――第十五章 志摩屋の腹中――
敵の懐は、敵がいちばん油断する場所だ。
伊織がそう言ったとき、新兵衛は鼻で笑ったが、笑いの奥に焦りがあった。江戸の底で生き残ってきた男ほど、危ない橋の匂いを嗅ぎ分ける。だが危ない橋を渡らねば、渡った先の景色は見えぬ。景色を見ねば、帳面の刃は止まらぬ。
舟は水路を抜け、深川へ近づいた。夕方の川面は鈍い光を返し、舟運の声が遠くに混じる。母は背を丸め、志乃は伊織の袖を握りしめている。二人とも、まだ状況を飲み込めていない。飲み込めるほどの余裕がない。
「……兄さま、ここはどこ」
志乃が震える声で聞いた。
「江戸だ」
伊織は短く答えた。余計な言葉は危険を増やす。だが母の目が、伊織を静かに責めている。なぜこんな道へ踏み込んだのか。責めではない。問いだ。母の問いは、刃より重い。
「伊織」
母が呟いた。
「人の道を踏み外すなよ」
伊織は、胸の奥がきしむのを感じた。踏み外している。すでに幾度も。火をつけ、人を殴り、血を流させ、逃げるために嘘をつき、敵の懐へ入ろうとしている。それでも踏み外さぬ道など、もう残っていない。
「踏み外さぬために、踏み込む」
伊織はそれだけ言った。母は言葉を続けなかった。続ければ、泣いてしまうのだろう。
深川の岸に着くと、新兵衛が待たせていた男がいた。志摩屋の裏を出入りする荷担ぎ――名を吾助という。腕は太いが目が細く、口が薄い。金に弱い顔だが、金を嗅ぐ鼻は利く。
「久世さん、こいつらか」
吾助は母と志乃を見て、眉をひそめた。
「女を連れて志摩屋に入る気か。正気じゃねぇ」
「正気じゃねぇから、生き残れる」
新兵衛が吐き捨てた。
吾助は舌打ちしながらも、伊織の差し出した銭を見て目を細めた。金で動く者は、金でしか動かぬ。
「裏口は夜のほうが通しやすい。だが今夜は志摩屋が警戒してる。最近、いろいろあったからな」
「いろいろの中心に、俺がいる」
伊織が言うと、吾助は苦笑した。
「そうらしい。……だが入れなくはねぇ。志摩屋の蔵番に、俺の借りがある。あいつは“帳面に残らねぇ荷”を通すとき、目を瞑る」
「その蔵番を通せ」
「通すには、荷が要る。女二人を荷と見せるのか?」
吾助の言葉が棘のように刺さる。荷。人を荷と言う世界に、伊織は踏み込んでいる。踏み込んでいるからこそ、言い返せない。
伊織は志乃の肩を見た。志乃は怯えているが、気丈に唇を結んでいる。
「荷は俺が背負う」
「お前が?」
「母は病人だ。志乃は手代の女房のふりをさせる」
「無茶だ」
「無茶を通すために来た」
吾助は首を振ったが、やがて諦めたように言った。
「わかった。こっちだ。……だが、志摩屋の腹に入ったら、出るのは難しい。腹に飲まれりゃ骨も残らねぇ」
「骨が残らぬなら、腹を裂く」
伊織は低く言った。新兵衛が横で、ぞくりと笑った。
志摩屋の裏手――材木の匂いと乾物の匂いが混じる路地に、夜の影が濃く落ちていた。表の灯は明るい。客が出入りし、番頭の声が響く。だが裏は別の町だ。灯が少なく、足音が静かで、言葉が短い。
裏口の木戸には、蔵番が立っていた。顔は無表情。目だけが動く。武士ではないが、武士の刀を恐れぬ目だ。金の目である。
「吾助か」
「おう。荷を通す」
「帳面は」
「残らねぇ荷だ」
蔵番は伊織を見た。目が伊織の顔を一瞬で測る。どこかで見た顔だ、と思っているのがわかる。伊織の名はもう江戸の裏で流れている。だが蔵番は、その名を口にしない。口にすれば面倒が増えると知っている。
「……通せ」
蔵番が木戸を開けた。
伊織は母を背負った。母は軽い。軽すぎる。生きる力が削れている重さだ。志乃は手拭いで顔を半分隠し、吾助の後ろに付く。新兵衛は少し離れて、別口から入る段取りだ。四人で入れば目立つ。だから別れる。別れることが、守ることになる。
