山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十三章

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――第十三章 藩邸の白刃――

 勘定所を出たとき、伊織の懐には二つの重みがあった。

 一つは、土井主計から渡された帳面の写し。餌であることを承知の餌。もう一つは、富岡主膳の印形袋。これは餌ではない。噛みつけば血が出る牙だ。だが牙は持つ者の口も裂く。

 新兵衛は道すがら、何度も伊織の顔を覗き込んだ。

「お前、顔が変わったな」

「変わらねば斬られる」

「斬られるってのは、刀でか?」

「刀でも帳面でも、人は斬られる」

 江戸の朝は忙しく、湯気と呼び声が立ち上がっていた。だが伊織の耳には、その活気が遠い。いま聞いているのは、自分の胸の奥で鳴る乾いた音――帳面の頁を繰る音だ。

 深川へ戻る前に、伊織は松代藩の江戸藩邸へ向かった。ここで、まず“波”を立てる。土井が望んだ通りの波だ。だが波は、望まれた形のままでは終わらせぬ。波をぶつけ、岩を削り、隠れた岩礁をあらわにする。

「藩邸へ乗り込むのかよ」

 新兵衛が苦い顔で言った。

「乗り込む」

「正気じゃねぇ。藩邸はお前の味方の顔をした敵の巣だ」

「だから行く」

「行けば――」

「行かなければ、名が腐る」

 藩邸は江戸の武家地にあり、塀は高く、門は堅い。松代藩の紋が門に掲げられ、番士が二人立っていた。伊織は浪人姿のまま門前へ進んだ。番士の目が険しくなる。

「何者だ」

「榊原伊織。国許より密命を受けて参った」

 その名に、番士の眉がわずかに動いた。伊織の名はもう藩内でも割れている。隠す意味はない。むしろ、名を晒して踏み込む。そうしなければ、相手は影に逃げる。

「面会を乞う。家老衆へ取り次げ」

「家老衆はご多忙だ。まずは用向きを――」

「用向きは土井主計に関わる」

 番士の顔が固くなった。

 土井主計――幕府勘定所の名が出た瞬間、藩邸の空気が変わった。名は刃だ。刃は空気を裂く。

「……少々お待ちを」

 番士の一人が中へ走った。もう一人が伊織を見張る。新兵衛は少し離れ、通りの影に立った。いつでも切り込める距離。だが切り込めば、藩邸前で血が出る。血が出れば、町方が動く。幕府が動く。今はまだ、幕府の目の前で騒げない。

