第二十章 旅館の十一時三十一分
一 同じ時刻を指定する男
十月十八日、午前八時四十分。
奈良県警本部の会議室には、真壁修司、野村亮介、岸田正彦、それに京都府警から派遣された二人の刑事が集まっていた。
机の中央には、京都市東山区の古い旅館を写した写真が置かれていた。
木造三階建て。
細い路地に面した玄関。
軒先に吊るされた、色の褪せた屋号の看板。
旅館はすでに営業を終えていた。現在は所有者の親族が管理し、建物の一部を資料館として公開する計画があるという。
「秋月浩平を名乗る男が、ここで会うと指定した」
真壁が言った。
岸田は写真を見つめていた。
「十一時三十一分か」
「ああ」
「また同じ時刻だな」
「だからといって、特別な意味があるとは限りません」
真壁は淡々と答えた。
「むしろ、こちらに意味を探させるための指定かもしれない」
野村が頷いた。
「相手は何度も、同じ数字を使っています」
真壁は資料を閉じた。
「数字を追うな。人間を追え」
それが、最近の真壁の口癖になっていた。
二〇二二年七月八日。
奈良市で発生した、安倍晋三元首相銃撃事件。
二発の銃声。
あの日の現実は、誰かの観測実験のために起きたものではない。
銃撃を実行した人間がいて、命を奪われた人間がいた。
その事実と、事件の周辺で別の人間たちが行っていた違法な観測や記録改変は、厳密に分けなければならなかった。
真壁は、その線を何度も自分に言い聞かせていた。
事件を利用した人間を追うことと、事件そのものを作り替えることは違う。
「建物の所有者からは、立ち入りの同意を得ています」
京都府警の刑事が説明した。
「ただし、証拠品の捜索については、必要に応じて令状を請求します」
「周辺の警戒は」
「私服を配置します。秋月本人が現れた場合は、身柄確保の法的根拠を確認したうえで対応します」
真壁は頷いた。
「もう一つ」
「何でしょう」
「旅館の二階を、事前に調べたい」
岸田が顔を上げた。
「なぜ二階だ」
真壁は古い死亡記録を示した。
一九七四年六月十七日。
杉浦千鶴。
発見場所。
二階奥の客室。
「この部屋だ」
真壁は写真の一角を指した。
「相手は、四十五年以上前の死を見せようとしている」
岸田は低い声で言った。
「修司」
「はい」
「お前は、母親のことを調べに行くんだな」
真壁は少し考えた。
「いいえ」
岸田が見る。
「死んだ女性のことを調べに行きます」
真壁は続けた。
「母の姉だった人です。俺には会ったこともない人間ですが、名前だけを奪われたままにはできません」
岸田は何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「そうか」
会議室の時計は、午前九時を指していた。
真壁は立ち上がった。
「行こう」
二 二階の八号室
京都の空は曇っていた。
午前十時二十分。
真壁たちは、東山区の細い路地に入った。
古い町家が並ぶ一角。
観光客の声が、遠くから聞こえていた。
旅館の前には、京都府警の捜査車両が一台停まっていた。
真壁は建物を見上げた。
黒ずんだ瓦。
木製の格子。
二階の窓には、白いカーテンが掛かっていた。
「ここで千鶴さんが亡くなったんですね」
野村が言った。
「ああ」
真壁は答えた。
「記録によれば、な」
玄関を開けると、古い畳の匂いがした。
建物の管理人である六十代の男性が、二人を迎えた。
「お待ちしていました」
真壁は警察手帳を示した。
「お世話になります」
管理人は、二階へ案内した。
狭い階段。
擦り減った木の手すり。
廊下の突き当たり。
八号室。
真壁は立ち止まった。
管理人が鍵を開ける。
部屋には、低い座卓と古い箪笥が残っていた。
窓の外には、隣家の瓦屋根が見える。
一九七四年六月十七日。
