!」

 船員の一人が叫ぶ。

「筋の話は沈んでからしろ!」

 伊助の声が甲板を震わせた。

 その時、大きな波が横から船を叩いた。

 廻船が傾く。

 甲板の米俵が動いた。

 縄で固定されていなかった俵が、十数個まとめて滑り始める。

「避けろ!」

 新之介は身を投げた。

 米俵の塊が甲板を横切る。

 逃げ遅れた船員の足へぶつかった。

 骨の折れる音。

 男が悲鳴を上げる。

 俵は舷側の手すりを壊し、海へ落ちた。

 空いた穴から波しぶきが吹き込む。

「戦っている場合ではない!」

 半九郎が叫ぶ。

 野々村は刀を下げた。

「相模屋を捕えるつもりなら、船を沈めるな」

「そなたが申すか」

 新之介が返す。

「私が命じたのは百俵を捨てることだ」

「同じだ」

「同じではない」

「何が違う」

「長兵衛は船ごと沈めるつもりだ」

 新之介の顔が変わる。

「証を消すためか」

「帳面も米も人も、すべて海へ沈めればよいと考えている」

「そなたも消されるぞ」

「そのつもりだろう」

「なぜ従った」

 野々村は船首を見た。

「確かめるためだ」

「何を」

「長兵衛の背後に誰がいるか」

 新之介は刀を下げなかった。

「分かったのか」

「まだだ」

「ならば無駄死にではないか」

「死ぬつもりはない」

 野々村は刀を納めた。

「まず船を直す」

 新之介は迷った。

 敵か味方か。

 分からない。

 だが今は船が沈みかけている。

 疑ったまま使う。

「伊助、何をすればよい」

「右舷の米を中央へ寄せる! 左の船倉へ人を入れろ!」

「船倉へは誰が」

「軽い者がいい!」

 源太郎が辰蔵を見る。

「私ですか」

「火消しは狭い場所に慣れているだろう」

「蔵は燃えていても動きません!」

「今日は船だ!」

「知っています!」

 辰蔵と弥助が船倉の入口へ走る。

 半九郎と源太郎は船員たちへ縄を渡し、俵を固定させる。

 玄斎は負傷した船員を安全な場所へ運んだ。

「先生、腰は」

「弟子より丈夫だ」

 新之介は野々村とともに、滑った米俵を中央へ戻した。

 一俵は重い。

 二人で押しても動かない。

「縄を使え」

 野々村が言う。

「知っているなら先に申せ」

「武士は米俵を動かした経験が少ない」

「そなたも武士だろう」

「だから知るまで時間がかかった」

 二人で縄を回し、船員たちと引く。

 俵が少しずつ動く。

 船の傾きがわずかに戻る。

「あと十俵!」

 伊助が叫ぶ。

 新之介たちは次の俵へ向かった。

 その時、船倉の奥から辰蔵の声がした。

「榊原様!」

「どうした!」

「火薬があります!」

 甲板の動きが止まった。

「どれほどだ」

「樽が三つ!」

「火は」

「導火の縄が伸びています!」

 長兵衛は米を捨てるだけではなく、船そのものを爆破するつもりだった。

 証文。

 抜け荷の帳面。

 船員。

 野々村。

 追ってきた新之介たち。

 すべてを海へ消す。

「火はついているか!」

「分かりません! 暗くて!」

 弥助が船倉へ入ろうとする。

 野々村が止めた。

「待て。長兵衛が中にいる」

「なぜ分かる」

「火をつける役を他人へ任せぬ男だ」

「そなたは随分知っているな」

「十二年仕えた」

 半九郎が野々村を見る。

「父を襲わせた時からか」

「その前からだ」

「ならば無関係ではない」

「無関係とは申していない」

 野々村の目に、初めて苦い色が浮かんだ。

「玄十郎を斬らせると知りながら、止めなかった」

 半九郎の手が刀へ動く。

「今ここで斬ってもよいのか」

「船が沈まなければな」

「ふざけるな!」

「ふざけてはいない」

 野々村は半九郎の目を見た。

「だが今、私を斬れば火薬を止める者が一人減る」

 半九郎の拳が震える。

 新之介が間へ入った。

