――第五十一章 折り筋の行方――
紙は嘘をつかない。
ただし、嘘をつくのは紙ではなく、人である。
伊織は囲炉裏の火の前で、升屋紙舗の紙を何度も折り直しながら、そのことを確かめていた。お澪が言った通り、左が深く、折り返しの角に一度だけ爪を当てる癖がある。これは意図してつけた癖ではない。長年の手の動きが、そのまま紙に残ったものだ。だから消せない。
「同じ手が、別の紙にもあるかどうか」
伊織が呟くと、お澪は静かに頷いた。
「元の紙を漉く者ではなく、その紙を“整える者”の癖です。折る前の段階でついているものではありません」
「つまり」
新兵衛が横から言う。
「紙屋の奥か、その前か、そのどっちかってことだな」
「そうだ」
伊織は紙を畳んだ。
升屋紙舗は“継ぎ目”だ。
紙が集まり、整えられ、どこかへ流れていく場所。
だが折り筋の癖がそこで生まれているなら、さらに奥に“整える手”がいる。
そこを押さえなければ、白紙の流れは止まらない。
老僧が茶をすすりながら言った。
「今度はどこへ行く」
「上手へ」
伊織は答えた。
「紙の流れの上手。升屋へ入る前の口を探す」
「見当はついているのか」
伊織は少し考えた。
「神田の裏か、本所の川沿い……あるいは浅草の漉き場の近く」
お澪が静かに補った。
「紙を漉くところから升屋へ直に入ることは少ないです。一度、束ねて乾かし、選り分ける場所が必要になります」
「その“選り分ける場所”か」
伊織は頷いた。
選り分ける。
それはつまり、良い紙と悪い紙を分けるだけではない。
“使う紙”と“流す紙”を分けることでもある。
白紙の流れは、そこで一度、形を変えるはずだ。
「明日、そこを見る」
伊織が言うと、新兵衛が即座に立ち上がった。
「じゃあ今日は早く寝ろ」
「なぜだ」
「また夜中に帳面見て、朝ふらふらで出る気だろ」
伊織は言葉に詰まり、少しだけ笑った。
「……否定できない」
「だから寝ろ」
新兵衛は腕を組む。
「こういうのは、目が疲れてると見落とす」
その言い方に、老僧が小さく笑った。
「よいことを言う」
「俺はいつもいいこと言ってる」
新兵衛は平然としている。
伊織は、そのやりとりを見ながら、火の前から立ち上がった。
こうして人に止められるのも、悪くない。
自分だけで動いていた頃には、なかったことだ。
翌朝、伊織と新兵衛は本所の方へ向かった。
神田よりも川が広く、風が通る。
紙を扱うには都合のいい場所だ。
町の顔は静かで、商いの音も控えめだが、そのぶん裏の動きは見えにくい。
「どこから当たる」
新兵衛が問う。
「紙を乾かす場所」
伊織は答えた。
「漉き場そのものではなく、その後の“置き場”だ」
二人は川沿いを歩いた。
洗い場。
材木置き場。
小さな蔵。
どこも紙を扱えそうな場所だ。
だが“折り筋”をつける手は、ただの置き場ではない。
紙を一度開き、選び、折り、束ねる。
そのためには、ある程度の手間と目がいる。
やがて、川から少し入った裏道に、小さな納屋が並ぶ一角があった。
表には何の看板もない。
だが戸の隙間から、白い紙の端が見える。
しかも、その紙はただ積まれているのではなく、束ごとに少しずつ高さが違う。
「ここだな」
新兵衛が言う。
「ああ」
伊織は頷いた。
紙をただ積むなら、高さは揃う。
だが選り分けているなら、束ごとに厚みが変わる。
ここは“選り分ける場所”だ。
二人は納屋の裏へ回った。
小さな窓があり、そこから中の様子がわずかに見える。
男が二人。
一人は年配。
もう一人は若い。
年配の男が紙を広げ、光に透かし、端を揃え、折る。
その折り方。
左が深い。
角に一度だけ爪を当てる。
「……同じだ」
伊織が低く言う。
新兵衛が頷いた。
「元締めだな」
年配の男は、無駄のない動きで紙を束ねている。
ただの紙屋ではない。
長年、紙を“選んで”きた手だ。
その手が、どの紙をどこへ流すかを決めている。
若い男が、束ねた紙を箱へ入れる。
その箱には、小さく印がついている。
丸に短い線。
どこかで見た印だ。
伊織はすぐに思い出した。
神田の納屋。
秋庭が白紙を開いていた場所。
あの時、箱の隅に同じ印があった。
「つながったな」
新兵衛が言う。
「ああ」
ここで選り分けた紙が、升屋を経て、秋庭の手に渡る。
そして城中へ入る。
白紙の流れの“源”だ。
「押さえるか」
新兵衛が問う。
伊織は少し考えた。
ここを押さえれば、白紙は止まる。
だが同時に、もっと奥にいる者が消えるかもしれない。
主水の言葉が頭をよぎる。
“今すぐ出すべき文ではない”。
「まだだ」
伊織は言った。
「またか」
「ここは動かすな。流れを見たい」
「どこまで」
「この紙が、どこへ行くか」
新兵衛は溜息をついた。
「お前、ほんとに気が長くなったな」
「必要だ」
「まぁいい」
新兵衛は肩を回した。
「じゃあ、見張りか」
「そうだ」
二人は納屋の裏に身を潜めた。
しばらくして、若い男が箱を持って外へ出る。
箱は軽そうだが、中身は白紙だ。
軽くて、重い。
「行くぞ」
伊織が言い、二人は音を立てずに後を追った。
箱は川沿いを離れ、町の中へ入った。
人通りが増える。
行き先を隠すには都合がいい。
やがて、箱は一軒の商家の裏口へ運び込まれた。
表には小さく「升屋」とある。
また同じ名だ。
「どこまで続くんだ、この名前」
新兵衛が呆れる。
「名前はただの覆いだ」
伊織は言った。
「中身を見る」
二人は裏へ回り、戸の隙間から中を窺った。
そこには、見覚えのある顔があった。
岡野だ。
「……岡野?」
新兵衛が小さく呟く。
岡野は箱を受け取り、中の紙を確認している。
その動きは、押収する側のそれではない。
流れを“確認する側”の動きだ。
伊織の胸が、静かに冷えた。
岡野は味方だ。
主水の配下であり、これまで何度も手を貸してきた。
だが今、その岡野が白紙の流れの中にいる。
「どういうことだ……」
新兵衛が低く言う。
伊織は答えなかった。
まだ早い。
見たものだけで決めるのは、危うい。
岡野は紙を戻し、箱を奥へ運ばせた。
その顔は、いつもと変わらぬ。
冷静で、無駄がない。
だがその冷静さが、いまは別の意味を持って見えた。
(止める手か……通す手か)
伊織は、主水の言葉を思い出した。
どちらも同じ動きをする。
違うのは、その先だ。
「……まだ見る」
伊織は低く言った。
「岡野が何をしているのか、ここで決めるな」
新兵衛は頷いた。
「分かった」
二人は、さらに身を潜めた。
白紙の流れは、まだ終わっていない。
そしてその中に、味方の顔が混じり始めている。
波瀾万丈の物語は、また一段、深くなった。
(第五十二章につづく)

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