第十七章 二人の岸田
一 鏡の中の顔
写真には、岸田正彦が二人いた。
一九八一年九月二十三日。
若い真壁修一と、その妻千鶴。
母親に抱かれた三歳の真壁修司。
そして、父親の隣に立つ岸田正彦。
ここまでは、普通の記念写真だった。
問題は、その背後にある鏡だった。
鏡の中にも、岸田がいた。
しかし、立っている位置が違う。
鏡の中の岸田は、部屋の奥にいる。
実際の岸田は、父親の隣に立っている。
単純な反射では説明できなかった。
真壁は携帯電話の画面を拡大した。
鏡の中の男。
短い髪。
細い顔。
黒い縁の眼鏡。
そして左手首には、黒いバンドがあった。
「また、これか」
真壁は呟いた。
これまで何度も現れた黒いバンド。
二〇一〇年の研究所。
二〇一八年の神谷直人。
二〇二二年の地下駐車場。
そして一九八一年。
四十五年前から同じ印が使われていたというのか。
だが、真壁はすぐに考え直した。
写真が本物である保証はない。
撮影時期も、人物も、加工の有無も、まだ確認されていない。
そもそも、黒いバンドが当時から同じ意味を持っていたとは限らない。
真壁は写真を保存すると、野村亮介へ電話した。
「起きているか」
『はい』
「一九八一年の写真が届いた」
『僕にも来ています』
真壁は眉を寄せた。
「同じものか」
『たぶん。ただ、こちらには説明がついています』
「何と」
野村は読み上げた。
『《二人の岸田を見分ける方法は、一つしかありません》』
「続きは」
『《どちらが、最初に嘘をついたかを調べてください》』
真壁は小さく息を吐いた。
「また選ばせようとしているな」
『はい』
「一人が本物で、もう一人が偽物だと思わせたいんだろう」
『でも、本当に二人いた可能性はあります』
「ある」
真壁は答えた。
「だからこそ、決めつけない」
電話の向こうで、野村が言った。
『岸田さんに聞きますか』
「聞く」
『直接?』
「ああ」
『危険では』
真壁は少し考えた。
「危険かもしれん。だが、疑いを持ったまま相手を泳がせれば、また誰かに都合のいい物語を作られる」
『では、どうします』
「正式な聴取にする」
真壁は続けた。
「第三者を立ち会わせる。記録も残す」
『相手は上司ですよ』
「上司だから例外にする理由はない」
真壁は窓の外を見た。
朝の光が、住宅街の屋根を照らしていた。
四十五年前の写真。
そこに何が写っているのか。
それを確かめるために、まず現在の人間から調べる。
真壁は携帯電話を切った。
そして、父親の手帳をもう一度開いた。
一九八一年九月二十三日。
その日付を探した。
あった。
短い記述。
《千鶴、写真を撮る》
その下に一行。
《岸田は来なかった》
真壁の指が止まった。
岸田は来なかった。
なのに写真には二人いる。
真壁は、しばらくその文字を見つめていた。
そして静かに言った。
「親父」
誰もいない部屋に声が落ちた。
「どこまで知っていたんだ」
二 来なかった男
午前九時十分。
奈良県警本部。
岸田正彦は、真壁から渡された写真を見つめていた。
会議室には、真壁と野村のほか、捜査一課とは別系統の監察担当者が同席していた。
岸田自身が、それを求めた。
「俺が疑われるのは当然だ」
そう言っていた。
写真を見た岸田は、しばらく黙っていた。
「覚えがありますか」
真壁が訊いた。
岸田は首を振った。
「この写真は知らん」
「一九八一年九月二十三日です」
「そうか」
「父の手帳には、あなたは来なかったとあります」
岸田は顔を上げた。
「それは正しい」
真壁の目が細くなった。
「覚えているんですか」
「ああ」
「四十五年前ですよ」
「忘れられない日だからな」
岸田は写真を机へ置いた。
