東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第十五章

目次

第十五章 父が遺した時間

一 止まった秒針

時計の秒針が止まった。

午後十一時十七分。

奈良市内の古い時計店で、真壁修司は自分の左手首を見つめていた。

正確には、そこにあるはずの腕時計がなくなった手首を。

十六年間、ほとんど外すことのなかった時計だった。

父親の形見。

真壁修一。

元警察官。

二〇〇九年に死亡。

その父親が遺した時計の内部から、小さな記録装置が見つかった。

「本当に、これが記録装置なんですか」

野村亮介が訊いた。

時計店の主人は、作業台に置かれた金属片を見つめた。

「私には詳しいことはわかりません。ただ、時計の部品ではありません」

金属片は米粒ほどの大きさだった。

薄い基板。

極細の配線。

小さな端子。

時計の内部に組み込まれていた。

「いつから入っていたんでしょう」

野村が訊いた。

主人は古い修理台帳を開いた。

「二〇一〇年六月二十一日です」

真壁が顔を上げた。

「その日に?」

「ええ。裏蓋を交換したとき、内部機構も一部交換しています」

「誰の依頼でした」

主人は記録を指した。

《依頼者 真壁修司》

真壁は黙った。

自分で依頼した。

少なくとも、記録にはそうある。

「覚えていますか」

野村が訊いた。

「いや」

真壁は首を振った。

「まったく」

主人が続けた。

「ただ、妙なことを言われたのは覚えています」

「何を」

「この時計を、絶対に捨てないでくれと」

真壁は主人を見る。

「俺が?」

「はい」

「ほかには」

主人は少し考えた。

「もし将来、私がこの時計を開けるよう頼んだら、必ず本人確認をしてくれ、と」

真壁は息を止めた。

「本人確認?」

「ええ」

「どうやって」

主人は古い封筒を取り出した。

「これを預かっています」

封筒には、真壁修司の名前。

そして日付。

二〇一〇年六月二十一日。

主人が言った。

「ご本人にしか渡さない約束でした」

真壁は封筒を受け取った。

中には一枚の紙。

手書き。

《この時計を開ける日が来たら、次の質問に答えること》

その下に三つの質問があった。

《一 父親が最後に食べたものは何か》

《二 父親が最も嫌っていた言葉は何か》

《三 父親が死ぬ前に、私へ渡さなかったものは何か》

野村が言った。

「答えられますか」

真壁は紙を見つめた。

一つ目。

父親が最後に食べたもの。

病院の食事ではない。

亡くなる前夜。

母親が作った雑炊。

卵を落とした、薄い味の雑炊。

二つ目。

父親が嫌っていた言葉。

「仕方がない」

何かが起きるたびにそう言う人間を、父親は嫌っていた。

三つ目。

渡さなかったもの。

真壁は目を閉じた。

父親が亡くなる三日前。

病室。

ベッド。

父親は枕元の引き出しを開けた。

小さな封筒を取り出した。

しかし、真壁が手を伸ばすと、父親はそれを引っ込めた。

『まだ早い』

そう言った。

真壁は目を開けた。

「手紙です」

野村が見る。

「手紙?」

「親父は俺に手紙を渡そうとした」

「でも渡さなかった」

「ああ」

真壁は三つの答えを書いた。

時計店の主人は、紙を確認して頷いた。

「お預かりした答えと一致しています」

真壁は苦笑した。

「十六年前の俺は、ずいぶん用心深かったんだな」

主人は首を振った。

「違います」

「何が」

「真壁さんは、こうおっしゃいました」

主人は真壁を見る。

「この質問に答えられる人間が、自分とは限らない、と」

真壁の表情が変わった。

「どういう意味です」

主人は答えた。

「私にもわかりません」

真壁は時計を見る。

十六年前の自分。

父親の記憶。

三つの質問。

そして、腕時計に隠された装置。

そこまで準備した人間が、なぜすべてを忘れたのか。

真壁は静かに言った。

「野村」

「はい」

「この時計は、警察で調べる」

「わかりました」

「店主さん」

真壁は主人へ頭を下げた。

「十六年間、ありがとうございました」

主人は小さく笑った。

「お父様との約束ですから」

真壁の目が動いた。

「父との?」

主人は不思議そうな顔をした。

