――第五十四章 白紙に残る手――
杉浦弥之助を縛って寺へ戻る道は、これまでのどの帰り道よりも重かった。
火を止めた夜は、まだ軽い。火が見え、煙が上がり、人が走る。戦がそこにあると分かるからだ。だが白紙の口を塞いだあとの帰り道は違う。何も燃えていない。町も静かだ。紙はただ風に舞っただけで、血もほとんど流れなかった。なのに胸の内では、火事の後より長く煙が残る。
杉浦は黙ったまま歩いていた。
妹の方は、新兵衛が背を貸している。十五、六と見えたが、近くで見るともう少し年は上かもしれぬ。顔色は悪くない。だが細い指先に、長く同じ仕事だけをしてきた者の癖がある。紙を撫で、折り、揃える手だ。
「名は」
伊織が歩きながら娘へ問うと、娘は少し迷ってから答えた。
「……おまつ、と申します」
「杉浦の妹か」
娘は頷いた。
「はい」
新兵衛が横で言う。
「紙を選ってた」
おまつは目を伏せた。
「兄が持ってくる紙を、揃えていただけです」
その“揃える”という言い方に、伊織の胸が静かに痛んだ。
榎本は数を揃え、沼田は順を揃え、秋庭は白紙を揃え、杉浦は紙の見た目を揃えた。
皆、揃えているつもりで、何かを少しずつ削っていた。
揃えるという行いの中に、すでに刃が潜んでいるのかもしれない。
「妹に手を貸させるな」
伊織が杉浦へ言うと、男は前を向いたまま答えた。
「手を貸させたのではない」
「違うのか」
「妹は……書かぬ。ただ折るだけだ」
伊織はそれ以上言わなかった。
折るだけ。
白紙に最初の線は引かぬ。
だが、折り筋をつける。
それもまた、紙の運命を決める仕事だ。
寺へ着いたころには、もう夜が深くなっていた。
母と老僧が門のところで待っていた。こういう時、寺は本当に不思議な場所だと思う。何人連れて帰ろうと、とりあえず一度は中へ入れる。入れてから考える。だからこそ、“戻る場所”たりうるのだろう。
母は伊織の顔と、その後ろの杉浦兄妹を見て、何も問わずに言った。
「まず水を汲んでおいで」
それは伊織へではなく、志乃へ向けた言葉だった。
志乃はすぐに井戸へ走り、おまつのための水を用意し始める。
誰が敵で誰が味方かを問う前に、水を出す。
その順番を、母は迷わない。
老僧が杉浦を見た。
「ここへ戻ったか」
その一言は、妙な響きを持っていた。
責めでもなく、許しでもない。
ただ、戻ったという事実だけを指している。
杉浦は苦い顔で頭を下げた。
「戻るつもりでは……」
「人は、たいてい戻るつもりなどない」
老僧は静かに言った。
「だが気づけば、戻るしかないところへ来ている」
杉浦はそれ以上何も言えなかった。
新兵衛が、おまつを縁側へ座らせる。
志乃が持ってきた水を差し出す。
おまつは戸惑いながら受け取り、少しだけ口をつけた。
その指先が震えている。
紙を折る時には震えぬのだろう。
だが水の茶碗は、ずいぶん重いらしい。
「怪我はないのかい」
母が問うと、おまつは首を振った。
「ありません」
「ならよかった」
母はそれだけ言い、奥へ戻った。
どうしてこうも、母の言葉は余計なものを削ぎ落として残るのだろうと、伊織は思った。
怪我がない。ならそれでひとまずよし。
紙の流れも白紙の罪も、そのあとでいい。
その順番を忘れぬことが、人の側にいるということなのかもしれない。
その夜、杉浦だけは老僧の言いつけで本堂脇の小部屋へ座らされた。縄はかけぬ。だが逃げ道もない。寺の中で縄をかけぬのは、単なる情けではない。ここでまで“役”の顔をさせないためだろう。縄をかければ、人はすぐに罪人の顔になる。だが縄を解いたまま座らせると、どうしても人の顔へ戻る隙ができる。
伊織は、囲炉裏の火が静まる頃に杉浦の前へ座った。
「主水殿へ出す前に、聞く」
伊織が言うと、杉浦は少しだけ肩を動かした。
「何を」
「誰に紙を流した」
「秋庭、沼田、神田の納屋……」
「それだけではない」
杉浦は、少し笑った。
「分かっているなら、なぜ聞く」
「お前の口で言わせる」
しばらく沈黙があった。
杉浦の妹、おまつは別室で休まされている。志乃とお澪がついているらしい。物音はしない。囲炉裏の火の小さな鳴りだけが、ときどき部屋へ届く。
「……西筋の紙は」
やがて杉浦が言った。
「三つに分けて流した」
「三つ」
「一つは秋庭の白紙。これはもう潰れた」
「あと二つは」
「一つは、奉行所筋の控えだ」
伊織の目が細くなる。
「奉行所?」
「町方の下役に渡る控え文の紙です。多くはただの控えだが、中に一、二枚だけ“早く通したい文”を混ぜる。そうすれば、奉行所の方で勝手に急ぎと判断する」
また“少しだけ”だ。
紙を丸ごと偽るのではない。
ただ一、二枚を混ぜる。
それだけで流れが変わる。
「もう一つは」
杉浦は少しだけ躊躇った。
「寺社筋だ」
伊織の胸が小さく鳴る。
「寺社?」
「寺子屋や寺の控えに混ぜる。寺から出る文は、あまり疑われぬ」
老僧の言葉が蘇る。
寺は戻る場所だ。
だからこそ、人はそこを疑いにくい。
疑いにくいところは、流れを隠すのに向く。
あまりにも嫌な理だった。
「どこの寺だ」