「その日は、俺の弟が死んだ日だ」
室内が静まり返った。
野村が訊いた。
「弟さん?」
岸田は頷いた。
「岸田昭彦。俺より三つ下だった」
真壁は初めて聞く名前だった。
「事故ですか」
「そうだ」
「どこで」
「京都だ」
「詳しく聞かせてください」
岸田は椅子へ深く座った。
「昭彦は、大学で電子工学を学んでいた。卒業後は映像機器を扱う会社に勤めていた」
「写真の加工技術にも詳しかった?」
野村が訊いた。
「詳しかったと思う」
岸田は答えた。
「当時は今ほど簡単じゃなかったが、写真の合成や複写は仕事で扱っていた」
真壁は写真を見る。
「弟さんは、あなたに似ていましたか」
岸田は少し笑った。
「よく間違えられた」
「双子ではない?」
「違う。三歳離れていた」
「この写真の男は」
真壁は鏡の部分を指した。
岸田は顔を近づけた。
長い沈黙。
そして。
「昭彦に見える」
野村が息を呑んだ。
「弟さんですか」
「断言はできん」
岸田は首を振った。
「だが、髪の分け方が似ている」
真壁は頷いた。
「では、鏡の外の岸田さんは」
「俺に見える」
「その日、来なかったのに?」
「ああ」
岸田は写真を見つめた。
「つまり、二人とも本物の岸田兄弟に見える」
真壁は言った。
「そういうことになります」
岸田は苦笑した。
「ずいぶん悪趣味な写真だ」
真壁は表情を変えなかった。
「弟さんの死亡を確認したのは誰ですか」
岸田は答えた。
「俺だ」
「遺体を?」
「ああ」
「葬儀も?」
「出た」
「死亡診断書は」
「あるはずだ」
真壁は頷いた。
「確認します」
岸田は少しだけ目を伏せた。
「構わん」
真壁はさらに訊いた。
「弟さんは、父と面識がありましたか」
「何度か会っている」
「母とは」
「会っていたと思う」
「何のために」
岸田は答えなかった。
「岸田さん」
「ああ」
「研究ですか」
岸田はゆっくり頷いた。
「昭彦は、千鶴さんに協力していた」
真壁の表情が変わった。
「母の研究に?」
「そうだ」
「どんな協力を」
「映像と写真の記録だ」
真壁は写真を見つめた。
母親。
父親。
岸田兄弟。
幼い自分。
そして、死んだ弟。
すべてが一九八一年へ集まっていた。
だが一つ、疑問が残った。
「弟さんは、なぜ京都へ行ったんです」
岸田は答えた。
「千鶴さんに会うためだ」
真壁は動きを止めた。
「母に?」
「ああ」
「その日は奈良にいたはずです」
「そう聞いていた」
「では、なぜ京都へ」
岸田は言った。
「千鶴さんから、呼び出しの手紙が届いたんだ」
真壁は眉を寄せた。
「手紙?」
「昭彦の遺品に残っていた」
「内容は」
岸田は静かに答えた。
「《写真の中に、知らない人がいる》」
真壁は息を止めた。
四十五年前。
すでに同じことが起きていた。
写真の中の知らない人間。
それを調べようとした男が、京都で死んだ。
三 弟の遺品
岸田昭彦の死亡記録は、京都府内の古い病院に残っていた。
一九八一年九月二十三日。
交通事故。
搬送先で死亡確認。
身元確認者。
岸田正彦。
記録そのものは、当時の紙台帳と一致していた。
ただし、事故現場の写真は保存されていなかった。
真壁は資料を閉じた。
「死亡した事実は、かなり確からしい」
野村が頷いた。
「少なくとも、これまでの偽装死亡とは違いますね」
「ああ」
「では写真に映っているのは」
「事故より前に撮られた可能性がある」
野村が顔を上げた。
「日付が違う?」
「そうだ」
真壁は写真を取り出した。
一九八一年九月二十三日。
裏面に書かれた日付。
それが撮影日とは限らない。
現像日かもしれない。
整理した日かもしれない。
あるいは、後から書き加えられた日付かもしれない。