「話は陸で聞く」

「逃げれば」

 半九郎が言う。

「斬れ」

 野々村はそう答え、船倉の入口へ向かった。

「私が先に入る」

「罠かもしれぬ」

 新之介が言う。

「その通りだ」

「認めるのか」

「私が長兵衛を逃がす罠かもしれぬ。長兵衛が私を殺す罠かもしれぬ」

「どちらだ」

「入れば分かる」

 新之介は野々村の後へ続いた。

「私も行く」

「二人とも戻らなければ」

 源太郎が問う。

「火薬ごと海へ落とせ」

「簡単に言わないでください!」

「船が沈むよりよい」

 玄斎が木刀を持って入口へ立つ。

「わしはここで待つ」

「先生は来ないのですか」

「役に立たぬ時の己を知るために来た」

「もう分かったでしょう」

「まだ分からぬ」

「面倒な師だ」

「よく言われる」

 新之介と野々村は船倉へ降りた。

 ◇

 船倉の中は、米と木と油の匂いが混じっていた。

 天井は低い。

 奥には米俵が壁のように積まれている。

 辰蔵と弥助が提灯を持ち、導火縄を探していた。

「こちらです」

 床を這う黒い縄。

 その先は、米俵の奥へ続いている。

 新之介は膝をついた。

 縄へ触れる。

 冷たい。

 まだ火は来ていない。

「消えているのか」

「いや」

 野々村が鼻を近づけた。

「火薬の匂いが新しい」

 奥で物音がした。

 米俵が一つ崩れる。

 その陰から、老人が現れた。

 相模屋長兵衛。

 六十を越えている。

 だが目は鋭く、手には火縄があった。

「遅かったな、主水」

「長兵衛」

「そなたなら、榊原をここまで連れてくると思っていた」

 新之介は野々村を見る。

「連れてきたのか」

「違う」

「同じことだ」

 長兵衛は笑った。

「主水は裏切る。だが裏切った先でも信用されぬ。そういう男だ」

「火を置け」

 野々村が言う。

「何のために」

「米も人も失う」

「だからよい」

「船員もか」

「金で雇った者だ」

「そなたを信じた者もいる」

「信じる者が愚かなのだ」

 長兵衛は火縄を掲げた。

「鷹見静山も同じことを知らなかった。人は正しさで動くのではない。損得で動く」

「先生を知っているのか」

 新之介が問う。

「知っているとも」

 長兵衛の笑みが深くなる。

「鷹見塾の帳面を、最初に買ったのは私だ」

 新之介の背に冷たいものが走った。

「何だと」

「酒井も稲葉も、大黒屋も三河屋も、帳面の値打ちを知らなかった。誰が誰から借り、誰がどの役目を欲し、誰が何を隠しているか。あれほど価値のある荷はない」

「そなたがすべてを動かしたのか」

「すべてなど誰にも動かせぬ」

 長兵衛は火縄を少し下げた。

「私は流れを読んだだけだ。米が高くなる方へ船を出し、人が裏切る方へ金を置いた」

「真崎玄十郎を斬らせたのも」

 半九郎が入口から降りてきた。

 止める間もなかった。

「父を斬らせたのも、流れを読んだだけか」

 長兵衛は半九郎を見た。

「玄十郎は惜しい男だった」

「答えろ」

「抜け荷の帳面を見つけた。黙れば金を渡すと申したが、受けなかった」

「だから殺した」

「殺してはいない」

「斬らせた!」

「同じことではない」

 その言葉に、半九郎の刀が抜かれた。

 狭い船倉で刃が光る。

 新之介が前へ出る。

「待て!」

「退いてください!」

「火縄を落とせば終わりだ!」

 長兵衛は満足そうに笑った。

「その通り。怒れ。斬れ。人は結局、最後には刃を選ぶ」

 半九郎の呼吸が荒くなる。

 父が十二年苦しんだ。

 筆を持てず、歩けず、自分の役目を失ったと悔やみながら死んだ。

 その原因を作った男が、目の前で笑っている。

「半九郎」

 新之介は背を向けずに言った。

「刀を下げろ」

「できません」

「ならば震えている手で斬るな」

 半九郎の刀先が揺れる。

