山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第九章

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――第九章 小石川の雪路――

 夜が更けるほど、江戸の空は澄んでいった。月は薄く、星は冷たく、凍った空気が音まで固めるようだった。深川の長屋を出るとき、伊織は一度だけ障子の向こうに目をやった。お澪の寝息はまだ浅い。熱が引くまで動かせぬ――そう理屈はわかる。だが置き去ると決めた瞬間、胸の底がちくりと痛んだ。

 寺へ運ぶ段取りは新兵衛がつけた。鳶の親方の若い衆が二人、夜の闇に紛れてお澪を担ぎ、老僧の寺へ戻す。伊織はそれを見届けず、先に小石川へ向かった。見届ければ、足が止まる。止まれば、弥吉の血が無駄になる。

 新兵衛と並んで歩きながら、伊織は懐の木札を確かめた。裏に刻まれた「富」の一文字。小さな刻みが、刃のように指にかかる。

「小石川へ入る道は二つだ」

 新兵衛が低い声で言った。

「表の大通りを行けば、夜回りに捕まる。裏の川筋を通れば、番所の目は薄いが、狐火の耳も届く」

「狐火が届かぬところはない」

「だからこそ、届きにくいところを選ぶ」

 新兵衛は、深川の水路へ伊織を導いた。舟は一艘、影のように待っていた。船頭は口を利かない。銭を受け取る手だけが確かだ。

 舟が滑り出すと、江戸の音が遠のいた。川面を切る水音だけが、夜に薄く響く。橋の下をくぐるたび、暗がりに人の気配が潜むようで、伊織は刀の柄に触れた。

「主膳の屋敷の裏口は、表の門とは別だ」

 新兵衛が言う。

「屋敷の外れに小さな木戸がある。薪を入れ、女中を通し、帳面に残らぬものを通す。そこが“御用口”だ」

「そこへ誰が出入りする」

「志摩屋の手代、あるいは蔵役。だが今は……主膳自身が動いてるって噂もある」

「主膳が?」

「表では病だなんだと引っ込んでるがな。大物ほど、自分で汚れ仕事の手触りを確かめたがる」

 伊織は黙って聞いた。大物ほど――その感覚はわかる。刀の重みは、握ってみなければわからぬ。

 小石川へ近づくにつれ、川沿いの家並みが変わった。長屋の密集が途切れ、塀の高い屋敷が増え、灯が少なくなる。人の気配も薄い。だがその静けさは、深川の喧騒よりも不気味だった。静かな場所ほど、目が鋭い。

 舟を降り、二人は塀沿いの暗がりを歩いた。雪は薄く積もり、足音を吸ってくれる。だが雪の上には足跡が残る。遅れて追われれば、道しるべになる。

「ここだ」

 新兵衛が顎で示した先に、長い塀が続いていた。塀の向こうに、広い庭の気配がある。木々の影が揺れ、どこかで水の流れる音がする。武家地の屋敷は、夜でも呼吸している。

 塀の端に、小さな木戸があった。表の門とは比べものにならぬほど地味で、そこが裏口だと気づく者は少ないだろう。だが木戸の前の雪だけが、わずかに踏み荒らされている。出入りがある証拠だ。

 伊織は新兵衛に目配せした。

「張る」

「張るなら、息を殺せ。ここは深川じゃねぇ。騒げば首が飛ぶ」

 二人は塀の陰、松の根元に身を潜めた。月が雲に隠れ、闇が濃くなる。時間が粘るように過ぎる。伊織の耳には、自分の呼吸の音すらうるさく感じられた。

 やがて――木戸が、きい、と小さく鳴った。

 中から出てきたのは、女だった。頭巾をかぶり、風呂敷包みを抱えている。女中に見える。だが足取りが早い。迷いがない。夜に慣れすぎている。

 女は塀沿いを歩き、路地へ消えた。

「女だ」

 伊織が囁く。

「女中に扮した狐火かもしれねぇ。追うか?」

 新兵衛の声が低い。

 伊織は瞬時に計った。ここで女を追えば裏口の見張りが薄れる。だが女の包みは、何かを運んでいる。帳面に残らぬもの――金か、証文の写しか、あるいは人の命か。

「追う」

 伊織はそう言って立ち上がった。

 二人は距離を保ち、女の後を追った。女は武家地を抜け、町人地の境目へ向かう。小さな橋を渡り、暗い横丁へ入る。そこは茶屋でもない、商家でもない、ただの古びた長屋の並びだった。

 女は長屋の一つの戸を叩いた。二度、短く。合図だ。

 戸が少し開き、男の手が伸び、女の包みを受け取る。女はすぐ背を向け、元来た道を戻り始めた。

 伊織は、その瞬間を逃さなかった。戸が閉まる前に、影のように滑り込み、開いた隙間へ足をねじ込んだ。

「誰だ!」

 中の男が叫び、短刀を抜く。伊織は手首を押さえ、短刀を落とさせた。新兵衛が背後から男の口を塞ぐ。二人の呼吸が合った。殺しはしない。だが逃がさない。

 灯は小さな行灯が一つ。薄暗い室内に、古い帳面と、銭箱と、そして――女から受け取った風呂敷包み。

 伊織は包みをほどいた。

 中には、金子の包み――ではなく、薄い紙束が入っていた。帳面ではない。手紙でもない。紙には、花押と印が並んでいる。役所の書付に見える。

(何だ、これは)