「ええ」

「父がここへ?」

「はい」

「いつ」

主人は答えた。

「二〇〇九年です」

真壁は息を止めた。

「亡くなる少し前に、いらっしゃいました」

主人は続けた。

「息子がいつか、この時計の意味を知ることになる。そのときまで、頼む、と」

真壁は何も言えなかった。

父親は知っていた。

二〇一〇年に何かが起きることを。

いや。

少なくとも、息子が将来、時計を調べることになると考えていた。

真壁は古い時計を見つめた。

秒針は止まったままだった。


二 記録されていない声

翌朝。

奈良県警のデジタル解析室。

時計から取り出した装置は、専門家によって慎重に調べられた。

「少し意外なものです」

解析担当者が言った。

真壁が訊いた。

「何が」

「これは録音機ではありません」

野村が顔を上げた。

「でも記録装置だと」

「記録装置ではあります。ただし、音声を長時間保存するような容量はありません」

真壁は眉を寄せた。

「じゃあ何を記録する」

「時刻です」

「時刻?」

「正確には、特定の信号を受け取った時刻と、その信号の識別番号です」

野村が訊いた。

「GPSですか」

「違います。位置情報はありません」

担当者は画面を表示した。

数字の列。

日付。

時刻。

識別番号。

「外部から近距離の信号を受けたときだけ、記録する仕組みです」

真壁は画面を見る。

「つまり」

「この時計が、ある装置の近くにあったことは推測できます」

「場所まではわからない」

「はい」

真壁は頷いた。

これまでの事件と同じだった。

記録はある。

だが、記録が示す意味は限定される。

「最初の記録は」

担当者が操作した。

《2010/06/21 14:08》

真壁の目が細くなった。

六月二十一日。

時計を修理した日。

「最後は」

担当者が画面をスクロールする。

《2026/10/12 18:42》

野村が驚いた。

「昨日?」

「はい」

「どこにいた時刻です」

真壁は考えた。

昨日の午後六時四十二分。

京都から奈良へ戻る途中。

高速道路。

サービスエリア。

野村が言った。

「僕たち、休憩していました」

「ああ」

「誰かと会いましたか」

「いや」

真壁は首を振った。

「覚えている限りは」

担当者が言った。

「識別番号も残っています」

《K-04》

真壁の表情が変わった。

K-4。

京都大学の地下研究室。

秋月浩平。

四年前の記録。

「同じ番号だ」

野村が呟いた。

真壁は画面を見る。

「ほかにもあるか」

「はい」

識別番号。

《B-17》

《K-04》

《O-03》

《M-17》

数字の列。

それぞれに複数の記録。

真壁は椅子へ座った。

「全部で何件ある」

担当者が答えた。

「四千八百二十六件です」

野村が息を呑んだ。

「そんなに」

「十六年間ですから」

真壁は画面を見つめた。

四千八百二十六件。

自分が何かの装置へ近づくたびに、時計が反応していた。

だが、それは必ずしも自分が観測されたことを意味しない。

誰かが装置を持って近づいた可能性もある。

真壁は言った。

「同じ識別番号が、何度も出てくるか」

「はい」

「頻度を調べてくれ」

担当者が集計する。

最も多い番号。

《M-17》

二千三百十四件。

次。

《O-03》

九百二十件。

そして。

《K-04》

四百八十六件。

真壁は眉を寄せた。

「M-17が多すぎる」

野村が言った。

「真壁さん自身の番号だからでしょうか」

「そうかもしれん」

「でも、なぜ自分の時計が自分の番号を受信するんです」

真壁は答えなかった。

担当者が言った。

「もう一つ、興味深いことがあります」

「何だ」

「M-17の記録は、ある時期から急に減っています」

「いつ」

「二〇二二年七月八日です」

真壁は動きを止めた。

あの日。

二発の銃声。

地下駐車場。

赤いランプ。

「その前は」

「ほぼ毎日あります」

「その後は」

「月に数回程度です」

野村が呟いた。

「観測が終わった?」

真壁は首を振った。

「わからん」

担当者が続ける。

「ただし、別の番号が増えています」

「何だ」

《N-18》