「父の仇です」

「分かっている」

「分かるはずがない!」

「分からぬ」

 新之介ははっきり答えた。

「だから止める」

「なぜ」

「そなたが斬った後に、何を見るか分からぬからだ」

 半九郎の目に涙が浮かんだ。

 長兵衛が火縄を導火線へ近づける。

 野々村が動いた。

 刀を抜く。

 だが狙ったのは長兵衛ではない。

 火縄を持つ手首だった。

 刃が走る。

 長兵衛の指から火縄が落ちる。

 辰蔵が飛び込み、濡らした布をかぶせた。

「火は消しました!」

 長兵衛は血の出る手首を押さえ、後ろへ下がる。

 そこには火薬樽。

「主水!」

「十二年前に止めるべきだった」

 野々村が言う。

「今さら忠義を捨てるか」

「忠義ではなかった」

「何」

「怯えていただけだ」

 野々村は刀を下げた。

「そなたに見捨てられるのが怖かった。武士を捨て、商人にもなれず、居場所がなくなるのが怖かった」

「だから私が拾った」

「鎖をつけただけだ」

 長兵衛の顔が歪む。

 老人は懐へ手を入れた。

 新之介が踏み込む。

 だが取り出されたのは短刀ではなかった。

 小さな火打石。

「まだ!」

 長兵衛は火薬樽へ打ちつけようとした。

 半九郎の刀が動いた。

 刃が火打石を弾く。

 老人の手から石が飛ぶ。

 半九郎はそのまま刀先を長兵衛の喉へ突きつけた。

 あと指一本。

 押せば命が絶える。

「斬らぬのか」

 長兵衛が囁く。

「父の仇だぞ」

 半九郎の腕が震える。

「斬れば、父が戻るか」

「戻らぬ」

「私の恨みは消えるか」

「知らぬ」

「私も知らぬ」

 半九郎は涙を流しながら、刀を引いた。

「だから、生きて話せ」

 長兵衛の表情から笑みが消えた。

 死よりも、生きて裁かれることを恐れている。

 新之介は老人の腕を取った。

 源太郎が縄を持って降りてくる。

「相模屋長兵衛。御用だ」

「町方が海の上で捕えるか」

「江戸へ連れ戻してから、もう一度申します」

 源太郎は長兵衛へ縄を打った。

 野々村にも視線を向ける。

「そなたもです」

「分かっている」

 野々村は刀を置いた。

 半九郎がその顔を見た。

「逃げぬのか」

「逃げれば斬るのだろう」

「はい」

「ならば逃げぬ」

 その言葉に冗談の色はなかった。

 ◇

 火薬樽は慎重に導火線から外され、海へ捨てず、甲板へ運ばれた。

 証拠として残すためである。

 船の傾きも、伊助と船員たちの働きで少しずつ戻った。

 海へ投げられた米俵の一部は、まだ浮いていた。

 弥助と辰蔵は縄をつけ、小舟へ引き寄せようとした。

「全部は無理だ」

 伊助が言う。

「分かっております」

 辰蔵は答えた。

「ならばなぜ拾う」

「目の前に浮いているからです」

 一俵を引き上げる。

 水を吸った米俵は、元の重さよりはるかに重い。

 縄が手へ食い込む。

 辰蔵、弥助、船員二人でようやく甲板へ上げた。

「中の米は食えぬかもしれぬぞ」

「乾かせば家畜の餌になるかもしれません」

「誰に聞いた」

「魚屋の倅です!」

 辰蔵は吉松の言葉を借りて笑った。

 新之介も縄を掴んだ。

 二俵目。

 三俵目。

 すでに沈んだものは戻らない。

 だが浮いているものまで見捨てる理由にはならない。

 玄斎は甲板の端へ座り、腕を組んでいた。

「先生も手を貸してください」

 新之介が言う。

「腰が痛い」

「先ほど弟子より丈夫だと」

「戦う腰と米を引く腰は違う」

「同じです」

「ならば教え方が悪かった」

 そう言いながら、玄斎も縄を握った。

 夜が少しずつ明け始めていた。

 東の空が薄く青い。

 廻船は帆を下ろし、品川へ戻る向きへ変えた。

 相模屋長兵衛は船柱へ縛られている。

 野々村主水は別の場所に座り、縄を受けたまま海を見ていた。