伊織が低く問うと、杉浦は首を振った。
「名は知らぬ。寺そのものではなく、寺へ紙を納める小口が一つある。それがどこへ回るかは、私も見ていない」
伊織はすぐには言葉を返せなかった。
寺社筋。
もしそこまで汚れているなら、自分の戻る場所と“似た顔”をした口が、どこかにあるということだ。
それはこれまでのどの敵より、心へ冷たかった。
「どうしてそこまで紙を回した」
伊織が問う。
杉浦は、しばらく火の気のない畳を見ていた。
「止める手が、通す手だけでは足りぬからです」
「何だと」
「主水殿や主馬殿のように、“止める責を背負う”者は少ない」
杉浦は静かに言った。
「多くは、ただ楽な方へ紙を回したがる。急ぐ方へ。目立たぬ方へ。責の軽い方へ。だから、こちらから筋を作らねば、何も整わぬ」
伊織は、そこでようやくはっきりと怒りを覚えた。
この男は、守るために歪めたのではない。
人の“楽な方へ流れたがる癖”を見抜き、それを使って、自分の整えたい形へ世を寄せようとしたのだ。
それは帳合よりも、ある意味で冷たい。
人の弱さを知り、それを積極的に使っているのだから。
「お前は人を信じていない」
伊織が言うと、杉浦は顔を上げた。
「信じている」
「何を」
「人が、少しだけ楽な方へ流れることを」
その答えに、伊織はしばらく何も言えなかった。
まるで鏡を見せられた気がしたからだ。
榎本も、沼田も、秋庭も、徳兵衛も、そしてもしかすると自分も。
誰しも少しだけ楽な方へ流れたい。
それを止めるには、毎度立ち止まり、自分で自分を見ねばならぬ。
それを怠れば、白紙はすぐに濁る。
「お前は、どこで戻れなくなった」
伊織が、ほとんど自分に問うように言うと、杉浦は小さく笑った。
「妹の薬代が足りなくなった時です」
伊織は息を呑んだ。
「病なのか」
「肺を患っている。重くはない。だが紙の粉はよくない」
杉浦の声は平板だった。
平板だが、そこだけほんの少し人間の声に戻る。
「ならなぜ、紙を折らせた」
「他にできることがなかった」
杉浦は言う。
「紙は軽い。力がいらぬ。妹は器用だ。……最初はただの手伝いでした。だが手伝いの折り筋が、そのまま白紙の流れへ染みついた」
伊織は目を伏せた。
人の顔が、またそこにある。
妹の薬代。
軽い紙。
器用な手。
それがいつの間にか、流れの継ぎ目になる。
こういう話ばかり見てきた気がした。
悪が悪の顔でそこにあることは、もうほとんどない。
「……妹は」
伊織が言う。
「どこまで知っていた」
「紙が城へ入ることは」
杉浦は答えた。
「それが何に使われるかまでは、知らぬ」
伊織は、その答えを信じた。
杉浦は嘘もつく。
だが妹のことでは、逆に嘘が下手だ。
そこだけ、役より先に兄の顔が出る。
そのあと、伊織はおまつにも話を聞いた。
おまつは囲炉裏のそばで小さくなっていたが、声をかけるとちゃんと顔を上げた。
「紙は、いつから折っていた」
「……二年ほど前からです」
「何に使うか聞かなかったのか」
「兄は、役所へ入る控えや、寺へ納める紙だと言っていました」
「それだけか」
おまつは頷いた。
「私は折るだけです。折り方と、束ね方と、湿りの具合を見るだけ」
伊織は、お澪が写した折り筋の紙を思い出した。
この娘の手が、白紙の見えぬ流れを作っていた。
だが娘自身には、紙の先は見えていなかったのかもしれない。
折るだけ。
それだけのつもりで、人は流れに触れてしまう。
「兄が悪いことをしていると、気づかなかったか」
おまつは黙った。
長い沈黙のあと、ようやく言う。
「……気づきたくなかったのです」
その一言に、伊織は胸を衝かれた。
気づかぬのではない。
気づきたくない。
それもまた、人が少しだけ楽な方へ流れる形だ。
母の味噌の話が、ふと蘇る。
紙だけでは飯は食えない。
だが飯のために、紙の先を見ぬふりもできる。
伊織は、もうそれ以上は問わなかった。
夜更け、老僧と二人になった時、伊織はぽつりと言った。
「どこまで行っても、人の顔がある」
老僧は頷いた。
「そうでなければ、お前はとっくに誰かを斬って終えていた」
「終えられぬから、厄介です」
「終えられぬから、人の世だ」
老僧は静かに言った。
「お前は、帳面の歪みを見る目を得た。次は、人がどうしてそこへ手を出すのかを見る目を持たねばならぬ」
「それでは、甘くなりませんか」
「甘くなるのではない」
老僧は言う。
「深くなるのだ」
伊織は、その言葉を胸に受けた。
甘さと深さは違う。
深く見た上で止める。
それがこれからの役目なのだろう。
囲炉裏の火は、すでに小さい。
だがまだ消えてはいない。
波瀾万丈の物語は、白紙の口を一つ掴み、次には寺社筋へ手を伸ばそうとしている。
戻る場所に似た顔をした口。
そこへ踏み込むには、これまで以上に目を曇らせぬことが要る。
伊織は、火の赤を見つめながら静かに息を吐いた。
終わりは遠い。
だが、遠いからこそ歩き続けるしかない。
(第五十五章につづく)

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