――第六章 志摩屋の裏口――
深川の夜は、火事の名残を腹の底に抱えたまま、妙に静かであった。焼けた木の匂いが風にまじり、川面の湿り気がそれを薄くのばしていく。人々は疲れ、眠り、そして翌朝になれば何事もなかったように働く。江戸とはそういう町だ。燃えた家の灰の上にも、商いは立つ。
榊原伊織は、新兵衛とお澪を連れて、寺から少し離れた長屋の一間に身を潜めた。新兵衛の知り合いの鳶の親方が貸してくれた部屋で、表向きは材木の見張り小屋のようなものだ。戸を閉めれば暗く、灯をともせば影が濃い。だが今の伊織には、その影こそが頼りであった。
「志摩屋だ」
伊織は、膝の上で紙片にその二字を書いた。墨が滲み、まるで生き物のように黒くふくらむ。
新兵衛が鼻を鳴らした。
「志摩屋は深川にも店を持ってる。表は乾物、裏は金。御用商人の末端みてぇな顔で、幕府筋にも出入りがある」
「表を叩くな、という話だったな」
「叩けば、真っ先に消される。志摩屋は尻尾を残さねぇ。……あいつらは、火事場で火を操る。狐火の連中さ」
お澪は膝を抱え、かすれた声で言った。
「父が言っていました。証文に名前が出ない者ほど、いちばん怖いと」
伊織は頷いた。証文には数字と花押が並んでいる。だが江戸の金の流れは、その紙の上だけでは完結しない。紙に名が出る者は、表に立つ者だ。名が出ない者が、糸を引く。
(御用口を通る者――)
伊織は肩の傷に当てた布を締め直した。矢傷は浅いが、鈍い痛みが残る。痛みは、油断を戒める。ありがたい痛みだと思った。
翌朝、伊織は浪人姿のまま町へ出た。新兵衛は別行動で、志摩屋の番頭筋に顔が利くという博徒崩れを探りに走る。お澪には長屋に残るよう言ったが、首を振られた。
「わたしも行きます。足手まといにならぬように」
「江戸の足音は早い。危ない」
「危ないからこそ、一人で行かせたくありません」
その言葉は、しぶとかった。伊織は強く言えなかった。守るべき者が、守られるだけの存在でいるのを拒む時、そこには別の強さがある。
志摩屋は、深川の外れ、材木問屋が並ぶ通りにあった。表の看板は「志摩屋乾物店」。鰹節、昆布、干し椎茸。商いの匂いはまともだ。店先には奉公人が水を撒き、客らしい女房が値切り合いをしている。どこから見ても、立派な商家であった。
「ここが……」
お澪が呟く。
「表だけ見れば、な」
伊織は通りを挟んだ向かいの茶屋へ入り、窓際に座った。茶を頼み、客のふりをして出入りを眺める。こういう見張りは、焦れば負ける。波が立たぬように、ただ待つ。
午の刻を過ぎたころ、店の裏口の戸が、わずかに開いた。表の客には見えぬよう、荷の陰に隠れた小さな戸である。
そこから出てきたのは、着流しの男だった。商人風だが、足取りが軽く、背筋がまっすぐだ。腰の位置が、武家のそれである。
伊織は目を細めた。
(御用口を通る者か)
男は通りに出ず、裏手の路地へ消えた。伊織は茶碗を置き、すっと立つ。
「行くぞ」
お澪は黙って頷いた。
二人は路地へ回り、距離を保って後を追った。深川の裏道は狭く、洗い水が流れ、魚の匂いがこびりついている。男は迷いなく曲がり、橋を渡り、寺の脇を抜け、やがて小さな船着き場へ出た。
そこには、舟が一艘待っていた。船頭が目だけで男を迎え、言葉も交わさぬまま男を乗せる。
伊織は、新兵衛から聞いた言葉を思い出した。
(志摩屋の裏は金――川を通る)
舟は、隅田川の支流へ滑り出した。伊織は同じ船着き場で、別の小舟を見つける。船頭は眠そうな顔をしていたが、伊織が銭を見せると目の色が変わった。
「追うんだ。静かにな」
「へい……旦那、揉め事はご勘弁を」
「揉めるな。追うだけだ」
舟は水を切り、前の舟の後をつけた。川の上は冷え、風が耳を切る。お澪は襟を掻き合わせ、黙って堪えている。
しばらくして、前の舟が岸へ寄った。そこは、表通りから外れた蔵の並ぶ一角である。蔵の戸口には、目立たぬ札が下がっていた。商家の印ではない。武家の用達しが使う、合図の札だ。
男が舟を降り、蔵へ入った。
伊織は少し離れた岸へ舟を寄せ、船頭に囁いた。
「ここで待て。逃げるな」
「へい……」
伊織とお澪は蔵の陰へ回った。戸口からは中が見えぬ。だが人の声が、かすかに漏れる。伊織は耳を澄ませた。
「……内膳殿は焦っておられる」
声は、先ほどの男のもの。
「焦る? 焦らせているのは誰だ」
別の声が返す。低く、滑らかで、笑いを含んでいる。聞いた覚えがある。昨夜、矢を放った者の笑い――その響きに似ている。
伊織の背筋に、冷たいものが走った。
「証文は焼け残りました」
「ならば奪う。奪えぬなら、持つ者ごと消す。簡単なことだ」
「榊原伊織は手強い」
「手強いなら折れ。折れぬなら、折れるものから折る」
伊織は、思わず拳を握った。
(折れるもの――家族か)
そのとき、蔵の戸が少し開き、光が漏れた。中の者が外を窺っている。伊織は身を引いた。お澪も息を殺す。
戸は閉まった。声が続く。
「榊原の家は信濃にある」
「女と老母か。……武士は義を語るが、義だけでは腹は満たぬ。迷いを作れば、人は動く」
その言葉は、冷たかった。人の心を、道具として扱う冷たさだ。
伊織は、ここで飛び込めば、すべてが血に染まると知っていた。だが飛び込まねば、家族の首に縄がかかる。
その瞬間、背後で小さく石が鳴った。
伊織は反射的に振り向いた。蔵の陰のさらに陰に、黒い影がいた。手には短刀。目が光っている。
(伏兵)
伊織はお澪を背に押し、刀を抜いた。刃が鳴る。影が襲いかかる。
狭い。ここで音を立てれば、蔵の中が気づく。
伊織は、斬らずに押さえ込むことを選んだ。影の手首を払って懐へ入り、肩を押して壁へ叩きつける。短刀が落ちる。伊織は相手の口を塞いだ。
「声を出すな。出せば、お前も死ぬ」
影は苦しげにうなずいた。伊織は耳元で囁く。
「誰の手だ」
影は答えない。
伊織は相手の懐を探り、小さな札を引き抜いた。そこには、志摩屋の印ではなく、松代藩の符牒が押されていた。
(藩の者……!)