この部屋で、一人の若い女性が死亡した。
二十歳。
杉浦千鶴。
真壁は窓へ近づいた。
「当時から、この部屋は変わっていませんか」
管理人は首を振った。
「畳と壁は何度か替えています。窓も修理しています」
「家具は」
「一部は昔のままです」
真壁は頷いた。
古い建物だからといって、当時の痕跡がそのまま残っているわけではない。
半世紀近い時間は、木材も壁も人間の記憶も変えてしまう。
「当時の宿泊名簿はありますか」
管理人は頷いた。
「先代が残していました」
古い帳簿が運ばれてきた。
六月十六日。
宿泊者。
《杉浦千鶴》
住所。
奈良市。
その下に、別の記載があった。
《同伴者一名》
真壁の指が止まった。
「死亡記録には、一人で宿泊したとありました」
管理人は驚いた顔をした。
「そうなんですか」
真壁は帳簿を見た。
同伴者の氏名欄には、何も書かれていない。
代わりに、赤鉛筆で小さな丸が付けられていた。
「この印は」
管理人は首を振った。
「わかりません」
野村が言った。
「誰かが後から付けた可能性もありますね」
「ああ」
真壁は頷いた。
「筆跡とインクを確認しよう」
そのとき、廊下から声が聞こえた。
「真壁さん」
京都府警の刑事だった。
「一階に、お客さんが来ています」
「誰だ」
「女性です」
真壁の目が細くなった。
「名前は」
刑事は答えた。
「杉浦千鶴と名乗っています」
部屋の空気が止まった。
野村が顔を上げた。
「杉浦千鶴?」
「はい」
真壁は静かに息を吐いた。
「会おう」
三 名前を借りた女
一階の応接間には、年老いた女性が座っていた。
白髪を後ろでまとめ、濃紺の上着を着ている。
背筋は伸びていた。
年齢は七十代半ばに見えた。
真壁が入ると、女性はゆっくり立ち上がった。
「真壁修司さんですね」
「はい」
「初めまして」
女性は頭を下げた。
真壁も頭を下げた。
「杉浦千鶴さんと伺いました」
「ええ」
「身分を確認させてください」
女性は鞄から運転経歴証明書を取り出した。
氏名。
杉浦千鶴。
生年月日。
一九五〇年十一月二十日。
真壁は顔を上げた。
「一九五四年生まれではないんですね」
女性は微笑んだ。
「そうです」
「では、あなたは一九七四年に亡くなった杉浦千鶴さんでも、私の母でもない」
「ええ」
真壁は証明書を返した。
「同姓同名の方ですか」
「今は、そういうことになっています」
真壁は椅子へ座った。
「どういう意味でしょう」
女性は少し考えた。
「私は、生まれたときから杉浦千鶴だったわけではありません」
野村が顔を上げた。
「改名されたんですか」
「ええ」
「以前のお名前は」
女性は答えた。
「水島澄子です」
真壁の表情が変わった。
水島。
最初の管理者。
水島圭介。
「水島圭介さんとは、どういう関係ですか」
女性は静かに答えた。
「妹です」
真壁は黙った。
「兄は一九八六年に亡くなりました」
「はい」
「その前に、私へ一つの仕事を頼みました」
「何を」
「名前を残すことです」
真壁は眉を寄せた。
「誰の名前を」
女性は答えた。
「杉浦千鶴さんの名前を」
真壁は身を乗り出した。
「なぜ」
女性は窓の外を見た。
「彼女は、記録から消されかけていたからです」
「死亡記録は残っています」
「ええ」
「戸籍もあります」
「そうですね」
「なら、消されたとは」
女性は静かに言った。
「彼女が、何を訴えようとしていたのか。その部分だけが消されたんです」
真壁は黙った。
女性は続けた。
「死亡したという記録だけが残り、何を見て、何に抗議し、誰を告発しようとしていたのかが消された」
真壁はゆっくり頷いた。
「あなたは、それを残そうとした?」
「そうです」
「なぜ改名まで」
女性は少し笑った。