 しばらくして、門が開いた。

「入れ」

 低い声。番士ではない。内側から出てきたのは、紋付を着た中年の武士。使番のようだが、目つきが鋭い。伊織の顔を一瞥し、顎で中を示した。

「案内する。余計な真似はするな」

「真似ではなく、務めだ」

 伊織は門をくぐった。塀の内側は静かで、砂利を踏む音がやけに響く。庭の木々は冬枯れ、風が枝を鳴らす。静けさは、武家の威厳ではなく、何かを隠すための静けさだ。

 通されたのは、奥書院ではなく、裏の小座敷だった。障子は閉められ、灯も暗い。ここは、表に出せぬ話をする部屋である。

「待て」

 案内役が言い、障子の向こうへ声をかけた。

「榊原伊織、参りました」

 すぐに返事はない。やがて障子が開き、男が現れた。

 神谷内膳――伊織に密命を下した家老。

 顔は相変わらず能面のようだが、目が以前より冷たい。伊織の脇腹に、刺客の刃がかすめた夜が蘇る。内膳の名が証文にあった。内膳の名が、江戸の闇の入口だった。

「榊原伊織」

 内膳は座したまま言った。

「江戸で何をしていた」

「探っていた」

「何を」

「藩を売る者の名を」

 内膳の眉が、ほとんど見えぬほどに動いた。

「大胆な口を利く」

「大胆でなければ、ここまで生きていない」

 伊織は懐から、土井の帳面写しを取り出し、畳の上に置いた。

「幕府勘定所、土井主計。志摩屋。富岡主膳。――そして、あなたの花押」

 内膳の目が、紙に落ちた。初めて、ほんの一瞬だけ目が泳いだ。泳いだのは、驚きではない。計算が狂った者の目だ。

「……誰からそれを得た」

「誰から、などは今は言えぬ。言えばその者が死ぬ」

「その者が死ぬ? 江戸で死ぬのは珍しくない」

「珍しくなくても、無駄死にはさせぬ」

 内膳はしばらく黙って帳面を眺め、やがて静かに言った。

「榊原。そちは余計なところまで首を突っ込んだ」

「余計ではない。藩の命運だ」

「藩の命運は、家老が預かる」

「家老が売るのなら、預かりではない」

 座敷の空気が凍った。案内役の武士が、無意識に腰へ手をやった。

 内膳は声を荒らげず、ただ言った。

「証は偽物だ。土井主計の名など、口に出しただけで首が飛ぶ。そちは首を飛ばしたいのか」

「首を飛ばすのは、あなたではない。真実だ」

 内膳の目が細くなる。

「榊原伊織。そちは何を望む」

「望むのは一つ。藩を売る手を止めろ。富岡主膳と志摩屋を切れ。幕府の土井へ近づくな」

 内膳は、薄く笑った。

「若いな」

 伊織は一歩踏み出した。

「若いから、汚れを見逃さぬ」

 内膳は、指先で畳を軽く叩いた。合図だ。障子の外で、気配が増えた。

「榊原。そちは賢い。だからこそ、厄介だ」

 内膳の声は変わらぬ。能面のまま。

「そちは江戸で、多くを見た。多くを見れば、多くを疑う。疑いは、人を壊す」

「壊しているのは、あなた方だ」

 内膳は、淡々と言った。

「壊すのではない。建て直すのだ」

 主膳と同じ言葉。土井と同じ理屈。腹を守る、藩を守る、民を守る――そのために誰かを折る。

 伊織は、懐からもう一つのものを取り出した。主膳の印形袋だ。

「これを知っているか」

 内膳の目が、初めてはっきりと動いた。

「……富岡の印か」

「奪った。富岡主膳は、土井主計の名を吐いた」

 内膳の表情は変わらぬが、座敷の空気がさらに硬くなった。案内役の武士の呼吸が浅くなる。

 内膳は、ゆっくりと言った。

「榊原。そちは、もう戻れぬ道を歩いている」

「戻らぬ」

「戻らねば、死ぬ」

「死ぬなら、それでもよい。だが死ぬ前に、藩の闇を暴く」

 内膳は目を伏せた。伏せた目の裏で、計算が回っているのがわかる。次の手。折る手。潰す手。

 やがて内膳は言った。

「榊原。そちをここで斬れば話は早い。だが、そうすると面倒が増える。そちは国許にも顔がある。半十郎もおる」

 伊織の胸が一瞬、ざわめいた。戸沢半十郎――師範の名を持ち出した。内膳は半十郎をも駒にする気だ。

「だから、別の道を与える」

 内膳は、畳の上の帳面を押し戻すように言った。

「その帳面を置いていけ。印形もだ。そうすれば、そちを生かす」

 伊織は静かに首を振った。

「できぬ」

「できぬ? 家族はどうする」

 その言葉は、土井の言葉と同じ匂いがした。家族。折れるもの。内膳もまた、そこを突く。

 伊織の喉が乾いた。

「母と妹は――」

「呼び寄せたな。使いを出した。弥吉という者を」

 伊織の胸が跳ねた。

「弥吉は……」

「死にかけておる」

 内膳の声は平坦だった。命を帳面の数字のように扱う声。

「そして母と妹は、いま江戸へ向かう途中だ。――いや、向かわせておる」

 伊織の背筋が冷えた。

(向かわせている……?)