「写真の原本を探す」
真壁が言った。
「どこに」
「母の遺品だ」
野村は頷いた。
その日の午後、二人は真壁の実家へ向かった。
現在は空き家になっている古い一戸建て。
父親が亡くなってから、ほとんど使われていない。
居間。
仏壇。
古い家具。
母親の写真。
真壁は押し入れの奥から、木箱を取り出した。
《千鶴》
父親の字だった。
中には写真の束が入っていた。
家族旅行。
運動会。
七五三。
幼い真壁。
父親。
母親。
そして、見覚えのない人々。
真壁は一枚ずつ確認した。
野村も隣で手伝った。
三十分ほどして、野村が言った。
「真壁さん」
「何だ」
「これです」
野村が差し出した写真。
例の一九八一年の写真だった。
だが、送られてきた画像とは違った。
写真には三人しかいない。
父親。
母親。
幼い真壁。
岸田は写っていなかった。
鏡もなかった。
背景は、普通の居間だった。
真壁は息を止めた。
「別の写真だ」
野村が言った。
「服装は同じです」
「ああ」
「でも場所が違う」
真壁は写真を裏返した。
日付。
一九八一年九月二十日。
三日前。
「これが元の写真かもしれん」
真壁は言った。
野村は頷いた。
「送られてきた写真は、この写真を利用して作られた?」
「可能性がある」
真壁は二枚を並べた。
父親の顔。
母親の顔。
幼い自分。
位置も角度も、ほとんど同じだった。
だが背景だけが違う。
「合成だな」
野村が呟いた。
真壁は首を振った。
「そう見える。だが、鑑定するまでは断定できん」
野村は頷いた。
真壁は写真を見つめた。
三日前の家族写真。
それを使って、岸田兄弟を加えた画像が作られた。
そして四十五年後。
真壁へ送りつけられた。
「なぜ今なんでしょう」
野村が訊いた。
真壁は答えた。
「俺に岸田さんを疑わせるためかもしれん」
「でも、弟さんの存在を知ることができました」
「そうだ」
「なら、送り主は失敗した?」
真壁は少し笑った。
「まだわからん」
そして続けた。
「相手が何を狙ったかは、相手にしかわからない」
野村は写真を見つめた。
「でも、一つわかりました」
「何だ」
「僕たちは、送られてきた写真を見て、二人の岸田がいると思いました」
「ああ」
「でも、元の写真には誰もいなかった」
真壁は頷いた。
「そうだ」
「つまり」
野村は静かに言った。
「僕たちが見たのは、最初から作られた疑問だったんですね」
真壁は野村を見る。
そして、小さく笑った。
「刑事らしくなったな」
野村も笑った。
しかし、その笑みは長く続かなかった。
木箱の底から、もう一枚の写真が出てきたからだった。
一九八一年。
京都。
古い建物。
その前に立つ若い女性。
真壁千鶴。
隣には岸田昭彦と思われる男。
そして、もう一人。
白衣を着た男性。
写真の裏。
《記録室にて》
その下に名前。
《杉浦千鶴》
《岸田昭彦》
《三崎俊夫》
真壁は動きを止めた。
三崎。
その名前には覚えがあった。
二〇二二年の事件で、証言者として現れた三崎遼一。
同じ姓。
偶然か。
親族か。
真壁は写真を見つめた。
「野村」
「はい」
「三崎遼一を調べるぞ」
四 記録を作る家
三崎遼一。
二〇二二年の事件に関する重要な証言者。
映像の時刻と、実際の目撃状況が一致しないことを指摘した人物だった。
その三崎の父親。
三崎俊夫。
一九八一年当時、京都で映像記録の研究に関わっていた。
真壁は三崎遼一へ連絡した。
電話はすぐにつながった。
『真壁さんですか』
「お久しぶりです」
『何かありましたか』
「お父様について聞きたいことがあります」
沈黙。
『父ですか』
「三崎俊夫さん」
『はい』
