第三十四章 濡れた米の行方
品川の浜へ着くと、最初に聞こえたのは、波の音ではなかった。
人の声だった。
漁師。
船頭。
魚を買いに来た商人。
町方の捕り手。
そして、異変を聞きつけて集まった野次馬。
壊れた舷。
煤けた船板。
血のついた甲板。
縄を打たれた相模屋長兵衛。
濡れた米俵。
廻船が岸へ寄るにつれ、人々のざわめきは大きくなった。
「相模屋の船だ」
「米を捨てたらしいぞ」
「賊に襲われたんじゃないのか」
「役人が船を奪ったという話だ」
「真誠組がまだ残っていたんだろう」
噂は、船が着く前から勝手に形を持っていた。
新之介は甲板から浜を見下ろした。
伊助が言ったとおりである。
事実は一つでも、噂は人の数だけ生まれる。
「町方が道を空けます」
源太郎が縄を受けた長兵衛の前へ立った。
「相模屋長兵衛。立てますか」
長兵衛は目を開けた。
「年寄りを急かすな」
「船を沈めようとした時は、お元気だったようですが」
「商人には引き際がある」
「火薬で引く者は初めて見ました」
長兵衛は答えず、ゆっくり立ち上がった。
両手を縛られているにもかかわらず、足取りは乱れていない。
船が傾き、甲板で人が倒れ、火薬が見つかった。
それでもこの老人は、自分の敗北を見せまいとしている。
野々村主水も別の捕り手に囲まれ、船を下りる支度をしていた。
半九郎は、その背を黙って見ている。
「真崎殿」
新之介が声をかける。
半九郎は振り向かなかった。
「逃げぬとは申しました」
「野々村殿がか」
「はい」
「信じるか」
「信じません」
半九郎は静かに答えた。
「ですが、今のところ逃げてはいません」
信じるのではなく、行いを見る。
玄斎の教えが、少しずつ皆のものになっている。
そのことを喜んでよいのか、新之介には分からなかった。
疑うことを学んだ者は、以前より傷つきにくくなる。
だが同時に、人を素直に信じることも難しくなる。
何事にも代価がある。
「榊原様」
辰蔵が濡れた米俵を指した。
「こいつをどうします」
海から拾い上げた三俵。
縄は膨らみ、俵の表面から水が滴っている。
一部は破れ、米粒が船板へ貼りついていた。
「まず陸へ上げる」
「それからです」
「乾かす」
「どこで」
新之介は答えに詰まった。
再起館に米俵三つを広げる場所はない。
戸田家へ持ち込むわけにもいかない。
奉行所へ運べば証拠として保管されるだろうが、その間に腐る。
「浜の干し場を借りましょう」
伊助が言った。
「魚を干す場所か」
「今日は空いているところがある」
「塩気がつかぬか」
「もう海水を吸っている」
「それもそうか」
辰蔵と弥助が縄をかけ直す。
だが米俵は重く、二人では動かない。
新之介も手を貸した。
「榊原様は捕物の始末を」
源太郎が言う。
「これは捕物の始末だ」
「証拠品なら町方へ」
「米だ」
「米である前に証拠です」
「証拠である前に食い物だ」
源太郎は眉を寄せた。
「順序の話をしているのですが」
「順序を待つと腐る」
玄斎が横から言った。
「お前たちは皆、理屈が多い」
「先生はどちらの理屈です」
「持てば分かる」
玄斎はそう言うと、俵の反対側へ手をかけた。
新之介、玄斎、辰蔵、弥助の四人で、ようやく一俵が持ち上がる。
「重いな」
玄斎が顔をしかめる。
「腰が痛いのでは」
「今、痛くなった」
「先ほどは」
「戦う腰と米を運ぶ腰は違う」
「またそれですか」
四人は足場板を渡り、米俵を浜へ下ろした。
野次馬が道を空ける。
その中に、痩せた女が一人いた。
腕には幼い子を抱いている。
子は濡れた俵を見ていた。
「米ですか」
女が誰へともなく問う。
辰蔵が答えた。
「米だ」
「売るんですか」
「売らない」
「では配るんですか」
辰蔵は新之介を見る。
新之介も答えられなかった。
証拠として扱うなら、勝手に配ることはできない。
海水を吸った米は、そのまま炊けば腹を壊す可能性もある。
干して選別し、食べられるか確かめねばならない。
「今は配れぬ」
新之介が言った。
女の顔に失望が浮かぶ。
子が小さな声で言った。
「お腹すいた」
