山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十七章

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――第十七章 隠し蔵の灯――

 日本橋の夜は、江戸の腹の匂いがする。

 魚河岸の生臭さでも、深川の湿り気でもない。銭の匂いだ。帳面の匂いだ。人の欲が乾いて、空気に粉のように漂っている。橋の上を行き交う足音は絶えず、商家の灯は遅くまで消えない。眠らぬ町ほど、闇は深い――そう老僧が言った気がした。

 新兵衛は、日本橋の裏通りに身を潜めていた。耳に入るのは、荷車の軋み、魚の掛け声、女中の笑い声。それらが混じって一つの濁流になる。濁流は目を眩ませる。だが濁流の中ほど、流れは決まっている。土井の隠し蔵に金が流れるなら、必ず“目を避けた流れ”がある。

 志摩屋の腹で聞き出した合図――三つ巴。

 そして、角の欠けた札。

 新兵衛は、その二つを胸の中で転がしながら、町の角という角を見ていた。合図は門にぶら下げる札とは限らない。桶の印、提灯の陰、荷札の折り目。江戸の裏は、言葉より印で動く。

 小半刻ほど張ったころ、見覚えのある男が通りを横切った。志摩屋の手代――昼間、裏口で見たあの細身の帳面男に似た背だが、顔は違う。だが歩き方が同じ。帳面の歩き方。まっすぐに急がず、しかし迷わない。

 男は日本橋から少し外れた、蔵の並ぶ一角へ入った。蔵が並ぶ道は静かで、表の賑わいが嘘のように薄い。新兵衛は距離を取り、影のようについていった。

 蔵の一つの前で、男が立ち止まった。扉は分厚く、表札もない。だが軒下の縄に、小さな木札が吊られている。三つ巴の刻み。角が欠けている。

(これだ)

 新兵衛は息を殺した。土井の隠し蔵。

 こういう蔵は、表向きは大店の倉庫だが、実際は勘定所の裏金が溜まる腹袋だ。腹袋を裂けば腹が痛む。腹が痛めば、土井も動かざるを得ぬ。

 男が扉を叩いた。二度、短く。中から、鍵の鳴る音。扉が少し開き、男が滑り込むように入る。扉はすぐ閉じた。

 新兵衛は、そこで動かなかった。動けば捕まる。捕まれば伊織に繋がる。伊織は今、志乃を取り戻して寺へ向かっているはずだ。ここで新兵衛が捕まれば、土井は全てを握る。握らせてはならぬ。

 新兵衛は、腹を決めた。

 “盗む”のではない。

 “記す”のだ。

 帳面を盗めば、追われる。だが帳面の中身を写せば、追われても残る。土井の刃は帳面で斬る。ならばこちらは帳面で縛る。

 新兵衛は近くの空き地の陰へ入り、懐から小さな炭筆と紙片を出した。流れを写す準備だ。蔵に出入りする者の数、荷の形、時刻、印――すべて記す。命を賭けるなら、こういう地味な仕事を賭けねばならぬ。刀を振るより骨が折れる。

 間もなく、蔵の扉がまた開いた。今度は荷が出た。小さいが重い。二人が担いでいる。荷札は白い。だが角が欠け、三つ巴の印が押してある。荷を受け取った男は、町人風の着物だが目が鋭い。役人の匂いがする。勘定所の手先だろう。

 新兵衛は、その顔を覚えた。顔を覚えるのは、刀を抜く前の仕事だ。

(どこへ運ぶ)

 荷は、川へ向かった。日本橋は川の町だ。川を使えば目を避けられる。新兵衛は尾けた。川沿いの舟着き場で、小舟が待っていた。荷は舟へ積まれ、男が乗り込む。舟は暗い水路へ滑り出す。

 新兵衛は追わなかった。追って舟を失えば、蔵の位置を失う。位置を失えば、またゼロだ。新兵衛は蔵に戻り、出入りをさらに記した。荷は一つではない。夜のうちに三つ、四つと出ていく。出ていくたび、印が同じ。つまり、土井の金は分散して流れている。

(腹の中で回してやがる)

 新兵衛が歯を鳴らした、そのとき――背後で、囁き声がした。

「やっぱりいたか」

 新兵衛は背筋を凍らせた。振り向くより先に、短刀が首筋へ触れた。冷たい。狐火の刃だ。

「動くなよ、久世」

 声は低く、笑いを含んでいる。主膳の笑いでも土井の笑いでもない。狐火の笑いだ。火事場の笑い。

「久世新兵衛。お前、しつけの悪い犬だな」

 新兵衛は笑った。動けぬ状況で笑えるのは、底を知っている者だけだ。

「犬なら噛むぞ」

「噛めるなら噛んでみろ。――だが、ここは日本橋だ。噛めば血が流れる。血が流れれば町方が動く。町方が動けば、土井は帳面を燃やす。お前の努力は灰だ」

 狐火は、言葉で刃を入れてくる。土井の真似だ。腹が同じなら、刃も似る。

「目的は何だ」

 新兵衛が低く言った。

「お前を連れて行く。土井が待ってる」

「土井が俺なんぞ待つか」

「待つさ。お前は伊織の片腕だ。片腕を取れば、伊織は斬れぬ」

 新兵衛は息を吐いた。

(伊織のやつ、志乃を連れて逃げてる。今ここで俺が捕まれば、寺が危ねぇ)