「今考えれば、愚かな方法でした」
「……」
「名前が残れば、誰かがいつか調べてくれると思ったんです」
真壁は彼女を見つめた。
「あなたの改名は、いつですか」
「一九八七年です」
「水島圭介が亡くなった翌年」
「ええ」
真壁は頷いた。
「改名の記録は確認させていただきます」
「どうぞ」
女性は鞄から封筒を取り出した。
「今日は、これをお渡しするために来ました」
「何です」
「兄の日記です」
真壁は封筒を見た。
「原本ですか」
「はい」
「なぜ今まで」
女性は答えた。
「兄に頼まれていたからです」
「どんな条件で」
女性は真壁を見る。
「真壁修一さんの息子が、杉浦千鶴さんの死を調べ始めたら渡してほしい、と」
真壁は息を止めた。
また父親だった。
死んだ父親が、何十年も先の息子へ手を伸ばしている。
しかし、真壁は日記をすぐには開かなかった。
「水島さん」
女性が顔を上げた。
「はい」
「あなたは今日、誰に呼ばれましたか」
女性の表情が変わった。
「……秋月さんです」
「いつ」
「昨日です」
「どんな連絡でした」
「電話でした」
「相手の声は」
「秋月浩平さんの声だと思いました」
真壁は頷いた。
「本人と会ったことは」
「昔、何度か」
「最後は」
「二〇一八年です」
真壁は野村を見る。
二〇一八年。
高瀬浩二が古い人事台帳を電子化した年。
神谷直人が姿を消した年。
さまざまな記録が書き換えられた可能性のある年だった。
真壁は女性へ向き直った。
「今日は、秋月さんも来る予定です」
「ええ」
「会うつもりですか」
女性は首を振った。
「いいえ」
「なぜ」
女性は静かに答えた。
「私は、あの人を許していませんから」
四 十一時三十一分
午前十一時二十七分。
旅館の二階。
真壁と野村は、八号室の前に立っていた。
廊下の奥には京都府警の刑事が控えている。
建物の外にも警察官が配置されていた。
一階では、水島澄子が別の刑事から事情を聞かれていた。
真壁は時計を見た。
十一時二十九分。
「来ますかね」
野村が言った。
「わからん」
「逃げるかもしれません」
「ああ」
「でも、原本を渡すと言っていました」
真壁は頷いた。
「その言葉も信用するな」
野村は少し笑った。
「わかっています」
十一時三十分。
廊下の時計が、一分進んだ。
真壁は八号室の扉を見た。
一九七四年。
杉浦千鶴が亡くなった部屋。
あの女性は、ここで何を見たのか。
誰に会ったのか。
何を言おうとしたのか。
真壁は、母親の姉について考えた。
自分が生まれる四年前に亡くなった女性。
その死が、母親の人生を変えた。
母親は姉の名前を引き継ぎ、真壁修一と結婚し、息子を産んだ。
そして、一九八八年に亡くなった。
真壁の人生は、死んだ女性の名前の上に築かれていた。
十一時三十一分。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
ゆっくりした足音。
革靴。
一歩。
また一歩。
真壁が顔を上げた。
現れたのは、白髪の男だった。
痩せた顔。
深い皺。
灰色の背広。
秋月浩平。
少なくとも、真壁がこれまで秋月として見てきた人物だった。
男は真壁の前で立ち止まった。
「お待たせしました」
真壁は答えた。
「秋月さん」
男は小さく笑った。
「そう呼んでいただいて構いません」
「本名は違うんですか」
男は答えなかった。
真壁は続けた。
「あなたに確認したいことがあります」
「何でしょう」
「一九七四年六月十七日、この旅館にいましたか」
男は頷いた。
「いました」
野村の表情が変わった。
「杉浦千鶴さんが亡くなった日ですね」
「そうです」
真壁は男を見る。
「何をしていたんです」
男は静かに答えた。
「記録していました」
「何を」
