――第十一章 勘定所の腹――
土井主計――その名を胸に刻んだとたん、江戸の景色が一段暗く見えた。
富岡主膳という家老の名は、藩の内輪の腐りだ。志摩屋という御用商人は、金が回る口だ。だが勘定所の役人となれば話が違う。幕府の腹を預かる者が、腹の中で毒を回している。そこへ触れれば、指先では済まぬ。腕ごと、胴ごと、切り落とされる。
伊織と新兵衛は小石川を抜け、細い道を選んで深川へ戻った。夜明けの火事騒ぎは町方を忙しくし、武家地の見回りも増えている。だが火事は同時に、人の目を散らす。狐火の連中も町方も、火に気を取られる。いまだけは、闇の隙が大きい。
橋を渡るころ、伊織の手の中で、主膳の印形袋が硬く重かった。小袋一つで、命が幾つも動く。武士の刀より恐ろしい。
「その袋、どうする」
新兵衛が息を整えながら問うた。
「証として持つ」
「証? それは刃物だ。持ってれば刺さる。お前がだ」
「刺さってもいい。刺さらねば、こちらから刺せぬ」
新兵衛は苦く笑った。
「お前、とうとう頭まで江戸になりやがった」
「江戸にならねば、江戸には勝てぬ」
深川の長屋へ戻ると、鳶の若い衆が待っていた。顔が青い。
「新兵衛兄ぃ、坊主の寺から伝言です」
「何だ」
「娘さん――お澪さんが、目を覚ました。だが……」
若い衆は言いよどんだ。
「だが?」
「熱が高い。うなされて、“弥吉”の名を呼んでます」
伊織は一瞬、息を止めた。弥吉はまだ生きているかもしれぬ。医者は呼んだ。だが命の糸は細い。お澪がその糸を掴もうとするように名を呼んでいる。
(今は行けぬ)
情が足を止める。止まれば、土井の名が溶ける。溶ければ、弥吉もお澪も、母も志乃も、結局守れぬ。
伊織は若い衆に言った。
「薬は」
「坊主が手を尽くしてます。医者もまた呼ぶと」
「……頼む」
伊織はそれだけ言い、視線を上げた。新兵衛が黙っている。叱らない。叱る資格がない。叱れば、自分も同じ痛みを知っていることが露になる。
「行く先は勘定所か」
新兵衛が問う。
「土井主計に辿り着くには、勘定所の裏口が要る」
「表から行けば首が飛ぶ」
「裏から行っても首は飛ぶ」
「違いは?」
「名が取れるかどうかだ」
伊織は、志摩屋を見張った日々を思い出した。表を叩くな。裏を張れ。裏口に出入りする者を見極めろ。富岡主膳も同じだ。土井主計の表は、清廉な役人の顔。裏は――金と利権の顔。
「勘定所へ出入りする者は、志摩屋の系統だ。志摩屋を押さえれば、土井の口へ糸がかかる」
新兵衛は鼻を鳴らした。
「志摩屋はもう警戒してる。お前の顔は割れてる」
「顔が割れているなら、顔を替える」
「どうやって」
伊織は懐から、主膳の印形袋を取り出した。
「これで門を通る」
新兵衛が目を剥いた。
「正気か。武家の印を使えば、後で必ず足がつく。しかも主膳の印だ。使った瞬間、主膳はお前の首に縄をかける」
「縄はすでにかかっている」
伊織は静かに言った。
「縄をほどくには、縄の根元を切るしかない。根元は土井だ」
新兵衛はしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「なら、俺が先に行く。勘定所の裏で働く知り合いがいる。用達しの手代だ。そいつを使う」
「名は」
「辰蔵。志摩屋の末端にも顔が利く。だが信用するな。金で動く」
「金で動くなら、金で縛れる」
「縛っても、切れる。切れたときに刺される」
新兵衛はそう言いながら、笑った。怖がっているのではない。面白がっている。江戸の底で生き残る者の目だ。
その日の暮れ、伊織は新兵衛と別れ、ひとり寺へ向かった。
老僧の寺に入ると、香の匂いと薬草の匂いが混じっていた。庫裏の奥で、お澪が布団に横たわっている。頬は赤く、唇は乾き、目はうつろだ。
伊織が座ると、お澪がふっと目を開けた。
「……伊織さま……」
「無理をするな」
「……主膳……どうなりました」
伊織は一瞬ためらい、低く言った。
「主膳は口だ。上に土井がいる」
お澪の瞳がわずかに焦点を結ぶ。
「土井……」
「幕府勘定所の土井主計」
お澪は微かに笑った。
「……大きい相手ですね……」
「大きい相手ほど、穴も大きい」
その言葉を言いながら、伊織は自分に言い聞かせていた。穴があると信じねば、踏み込めぬ。
老僧が傍へ来て、静かに言った。
「お前の目は変わったな、榊原」
「変わらねば、折られる」
「折られぬために、人を折るな」
老僧の言葉は、刃より痛い。
伊織は目を伏せた。