その一言が、周囲のざわめきよりはっきり聞こえた。
新之介は懐へ手を入れた。
だが銭はほとんど持っていない。
一夜の騒動で、財布のことなど考えていなかった。
源太郎が女へ近づき、銭を渡そうとした。
女は一歩下がった。
「施しが欲しいんじゃありません」
「では」
「米があるのに、食べられないのが不思議なだけです」
女は子を抱き直した。
「失礼しました」
そう言って、人混みの中へ消えた。
新之介は濡れた米俵を見た。
米はある。
だが食べられない。
江戸には米がある。
だが買えない者がいる。
三宅主膳も同じことを言った。
江戸には米がある。
相模屋も同じ理屈で動いた。
量があることと、人の口へ届くことは違う。
「榊原様」
源太郎が言った。
「お顔が怖いです」
「そうか」
「今、誰を斬るつもりです」
「誰も斬らぬ」
「ならば、その顔をやめてください」
新之介は息を吐いた。
「この米の行方を決める」
「奉行所で」
「奉行所だけでは遅い」
「また筋を飛ばすおつもりですか」
「筋を通しながら急ぐ」
「最も難しいことを簡単に申されますね」
源太郎は頭を押さえた。
◇
相模屋長兵衛と野々村主水は、南町奉行所へ送られた。
相模屋の船員たちも一人ずつ取り調べを受ける。
自ら米を捨てた者。
命じられて従った者。
船を沈める企てを知らなかった者。
火薬樽を運んだ者。
同じ船に乗っていても、罪の重さは同じではない。
そこを分けるのが詮議であり、裁きである。
だが浜では、濡れた米が待っている。
新之介たちは伊助の知り合いが使う干し場を借りた。
魚を干すための竹簀を洗い、筵を広げる。
俵を解くと、海水を吸った米が塊になって出てきた。
白かった粒は半透明に膨らみ、ところどころ黒い砂や藁くずが混じっている。
辰蔵が手ですくう。
「思ったより臭いません」
「今はな」
伊助が答える。
「昼を越せば変わる」
「全部広げろ」
新之介が言う。
俵三つ分の米を薄く広げる。
かなりの量である。
だが千俵から見れば、ほんのわずかだった。
「食えるものと食えぬものを分けるには、米問屋の目が必要です」
半九郎が言った。
「相模屋の者では駄目か」
源太郎が問う。
「信用できません」
「全員を疑えば何も進まぬ」
半九郎は少し考えた。
「では、複数の者に見せます」
「誰へ」
「米問屋、酒造り、粥を炊く寺」
用途によって、使える米の見方が違う。
炊いて食べるには無理でも、砕いて糊や飼料にできるかもしれない。
発酵に使えるものもある。
ただし海水を吸った米は扱いを誤れば、腹を壊す。
「寺なら、西徳寺の了順殿を呼べるかもしれません」
新之介が言った。
以前、火事の後の炊き出しを助けた僧である。
源太郎は頷いた。
「町方から使いを出します」
「米問屋は」
伊助が浜の先を指した。
「近くに正直な男がいる」
「正直と誰が決めた」
「値切ると怒る」
「それは正直とは限らぬ」
「嘘をつく商人は、怒る前に笑う」
伊助の言い分は乱暴だったが、長く船乗りをしてきた者の勘には聞く価値がある。
「呼んでくれ」
「あいよ」
伊助が浜を離れた。
新之介は筵の上へしゃがんだ。
手に米を取り、臭いを嗅ぐ。
潮の匂い。
藁。
わずかな油。
「油が混じっている」
半九郎も米を確かめる。
「船倉の床にこぼれていたものかもしれません」
「ならば食べられぬ」
「一部だけでしょう」
油のついた米を分ける。
砂の多い場所を分ける。
比較的きれいな粒を別の筵へ移す。
刀を握るより細かな仕事だった。
玄斎は黙って米を選っている。
「先生」
「何だ」
「お上手ですね」
「若い頃、道場の米から石を拾わされた」
「剣術の稽古ですか」
「飯の支度だ」
「それだけですか」
「腹が減っていれば、石を噛まぬよう真剣になる」
玄斎は小石を一つつまみ上げた。
「こういう稽古の方が、後まで役に立つ」
新之介も小石を拾った。
鷹見塾では帳面を学んだ。
再起館では剣と文字と算術を教えている。
だが今必要なのは、米粒の中から石と油を分ける目だった。
学びとは、役に立つ形が一つではない。
「榊原様」