「彼女の証言です」
真壁の目が細くなった。
「証言?」
「ええ」
「何について」
男は八号室の扉を見た。
「警察が作った偽の証拠についてです」
真壁は息を止めた。
「詳しく話してください」
男は頷いた。
「彼女は、ある事件の証拠写真が偽造されていることに気づいた」
「誰が偽造した」
「研究室の技術者です」
「三崎俊夫?」
男は頷いた。
「写真を作ったのは三崎さんです」
「依頼したのは」
男は答えた。
「警察官です」
真壁は静かに言った。
「名前を」
男はしばらく黙っていた。
そして、答えた。
「真壁修一」
真壁は動かなかった。
父親。
またその名前だった。
しかし、真壁は声を荒らげなかった。
「父が依頼したという記録は見ました」
男が頷いた。
「そうでしょう」
「だが、依頼した理由はまだわかりません」
男の表情が変わった。
「……」
「父は捜査のために写真を作らせたのか。それとも偽造を調べるために複製を依頼したのか」
男は黙った。
真壁は続けた。
「あなたは、どちらだと考えていますか」
男は小さく息を吐いた。
「さすが、修一さんの息子ですね」
「答えてください」
男は静かに言った。
「後者です」
真壁の目が細くなった。
「父は、偽造を調べていた?」
「そうです」
「では、誰が最初に偽造を命じた」
男は答えた。
「それを知るために、今日ここへ来てもらいました」
真壁は黙った。
男は鞄から、古い封筒を取り出した。
《一九七四年六月十七日》
《杉浦千鶴 証言原本》
真壁は封筒を見つめた。
四十五年以上前の証言。
消されたはずの記録。
「これが原本ですか」
「はい」
「複製ではなく?」
男は頷いた。
「当時の録音媒体です」
真壁は封筒を受け取らなかった。
「ここで開けないでください」
男の表情が変わった。
「なぜ」
「証拠として扱います」
真壁は京都府警の刑事を呼んだ。
「封筒の状態、受け渡しの経緯、所持していた人物を記録してください」
男は少し笑った。
「慎重ですね」
真壁は答えた。
「何度も偽物を見せられましたから」
男は黙った。
「今度は、記録が本物かどうかを調べます」
そして続けた。
「そのうえで、中身を判断します」
男はゆっくり頷いた。
「それでいいでしょう」
五 八号室の証言
封筒の中には、小型のオープンリールテープが入っていた。
古い録音媒体だった。
その場で再生することは避け、専門家による保存処置と複製作業が行われることになった。
真壁は秋月を名乗る男に訊いた。
「杉浦千鶴さんは、ここで何を話したんです」
男は八号室へ視線を向けた。
「警察官が、目撃証言を変えようとしていると」
「誰の証言を」
「ある女性の証言です」
「名前は」
男は答えた。
「杉浦美津子」
真壁の表情が変わった。
母親。
「母の?」
「はい」
「何を目撃した」
男はしばらく黙った。
そして言った。
「人が死ぬところです」
真壁は息を止めた。
「いつ」
「一九七四年六月十二日」
「どこで」
「奈良中央記念病院です」
真壁は眉を寄せた。
「誰が死んだ」
男は答えた。
「患者です」
「名前は」
男は静かに言った。
「小野寺孝一」
真壁は動きを止めた。
小野寺。
かつての上司。
小野寺正夫。
その父親か、親族か。
真壁はすぐには結びつけなかった。
「その人物の身元を確認します」
男は頷いた。
「そうしてください」
真壁は続けた。
「何が起きたんです」
男は答えた。
「患者は、ある薬剤を投与された直後に死亡しました」
「医療事故ですか」
「そう考えられます」
「警察が関わった?」
「はい」
「なぜ」
男は静かに言った。
「その薬剤は、研究用だったからです」
真壁は黙った。
「記憶への影響を調べる研究です」
「患者の同意は」