 伊織が紙をめくると、目が止まった。

 そこには、松代藩の名。借財の額。返済期日。――そして、幕府側の“免責”に近い文言が、巧妙に忍ばせてある。もしこの書付が成立すれば、松代藩の借財は帳面上、別の名義へ移る。藩は一時しのぎを得る。だがその代償として――藩の領内の特定の利権が、幕府筋に握られる。

「藩を売る書付だ……」

 伊織の声が低く漏れた。

 男がもがきながら呻く。

「ち、違う……俺はただ……頼まれて運んだだけだ……」

 新兵衛が男の肩を押さえつけた。

「誰に頼まれた」

「言えねぇ……言えば――」

 伊織は男の目を覗き込んだ。

「富岡主膳か」

 男の瞳が揺れた。それが答えだった。

「主膳から、女が運んだ。女は屋敷の裏口から出た。――つまり、主膳の屋敷が直接動いている」

 新兵衛が歯を鳴らした。

「やっぱり主膳か。だが、こいつは“証”になる。藩を売る書付……」

 伊織は紙束を畳み、懐へ入れた。これがあれば、主膳を追い詰められる。だが――追い詰めれば、主膳は必ずこちらの弱みを折りに来る。

(母と志乃……)

 胸の奥で何かが冷えた。

 そのとき、外で足音がした。軽い。複数。忍び足だが、数がある。

 新兵衛が低く言った。

「来た。女が合図を出したか、気づかれたか」

 伊織は男を放した。

「逃げ道は」

「裏だ。長屋の裏は川っぺりに抜ける」

 二人は障子を開け、裏口へ回った。だが裏戸の前に、すでに影が立っていた。黒装束が二人。短刀が光る。

 伊織は刀を抜いた。狭い裏庭、雪が薄く積もる。血が落ちれば、すぐ黒く滲むだろう。

 黒装束が同時に来た。伊織は一人の刃を受け流し、脇へ回って峰で肘を打つ。短刀が落ちる。もう一人が背後から突く。新兵衛が割って入り、肩で受け、呻きながらも相手を押し返した。

「ちっ、数が多い!」

 表からも足音が増えた。囲まれる。

 伊織は迷いなく決めた。

「火をつける」

「はぁ?」

「狐火には狐火だ。騒ぎを作り、目を散らす」

 伊織は行灯を倒した。油が畳に広がり、火が走る。ぱちぱちと乾いた音。冬の乾いた長屋は燃えやすい。

「おい! 火だ!」

 外で叫び声が上がる。追手の動きが一瞬乱れる。その隙に伊織は新兵衛の腕を引き、裏へ飛び出した。

 雪の上を走る。川へ。舟はない。だが川沿いには板が渡してある。二人は板を踏んで対岸へ飛び、闇の中へ消えた。

 背後で火が大きくなる音がした。狐火の連中が火で動くなら、こちらも火で動くしかない。江戸の闇は、火を恐れないが、火事場の混乱だけは嫌う。目立てば、幕府の本当の町方が動きかねぬからだ。


 しばらく走って、二人は息を整えた。遠くで火の赤が揺れている。小石川の方角ではない。町人地の長屋だ。誰かの暮らしが燃えている。その事実が伊織の胸に刺さったが、今は振り返れぬ。

 新兵衛が荒い息で言った。

「お前……火をつけるのは得意じゃねぇだろ」

「得意になりたくもない」

「だが、必要だった」

 伊織は頷いた。必要という言葉は、便利で残酷だ。

 懐の紙束を確かめる。藩を売る書付。富岡主膳の影。志摩屋の裏口。狐火。すべてが一本の縄になりつつある。

「次はどうする」

 新兵衛が問う。

 伊織は、夜空を見上げた。雲の切れ間から月が覗き、雪の粒が淡く光る。冷たい美しさだ。だがその美しさの下で、人は平気で人を折る。

「主膳に会う」

「正面からか?」

「正面からではない。裏口からだ」

「殺されるぞ」

「殺される前に、名を突きつける」

 伊織は低く言った。

「主膳の名を、証で縛る。縛れば、主膳は焦る。焦れば必ず動く。――その動きが、さらに上の糸を引き出す」

 新兵衛は、しばらく伊織を見つめ、やがて苦く笑った。

「お前、もう藩の侍じゃねぇな」

「藩の侍でいるために、藩の外へ出た」

「矛盾してやがる」

「矛盾の中でしか、真は掴めぬ」

 伊織は歩き出した。小石川の雪路を、再び踏むために。

 この夜、伊織ははっきりと悟っていた。

 富岡主膳は敵だ。だが主膳は、さらに大きなものの“口”にすぎない。

 波瀾万丈の嵐は、まだ序の口である。

(第十章につづく)

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