源太郎が戻ってきた。
「戸田様から使者です」
「何と」
「濡れた米は、御救い米の扱いに準じて始末せよ、と」
「食べられるなら配れということか」
「ただし、町方と勘定方の立ち会いを置けとのことです」
「筋を通してくださったか」
「榊原様がまた勝手をする前に、と書かれています」
「余計な一文だ」
「必要な一文です」
使者は戸田からの書付を渡した。
そこには、海から回収した米を証拠として記録した後、専門の者に検分させ、食用に耐える分は炊き出しへ回すことを認める旨が記されている。
食用に適さぬ分は家畜の餌、糊、発酵、その他の用途を検討する。
廃棄は最後とする。
最後に、戸田自身の筆で一行添えられていた。
――守った米を、帳面の中で腐らせるな。
新之介は小さく笑った。
「戸田様らしいですか」
源太郎が問う。
「いや」
「では」
「以前より少し変わられた」
◇
昼前、西徳寺の了順が弟子僧二人を連れて現れた。
米問屋の主人・播磨屋庄六も伊助に引かれるように来た。
さらに、近くで濁酒を作る女主人、お房も加わった。
三人はそれぞれ米を手に取った。
庄六は粒の割れと臭いを見る。
お房は噛んで水分を確かめる。
了順は少量を水で洗い、鍋で煮させた。
「食えるか」
新之介が問う。
庄六は難しい顔をした。
「そのまま飯には向きません」
「全部か」
「七割ほどは、塩気が強い。油のついたところもある」
「残り三割は」
「よく洗い、粥にするなら」
お房が口を挟む。
「塩気の強い分も、何度か水を替えて蒸し、麹に混ぜれば使えるかもしれません」
「酒にするのか」
「飲む酒ではありません。酢や調味に回せます」
「油のついた米は」
「それは無理です」
了順が鍋の粥を一口すすった。
弟子僧たちも味を見る。
「薄い塩味がございます」
「腹を壊すか」
「今のところ、その兆しは分かりませぬ。少量ずつ試すべきでしょう」
「人へ配る前に、誰が試す」
新之介が問うと、了順は自分の椀へもう一口入れた。
「拙僧が」
「ならぬ」
「なぜです」
「寺の者だけに負わせられぬ」
「では榊原様も」
新之介は椀を受け取った。
玄斎も手を出す。
源太郎が止めた。
「何をなさっているのです」
「試している」
「一度に皆が腹を壊したらどうするのです」
「では、そなたも食え」
「人数を増やす話ではありません!」
結局、新之介、玄斎、了順、庄六、お房の五人が少量ずつ口にした。
塩気はある。
うまいとは言えない。
だが食べられぬ味ではなかった。
「半日置いて様子を見ます」
了順が言った。
「それで問題がなければ、今夜の粥へ使いましょう」
「どこで炊き出す」
「品川宿の外れに、日雇い人足が集まる長屋がございます」
新之介は、朝の女と子を思い出した。
「そこへ持っていく」
「ただし」
了順は新之介を見る。
「海から拾った米であることは、隠してはなりません」
「知らせれば食べぬ者もいる」
「それでもです」
「なぜ」
「施す側が、相手の知らぬところで危ういものを食べさせれば、それは救いではございません」
新之介は頭を下げた。
「その通りです」
良いことをするために、真実を隠してよいわけではない。
正しさを急ぐ時ほど、同じ過ちへ近づく。
「食べるかどうかは、受け取る者に決めてもらいましょう」
「はい」
◇
奉行所では、相模屋長兵衛の詮議が始まっていた。
だが老人は、ほとんど口を開かなかった。
抜け荷帳について問われても、番頭が勝手に書いたものだと答える。
火薬樽についても、海賊への備えだと言い張る。
米を捨てたことは、船の傾きを直すためだったと申した。
「船を傾けたのは、米を片側から捨てたからです」
源太郎が詰めても、長兵衛は笑っただけだった。
「海の上では、役人の理屈は通らぬ」
「では船員の証言を」
「金で買われた者だ」
「野々村主水の証言は」
「裏切り者だ」
「何を示しても、都合の悪い者は嘘つきですか」
「それが世の中だ」
長兵衛は縄を打たれたまま、背を丸めない。
「そなたたちも、都合のよい証言を真とする」
「帳面があります」
「帳面は人が書く」
「印があります」