野村の顔が変わった。

「N……」

真壁は画面を見る。

「野村の番号か」

担当者は頷いた。

「二〇二二年七月九日から記録されています」

野村が息を止めた。

「僕が警察官になったのは、その後です」

真壁は静かに言った。

「だから何だ」

野村が見る。

「番号を付けるのに、本人の同意は必要ない」

野村は黙った。

「お前は、四年前から観測対象だった」

真壁は画面を見た。

そして、あることに気づいた。

「待て」

「何です」

「この時計は、俺が身につけていた」

「はい」

「なのにN-18の信号を受けている」

「そうですね」

「つまり」

真壁は野村を見る。

「俺が野村の近くにいた時刻が、記録されている可能性がある」

野村の顔が変わった。

「でも、僕たちが初めて会ったのは……」

「二〇二三年だ」

二人は黙った。

二〇二二年七月九日。

真壁と野村。

公式には、まだ出会っていない。

だが時計には、N-18の信号が記録されていた。

真壁は担当者へ言った。

「最初のN-18の記録を出してくれ」

画面。

《2022/07/09 14:08》

真壁の呼吸が止まった。

十四時八分。

四年前。

京都。

秋月浩平の写真の裏に書かれていた時刻。

真壁は呟いた。

「野村」

「はい」

「俺たちは、会っていたのかもしれん」

野村は答えなかった。


三 七月九日の男

その日の午後、真壁は野村とともに、二〇二二年七月九日の行動記録を調べた。

事件翌日。

奈良県警は混乱していた。

捜査。

報道対応。

関係機関との連絡。

真壁自身も、ほとんど眠っていなかった。

勤務記録によれば、午後一時から四時まで県警本部にいたことになっている。

だが、当時の入退庁記録には空白があった。

「十四時八分」

野村が言った。

「真壁さんは、どこにいたんでしょう」

「わからん」

「僕は京都にいました」

「何をしていた」

「大学です」

「秋月の研究室か」

「はい」

野村は少し考えた。

「先生が亡くなったと聞いた直後でした」

真壁が見る。

「葬儀の準備?」

「いいえ」

「じゃあ」

「研究室を片づけていました」

真壁は眉を寄せた。

「誰の指示で」

野村は答えた。

「先生からです」

真壁は動きを止めた。

「亡くなった秋月から?」

「はい」

「どういうことだ」

野村は説明した。

「七月七日に、先生から封筒を渡されていたんです」

「何が書いてあった」

「もし自分に何かあったら、研究室の資料を整理してほしいと」

「その封筒は」

「捨てました」

真壁は小さく息を吐いた。

「なぜ」

「当時は普通の遺言のようなものだと思っていました」

「ほかには」

「鍵が入っていました」

「どこの」

「K-4です」

真壁の目が細くなった。

京都大学地下研究室。

K-4。

四年前。

秋月。

野村。

十四時八分。

そして、真壁の時計。

「その日、誰かと会ったか」

真壁が訊いた。

野村は考えた。

「一人、男性が来ました」

「誰だ」

「名前は覚えていません」

「顔は」

「はっきりとは」

「何を話した」

野村は目を閉じた。

「先生の知り合いだと言っていました」

「それから」

「資料を渡してほしいと」

「渡したのか」

「いいえ」

「なぜ」

野村は答えた。

「先生の手紙に、渡すなと書いてあったからです」

真壁は眉を寄せた。

「誰にも?」

「はい」

「その男はどうした」

「帰りました」

「特徴は」

野村は少し考えた。

「腕時計をしていました」

真壁が顔を上げる。

「どんな」

「古い時計です」

「色は」

「銀色」

「革ベルト?」

野村は頷いた。

「はい」

真壁は左手首を見る。

今は何もない。

「俺の時計に似ていた?」

野村は真壁を見る。

長い沈黙。

そして。

「似ていました」

真壁は何も言わなかった。

「でも」

野村が続ける。

「真壁さんだったかどうかは、わかりません」

「そうだな」

真壁は頷いた。

「そこを確かめよう」


四 父親の手紙

夕方。

真壁は自宅へ戻った。

父親の遺品が入った箱を探すためだった。

古い書斎。

本棚。

引き出し。

段ボール箱。

真壁修一の手帳。