 新兵衛は決めた。ここで捕まるわけにはいかない。逃げるのではない。逃げる形を作る。

 新兵衛は、ゆっくりと手を上げた。抵抗の手ではない。降参の手だ。

「連れて行け」

 狐火が笑う。

「素直だな」

「素直に見せるのが俺の芸だ」

 その瞬間、新兵衛は足元の雪ではなく、地面に撒いていた炭の粉を蹴った。昼間に拾った炭を砕いて撒いておいたものだ。粉が舞い、闇がさらに黒くなる。狐火が一瞬目を細める。その隙に新兵衛は体を沈め、短刀の線を外して前へ転がった。

 狐火が舌打ちし、追う。だが新兵衛は蔵の影から影へ走り、荷車の列へ飛び込んだ。荷車が動けば、追手の足が絡む。人混みは盾だ。江戸の端と違い、日本橋の人混みは武家も狐火も躊躇する。目立てば、町方が来る。町方が来れば、土井が困る。

 新兵衛は、息を切らしながらも笑った。

(困れ、土井。困らせるために俺は走る)

 だが、その瞬間――背後から肩を掴まれた。

 振り向くと、町人風の男が二人。だが目が役人。腕が強い。狐火ではない。勘定所の手だ。狐火が前、勘定所が後ろ。逃げ道が塞がる。

「久世新兵衛だな」

 男が低く言った。

「土井主計様がお呼びだ」

 新兵衛は歯を食いしばった。狐火だけなら、刃を交わせる。だが役人の手は刃ではない。縄で縛る。縄は町方を使い、同心を使い、正義の顔をする。正義の顔は厄介だ。

(ここで捕まるか)

 新兵衛は一瞬で計算し、次の瞬間、笑った。

「呼ばれたら行くのが礼儀だ。だが、その前に――」

 新兵衛は懐から紙片を一枚抜き取り、口に含んだ。噛み砕く。墨の味が苦い。だが飲み込む前に、舌の下へ押し込んだ。全部は飲まぬ。半分だけ隠す。証を残すためだ。

「おい!」

 役人の男が新兵衛の顎を掴むが、遅い。紙片の半分は飲み込まれた。半分は舌の下に残る。新兵衛の目が笑う。

「帳面は……腹の中だ」

 役人が顔を歪めた。

「連れて行け」

 新兵衛は腕を取られ、裏通りへ引きずられた。蔵の影を抜け、日本橋の灯が遠ざかる。腹の匂いが濃くなる。土井の腹の奥へ、また一つ駒が吸い込まれていく。


 一方その頃、伊織は志乃を連れて、老僧の寺へ戻っていた。

 志乃は走り疲れ、足が震えていた。だが倒れぬ。倒れればまた連れていかれると知っている。恐れが体を支える。

 寺の門を叩くと、老僧がすぐに出てきた。夜目の利く目で伊織の顔を見る。

「目が赤いな」

「粉を投げられた」

「志摩屋だな」

 老僧は志乃を見ると、黙って頷いた。

「入れ」

 庫裏へ入ると、母がいた。新兵衛が連れてきたのだろう。母は志乃を見るなり、声を上げずに抱きしめた。声を出せば崩れる。だから声を出さずに抱きしめる。それが母だ。

 お澪も奥の布団で起き上がろうとしていた。顔色はまだ悪いが、目は生きている。

「……志乃さん……?」

 お澪がかすれ声で言う。志乃が驚いたようにお澪を見る。説明している暇はない。だが人は、名を呼べば繋がる。

「生きている者が増えた」

 老僧が静かに言った。

「その分、狙われる」

 伊織は頷いた。

「新兵衛が日本橋へ行った」

 老僧は目を細めた。

「戻らぬかもしれぬ」

「戻らせる」

 伊織は低く言った。言葉にして、刃にする。

 そのとき、寺の外で小さな合図の笛が鳴った。短く二度。狐火の合図ではない。鳶の若い衆の合図だ。老僧が顔を上げる。

 若い衆が駆け込み、息を切らして言った。

「伊織さん! 新兵衛兄ぃが――捕まったって噂が回ってます! 日本橋の辺りで、勘定所の手に!」

 伊織の胸が、ぎり、と鳴った。

(やられたか)

 志乃が震える声で言った。

「兄さま……」

 伊織は志乃の頭に手を置き、短く言った。

「ここを守れ」

 志乃の目が見開かれる。

「守れ、って……」

「守るんだ。母も、お澪も、寺も。守る。――俺は取り返しに行く」

 母が言った。

「伊織、無茶を――」

「無茶をしなければ、無茶な者に勝てぬ」

 伊織は立ち上がり、懐の帳面写しと主膳の印形袋を確かめた。餌と牙。土井の腹へ刺さるもの。新兵衛を取り返すには、こちらも腹を刺すしかない。

 老僧が静かに言った。

「伊織。行くなら、ひとつ覚えておけ」

「何だ」

「帳面の刃は、血を見せぬ。だが血を見せぬ刃ほど、持ち手が多い。土井の刃は、土井だけのものではない。――町方も、藩も、志摩屋も、狐火も、皆が刃を握っている」

 伊織は頷いた。

「なら、刃の柄を折る」

 老僧が目を細めた。

「柄を折れば、刃は落ちる。……だが刃は落ちても、人の欲は落ちぬ」

「欲は落ちぬ。だが、欲に人を殺させぬ」

 伊織はそう言って、夜の江戸へ踏み出した。

 日本橋の蔵影は、今夜いっそう濃い。

 そしてその影の中に、新兵衛の命が吊られている。

 波瀾万丈の嵐は、ついに“取り返すための嵐”へ姿を変えた。

(第十八章につづく)

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