「印は盗める」
「では、そなたの言葉だけが真だと」
「私の言葉も真ではない」
源太郎は眉をひそめた。
「どういう意味です」
「人は、己に都合のよいことを申す。私も同じだ」
「開き直るおつもりか」
「違う」
長兵衛は初めて笑みを消した。
「真実など、最初から一つではない」
詮議の席には新之介も呼ばれていた。
浜の米の始末を戸田の書付に任せ、短時間だけ奉行所へ来たのである。
「米を海へ捨てた事実は一つだ」
新之介が言った。
「なぜ捨てたかは、見る者で変わる」
長兵衛が答える。
「米価を上げるため」
「船を軽くするため」
「帳面を消すため」
「船員を守るため」
「火薬で船を沈めようとした」
「海賊に奪われぬため」
「そなたは、何でも言えるな」
「商人だからな」
長兵衛は薄く笑った。
「言葉も品物だ。買う者に合わせて形を変える」
「ならば、そなたの言葉には値がない」
「そうとも限らぬ」
「何」
「嘘ばかり申す者は、真を混ぜねば信じてもらえぬ」
新之介は老人を見つめた。
挑発か。
それとも、何かを伝えようとしているのか。
「鷹見塾の帳面を買ったと申したな」
「申したかもしれぬ」
「誰から買った」
「忘れた」
「十二年前、真崎玄十郎を斬らせたのは」
「近江屋だ」
「近江屋へ命じたのは」
「私かもしれぬ。違うかもしれぬ」
「野々村殿は、そなたが命じたと」
「裏切り者の言葉だ」
長兵衛は視線を下げた。
「だが一つだけ、教えてやろう」
「何だ」
「鷹見静山の帳面は、一冊ではない」
新之介の胸が動いた。
「何冊ある」
「知らぬ」
「そなたが買ったのは」
「写しだ」
「元の帳面はどこだ」
「それを探すために、皆が金を使い、人を斬った」
源太郎が身を乗り出す。
「誰が探している」
「幕府の者。商人。大名家。異国と取引する者」
「名を申せ」
「名など役に立たぬ」
長兵衛は笑った。
「今日の味方は明日の敵。屋号も役職も、着物のように替わる」
「それでも名を」
「ならば一つ」
長兵衛は新之介を見た。
「御船手頭支配、海防掛――水野隼人正」
源太郎の筆が止まった。
幕府の海上警備と廻船の取り締まりに関わる役目。
相模屋が外国船と取引していたなら、最も近いところにいる役人である。
「水野様が背後だと」
「そう申したか」
「今、名を出した」
「探している者の一人だ」
「何を」
「鷹見帳の元本を」
「なぜ海防掛が」
「帳面には、金だけではなく船の名もある」
長兵衛は静かに言った。
「異国へ渡った船。戻らなかった船。役人が見逃した船。すべてだ」
新之介は品川沖で見つかった抜け荷帳を思い出した。
浦賀。
下田。
長崎。
見慣れぬ符号。
相模屋だけの取引ではない。
もっと大きな海の流れがある。
「元本はどこだ」
長兵衛は口を閉じた。
「申せ」
「腹が減った」
「何」
「朝から何も食っておらぬ」
源太郎が怒る。
「詮議を何だと」
「人は腹が減ると、嘘をつく気力も失う」
「ならば都合がよい」
「真を申す気力も失う」
新之介は老人を見た。
「何を食いたい」
「米だ」
皮肉ではない。
長兵衛の目は、ほんの少しだけ疲れていた。
海へ捨てさせた米。
値を上げるために使った米。
多くの者の腹を空かせる道具とした米。
「粥を用意させる」
新之介が言う。
源太郎が驚く。
「榊原様」
「食わせてから続ける」
長兵衛が笑った。
「優しいな」
「違う」
「では」
「腹が減ったことを、黙る理由にさせぬだけだ」
◇
牢屋敷へ送られる前、長兵衛には白い粥が出された。
普通の米で炊いたものだった。
老人は椀を持ち、しばらく湯気を見た。
それから、ゆっくり口へ運ぶ。
「うまいか」
新之介が問う。
「味がない」
「粥だからな」
「塩が欲しい」
「海水はどうだ」
長兵衛は一瞬止まり、やがて笑った。
「嫌味を申すようになったか」
「先生が悪い」
玄斎は奉行所の隅に座っていた。
「わしのせいにするな」
長兵衛は半分ほど食べた後、椀を置いた。
「水野隼人正は、元本を持っておらぬ」
「なぜ分かる」
「持っていれば、私を使う必要がない」