木戸を抜けると、蔵の中は暗く、乾物の匂いが鼻を刺した。昆布、鰹節、干し椎茸――表の商いの匂い。だがその奥に、金属の匂いが混じる。銭の匂いだ。帳面の匂いだ。
蔵の奥に、さらに小さな戸があった。蔵番が囁く。
「そこを抜けりゃ、裏の座敷だ。……余計な目がある。気をつけろ」
「目があるなら、目を潰す」
伊織が言うと、蔵番は鼻で笑った。
「ここで目を潰すと、手が伸びる。潰すなら、首を潰せ」
蔵番の言葉には、江戸の真理があった。だが今は首を取る時ではない。名と帳面を取る時だ。
伊織は戸を押し開け、裏の座敷へ入った。
座敷は意外に整っていた。畳は新しく、障子は白い。だが白いものほど、汚れが目立つ。汚れを隠すために白いのだ。
そこにいたのは、志摩屋の番頭――あの太った商人風の男ではない。もっと細身で、目が鋭く、口元が薄い男だ。帳面を抱え、筆を走らせている。役人のような手つき。商人の皮をかぶった役人――土井の匂いがする。
「……誰だ」
男が顔を上げた。伊織の背の母を見、志乃を見、吾助を見た。状況が瞬時に頭の中で組み立てられていく。
「荷だ」
吾助が言った。
「荷?」
男の目が細くなる。
伊織は母を背負ったまま、低い声で言った。
「松代藩の者だ。富岡主膳の印形を預かっている」
男の顔色が、ほんの僅かに変わった。富岡主膳の名は、志摩屋の裏にとっても重い。土井の口へ繋がる名だ。
「……印形?」
「ある」
「見せろ」
「見せる代わりに、土井主計に会う」
男は笑った。
「会えると思うか」
「会える。会わせる。会えねば――」
伊織は帳面の写しの存在を思い出した。土井が渡した餌。餌であるなら、こちらも餌にする。
「勘定所の帳面写しを、藩邸へ渡す」
男の笑いが止まった。目が凍る。帳面が動けば、首が動く。志摩屋の裏が揺れる。土井の腹が揺れる。
「……お前は、どこまで知っている」
「知っているのは名だ。名だけでは倒れぬのも知っている。だから帳面が要る」
男はしばらく黙り、やがて言った。
「吾助、下がれ」
吾助が舌打ちし、志乃に目配せして出ていく。志乃は伊織を見た。目が揺れる。伊織は小さく頷いた。大丈夫だ、と言えない代わりに、頷きで繋ぐ。
座敷に残ったのは、伊織と母と、帳面の男だけになった。
「お前の名は」
男が言う。
「榊原伊織」
男は鼻で笑った。
「噂の浪人か。狐火を振り回し、藩邸まで荒らした」
「荒らしたのは俺ではない。荒れていた」
「言葉遊びはいい」
男は机の引き出しから、小さな箱を出した。中に印形がいくつも入っている。志摩屋の裏の印。勘定所の符牒。どれも命の鍵だ。
「富岡主膳の印形袋を出せ」
伊織は懐へ手を入れた。だが出さない。出せばここで奪われる。
「土井主計へ繋げ」
「繋げば、お前は死ぬ」
「死ぬのは構わぬ。だが母と妹は死なせぬ」
男の目が、伊織の背の母へ向いた。母は黙っている。黙っているが、震えが伊織の背に伝わる。
「……人質か」
男が囁く。
「人質ではない。守るものだ」
「同じだ」
男は冷たく言った。
そのとき、障子の外で小さな音がした。畳を擦るような足音。忍び足。伊織は気づいた。外に誰かいる。吾助ではない。もっと静かだ。狐火の足だ。
男も気づいたらしい。だが顔色は変えない。むしろ、わずかに口元が歪んだ。
「来たな」
「誰が」
「お前を迎えに来た者だ」
障子が、すっと開いた。
入ってきたのは、黒装束の男――ではなかった。紋付の羽織を着た武士。顔を半分だけ影に隠し、目が冷たい。
神谷内膳の側近――藩邸で伊織を案内したあの男だ。
「榊原伊織」
男は低い声で言った。
「内膳様がお呼びだ」
伊織の胸が冷えた。内膳の手が、志摩屋の腹の中にまで伸びている。志摩屋の裏と藩邸は、一本の縄で結ばれている。
「なぜここにいる」
「お前が来ると思っていた」
男は淡々と言った。
「土井主計もな」