警察官時代の写真。

表彰状。

古い名刺。

その中に、封筒があった。

《修司へ》

父親の筆跡。

真壁は息を止めた。

封はされていない。

中には便箋が二枚。

一枚目。

《修司》

《この手紙を読むころ、俺はもういないだろう。》

《お前には、父親らしいことをほとんどしてやれなかった。》

《仕事ばかりで、家にもいなかった。》

《それでも、お前が警察官になったと聞いたときは嬉しかった。》

真壁は椅子に座った。

父親らしい文章だった。

不器用。

短い言葉。

続きを読む。

《俺は警察を辞めてから、ある研究に関わった。》

《最初は、捜査に役立つと思った。》

《目撃者の記憶がどれほど不確かなものかを調べる研究だった。》

《だが、途中からおかしくなった。》

《人間の記憶を確かめるのではなく、人間の記憶を変える方向へ進み始めた。》

真壁は目を閉じた。

父親も気づいていた。

研究の危険性に。

《俺は止めようとした。》

《しかし、止められなかった。》

《なぜなら、研究を始めることに賛成したのは俺だったからだ。》

真壁の手が止まった。

父親が最初の管理者。

名簿。

《01 真壁修一》

あれは本当だったのか。

続きを読む。

《お前を研究に関わらせるつもりはなかった。》

《だが、研究者たちは、お前に興味を持っていた。》

《刑事であり、俺の息子であり、記憶と記録の矛盾を簡単には受け入れない人間だからだ。》

《俺は断った。》

《何度も断った。》

《それでも、お前の名前は候補者名簿から消えなかった。》

真壁は便箋を握った。

《だから、時計を残す。》

《この時計は、お前がどこへ行ったかを記録するものではない。》

《お前の近くで、誰が観測装置を動かしたかを記録するためのものだ。》

真壁は息を止めた。

そうか。

時計は、自分を観測するための装置ではなかった。

観測する側を記録するためのものだった。

父親は、観測者を追っていた。

《いつか、お前が自分の記憶を疑う日が来るかもしれない。》

《そのときは、この時計を調べろ。》

《誰が、お前の近くにいたのか。》

《誰が、お前を見ていたのか。》

《そこから調べればいい。》

真壁は目を閉じた。

十六年間。

父親は自分を監視していたのではない。

自分を監視する人間を、記録しようとしていた。

そのために時計を残した。

真壁は便箋を胸元へ置いた。

しばらく動かなかった。

そして二枚目を開いた。

《最後に、一つだけ伝えておく。》

《研究を始めた人間は、岡崎玲子ではない。》

真壁の目が動いた。

《野村真紀でもない。》

《俺でもない。》

《最初に、この研究を持ち込んだ人間がいる。》

《その人物は、研究が危険な方向へ進むことを、最初から知っていた。》

《俺は、その人物の名前を記録に残せなかった。》

《理由は簡単だ。》

《その人物は、記録を作る側にいたからだ。》

真壁は息を止めた。

《お前が本当に調べるべきなのは、研究者ではない。》

《記録を管理していた人間だ。》

最後の一行。

《その人物は、警察の中にいる。》

真壁は立ち上がった。

警察。

内部。

記録を管理する人間。

そして。

父親が残した最後の言葉。

《修司。》

《もし、その人物に会ったら、俺の代わりに聞いてくれ。》

《なぜ、あの日の記録を消したのか、と。》

真壁は便箋を見つめた。

あの日。

どの日だ。

二〇一〇年六月十八日か。

二〇二二年七月八日か。

それとも。

もっと前なのか。


五 最初の一日

真壁は父親の手帳を開いた。

退職後の記録。

二〇〇七年。

京都。

研究会。

岡崎玲子。

野村真紀。

神谷直人。

そして、もう一人。

名前があった。

《岸田正彦》

真壁の手が止まった。

岸田。

現在の上司。

奈良県警捜査一課。

真壁が長年信頼してきた男。

父親の手帳に、その名前がある。

二〇〇七年六月。

研究会参加。

二〇〇八年二月。

会議。

二〇〇九年三月。

記録管理について協議。

真壁はページをめくった。

二〇〇九年十一月。

父親が亡くなる直前。

《岸田と会う》

その下。

《原本を返すよう要求》

真壁の呼吸が止まった。

岸田。

原本。

父親。

研究。