「何をさせられていた」
「帳面に記された船を探していた」
「どの船だ」
「弁財丸」
伊助がその名を聞いて顔を上げた。
「知っているのか」
新之介が問う。
「二十年前に沈んだ船だ」
「どこで」
「浦賀の沖」
長兵衛が続ける。
「沈んだことになっている」
「違うのか」
「弁財丸は戻った」
「どこへ」
「江戸へは入らず、木更津へ回った」
「積み荷は」
「米ではない」
「何だ」
長兵衛は椀の粥を見た。
「異国の銀だ」
部屋が静まった。
禁制の外国取引。
米を外へ出し、銀を得る。
その金が札差や役人へ流れたなら、鷹見塾の金融腐敗とも繋がる。
「鷹見帳の元本は、弁財丸に積まれていた」
「なぜ帳面を船へ」
「江戸に置けば奪われる。長崎へ運ぶつもりだった」
「誰が」
「鷹見静山本人だ」
新之介は息を呑んだ。
「先生が」
「正確には、先生の使いだ」
「誰だ」
「真崎玄十郎」
玄斎が目を細める。
半九郎は今、再起館に戻っている。
父が相模屋の抜け荷を調べていたことは知っていた。
だが鷹見帳の元本を運んでいたことまでは、知らないかもしれない。
「玄十郎殿は、帳面を長崎へ運ぶ途中で襲われたのか」
「違う」
「では」
「弁財丸が戻った後、帳面の行方を追っていた」
「帳面は船とともに消えた」
「そうだ」
「沈んでいないなら、どこへ」
「知らぬ」
「またか」
「本当に知らぬ」
長兵衛は粥を一口食べた。
「だから探していた」
「水野隼人正も」
「水野だけではない」
「ほかに誰が」
長兵衛は答えなかった。
だが新之介には、一つの形が見え始めていた。
鷹見塾の帳面。
幕府の借財と役職売買。
米の抜け荷。
廻船問屋。
異国の銀。
海防掛。
これまで別々に見えた金の流れが、海で繋がっている。
「長兵衛」
「何だ」
「そなたは元本を見つけたら、どうするつもりだった」
「売る」
「誰へ」
「最も高く買う者へ」
「それで江戸が乱れても」
「帳面一冊で乱れる世なら、すでに乱れている」
「そなたは、いつも己を流れの外へ置くのだな」
長兵衛の手が止まる。
「何」
「人は損得で動く。世は嘘でできている。誰もが己に都合よく話す。そう申せば、そなた自身の責は薄くなる」
「事実だ」
「事実を盾にしている」
新之介は老人を見た。
「そなたも選んだ。米を捨てることを。玄十郎殿を斬らせることを。船員を火薬で消すことを」
「……」
「流れではない。そなたの選びだ」
長兵衛は粥へ目を落とした。
しばらくして、低く言った。
「若いな」
「よく言われる」
「若い者は、選べると思う」
「選べぬこともある」
「ならば」
「選べぬ中で、何を選ばなかったかは残る」
長兵衛は顔を上げた。
「鷹見静山も、似たことを申した」
「先生に会ったのか」
「一度だけ」
「いつ」
「十五年前」
「何を話した」
「帳面を売れと申した」
「先生に」
「違う。先生が私へ売れと申した」
新之介は耳を疑った。
「誰へ」
「世間へ」
「どういう意味だ」
「帳面の内容を、一部の役人や商人だけで握らせるな。写しを作り、広く出せと」
「なぜ、そなたへ頼んだ」
「私が金で動く男だからだ」
長兵衛は自嘲するように笑った。
「金で動く者なら、正しさを裏切っても、値が合えば仕事をすると思ったのだろう」
「したのか」
「途中までは」
「なぜやめた」
「帳面そのものの方が高く売れると気づいた」
長兵衛は椀を置いた。
「そこで私は、流れを選んだ」
新之介は何も言わなかった。
老人は初めて、自分の選びを認めた。
それは悔いではない。
告白ですらない。
だが責から逃げる言葉ではなかった。
「弁財丸を探せ」
長兵衛が言った。
「どこから」
「木更津の沖に、沈船を引き上げる者がいる」
「名は」
「海鼠屋甚八」
「商人か」
「潜りだ」
「海へ潜るのか」
「海底の荷を拾う」
伊助が顔をしかめた。
「海鼠屋は死んだと聞いた」
「死んだことになっている者ばかりだな」
長兵衛は薄く笑った。
「だが、その倅が仕事を継いでいる」
「どこにいる」
「木更津の請西村」
「なぜ教える」
「腹が満ちたからだ」
「それだけか」