「京都で研究をしていましたね」
『ええ』
「一九八一年のことです」
電話の向こうで、三崎が息を呑んだ。
『その年のことを、どこで知ったんです』
真壁の目が細くなった。
「母の写真です」
『千鶴さんの?』
真壁は動きを止めた。
「母をご存じなんですか」
『父から聞いていました』
「どんな」
三崎はしばらく黙った。
そして言った。
『一度、お会いできませんか』
「今からでも」
『はい』
「場所は」
『京都です』
真壁は野村を見る。
また京都。
この事件は、何度も同じ場所へ戻っていく。
だが今度は違った。
相手が用意した研究室ではない。
証言者自身が指定した、自宅だった。
午後五時。
京都市内の古い住宅。
三崎遼一は、玄関で二人を迎えた。
五十代半ば。
痩せた顔。
眼鏡。
落ち着いた物腰。
「お久しぶりです」
真壁が頭を下げた。
三崎は二人を居間へ通した。
壁には古い写真が飾られていた。
大学の研究室。
家族写真。
そして、白衣姿の男性。
「父です」
三崎が言った。
真壁は写真を見る。
三崎俊夫。
一九八一年の写真と同じ人物だった。
「お父様は」
真壁が訊いた。
「二〇一五年に亡くなりました」
「病気ですか」
「はい」
真壁は頷いた。
「研究について、何か聞いていましたか」
三崎は静かに答えた。
「かなり聞いていました」
「どんなことを」
「父は、記録というものを信用しすぎるなと言っていました」
真壁は少し笑った。
「よく聞く言葉です」
三崎も笑った。
「そうでしょうね」
そして、表情を引き締めた。
「でも父は、記録を否定していたわけではありません」
「では」
「記録を作る人間の責任を、重く考えていたんです」
真壁は黙った。
三崎は続けた。
「父は映像記録の技術者でした」
「はい」
「警察の捜査に使う映像の保存方法を研究していました」
「その中で、記憶の研究にも関わった?」
「そうです」
「岸田昭彦さんも?」
三崎は頷いた。
「父の助手でした」
真壁の目が細くなった。
「助手?」
「はい」
「では、一九八一年九月二十三日の事故は」
三崎の表情が変わった。
「父は、事故ではないと考えていました」
真壁は身を乗り出した。
「なぜ」
三崎は答えた。
「昭彦さんが、ある記録を持ち出そうとしていたからです」
「何の記録」
「捜査用に作られた偽の写真です」
真壁は息を止めた。
「それは岸田正彦さんが作ったものですか」
三崎は首を振った。
「違います」
「では」
「父の研究室で作られたものです」
真壁は黙った。
「父は、その写真が警察の捜査で使われていることを知りませんでした」
「誰が使った」
「わかりません」
「昭彦さんは気づいた?」
「はい」
「それで記録を持ち出そうとした」
「そうです」
真壁は頷いた。
「事故の日、何があったんです」
三崎は答えた。
「昭彦さんは、父へ会いに来る予定でした」
「会えた?」
「いいえ」
「なぜ」
「途中で事故に遭ったからです」
真壁は黙った。
三崎は続けた。
「ただ、父は一つだけ不審に思っていました」
「何を」
「昭彦さんが持っていたはずの資料が、事故現場から見つからなかったんです」
「誰かが持ち去った?」
「その可能性を考えていました」
真壁は写真を見つめた。
四十五年前。
偽の写真。
警察。
事故。
消えた資料。
そして現在。
同じ構図が繰り返されている。
「その資料は、今も見つかっていないんですか」
三崎は少し黙った。
そして答えた。
「いいえ」
真壁が顔を上げた。
「見つかった?」
「はい」
「どこに」
三崎は言った。
「父の遺品の中です」
五 最初の偽造
三崎は奥の部屋から、古い金属製の箱を持ってきた。