伊織の胸に怒りが湧く。江戸に来てから何度も感じた疑いが、いま確かな形となった。藩の内から、伊織を消そうとしている。
伊織が一瞬、視線を逸らした。その隙に影は歯を食いしばり、舌を噛み切ろうとした。口封じだ。伊織は咄嗟に顎を押さえ、舌を抜かせぬようにした。
「死ぬな。死ねば、俺は何も掴めぬ!」
影の目に、憎しみが宿った。だが同時に、恐れもある。恐れは口を開かせる。
「……内膳様ではない」
影が、かすれ声で言った。
「では誰だ」
「江戸詰家老……富――」
その瞬間、蔵の中から戸が開く音がした。
伊織は影の口を塞ぎ、身を低くする。戸口に立ったのは、先ほどの商人風の男だ。周囲を見回し、鼻を鳴らす。
「……鼠がいるな」
男は路地の先を見た。こちらは蔵の陰。見つかるのは時間の問題だ。
伊織は決断した。ここで影を連れて逃げることはできない。だが、この影が吐いた「富――」という一音だけでも価値がある。江戸詰家老の中に、富で始まる名――富岡か、富永か、富田か。候補は絞れる。
伊織は影の耳元に言った。
「生きろ。生きて、もう一度会え。逃げ道は作ってやる」
影は信じぬ目をしたが、伊織は手を離した。影は転がるように闇へ消えた。犬のように、命だけを抱えて。
伊織はお澪の手を掴む。
「走るぞ」
蔵の男がこちらへ向く。その目が、伊織を捉えた。
「……榊原伊織!」
名を呼ばれた瞬間、背後から矢が飛んだ。伊織はお澪を引き寄せ、身を捻る。矢は袖を裂いて、木に刺さった。
笑い声が、闇に混じった。
あの笑いだ。
伊織は歯を食いしばり、走った。蔵の並びを抜け、舟着き場へ。船頭は青い顔をしていた。
「旦那! こりゃ――」
「黙れ、漕げ!」
舟が水を切る。背後でまた矢が飛び、水面に跳ねた。追手の舟が出る気配もある。
だが、深川の水路は蜘蛛の巣だ。知る者が勝つ。伊織は船頭に命じた。
「曲がれ。いちばん細い水路へ」
「へい!」
舟は細い水路へ滑り込み、追手の舟が入れぬ狭さへ逃れた。息が切れ、肩の傷が熱く痛む。お澪は唇を噛み、目だけで伊織を見ている。
伊織は、胸の中で、たった一音を反芻した。
「富――」
そして、蔵の中の声。
「折れるものから折る」
家族の顔が浮かぶ。母の細い手。志乃の泣き声。あれを折らせてはならぬ。藩のためでも、義のためでもない。人として、それだけは許せぬ。
舟が再び隅田川へ出るころ、夕日が水面に長い道を作っていた。赤い光は美しいのに、胸の内は冷えていく。
伊織は静かに言った。
「お澪」
「はい」
「信濃へ使いを出す。母と妹を、ここへ呼ぶ」
お澪の目が見開かれた。
「それは……危険では」
「危険だ。だが、信濃に置けば折られる。江戸に呼べば狙われる。ならば――狙われても、守れる場所へ置く」
新兵衛が言った言葉が蘇る。藩が腐っているなら削ぎ落とす。削ぎ落とすためには、まず自分の弱みを握らせぬことだ。
伊織は、夕日の道の向こうを見た。
志摩屋の裏口は見えた。狐火の主の影も触れた。江戸詰家老の名の端も掴んだ。
しかし、掴んだ分だけ、江戸は牙を剥く。
これから先は、刀の腕だけでは足りない。心を折られぬための策が要る。そして、策は時に情を切る。
伊織は、胸の奥に沈む痛みを押し殺した。
波瀾万丈とは、外の嵐ではない。
己の中で、何を捨て、何を守るか――その決断の連なりである。
舟は川風に揺れながら、深川の灯の中へ消えていった。
(第七章につづく)

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