山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第三十七章

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――第三十七章 空俵の路地――

 新兵衛が走り出したとき、夕暮れの路地は一瞬だけ狭くなったように見えた。

 深川の蔵町は、昼のあいだは荷車と人足で賑わっているくせに、日が落ちると急に隙間が増える。隙間が増えるぶん、逃げる者には都合がいい。曲がり角一つ、板塀一枚、川へ抜ける細道一つで、人はたちまち見えなくなる。だからこそ、追う方は“背中”ではなく“癖”を見ねばならぬ。

 黒い帷子の小男は、まさにそういう逃げ方を知っていた。

 正面の大通りへは出ない。人の目が多いからだ。だが、あまりにも暗い裏路地ばかり選ぶこともしない。追手がそこを疑うと知っている。小男は、人の気配がまだ少し残る半端な路地だけを選んで走った。荷車の轍が残り、魚売りの水がまだ乾ききらぬ、そういう中途半端な道だ。

「待て!」

 新兵衛が叫ぶ。

 叫ぶのは脅しではない。

 叫べば相手は“追われている”ことを強く意識し、足が雑になる。

 雑になれば、癖が出る。

 伊織は、叫ばずにその後ろを追った。

 小男は一度も振り返らない。振り返れば遅れると知っているのだろう。だが左肩が、ほんの僅かに下がっている。木場の蔵で見た時もそうだった。左肩に何か癖がある。古傷か、荷を担ぎすぎた歪みか。逃げる時ほど、人は体に刻まれた本性を隠せぬ。

 路地を二つ折れた先で、小男は急に速度を落とした。

 いや、落としたというより、“止まる間”を作った。

(罠か)

 伊織の胸に、冷たい勘が走った。

「新兵衛!」

 声をかけた時には、もう遅かった。

 路地の脇の板戸が内側から弾かれ、棒を持った男が飛び出す。

 新兵衛の脛を狙う。

 新兵衛は半身でかわしたが、棒は肩口をかすめた。鈍い音。呻き。だが転ばぬ。転ばぬのが新兵衛だ。

「てめぇ……!」

 新兵衛が抜き打ちに短刀を返す。

 棒の男は一歩下がる。

 その隙に、小男がまた走る。

 伊織は止まらなかった。棒の男には構わず、小男の方を追った。ここで目を散らせば、また口が消える。主水の文を受けた今、追うべきは“流れ”だ。棒の男は堰だが、小男は流れそのものだった。

 小男は、川沿いの細道へ出た。

 そこには、荷を仮置きするための小さな土蔵が並んでいる。表札はない。だが一つだけ、戸口に破れた俵が置いてある蔵があった。口が開き、中の藁が少し見えている。俵の中身が米ではなく、藁だけだと一目で知れる。

(空俵の蔵だ)