鍵を開ける。
中には写真のネガフィルム。
数冊のノート。
そして、古い封筒。
《一九八一年九月》
真壁は封筒を見つめた。
三崎が言った。
「父は亡くなる前に、これを私へ渡しました」
「内容は」
「一度だけ見ました」
「何が入っている」
「偽造された写真の原本です」
真壁は息を止めた。
三崎は封筒から写真を取り出した。
白黒写真。
古い道路。
停車した車。
その横に立つ男。
そして、地面に倒れた人物。
真壁は写真を見た。
「事件現場ですか」
三崎は首を振った。
「違います」
「何?」
「これは、実際には存在しなかった事件です」
真壁は眉を寄せた。
「架空の殺人事件?」
「はい」
野村が言った。
「一九九八年に岸田さんが参加した実験と同じですね」
三崎は頷いた。
「そうです」
真壁は写真を見る。
「では、一九八一年から同じ方法が使われていた」
「はい」
「写真の男は誰です」
三崎は答えた。
「岸田正彦さんです」
真壁の表情が変わった。
写真の男。
若い岸田。
地面に倒れた人物。
その顔は見えない。
「岸田さんを犯人に見せるための写真?」
「そうです」
「誰が作った」
三崎は答えた。
「父です」
真壁は黙った。
「父は、依頼されたから作ったと言っていました」
「誰に」
三崎は首を振った。
「名前は聞いていません」
真壁は写真を見つめた。
岸田正彦。
一九八一年。
架空の殺人事件。
そして一九九八年。
同じ男が、同じような実験に参加する。
「岸田さんは、一九八一年にも観測対象だった?」
真壁が訊いた。
三崎は答えた。
「その可能性があります」
真壁は頷いた。
「では、最初の観測対象は岸田さんだったのかもしれない」
三崎は首を振った。
「違います」
真壁が顔を上げた。
「何が」
三崎は静かに言った。
「父は、もっと前から同じ写真を作っていました」
「いつから」
「一九七四年です」
真壁は息を止めた。
一九七四年。
真壁が生まれる四年前。
「誰のために」
三崎は答えた。
「警察です」
「どこの」
「奈良県警です」
真壁は眉を寄せた。
「依頼者は」
三崎はノートを開いた。
一九七四年。
写真複製。
映像記録。
捜査資料。
その中に、名前があった。
《依頼者 真壁修一》
真壁は動きを止めた。
父親。
一九七四年。
すでに記録の加工に関わっていた。
「父が?」
三崎は頷いた。
「はい」
真壁は椅子へ深く座った。
父親は研究を止めようとした。
それは事実かもしれない。
だが、その父親自身が、研究の出発点にいた。
「何のために写真を作ったんです」
真壁が訊いた。
三崎は答えた。
「ある事件の捜査です」
「どんな」
「行方不明事件です」
真壁は眉を寄せた。
「誰が失踪した」
三崎はノートを見た。
「若い女性です」
「名前は」
三崎は静かに答えた。
「杉浦千鶴」
真壁は動かなかった。
母親。
結婚前の名前。
杉浦千鶴。
「母が失踪した?」
「はい」
「一九七四年に?」
「そうです」
真壁は息を止めた。
「でも母は、その後父と結婚しています」
三崎は頷いた。
「そうですね」
「では見つかったんでしょう」
「はい」
「いつ」
三崎は答えた。
「失踪から二十五日後です」
真壁は黙った。
二十五日。
その数字に、意味を探しそうになった。
しかし、すぐに思い直した。
偶然かもしれない。
「母は、どこで見つかったんです」
三崎は答えた。
「京都です」
真壁の目が細くなった。
「誰が発見した」
「真壁修一さんです」
真壁は息を吐いた。
父親が母親を見つけた。
そして、後に結婚した。
「そのとき、何があったんです」
三崎はノートをめくった。
最後のページ。
