山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第四十一章

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――第四十一章 見えぬ刃の行方――

 帳面の刃は、音を立てない。

 伊織はその夜、囲炉裏の火が完全に落ちるまで、ひとりで帳面を繰っていた。榎本の帳面、木場の蔵から押さえた帳面、そして主馬から預かった別の帳面。それぞれの紙は違う筆で書かれ、違う手で綴じられている。だが流れは同じだ。米がどこから来て、どこへ消え、どこへ戻るか。その線が、紙の上で細くつながっていく。

 人の顔は一つずつ違う。

 だが腹の事情は似ている。

 その似たところに、刃は潜り込む。

 伊織は一枚の紙の上で指を止めた。

 “深口”と記された欄。

 そこに、小さく別の印が重ねて押されている。

 黒い桐でも、丸印でもない。

 細い三本線を、斜めに交差させたような印。

(……見たことがない)

 いや、正確には「はっきりと見たことがない」。

 どこかで一度、目の端にかかった気がする。

 だが思い出せぬ。

 こういう印は、意図して目立たぬように作られている。

 見ても覚えぬ。覚えても思い出せぬ。

 それが、次の流れの“印”だ。

 伊織は帳面を閉じ、静かに立ち上がった。

 夜は深い。

 だがこういう印は、夜のうちに確かめておかねば、朝には消える。

 消えぬとしても、形を変える。

 廊下に出ると、板の冷たさが足裏に伝わった。

「また紙の顔か」

 声がした。

 振り向くと、老僧が柱にもたれていた。

「起きておられたのですか」

「年寄りは、眠りが浅い」

 老僧はそう言い、伊織の手元の帳面を見た。

「新しい線が見えたな」

「……はい」

「追うか」

「追います」

 老僧は小さく頷いた。

「ならば、忘れるな」

「何を」

「紙は刃になるが、持つ手が鈍れば自分を切る」

 伊織はその言葉を胸に受けた。

 帳面を読むということは、ただ事実を並べることではない。

 どこで切るか、どこで止めるかを選ぶことだ。

 選びを誤れば、人を斬るだけでなく、自分も斬る。

「心得ます」

 伊織は一礼し、寺を出た。


 夜の江戸は、昼とは別の町である。

 灯の数が減り、人の声が落ち、足音だけが残る。

 だが帳面の流れは、むしろ夜に動く。

 見られぬ時間に、数は動く。

 伊織は深川へ向かった。

 昼間とは違い、蔵の戸は閉ざされている。

 だが完全に眠っているわけではない。

 戸の隙間から、わずかに灯が漏れる蔵がある。

 それが、夜の帳面を扱う場所だ。

 “深口”と記された蔵は、川沿いの外れにあった。

 看板はない。

 だが昼に見た荷の流れから、位置は割れている。

 伊織は足音を殺し、裏手へ回った。

 そこには、小さな戸があった。

 人一人がかろうじて通れるほどの戸。

 昼には気づかぬ。

 夜にだけ開く口だ。

 中から、低い声がする。

「……数は合っているな」

「ええ。榎本の分も、こちらで調整しました」

 伊織の眉がわずかに動いた。

 榎本の分。

 つまり、榎本が捕らえられたことを、すでに織り込んでいる。

 速い。

 あまりにも速い。

 中の声が続く。

「ならば次は北ではなく、西へ回せ」

「西……?」

「米は東で動かしすぎた。目が向いている。ならば西だ」

 伊織は、胸の奥で何かが冷えた。

 東――深川、品川。

 そこはもう押さえた。

 だから西へ。

 つまり、日本橋から神田、さらにその先。

 流れを変える。

 それも、榎本が捕らえられた“その日のうちに”。

(……帳合がいなくても、回る)

 伊織は、はっきりと悟った。

 帳合という“頭”を捕らえても、流れは止まらない。

 下がすでに、自分で回り始めている。

 それはもう、一人の悪ではない。

 習いだ。

 癖だ。

 世の中の“やり方”になりかけている。

 そのとき、背後で小さな音がした。

 振り返ると、新兵衛が立っていた。

「やっぱり来てやがったか」

 小声で言う。

「寝ていろと言ったはずだ」

「寝れるかよ」

 新兵衛は肩をすくめる。

「お前が紙の顔して出ていくと、ろくなことにならねぇ」

 伊織は苦笑した。

 だが来てくれて、内心では助かっていた。

「中は二人以上いる」

「分かってる」

「話は聞いたか」

「西へ回す、だろ」

 新兵衛は低く言った。

「つまり、まだ終わってねぇ」

「終わらぬ」

 伊織は答えた。

 そのとき、中の戸が開いた。

 男が一人、外へ出てくる。

 顔は見えぬ。

 だがその手に、小さな帳面がある。

 そして袖口に――

 あの印。

 三本線を斜めに交差させた印。

「……あれだ」

 伊織が呟く。

 新兵衛が頷く。

「追うか」

「追う」

 伊織は一歩踏み出した。

 男は気づいた。

 そして、逃げた。

 だがその動きは、木場の小男とも、榎本とも違った。

 無駄がない。

 迷いがない。

 まるで最初から、追われることを前提に動いている。

「速ぇな……!」

 新兵衛が舌打ちする。

 男は路地を抜け、橋へ向かう。

 橋を渡れば、人の流れに紛れる。

 伊織は、走りながら考えた。

 追いつけるか。

 捕らえられるか。

 いや、それより――

(こいつは“手”ではない)

 榎本のような手ではない。

 木場の小男のような使い走りでもない。

 流れを読んでいる。

 先を見ている。

(……次の“帳合”か)

 その考えが、胸を冷やした。

 橋の上で、男が振り返った。

 一瞬だけ、顔が見えた。

 若い。

 三十に届くかどうか。

 だが目が――

 あまりにも静かだった。

 帳合の男と同じ目。

 役としての目。

 次の瞬間、男は橋の下へ飛び込んだ。

 水音。

 夜の川は、黒い。

 流れも見えぬ。

 追えば命を落とす。

 伊織は橋の上で足を止めた。

 新兵衛が横で息を切らす。

「飛びやがった……!」

「追うな」

 伊織は言った。

「あれはもう、水の中の流れだ」

 しばらく、二人は橋の上に立っていた。

 川は何事もなかったように流れている。

 人の流れと同じだ。

 表では何も変わらぬ。

 だが底では、すでに次が動いている。

「見たか」

 新兵衛が言う。

「ああ」

「どうする」

 伊織は、川を見たまま答えた。

「追う」

「どうやって」

「流れで」

 新兵衛が苦笑する。

「また帳面か」

「帳面だ」

 伊織は言った。

「だが今度は、もっと深い」

 川の水が、静かに流れている。

 その流れの下で、見えぬ刃がまた形を変えた。

 波瀾万丈の物語は、ここからさらに深くなる。

(第四十二章につづく)

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