「ありませんでした」
真壁の拳が握られた。
「美津子さんは、それを見た?」
「はい」
「姉の千鶴さんは」
「妹から話を聞きました」
「それで」
「病院と警察へ告発しようとした」
真壁は息を止めた。
「しかし」
男は続けた。
「証拠写真が偽造されました」
「どんな」
「薬剤を投与した人物を、別の人間に見せる写真です」
真壁は目を閉じた。
また同じだった。
写真。
記録。
偽造。
そして、目撃者の記憶。
「誰が写っていた」
男は答えた。
「真壁修一です」
真壁の目が細くなった。
「父が?」
「はい」
「父が薬剤を投与したように見せた?」
男は頷いた。
「そうです」
真壁は黙った。
「修一さんは、偽造された写真を見つけました」
「それで」
「三崎俊夫に、複製を依頼した」
「なぜ」
「偽造の痕跡を調べるためです」
真壁は静かに息を吐いた。
父親は、偽造の依頼者ではなかった。
少なくとも、この男の説明ではそうなる。
「では、誰が父を犯人にしようとした」
男は答えなかった。
真壁は続けた。
「その人物が、最初の管理者ですか」
男は首を振った。
「違います」
「では」
男は静かに言った。
「最初の管理者は、その人物を守ろうとした人間です」
真壁は息を止めた。
「水島圭介?」
「はい」
「水島が守った相手は誰だ」
男は八号室の扉を見た。
「この部屋に来た人間です」
「誰です」
男は答えた。
「一九七四年六月十七日、杉浦千鶴を最後に訪ねた人物です」
真壁は身を乗り出した。
「名前を」
男は静かに言った。
「岸田正彦」
真壁は動かなかった。
岸田。
現在の上司。
父親の同僚。
一九八一年の偽造写真。
一九九八年の観測実験。
そして一九七四年。
真壁はゆっくり息を吐いた。
「岸田さんが、ここへ来た?」
「はい」
「千鶴さんと会った?」
「そうです」
「そのあと、千鶴さんは亡くなった?」
男は頷いた。
「はい」
真壁は黙った。
それだけでは、岸田が殺した証拠にはならない。
しかし、重要な証言だった。
「あなたは、岸田さんが殺したと思っているんですか」
男は答えた。
「私は、そう考えています」
「根拠は」
「録音です」
真壁は封筒を見る。
「この中に?」
「はい」
「では、確認します」
男は少し笑った。
「疑わないんですか」
真壁は答えた。
「疑っています」
男の表情が変わった。
「あなたの話も、録音も、すべてです」
真壁は続けた。
「ですが、疑うことと、無視することは違います」
男はしばらく真壁を見つめていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「修一さんと同じことを言いますね」
真壁は何も答えなかった。
六 父親が守ったもの
午後二時。
秋月を名乗る男は、京都府警の施設で事情聴取を受けることになった。
身元確認。
過去の死亡記録。
研究への関与。
そして、二〇二二年以降の行動。
真壁は別室で、古い録音媒体の解析結果を待っていた。
野村がコーヒーを持ってきた。
「真壁さん」
「ありがとう」
野村は隣に座った。
「岸田さんへ連絡しますか」
真壁は頷いた。
「する」
「今すぐ?」
「ああ」
「でも、岸田さんが関与していた可能性が」
真壁は答えた。
「だからこそ、正式に聴取する」
野村は頷いた。
真壁は携帯電話を取り出した。
岸田へ電話。
数回の呼び出し音。
『真壁か』
「はい」
『どうした』
「一九七四年六月十七日について、確認したいことがあります」
電話の向こうが静かになった。
真壁は続けた。
「京都の旅館へ行きましたか」
長い沈黙。
そして。
『行った』
真壁の目が細くなった。
「杉浦千鶴さんに会いましたか」
『ああ』
「何を話したんです」
岸田は答えなかった。