そこに、一行だけ書かれていた。
《杉浦千鶴、失踪期間中の記憶なし》
真壁は目を閉じた。
母親も。
記憶を失っていた。
六 母親の二十五日間
三崎の父親が残した資料には、杉浦千鶴の失踪事件について、わずかな記録があった。
一九七四年六月。
奈良県内。
当時二十歳だった杉浦千鶴は、自宅を出たまま行方不明になった。
家族が警察へ届け出た。
捜索。
目撃情報。
そして二十五日後。
京都市内で発見された。
外傷なし。
所持金あり。
身元を示すものも持っていた。
しかし、失踪していた期間については何も覚えていなかった。
真壁は資料を見つめた。
「父は、どうして母を見つけられたんでしょう」
三崎は答えた。
「父の記録には、偶然とあります」
「偶然?」
「はい」
「京都で偶然見つけた?」
「そう書かれています」
真壁は小さく笑った。
「ずいぶん都合のいい偶然ですね」
三崎は黙った。
野村が言った。
「当時の捜査記録を調べましょう」
真壁は頷いた。
「そうだな」
三崎は別の封筒を取り出した。
「もう一つあります」
「何です」
「千鶴さんが、発見された直後に書いた手紙です」
真壁の目が動いた。
「誰宛てですか」
「父宛てです」
「三崎俊夫さんに?」
「はい」
真壁は封筒を受け取った。
中には一枚の便箋。
古い文字。
女性らしい筆跡。
《三崎様》
《先日はありがとうございました。》
《私は、自分がどこにいたのか、まだ思い出せません。》
《ただ、一つだけ覚えていることがあります。》
《私は、誰かに写真を見せられました。》
真壁は息を止めた。
《その写真には、私が写っていました。》
《しかし、写真の私は、私ではありませんでした。》
真壁は続きを読む。
《私は、自分と同じ顔をした女性を見ました。》
《その女性は、私の名前で呼ばれていました。》
《そして、私にこう言いました。》
《あなたは、もう必要ありません。》
真壁の手が止まった。
野村が顔を上げた。
「どうしました」
真壁は答えなかった。
手紙の最後。
《もし私に何かあったら、真壁修一さんへ伝えてください。》
《あの人は、私を助けてくれました。》
《でも、あの人にも言えなかったことがあります。》
真壁は息を止めた。
《私が見た女性は、私よりも先に、私の人生を知っていました。》
長い沈黙。
真壁は便箋を下ろした。
「母にも、替え玉がいた?」
野村が呟いた。
真壁は首を振った。
「まだわからん」
「でも、同じ顔の女性が」
「ああ」
「名前も同じだった」
「そうだ」
真壁は写真を見つめた。
一九七四年。
母親の失踪。
二十五日間の空白。
自分と同じ顔をした女性。
そして父親。
真壁は静かに言った。
「この事件は、俺が生まれる前から始まっていた」
野村が頷いた。
「はい」
「だが、母が何を見たのかは、まだわからない」
真壁は便箋を封筒へ戻した。
「まず、母の失踪記録を探そう」
七 最初の名前
午後九時。
奈良県警。
真壁と野村は、一九七四年の行方不明事件を調べていた。
古い紙台帳。
当時の捜査報告。
杉浦千鶴。
二十歳。
失踪。
二十五日後発見。
そして、担当刑事。
真壁修一。
真壁は記録を見つめた。
父親が担当していた。
それ自体は不思議ではない。
しかし、父親は後に母親と結婚している。
事件を通じて知り合った可能性が高い。
「真壁さん」
野村が言った。
「何だ」
「失踪した場所が、少し変です」
「どこだ」
「奈良市内の病院です」
真壁は眉を寄せた。
「病院?」
「はい」
「母は患者だった?」
「いいえ」
「では」
「アルバイトをしていたようです」
真壁は資料を見る。
病院名。
《奈良中央記念病院》
現在は閉院している。