 半九郎は父の仇を斬らなかった。

 だが許したわけではない。

 宗次郎もまた、父の罪と向き合おうとしている。

 誰も急いで答えを出してはいない。

 そのことが、新之介には正しいように思えた。

 源太郎が船倉から一冊の帳面を持ってきた。

「見つかりました」

「何だ」

「相模屋の抜け荷帳です」

 油紙に包まれ、米俵の奥へ隠されていた。

 十二年前からの記録。

 米の入港。

 隠し売り。

 役人への贈金。

 札差との取引。

 そして鷹見塾の帳面を買い取った日付。

「これで終わるか」

 新之介が問う。

 源太郎は帳面をめくった。

 途中で手を止める。

「終わりません」

「何がある」

「相模屋が米を売った先です」

 帳面には、江戸だけではない地名が並んでいる。

 浦賀。

 下田。

 長崎。

 そして、見慣れぬ符号。

「これは何だ」

「外国船との取引を示す印かもしれません」

 伊助が帳面を覗き込んだ。

「沖で異国船に米を渡していたという噂は聞いたことがある」

「禁制の取引か」

「証があれば大事になります」

 源太郎の顔が引き締まる。

 米価を操るだけではない。

 相模屋は抜け荷を海の外へ流していた可能性がある。

 長兵衛は船柱の前で目を閉じている。

 すべてを話すつもりはないだろう。

「帳面を守れ」

 新之介が言った。

「はい」

「海へ落とすな」

「榊原様こそ、刀の次は帳面を投げないでください」

「投げぬ」

「本当ですか」

「必要なら投げる」

「やめてください」

 源太郎は帳面を懐深く収めた。

 ◇

 品川の浜が見えてきた。

 朝の漁舟が行き交い始めている。

 戻ってきた廻船を見て、浜の者たちが集まっていた。

 船の舷には壊れた手すり。

 甲板には濡れた米俵。

 縄を打たれた相模屋長兵衛。

 そして負傷者たち。

 一夜の出来事が、すべて船の姿へ刻まれている。

 伊助が舵を握りながら言った。

「陸へ戻れば、話が変わるぞ」

「何がです」

 半九郎が問う。

「相模屋は米を救おうとした。榊原様が船を襲った。真誠組が廻船を奪おうとした。好きなように噂される」

「帳面があります」

 源太郎が答える。

「帳面を読まぬ者の方が多い」

 伊助は海を見た。

「だから、自分の目で見た者が話さねえといけねえ」

 新之介は濡れた米俵へ目を向けた。

「再起館で話す」

「何を」

「米が海へ捨てられたこと。誰が捨てたかではなく、なぜ捨てられたかを」

 玄斎が言った。

「難しい話になるな」

「算術の稽古になります」

「剣術道場ではなかったか」

「再起館です」

 玄斎は小さく笑った。

 舟が岸へ近づく。

 源太郎の手配した町方が待っている。

 相模屋長兵衛と野々村主水は、ここから奉行所へ送られる。

 半九郎は父の仇と、まだ話さねばならない。

 新之介もまた、鷹見塾の帳面がどこから流れ、誰へ渡ったのかを確かめねばならない。

 戦いは終わっていない。

 だが、今は海から拾い上げた米俵が三つ残った。

 千俵のうちの、わずか三つ。

 失われたものに比べれば、あまりに少ない。

 それでも新之介は、その三俵を見つめた。

 すべてを救えぬからといって、一つも救わぬ理由にはならない。

 戸田備前守が言った。

 全員を救えぬとしても、見えぬふりをしてはならぬ。

 米俵から海水が滴っている。

 一滴。

 また一滴。

 朝日に照らされ、甲板の上で光った。

 新之介は刀の柄から手を離し、濡れた縄を握った。

 陸へ上げるまでが役目である。

 そして陸へ上げた後、その米が誰の口へ入るのかを見届けることもまた、役目であった。

(第三十四章へ続く)

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