「岸田さん」
『……』
「彼女は、そのあと亡くなっています」
『知っている』
真壁は息を止めた。
「あなたは、何を知っているんです」
岸田は低い声で言った。
『修司』
「はい」
『お前の親父さんは、あの事件を調べていた』
「知っています」
『だが、最後まで調べられなかった』
「なぜ」
岸田は答えた。
『俺が止めたからだ』
真壁は動かなかった。
「あなたが?」
『ああ』
「なぜ」
岸田は長く息を吐いた。
『修一さんを守りたかった』
真壁は目を閉じた。
また同じ言葉。
守るため。
何度も聞いた。
その言葉の下で、何人もの人生が変えられてきた。
真壁は静かに言った。
「岸田さん」
『何だ』
「守るという言葉で、説明を終わらせないでください」
沈黙。
「何をしたのか、具体的に話してください」
岸田は答えなかった。
真壁は続けた。
「杉浦千鶴さんが亡くなった夜、あなたは何をしたんです」
長い沈黙。
そして。
岸田が静かに言った。
『俺は、あの部屋にいた』
真壁は息を止めた。
『千鶴さんが倒れたときも』
「……」
『救急車を呼ぼうとした』
「呼んだんですか」
『いや』
真壁の表情が変わった。
「なぜ」
岸田は答えた。
『止められた』
「誰に」
『水島圭介だ』
真壁は目を閉じた。
最初の管理者。
水島圭介。
「水島は、何と言ったんです」
岸田は答えた。
『もう手遅れだ、と』
「それで救急車を呼ばなかった?」
『ああ』
真壁は拳を握った。
「あなたは警察官だった」
『そうだ』
「目の前で人が倒れているのに」
『……』
「なぜ、水島の言葉に従ったんです」
岸田は答えなかった。
真壁は続けた。
「本当に助からなかったのか、あなたにはわからなかったはずです」
長い沈黙。
そして。
岸田が言った。
『そうだ』
真壁は息を止めた。
『俺には、わからなかった』
「……」
『それなのに、救急車を呼ばなかった』
真壁は目を閉じた。
岸田の声が震えた。
『俺は、あのとき刑事じゃなかった』
「……」
『ただの臆病な男だった』
真壁は静かに答えた。
「そのことも、正式に話してください」
岸田は頷くように息を吐いた。
『わかった』
電話が切れた。
真壁はしばらく動かなかった。
野村も何も言わなかった。
やがて、真壁はコーヒーを一口飲んだ。
冷めていた。
「野村」
「はい」
「岸田さんの聴取は、俺たちだけでやるな」
「はい」
「別の担当者を立てる」
「わかりました」
真壁は窓の外を見た。
京都の空は、まだ曇っていた。
七 消されなかった十二秒
午後五時二十六分。
解析室から連絡が入った。
古い録音媒体の音声を、一部取り出せたという。
真壁と野村は、すぐに解析室へ向かった。
担当者が説明した。
「テープは劣化しています。全体を再生できる状態ではありません」
「どのくらい聞けますか」
真壁が訊いた。
「約十二秒です」
「十二秒?」
「はい」
真壁は頷いた。
「聞かせてください」
担当者が再生した。
ノイズ。
女性の声。
『私は、見ました』
真壁は息を止めた。
若い女性。
杉浦千鶴。
そう名乗る人物の声だった。
『あの人が、薬を入れるところを』
男性の声。
『誰ですか』
女性。
『警察の人です』
真壁の目が細くなった。
男性。
『名前を』
短い沈黙。
女性。
『き……』
ノイズ。
そして。
『岸田さんです』
真壁は動かなかった。
野村が息を呑んだ。
録音が途切れた。
十二秒。
それだけだった。
真壁は椅子へ座った。
岸田正彦。
警察官。
薬剤。
患者の死。
そして、杉浦千鶴。
すべてが一つの名前へ集まり始めていた。
しかし、真壁はすぐに言った。
「これだけでは、岸田さんが薬を投与した証拠にはならない」
野村が顔を上げた。
「でも、名前を言っています」