「それだけではない」
長兵衛は新之介を見る。
「水野隼人正より先に見つけろ」
「なぜ」
「水野は帳面を燃やす」
「そなたは売るつもりだった」
「売れるものを燃やす者は嫌いだ」
最後まで商人の理屈だった。
だがその言葉の中に、わずかな恐れも見えた。
水野隼人正。
海防掛。
幕府の役人。
その者が鷹見帳を探している。
「水野様は、そなたが捕えられたことを知っているか」
「もう知っているだろう」
「ならば海鼠屋も危ない」
「だから急げ」
◇
夕刻、新之介は再起館へ戻った。
道場の戸を開けると、弟子たちが米を選っていた。
品川から運ばれた濡れた米の一部を、再起館でも手分けして扱っている。
清太郎が食用に回せる量を帳面へ記す。
吉松が砂と藁を分ける。
お園と志乃は洗った米を布へ広げる。
兵馬は慣れぬ手つきで小石を拾っていた。
「それは米ではない」
辰蔵が言う。
「分かっている」
「先ほどから米を捨てて石を残しています」
「似ている」
「どこがです」
新之介はその光景を見て、少し肩の力が抜けた。
奥座敷では宗次郎が横になっている。
半九郎はその傍らに座り、何かを話していた。
新之介が入ると、二人がこちらを見る。
「相模屋は」
半九郎が問う。
「口を開き始めた」
「父のことは」
「鷹見帳の元本を追っていた」
半九郎の顔が変わる。
「元本を」
「ああ」
新之介は、長兵衛から聞いた話をすべて伝えた。
弁財丸。
異国の銀。
木更津。
海鼠屋甚八の倅。
水野隼人正。
半九郎は長く黙った。
「父は、何も話しませんでした」
「守るためかもしれぬ」
「誰を」
「そなたを。帳面を。鷹見先生を」
「隠したことで、もっと多くの者が傷ついたかもしれません」
「そうかもしれぬ」
半九郎は父を責めているのではない。
守ろうとした者の沈黙が、別の危険を残すことを考えている。
宗次郎が布団から言った。
「父親は、子に何もかも話すものではない」
半九郎が振り返る。
「片桐殿」
「私の父も、斬った相手の名を言わなかった」
「それでよかったと思うか」
「分からぬ」
宗次郎は天井を見る。
「言われていれば、私はもっと早くそなたを憎んだかもしれぬ」
「私を」
「斬られた側の子としてな」
「逆ではないのか」
「罪を突きつける者を、人は恨むことがある」
半九郎は答えなかった。
宗次郎は続ける。
「だが、知らぬままでよかったとも思わぬ」
「では」
「今知った。それで何をするかだ」
新之介は宗次郎を見る。
傷つき、逃げ、戻った者の言葉だった。
「木更津へ行く」
半九郎が言った。
「父が追ったものを確かめたい」
「傷は大丈夫ですか」
「私の傷ではない」
「そうだったな」
宗次郎が起き上がろうとする。
「私も行く」
「寝ていろ」
新之介と半九郎の声が重なった。
宗次郎は眉を寄せる。
「父の罪に関わる」
「だからこそ、今は動くな」
新之介が言う。
「詮議も受けていない」
「逃げぬ」
「逃げぬことと、勝手に動くことは違う」
「戻るまで待てと」
「町方の裁きと、傷が塞がるのを待て」
「その間に帳面が燃える」
「それを防ぐのは私たちの役目だ」
宗次郎は不満そうに目を閉じた。
「立った者の責か」
「ああ」
「寝ている者の責は」
「治すことだ」
「楽ではないな」
「再起は楽ではない」
宗次郎は小さく笑った。
「それも、よく分かった」
◇
日が暮れる前、西徳寺から知らせが来た。
濡れた米を洗い、粥にしたものを、品川宿外れの長屋で配るという。
食べる者には事情を説明し、望まぬ者へは渡さない。
食後の様子も僧たちが確認する。
新之介は道場の弟子たちを連れ、品川へ向かった。
皆に見せるためである。
米を守るとは、蔵や船で戦うことだけではない。
最後に人の口へ届くまでを見なければならない。
炊き出しの場所には、すでに列ができていた。
朝の浜で見た女もいる。
腕には同じ子。
了順が一人ずつ説明する。
「海へ捨てられた米を拾い、何度も洗って粥にしました。塩気が残っております。寺の者と役人が試しておりますが、心配な方は受け取らずとも構いません」