すべてがつながっている。

だが真壁は、すぐに結論を出さなかった。

岸田が研究に関わっていたことと、犯罪に関与したことは別だ。

父親の手帳も、まだ真正性を確認していない。

それでも。

調べる必要はあった。

真壁は携帯電話を取り出した。

岸田へ電話。

呼び出し音。

一回。

二回。

三回。

『真壁か』

岸田の声。

「はい」

『どうした』

「少し聞きたいことがあります」

『何だ』

「二〇〇七年の京都認知行動研究室を覚えていますか」

沈黙。

真壁は待った。

長い沈黙。

そして岸田が言った。

『どこでその名前を知った』

真壁の目が細くなった。

「父の手帳です」

『そうか』

「岸田さん」

『何だ』

「父と知り合いだったんですね」

『ああ』

「いつから」

『お前が生まれる前からだ』

真壁は息を止めた。

「何?」

岸田は答えた。

『修一さんには、若いころ世話になった』

真壁は黙った。

『お前が刑事になったとき、嬉しかったよ』

「……」

『修一さんも喜んでいた』

真壁は窓の外を見た。

夜。

奈良の街。

「岸田さん」

『何だ』

「父が残した手紙に、警察内部の人間が研究記録を管理していたとあります」

沈黙。

「その人物を知っていますか」

岸田は答えなかった。

「岸田さん」

『真壁』

「はい」

『今どこだ』

「自宅です」

『一人か』

「はい」

『野村は』

「別行動です」

岸田は小さく息を吐いた。

『今からそっちへ行く』

真壁の表情が変わった。

「何か話してくれるんですか」

『ああ』

「何を」

岸田は答えた。

『修一さんが死ぬ前に、俺へ預けたものがある』

真壁は息を止めた。

「何です」

『記録だ』

「何の」

岸田は言った。

『最初の観測の記録だ』

電話が切れた。

真壁は携帯電話を見つめた。

最初の観測。

二〇〇七年より前。

父親。

岸田。

警察。

そして。

誰かが消した一日。

真壁は父親の手帳をもう一度開いた。

最初のページ。

日付。

一九九八年六月十七日。

そこに、一行だけ書かれていた。

《最初の対象者、死亡》

真壁の手が止まった。

一九九八年。

二十八年前。

観測実験は、二〇〇七年から始まったのではなかった。

もっと前から存在していた。

そして、最初の対象者は死んでいた。

真壁は次のページをめくった。

《対象者名》

その下。

黒いインクで塗りつぶされている。

だが、紙の裏から文字が透けていた。

真壁は照明へかざした。

ゆっくり読む。

《岸田……》

真壁の呼吸が止まった。

続き。

《正彦》

真壁は手帳を閉じた。

岸田正彦。

最初の観測対象者。

一九九八年に死亡したことになっている男。

しかし、現在も奈良県警に勤務している。

真壁は立ち上がった。

「まさか……」

そのとき。

玄関のチャイムが鳴った。

午後十一時五十九分。

真壁は玄関へ向かった。

扉の向こう。

岸田の声。

「真壁」

真壁は鍵に手をかけた。

「はい」

「開けてくれ」

真壁は動かなかった。

父親の手帳。

《最初の対象者、死亡》

《岸田正彦》

真壁は扉越しに訊いた。

「岸田さん」

「何だ」

「一九九八年六月十七日」

沈黙。

「覚えていますか」

扉の向こうで、岸田は答えなかった。

真壁は続けた。

「その日に、何があったんです」

長い沈黙。

そして。

岸田が静かに言った。

「お前の親父さんが、俺を殺した日だ」

真壁は息を止めた。

扉の向こうで、

岸田が続けた。

「正確には」

一呼吸。

「俺が死んだことにした日だ」

真壁は鍵を開けなかった。

父親の手帳。

最初の観測対象者。

一九九八年。

岸田正彦。

二十八年間の空白。

それが、ようやく開こうとしていた。

しかし真壁は、まだ知らなかった。

岸田が持ってきた記録には、

真壁自身が生まれる前の出来事が含まれていた。

そして、その記録の最後には、

父親の声で、

こう残されていた。

《修司には、絶対に知らせるな。》

《あの子は、最初から観測対象だった。》

第十六章に続く

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