「ああ」
「それでも?」
「前後がない」
真壁は答えた。
「質問が何だったのか。声が本当に千鶴さんのものなのか。編集されていないか。まだ何も確定していない」
野村は頷いた。
真壁は担当者へ言った。
「テープの物理的な継ぎ目、磁気記録の状態、録音機の特性を調べてください」
「わかりました」
「可能なら、当時の別の録音とも比較してください」
「はい」
真壁は椅子から立ち上がった。
「野村」
「はい」
「岸田さんが、あの部屋にいたことは本人も認めた」
「はい」
「水島が救急車を呼ぶのを止めたという話も出た」
「そうですね」
「だが、まだ足りない」
野村は頷いた。
「誰が薬を投与したのか」
「ああ」
真壁は静かに言った。
「そして、誰がその事実を隠したのか」
窓の外では、夕暮れが始まっていた。
そのとき。
解析担当者が声を上げた。
「真壁さん」
「何です」
「もう一つ、音声があります」
真壁が顔を上げた。
「どこに」
「十二秒の後ろです。別のトラックに、非常に弱い信号が残っています」
「再生できますか」
「一部だけなら」
真壁は頷いた。
「お願いします」
ノイズ。
長い無音。
そして。
男性の声。
『岸田は違う』
真壁は息を止めた。
別の男性だった。
低い声。
『薬を入れたのは、岸田じゃない』
真壁は身を乗り出した。
『千鶴さん』
男性が続けた。
『あなたが見たのは、誰ですか』
短い沈黙。
女性の声。
『……真壁さんです』
真壁は動かなかった。
父親。
真壁修一。
また、その名前だった。
だが、女性は続けた。
『でも』
ノイズ。
『あの人は、真壁さんじゃありません』
真壁の目が細くなった。
『顔が、同じだっただけです』
音声が途切れた。
解析室は静まり返った。
野村が呟いた。
「また、同じ顔……」
真壁は目を閉じた。
一九七四年。
父親に似た男。
一九八一年。
岸田兄弟。
二〇一〇年。
父親の姿をした石倉正一。
二〇二二年。
左右を反転させた映像。
同じ顔。
違う人間。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「ようやく、見えてきた」
野村が顔を上げた。
「何がです」
真壁は答えた。
「最初の偽造は、写真じゃなかった」
「では」
真壁は窓の外を見た。
夕暮れの京都。
街の灯りが、一つずつ点き始めていた。
「人間の顔だ」
野村は息を止めた。
真壁は続けた。
「誰かが、父の顔を使っていた」
「一九七四年から?」
「ああ」
「誰が」
真壁は静かに答えた。
「それを調べる」
そのとき、携帯電話が震えた。
差出人不明。
《ようやく気づきましたね》
真壁は画面を見る。
次。
《最初の管理者は、記録を変えたのではありません》
そして。
《人間を入れ替えたのです》
真壁は携帯電話を伏せた。
「野村」
「はい」
「明日、父の古い写真を全部調べる」
「わかりました」
「一九七四年から一九八一年までだ」
野村は頷いた。
真壁は机の上の資料を見つめた。
父親。
真壁修一。
その顔。
その名前。
その人生。
そして、どこかに存在した、父親と同じ顔を持つ男。
真壁は静かに呟いた。
「親父」
誰も答えなかった。
「お前は、誰と戦っていたんだ」
窓の外では、京都の夜が始まっていた。
そして、真壁はまだ知らなかった。
一九七四年六月十七日。
旅館の八号室で、
杉浦千鶴が最後に見た男は、
真壁修一と同じ顔をしていた。
だが、その男の名前は、
真壁修一ではなかった。
その名前は、
真壁修一が警察官になる前に、
一度だけ使っていた名前だった。
第二十一章に続く

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