伊織は、背筋がぞくりとした。土井は餌を撒き、伊織がここへ来ることまで計算している。志摩屋の裏へ逃げ込めば、そこが出口になると思った。だが腹の中に入っただけだった。出口は腹の外ではなく、腹の奥――土井のところへしかない。
帳面の男が、静かに言った。
「榊原。印形袋を置け。そうすれば母上と妹君は助かる」
内膳と同じ言葉。土井と同じ匂い。折れるものから折る。
伊織は、目を閉じかけた。だが閉じなかった。閉じれば、闇が勝つ。闇は目を閉じた者から食う。
「……母」
伊織は背の母へ小さく声をかけた。
「怖いか」
母は震える声で言った。
「怖いさ」
「なら、目を開けていてくれ」
母の手が、伊織の肩をそっと握った。
「伊織……生きろ。生きて……志乃を守れ」
その言葉が、伊織の腹を決めた。守るために、いま折られてはならぬ。折られぬために、ここで一度、刃を見せねばならぬ。
伊織は母をそっと畳へ降ろし、身を翻した。
刀が抜けた。鞘鳴りが、座敷に響く。白い障子に影が伸びる。
「内膳の犬よ」
伊織は低く言った。
「ここは志摩屋の腹だ。藩の犬が勝手に吠える場所ではない」
側近の男の目が細くなる。
「吠えるのは犬ではない。お前だ」
男が抜いた刀は速かった。だが伊織の方が一瞬早い。狭い座敷で斬り結べば、母が巻き込まれる。伊織は斬り合いを避け、踏み込んで相手の腕を打った。刀が畳に落ちる。男が短刀へ手を伸ばす。伊織は膝で男の胸を押さえ、喉元へ刃を当てた。
「動くな」
男の目が憎しみに燃える。
「殺せば終わるぞ」
「終わらせぬ。名を吐け」
「名?」
「土井主計に通じる者の名だ。志摩屋の奥の名だ」
男は歯を食いしばった。だが喉元の刃は冷たい。冷たいものは、口を開かせる。
そのとき、帳面の男が静かに立ち上がった。
「榊原、やめろ。ここで血を出せば、志摩屋は終わる。終われば、母上と妹君の行き場も消える」
伊織は、刃を動かさずに言った。
「行き場など、最初からない。だからここへ来た」
側近の男が、喉元の刃に笑った。
「……お前は……土井の望む通りに踊っている」
「踊っているなら、踊りの足で喉を踏む」
伊織は側近の耳元に囁いた。
「言え。志摩屋の裏口を通る“御用口”の合図。土井へ繋ぐ印。――それを言え」
男の瞳が揺れた。恐れだ。恐れは、忠義より強い。
「……印は……角が欠けた札……」
「それは知っている。もっと奥だ」
「……“三つ巴”……」
三つ巴――狐火の合図でもない、藩の符牒でもない。幕府の紋に通じる形だ。伊織の胸が鳴った。
「どこへ持って行く」
「……日本橋……」
「日本橋のどこだ」
男の唇が震えた。
「……土井の隠し蔵……」
そこまで言った瞬間、男の目が白くなった。舌を噛もうとした。伊織は顎を押さえ、噛ませぬ。だがその隙に、帳面の男が袖の中から小さな粉を投げた。
白い粉。薬草の匂い。目が痛む。
(目潰しか!)
伊織は咄嗟に目を庇い、後ろへ跳んだ。視界が霞む。涙が滲む。母の叫び声が聞こえる。
「伊織!」
畳の擦れる音。人が動く。志乃の声――どこだ。志乃は表へ出されたのか、それともまだ蔵の外か。母がここにいるのは確かだ。だが目が見えぬ。
伊織は、喉の奥で低く息を吐いた。泣きたくなるのを押し殺すために。
そして――帳面の男の声がした。
「榊原伊織。お前は賢い。だが賢い者ほど、目を失う」
土井の声に似ている。帳面の刃の声だ。
「日本橋へ来い。土井主計は、そこで待っている」
伊織は涙の滲む目で、ぼんやりと白い障子を見た。白いはずの障子が、闇のように揺れている。
敵の腹に入ったつもりが、さらに奥へ押し込まれた。
腹を裂く刃は、まだ届かない。
だが、名は取った。
――日本橋、土井の隠し蔵。合図は三つ巴。
伊織は、目の痛みの向こうで、静かに歯を食いしばった。
次は腹の奥で、帳面の刃と本当の刃がぶつかる。
(第十六章につづく)

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