列の中に迷いが生まれる。
何人かは離れた。
だが多くは残った。
朝の女の番が来る。
了順が同じ説明をする。
女は鍋の粥を見た。
「お侍様も食べたんですか」
「食べました」
新之介が答える。
「腹は痛くありませんか」
「今のところは」
女は少し笑った。
「では、いただきます」
椀を受け取る。
子が待ちきれず、母の袖を引く。
女は粥を冷まし、一口食べさせた。
子の顔がほころぶ。
「しょっぱい」
「嫌かい」
「ううん」
子はもう一口を求めた。
新之介はその姿を見た。
三番蔵。
戸田家。
品川沖。
船倉の火薬。
刀。
帳面。
多くの者が命を懸けた先に、一椀の粥がある。
だが、それを自分たちの手柄だと思ってはならない。
もともと米は、民のためにある。
奪われかけたものを戻しただけだ。
吉松が隣で言った。
「片桐さんにも見せたいです」
「傷が治ったら連れてこい」
「その頃には米がなくなります」
「ならば話せ」
「うまく話せるかな」
「見たままを話せばよい」
清太郎は炊き出しの数を帳面につけている。
「百二十三椀目です」
「三俵で、どれほどになる」
「水を多くすれば増えます」
「数字で申せ」
「まだ分かりません」
「分からぬのか」
「鍋ごとに濃さが違います」
清太郎は少し悔しそうに言った。
「次は最初に量を決めます」
「次があると思うな」
兵馬が言う。
「次があった時に困らぬようにです」
清太郎は答えた。
新之介はその言葉に頷いた。
再び起きぬようにする。
それでも起きた時に備える。
どちらも必要だった。
◇
夜。
再起館へ戻ると、門前に一人の武士が立っていた。
年は三十代半ば。
紺の羽織。
腰には大小。
供は二人だけ。
身なりは質素だが、立ち方に役人の固さがある。
「榊原新之介殿か」
「そうだ」
武士は懐から名札を出した。
「御船手頭支配、海防掛配下。青山新六郎」
新之介の目が細くなる。
「水野隼人正様の御家中か」
「左様」
「何用です」
「相模屋長兵衛の詮議について、確認したいことがある」
「奉行所へ行かれよ」
「そなたへ聞きたい」
「なぜ」
青山は再起館の中を見た。
弟子たち。
濡れた米を干した布。
奥座敷の宗次郎。
そして半九郎。
「鷹見静山の元帳を探しているそうだな」
「どこで聞いた」
「長兵衛が話した」
「早いな」
「海に関わる詮議は、海防掛にも届く」
「それだけか」
青山は答えず、一枚の書付を差し出した。
木更津の請西村に住む海鼠屋甚八の倅が、今朝、死体で見つかったという。
「いつ殺された」
「相模屋の船が品川へ戻る前だ」
「では私たちが海鼠屋の名を聞く前」
「そうだ」
「誰かが先に動いていた」
「水野様は、この件から手を引けと申されている」
新之介は書付を見た。
海鼠屋の死。
水野隼人正の命。
長兵衛は水野が帳面を燃やすと申した。
だが本当に水野が敵なら、配下を正面から寄越すだろうか。
「手を引かなければ」
新之介が問う。
「海防掛の役目を妨げる者として扱う」
「脅しか」
「警告だ」
半九郎が一歩前へ出た。
「海鼠屋を殺したのは水野様か」
青山の手が刀の柄へ近づく。
「言葉を慎め」
「父も同じように襲われた」
「真崎玄十郎の倅か」
「ご存じか」
「名だけは」
「水野様は父を知っていたか」
「答える必要はない」
新之介は半九郎を手で制した。
「青山殿」
「何だ」
「水野様に伝えていただきたい」
「申せ」
「海鼠屋が殺された今、手を引く理由が増えたのではない」
「何」
「追う理由が増えた」
青山の目が鋭くなる。
「役目を侮るな」
「侮ってはいない」
「ならば従え」
「役目と正しさが同じとは限らぬ」
青山はしばらく新之介を見た。
「鷹見静山の弟子は、皆そう申すのか」
「先生をご存じか」
「水野様が嫌っていた」
「なぜ」
「問いが多すぎるからだ」
玄斎が道場の奥から笑った。
「それは新之介も同じだ」
青山は玄斎を見る。
「黒川玄斎殿か」
「わしまで知られておるか」
「鷹見塾の者は、海防掛でも名が残っている」
「よい意味ではなさそうだ」
「役人にとって、問いを残す者は面倒です」