「何の仕事を」
「受付です」
真壁は頷いた。
「病院の記録は残っているか」
「一部だけ」
野村が別の資料を開く。
一九七四年。
六月。
職員名簿。
杉浦千鶴。
そして、同じ部署にもう一人。
《杉浦千鶴》
真壁は動きを止めた。
「同姓同名?」
野村が頷いた。
「はい」
「生年月日は」
野村が確認する。
一人目。
一九五四年二月十日。
二人目。
一九五四年二月十日。
真壁の表情が変わった。
「同じ?」
「はい」
「住所は」
一人目。
奈良市内。
二人目。
京都市内。
真壁は息を止めた。
同じ名前。
同じ生年月日。
違う住所。
「写真は」
野村が資料を探す。
職員証の複写。
二枚。
真壁は画面を見つめた。
二人の杉浦千鶴。
顔はよく似ていた。
だが、完全に同じではない。
一人は、真壁が知る母親の若いころに似ている。
もう一人は、少し目元が違った。
「別人だ」
野村が呟いた。
真壁は頷いた。
「少なくとも、写真ではそう見える」
「でも名前も生年月日も同じ」
「ああ」
「偶然でしょうか」
真壁は首を振った。
「まだ決められん」
そして続けた。
「ただ、二人が同じ病院で働いていた理由は調べる必要がある」
野村が頷いた。
そのとき。
野村が資料の最後のページを見つけた。
「真壁さん」
「何だ」
「もう一つあります」
「何が」
「二人の杉浦千鶴のうち、一人は失踪後に退職しています」
「もう一人は」
野村は答えた。
「死亡しています」
真壁の目が細くなった。
「いつ」
野村は資料を見る。
「一九七四年六月十七日」
真壁は息を止めた。
六月十七日。
また同じ日付。
「死因は」
野村が答えた。
「不明です」
「死亡場所は」
「京都」
真壁は椅子へ座った。
一九七四年六月十七日。
一人の杉浦千鶴が死亡。
もう一人の杉浦千鶴が失踪。
そして二十五日後。
一人が発見された。
真壁は資料を見つめた。
「野村」
「はい」
「母は、どちらだったんだ」
野村は答えられなかった。
真壁は続けた。
「発見されたのは、失踪した母だったのか」
「……」
「それとも」
真壁は声を落とした。
「死んだことになった、もう一人だったのか」
室内が静まり返った。
そのとき。
真壁の携帯電話が震えた。
差出人不明。
短いメッセージ。
《ようやく、最初の二人に気づきましたね》
真壁は画面を見る。
次。
《杉浦千鶴は、一人ではありませんでした》
そして。
《あなたの母親が、どちらだったのか知りたいですか》
真壁は携帯電話を机へ置いた。
野村が訊いた。
「どうします」
真壁は答えた。
「返信しない」
「はい」
「相手の問いに答える必要はない」
野村は頷いた。
真壁は二枚の職員証を見つめた。
同じ名前。
同じ生年月日。
違う顔。
そのどちらかが母親だった。
あるいは、どちらでもない可能性さえある。
真壁は静かに言った。
「俺たちは、ずっと死者を追ってきた」
野村が顔を上げる。
「はい」
「でも本当に調べるべきなのは」
真壁は二枚の写真を指した。
「生き残った人間が、誰だったのかだ」
窓の外では、奈良の夜が深まっていた。
真壁は母親の写真を取り出した。
幼い自分を抱く女性。
優しい笑顔。
その顔を、もう一度見つめた。
そして初めて、思った。
自分はこの女性を、
本当に知っていたのだろうか。
名前。
生年月日。
戸籍。
写真。
そのすべてが、誰かによって与えられたものだったとしたら。
残るのは、
幼いころの記憶だけだった。
母親の声。
手の温もり。
眠る前に読んでくれた絵本。
熱を出した夜、額に置かれた冷たい手。
それらは、誰にも奪えないはずだった。
だが。
その記憶さえ、誰かが作ったものだったとしたら。