「……長屋に火をつけた」
「知っておる」
「罪だ」
「罪を知っておるなら、まだ戻れる」
老僧はそう言って、伊織の肩へ手を置いた。
「土井主計へ行くなら、証を集めよ。名だけでは倒れぬ。幕府は名で動かぬ。帳面で動く」
「帳面……」
「金の出入り。口利きの印。志摩屋の帳簿。主膳の印形。――それらを繋げて、誰の腹に入ったかを示せ」
伊織は頷いた。名を取る段階は終わった。次は、名を縛る証が要る。
お澪がかすれ声で言った。
「……父の証文……」
「ある。写しもある」
「……それを……燃やさないで……」
「燃やさぬ。必ず、生かす」
伊織はそう言った。生かす――証文を。弥吉の命を。お澪の命を。母と志乃の命を。生かすために、どこまで汚れるのか。その答えはまだ出ない。だが出さねば、すべて死ぬ。
夜半、新兵衛が戻ってきた。雪を払う音がして、庫裏の戸が開く。
「辰蔵が食いついた」
新兵衛は低い声で言った。
「勘定所の裏で荷を扱ってる。志摩屋からも荷が入る。だが最近、荷が増えてる。米じゃない。金だ」
「金が勘定所へ?」
「いや、勘定所を通って、どこかへ抜ける。帳面に残らねぇ“抜け道”だ」
伊織の胸が鳴った。
「抜け道……御用口か」
「そうだ。勘定所にも裏口がある。土井主計はそこを使ってる」
新兵衛は懐から小さな紙片を出した。符牒の印。志摩屋のものに似ているが、角に小さな切れ込みがある。勘定所の用達しが使う印だ。
「これがあれば裏口の近くまで入れる。辰蔵が手配した。明日の未明、勘定所の裏で荷が動く。そこに土井の手が出る」
「土井本人が出るか」
「出ねぇだろう。だが土井の“手”が出る。手が出れば、腕を辿れる」
伊織は静かに立ち上がった。
「行く」
老僧が言った。
「娘は」
「ここに置く」
お澪がうっすらと目を開けた。伊織の背を見て、かすかに笑った。
「……行って……ください……」
伊織は、胸の奥が痛むのを感じた。守るために置く。置くことで守れると信じる。だが置いたまま戻れぬ者もいる。その可能性を、心は知っている。
伊織はお澪の手を握った。熱い。生きている熱だ。
「必ず戻る」
約束は、刃より重い。だが伊織は言った。言わねば歩けぬ。
夜明け前、江戸は灰色だった。
勘定所の裏手は、意外なほど地味である。大門の威厳はなく、ただ高い塀と、荷の出入りのための木戸があるだけ。だが、その地味さの中に、権力の本当の顔がある。目立たぬものほど、恐ろしい。
辰蔵という男は、塀の陰で待っていた。顔は町人、目は狐。金と命を秤にかけて生きる目だ。
「久世さん、遅いじゃねぇですか」
「口を利くな。案内しろ」
辰蔵はへらりと笑い、木戸の近くへ忍ぶように歩いた。
「今から荷が出ます。志摩屋の荷です。表向きは帳面。だが中身は――」
辰蔵は言葉を切り、指で数える仕草をした。金だ。
木戸が開き、二人の男が荷を担いで出てきた。荷は小さく重い。後ろにもう一人、羽織を着た男が付く。顔は見えぬが、立ち居振る舞いが武家のものだ。
伊織は息を殺した。
(あれが土井の手か)
羽織の男が荷の上を一瞥し、低く言った。
「間違いはないな」
「へい」
「……帳面は」
「中に」
「よし。回せ」
男は短く言い、去ろうとした。
伊織は一歩、闇から出た。
「土井主計殿へ伝えよ。富岡主膳の印が、こちらにある」
羽織の男の足が止まった。
辰蔵の顔色が変わる。
「おい旦那、何を――」
羽織の男がゆっくり振り向いた。目が鋭い。だが驚きはない。驚かぬのは、知っていたからだ。
「……榊原伊織。来たか」
伊織の胸が冷えた。
(ここまで読まれている)
羽織の男は、懐から札を出した。勘定所の符牒。だがそれだけではない。松代藩の符牒も重なっている。藩と幕府が同じ札を持つ。そこに、この腐りの形がある。
「土井主計様は、お前を待っておられた」
伊織は刀の柄に触れた。
「待っていた? 口を利く気か」
「口は利く。――だが、口を利かせるかどうかは、お前次第だ」
男が笑った。その笑いは、主膳の笑いとは違う。もっと乾いている。役人の笑いだ。命を帳面の数字として見る者の笑い。
伊織は悟った。
ここから先は、剣だけではない。
証だけでもない。
江戸の腹――勘定所の腹に手を突っ込むには、己の腹も差し出さねばならぬ。
そして波瀾万丈の嵐は、いよいよ幕府の内側で鳴り始めた。
(第十二章につづく)

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