 内膳は、初めて口元をわずかに歪めた。笑いに近い。だが主膳や土井の笑いとは違う。武士が相手を折るときの笑いだ。

「榊原。そちは選べ。帳面と印形を置いていけ。さもなくば、母と妹は江戸に着く前に消える」

 伊織の拳が、震えた。

 新兵衛が座敷の外にいるのがわかる。だがこの場で斬り合えば、母と妹が助かるとは限らぬ。内膳が言った以上、すでに手は回っている。斬り合いは、ここでは解にならない。

 伊織は、息を整えた。ここが踏ん張りどころだ。心が折れれば、すべて折れる。

「内膳殿」

 伊織はゆっくり言った。

「あなたは、私が帳面と印形を置けば、母と妹を助けると言う。だがあなたは、約束を守る人間か」

 内膳の目が鋭くなる。

「疑うか」

「疑う。疑うのが、あなた方が私に教えた江戸だ」

 内膳は一瞬黙り、やがて低く言った。

「……ならば、証を示せ」

「証?」

「母と妹がどこにいるか。そちが知りたいなら、証をやろう」

 内膳は指を鳴らした。案内役の武士が障子を開け、外へ合図する。すぐに、別の武士が入ってきた。手に小さな包みを持っている。

 包みを開くと、中には――志乃の髪飾りが入っていた。赤い紐。伊織が幼いころ、妹に買ってやったものだ。貧しい家の、ささやかな贅沢。

 伊織の視界が、わずかに揺れた。

「……志乃の」

「生きている。今はな」

 内膳の声は、刀より冷たい。

「榊原。これが証だ。そちが逆らえば、次は髪飾りでは済まぬ」

 伊織は、包みを握りしめた。指が痛いほどに。痛みで心を繋ぐ。ここで崩れれば、志乃は死ぬ。母も死ぬ。お澪も死ぬ。弥吉も死ぬ。藩も死ぬ。

 だが――帳面と印形を置けば、それでも藩は腐り続ける。土井の腹は笑い続ける。誰かがまた折られる。

 伊織は、ゆっくり包みを畳の上に置き直した。

「内膳殿。私は置けぬ」

 座敷の空気が爆ぜた。案内役の武士が刀を抜く音がした。障子の外でも、足音が増える。

 内膳の目が冷たく光る。

「……では死ね」

 内膳が手を上げた瞬間――座敷の外で、破裂するような音がした。

 ドン。続けて、叫び声。金属のぶつかる音。新兵衛の怒声。

「伊織! 出ろ!」

 新兵衛が仕掛けた。待ちきれずにではない。合図だ。外で騒ぎを起こし、ここから抜ける道を作った。

 伊織は立ち上がり、障子を蹴破った。廊下には武士が二人。伊織は刀を抜いた。ここで抜かなければ、抜く暇もなく斬られる。

 一閃。刃は相手の肩口を裂き、血が飛ぶ。もう一人が突く。伊織は半身で受け流し、柄で鳩尾を打つ。倒れる。殺しではない。だが止める。

 新兵衛が廊下の先で、三人を相手にしていた。血が頬に滲む。笑っている。地獄を楽しむ顔だ。

「こっちだ!」

 二人は裏手の小門へ走った。庭を横切り、雪を蹴散らす。背後から矢が飛び、柱に刺さる。藩邸の中にまで弓の手がいる。内膳の手は深い。

 小門を抜け、武家地の路地へ飛び出す。朝の空気が凍りつくほど冷たい。だが外へ出た瞬間、追手の数が増えた。藩邸の者だけではない。どこからか黒装束――狐火の影も混じっている。

「内膳と狐火が手を組みやがった!」

 新兵衛が吐き捨てた。

「土井の腹が、藩邸まで繋がってる」

 伊織は走りながら、胸の中で一つ決めた。

 母と志乃は狙われている。もう“波”では済まぬ。ここからは、人質の綱を断ち切る戦だ。証を集めるだけでは守れぬ。守るために、奪い返さねばならぬ。

 伊織は新兵衛に叫んだ。

「母と志乃を探す! 江戸へ向かわせていると言った。なら――街道だ!」

「どこの街道だ!」

「信濃から江戸へ来るなら、中山道だ! 板橋か、巣鴨の辺り――」

 新兵衛が目を剥いた。

「今から追いつくのかよ!」

「追いつく。追いつかねば終わる!」

 二人は路地を曲がり、人の多い通りへ飛び込んだ。町人の群れがざわめき、追手の足が一瞬鈍る。武家が刀を抜いて群れに突っ込めば、町方が動く。土井も内膳も、今はそれを嫌う。だからこそ、群れは盾になる。

 伊織は懐の帳面を確かめた。帳面の刃は血を見せぬ。だが今、血を見せる刃が必要だ。母と志乃を奪い返す刃。

 藩邸の白刃は、江戸の白刃へ変わる。

 波瀾万丈の嵐は、ついに家族の喉元へ来ていた。

(第十四章につづく)

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