真壁は目を閉じた。
そして、静かに呟いた。
「母さん」
誰も答えなかった。
そのとき。
捜査室の電話が鳴った。
野村が受話器を取る。
「はい、捜査一課です」
短い沈黙。
野村の表情が変わった。
「真壁さん」
「何だ」
野村は受話器を押さえた。
「京都府警からです」
「何があった」
野村は答えた。
「一九七四年の杉浦千鶴の死亡記録について、問い合わせた結果が出たそうです」
真壁が立ち上がった。
「何と」
野村は息を呑んだ。
そして言った。
「死亡した女性の遺体は、当時、解剖されていました」
「それで」
「遺体の身元確認に使われた歯科記録が、残っていたそうです」
真壁の目が細くなった。
「照合できるのか」
野村は頷いた。
「はい」
「誰と」
野村は答えた。
「真壁さんのお母様です」
真壁は動かなかった。
野村が続けた。
「一九八八年に亡くなった真壁千鶴さんの歯科記録と、照合できるそうです」
真壁は息を止めた。
四十五年以上前の空白。
二人の杉浦千鶴。
一人の死。
一人の失踪。
そして、十六年後に亡くなった母親。
その二つの死亡記録が、ようやく結びつこうとしていた。
真壁は野村を見る。
「結果は」
野村は受話器の向こうへ確認した。
長い沈黙。
そして。
「一致しません」
真壁の表情が変わった。
「何?」
野村はゆっくり言った。
「一九七四年に亡くなった杉浦千鶴と、一九八八年に亡くなった真壁千鶴は、別人です」
真壁は椅子へ座った。
別人。
少なくとも、母親は一九七四年に死亡した女性ではなかった。
だが、謎は終わらなかった。
なぜ同じ名前と生年月日の女性が二人いたのか。
なぜ一人が死亡し、もう一人が失踪したのか。
そして。
誰が、その二人を同じ病院で働かせたのか。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「明日、京都へ行く」
「どこへ」
真壁は答えた。
「一九七四年に、もう一人の杉浦千鶴が死んだ場所だ」
野村は頷いた。
「わかりました」
真壁は窓の外を見る。
夜の奈良。
遠くに見える街の灯り。
四十五年前。
一人の女性が死んだ。
そして一人の女性が生き残った。
その出来事が、
自分の人生の始まりに関わっている。
真壁は母親の写真を机へ置いた。
今度こそ。
誰かが用意した二択ではなく。
自分自身の手で、
母親の過去を調べる。
その決意をしたときだった。
携帯電話に、最後のメッセージが届いた。
《二人の杉浦千鶴》
《どちらが本物だったのか》
《それを決めたのは、あなたの父親です》
真壁は画面を見つめた。
そして、返信した。
《本物かどうかを決めるのは、あなたではない》
送信。
数秒後。
返事が届いた。
《では、真壁修一が残した最後の記録を見てください》
添付ファイル。
音声。
日付。
一九七四年六月十八日。
真壁は再生した。
ノイズ。
若い父親の声。
『杉浦千鶴さんですね』
女性の声。
『はい』
『あなたは、どちらの杉浦千鶴さんですか』
短い沈黙。
そして女性が答えた。
『私は』
そこで音声が途切れた。
真壁は携帯電話を見つめた。
続きはない。
また、肝心な部分だけが消されていた。
だが真壁は、もう動揺しなかった。
音声が途切れているなら、
別の記録を探せばいい。
記録がなければ、
生きていた人間の証言を探せばいい。
証言がなければ、
当時の出来事を一つずつ確かめればいい。
真壁は携帯電話を伏せた。
そして、静かに言った。
「今度は、こっちの番だ」
第十八章に続く

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