青山は再び新之介へ向いた。
「明朝まで待つ。それまでに手を引くと返答せよ」
「待たなくてよい」
「何」
「手は引かぬ」
青山の供が一歩動いた。
だが青山本人は刀を抜かなかった。
「そう答えると思っていた」
「ならば、なぜ来た」
「確かめるためだ」
「何を」
「長兵衛がそなたを高く買っている理由を」
「私は売り物ではない」
「誰もがそう申す」
青山は背を向けた。
「木更津へ行けば、次に死ぬのはそなたかもしれぬ」
「それも警告か」
「忠告だ」
「違いは」
「警告は役目。忠告は私個人の言葉だ」
新之介は青山の背を見た。
「そなたは敵か」
青山は振り返らない。
「疑うことと決めつけることは違うのであろう」
その言葉を残し、門を出ていった。
半九郎が追おうとする。
新之介は止めた。
「今は行かせろ」
「水野の手の者です」
「だからこそだ」
「なぜ」
「こちらの言葉を持ち帰らせる」
「警戒されます」
「すでにされている」
玄斎が縁側へ座った。
「面白くなってきたな」
「先生は楽しんでおられるのですか」
「面白いと楽しいは違う」
「同じように聞こえます」
「お前が疲れているからだ」
新之介は門の外を見た。
海鼠屋は殺された。
弁財丸の行方を知る者が、一人消えた。
だが倅が死んだからといって、何も残っていないとは限らない。
死んだ者の仕事場。
道具。
家族。
帳面。
海底から荷を拾う者なら、陸に残したものがあるはずだ。
「木更津へ行く」
新之介が言った。
半九郎が頷く。
「私も」
「源太郎へ知らせる」
「海防掛に止められます」
「だから町方の筋を通す」
清太郎が帳面を閉じた。
「何を探すのですか」
「弁財丸」
「船をですか」
「沈んでいない船を」
「でも、二十年前でしょう」
「船そのものがなくても、積み荷の行方は残る」
「米と同じですね」
「何がだ」
「海へ捨てられても、全部は沈まない」
新之介は少年を見た。
確かにそうだった。
千俵の米のうち、拾えたのは三俵。
ほとんどは失われた。
それでも三俵は人の口へ届いた。
証も同じかもしれない。
元帳のすべては見つからなくても、一枚。
一行。
一つの印。
海へ沈まなかったものがある。
そのわずかな残りから、流れを辿る。
「清太郎」
「はい」
「よいことを申した」
少年の顔が明るくなる。
「では一緒に」
「連れて行かぬ」
「なぜです!」
「木更津だ」
「算術はどこでも使えます」
「危険だ」
「品川の船にも乗りました」
「乗っていない」
「帳面は運びました」
「それで十分だ」
清太郎は不満そうに口を結んだ。
吉松が横から言う。
「戻ったら話してください」
「ああ」
「見たままを」
「そうする」
新之介は道場を見回した。
宗次郎。
半九郎。
志乃。
真崎。
弟子たち。
再起館は、戻る場所である。
だが同時に、送り出す場所にもなりつつある。
立ち上がった者を、いつまでも囲っておくことはできない。
外へ出て、己の責を果たさねばならない。
ただし、戻る門だけは開けておく。
「明朝、木更津へ向かう」
新之介は告げた。
「弁財丸と鷹見帳の元本を追う」
半九郎の目に、父への思いが宿る。
玄斎は木刀を膝へ置いた。
源太郎へ使いを出すため、辰蔵が立つ。
その時、奥座敷から宗次郎の声がした。
「榊原」
「何だ」
「戻ってこい」
新之介は振り返った。
「できぬ約束はせぬ」
「違う」
「何がだ」
「戻る場所を間違えるな」
新之介はしばらく宗次郎を見た。
そして頷いた。
「承知した」
夜の庭に、干された米の匂いが残っている。
海水を吸い、塩気を帯び、それでも人の腹を満たした米。
失われたものは元には戻らない。
だが、残ったものの行方は選べる。
帳面も、人も、家も同じである。
新之介は木更津の方角を見た。
海の向こうに、二十年前の船影がある。
その船が運んだのは、異国の銀だけではない。
江戸を支える金の仕組みと、多くの者が隠した罪であった。
(第三十五章へ続く)

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