 小男はその蔵へ飛び込んだ。

 伊織も続いて入る。

 中は薄暗い。

 藁の匂いが濃く、米の匂いが薄い。

 俵は山のように積まれているが、その半分以上が軽い。

 見れば分かる。

 米を入れた俵は、表面の張りが違う。

 これは張りがない。空だ。

「見つけたぞ」

 伊織が低く言うと、蔵の奥から小男の笑い声が返った。

「見つけてどうする」

 その声に、もう逃げの色はなかった。

 逃げ切れぬと悟った者の声ではなく、ここまで誘い込むのが目的だった者の声だ。

 伊織は足を止めた。

 俵の山の陰に、小男の影が見える。

 だが一つではない。

 もう二人いる。

 気配がある。

 音を殺しているが、藁の擦れる匂いと呼吸が隠しきれていない。

 背後で新兵衛が飛び込んできた。肩を押さえているが、目は死んでいない。

「やっぱり巣か」

「ああ」

 伊織は答えた。

「空俵の巣だ」

 小男が俵の陰から姿を見せた。

 木場で逃した黒い帷子の男。

 顔は痩せ、頬がこけている。

 目だけが異様に据わっていた。

「黒い桐が落ちても」

 男は言った。

「腹は減る。米は動く。だから次の口が要る」

「お前が口か」

 伊織が問う。

 男は首を振った。

「違う。俺ぁただの手だ」

「手なら、切れば済む」

「切っても、反対の手が出る」

 男は平然と言う。

 帳合の言い草に似ている。

 つまり、すでに次の理屈を受け継いでいる。

 木場の蔵が押さえられたその日のうちに、次の流れを動かすための手がここで動いていたのだ。

 新兵衛が吐き捨てるように言った。

「腹減った奴は飯を食やぁいい。人を騙してまで抜くな」

 小男は鼻で笑った。

「誰も騙してねぇよ。帳面の上では数が合ってる」

 伊織の目が細くなる。

「誰が帳面を直している」

「言うと思うか」

 伊織は答えなかった。

 代わりに蔵の中を見た。

 俵。藁。秤。小さな机。墨。帳面。

 そして、壁際に積まれた俵のうち一つだけ、上に墨の印がついている。

 黒い桐ではない。

 ただの丸。

 だが、その丸が妙に丁寧だ。

 主水の言葉が蘇る。

 表の下を見よ。

 次の帳面は、前の帳面の影に隠れる。

「新兵衛」

 伊織が小声で言う。

「あの丸印の俵を見ろ」

 新兵衛がちらりと目を走らせる。

 小男は気づいていない。

 いや、気づいても意味が分からぬと思っているのかもしれぬ。

 伊織はわざと一歩踏み出した。

「お前らは、空俵を混ぜて差分を作る。それで抜いた米はどこへ流す」

「さぁな」

「品川か」

「違う」

「では日本橋か」

 そこで、小男の瞼がほんの僅かに動いた。

 違う。

 なら別の口だ。

 もっと地味で、もっと気づかれぬ口。

「……寺か」

 伊織がわざと口にした。

 小男があからさまに顔をしかめた。

 違う。

 その反応は、本当に違うものへの苛立ちだ。

「兄貴」

 俵の陰にいるもう一人が小声で言った。

 “兄貴”。

 つまりこの小男が頭だ。

 帳合ではない。

 だが“次の手”の頭ではある。

 新兵衛が、くいと顎をしゃくった。

「分かったぞ、伊織」

 伊織はわずかに頷く。

「藩だ」

 その二文字に、蔵の空気が変わった。

 小男の目が細くなる。

「何だと」

「抜いた米を、藩の御用蔵へ戻してる」

 伊織は静かに言った。

「市中へ回す米を空にし、差分を別口で藩へ戻す。帳面の上では市中の流れ。実際には藩の食い扶持を支えている。……内膳が倒れた今、藩の中にまだ息のかかった者がいるな」

 小男は答えない。

 だが沈黙が答えだった。

 新兵衛が低く笑う。

「なるほどな。藩が汚れたまんまじゃ終わらねぇってわけだ」

 伊織は胸の奥が重くなるのを感じた。

 藩主は意識を取り戻し、半十郎もいる。

 だが藩の中の下支えまで、すぐには清くならぬ。

 腹が減れば、誰かがまた帳面を歪める。

 しかも今度は“悪”としてではなく、“藩を立て直すため”の名目で。

 内膳の理屈の残り火が、もうここに広がっているのだ。

「誰だ」

 伊織が問う。

「藩の誰へ流している」

 小男は、そこでようやく笑った。

 乾いた笑い。

 木場の帳合に似ているが、もう少し若い。

 役ではなく、これから役になろうとする者の笑いだ。

「言っただろ」

 小男は言う。

「切っても反対の手が出る」

「手の名を言え」

「言わねぇ」

 その瞬間、俵の陰からもう一人が飛び出した。

 短い鎌。

 藁を切る鎌だ。

 だが人の腱も切れる。

 新兵衛が短刀で受ける。

 鈍い音。

 伊織は小男へ飛び込む。

 狭い蔵の中、俵の山の間では刀は長すぎる。

 伊織は抜かず、柄で相手の脇を打った。

 小男がよろめく。

 そこへ伊織の膝が入る。

 俵が崩れ、藁が舞う。

 蔵の中に、乾いた藁の匂いがさらに広がる。

 火はない。

 だがこの藁の匂いは、火を連れてくる匂いだ。

 長居は危ない。

「岡野殿!」

 伊織が叫ぶ。

 外で待っていた岡野が戸を押し開ける。

 同時に町方が二人、飛び込んでくる。

 小男の逃げ道は塞がれた。

 だが、小男はそこで観念しなかった。

 懐から小さな袋を取り出し、地面へ叩きつける。

 白い粉。

 まただ。

 志摩屋でも、千鳥屋でも、蔵でも見た粉。

 目潰し。

 伊織はとっさに袖で顔を覆う。

 新兵衛が悪態をつく。

 町方の一人が目を押さえてしゃがみ込む。

 その隙に、小男が俵の山を蹴り倒した。

 俵が崩れ、蔵の戸口を塞ぐ。

 藁が舞い、視界が白くなる。

「逃げるぞ!」

 小男の声。

 裏口へ。

 やはりある。

 空俵を捌く蔵に、抜け道がないはずがない。

 伊織は涙の滲む目で、崩れた俵の隙間を見た。

 丸印の俵が床に転がっている。

 印。

 次の帳面のしるし。

 こいつだけは逃がしてはならぬ。

 伊織は俵を抱えた。

 重い。

 空俵のはずが重い。

 つまり中に米ではなく、別のものが入っている。

「伊織!」

 新兵衛が叫ぶ。

 小男を追うか、俵を取るか。

 また選ばせる。

 伊織は、ほんの一瞬だけ迷った。

 だが迷いは一呼吸で済んだ。

 主水の言葉。

 表の下を見よ。

 流れの印を押さえろ。

「新兵衛、追え!」

 伊織が言った。

「俺はこいつを持つ!」

 新兵衛が舌打ちしながらも頷き、裏口へ飛び出す。

 岡野も後を追う。

 町方の一人が残り、伊織とともに俵を開けた。

 藁をかき分ける。

 中から出てきたのは、米ではなかった。

 小さな帳面が束になって詰め込まれている。

 しかも藩の印が押された紙も混じる。

 藩の御用蔵への払い出し札。

 だが日付が合わぬ。

 書き換えの跡がある。

「……やはりだ」

 伊織は低く言った。

 藩の中に、まだ次の内膳がいる。

 いや、内膳ほど大きな者ではないかもしれぬ。

 だが小さな手が何本も集まれば、また一つの腹になる。

 蔵の外で、怒声と足音が遠ざかる。

 新兵衛たちは追っている。

 だがすぐには戻らぬだろう。

 伊織は俵の中の帳面束を抱えた。

 この一抱えで、また新しい波が立つ。

 凪の底から、次の嵐が顔を出したのだ。

 深川の米の匂いの中で、伊織は静かに息を吐いた。

 終わらない。

 だが、それでいい。

 終わらぬからこそ、見張る目が要る。

 波瀾万丈の物語は、また一歩、別の深さへ降りていく。

(第三十八章につづく)

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