第二十六章 死亡診断書の署名
一 死者を証明した医師
十月二十一日、午前八時四十六分。
京都市内の法務局に近い、古い合同庁舎の一室で、真壁修司は一枚の複写書類を見つめていた。
一九八一年九月二十八日。
神谷誠一。
死亡届。
届出人、杉浦千鶴。
そして、添付された死亡診断書の作成者。
《三崎俊夫》
真壁は、その名前を指でなぞった。
三崎俊夫。
一九三八年生まれ。
奈良中央記念病院の研究主任。
一九七四年、杉浦千鶴が死亡した事件にも関わっていた男。
二〇一五年十一月四日、病院で死亡したことが確認されている。
「三崎は医師だったのか」
真壁が訊いた。
野村亮介が資料をめくった。
「医学部を卒業しています。ただ、研究職へ移ってからの経歴が複雑です」
「死亡診断書を書ける資格は」
「医師免許の登録歴があります。失効や行政処分の有無は照会中です」
真壁は頷いた。
「問題は、資格だけじゃない」
「はい」
「三崎が本当に神谷誠一の遺体を診察したのか。それを確認しなければならん」
野村は書類を見つめた。
死亡日時。
一九八一年九月二十三日、午後十一時五十八分。
死亡場所。
京都府内の医療施設。
死因。
多発性外傷。
真壁は眉を寄せた。
「死亡場所が事故現場じゃない」
「そうですね」
「岸田昭彦の事故記録では、車内で死亡していたことになっている」
野村が頷いた。
「同じ事故に関係していても、別々の死亡者だった可能性があります」
「ああ」
真壁は二枚の書類を並べた。
一方は、岸田昭彦の死亡記録。
もう一方は、神谷誠一の死亡記録。
同じ日。
ほぼ同じ時刻。
同じ地域。
しかし、死亡場所は違う。
「野村」
「はい」
「二人とも死亡した可能性は、まだ排除できない」
「はい」
「それなのに、俺たちは誰かが生きていたという話に引っ張られている」
真壁は書類を伏せた。
「ここから先は、遺体そのものの記録を追う」
野村が頷いた。
「火葬許可証ですか」
「それもだ。埋火葬の記録、当時の病院の受入簿、遺体を引き取った人間」
真壁は静かに続けた。
「人が死んだというなら、誰かがその身体を扱っているはずだ」
野村は小さく頷いた。
「わかりました」
窓の外では、京都の街を通勤の車が流れていた。
四十五年前の死亡届。
一枚の紙が、いまになって三人の刑事の人生を揺さぶっている。
真壁は、母親の日記を思い出した。
《亡くなった人の名前が、まだわからない。》
あの一文。
母は、死亡届を提出する五日前、死者の名前を知らなかった。
それなのに、九月二十八日には神谷誠一の名で届け出ていた。
その五日間に、何があったのか。
真壁は静かに呟いた。
「母さんは、誰から名前を聞いたんだ」
その答えは、書類の中にはなかった。
二 もう一枚の死亡診断書
午前十時二十分。
京都府警本部。
古い事故記録の原本が、机の上に並べられていた。
真壁たちに対応したのは、資料管理を担当する五十代の警部補だった。
「関連資料を洗い直しました」
警部補は言った。
「一九八一年九月二十三日の事故について、当時の担当者が別冊を作成していたようです」
「別冊?」
真壁が訊いた。
「はい。正式な事故記録とは別に、身元確認に関する疑義をまとめたものです」
真壁は身を乗り出した。
「見せてください」
警部補は薄いファイルを差し出した。
表紙には、手書きで記されていた。
《身元確認未了者に関する覚書》
真壁はページをめくった。
一枚目。
焼損車両の写真。
二枚目。
搬送記録。
三枚目。
二人の男性の特徴を記した一覧。
《甲》
《乙》
甲。
推定三十代。
身長約百七十センチ。
重度熱傷。
身元確認困難。
乙。
推定三十代。
頭部外傷。
右肩打撲。
意識混濁。
真壁は息を止めた。
「甲が死亡者、乙が搬送された負傷者か」
野村が頷いた。
「そのように読めます」
次のページには、手書きの文章があった。
《甲について、岸田昭彦との申告あり》
《乙について、氏名申告なし》
《甲の身元確認には疑義が残る》
真壁の目が細くなった。
疑義。
当時の担当者も、身元確認に問題があると考えていた。
さらにページをめくる。
そこに、一枚の複写が挟まっていた。
死亡診断書。
氏名欄。
《氏名不詳》
死亡日時。
一九八一年九月二十三日、午後十一時五十八分。
死亡場所。
京都府内の医療施設。
作成医師。
《三崎俊夫》
真壁は動かなかった。
「野村」
「はい」
「神谷誠一の死亡診断書と比べてくれ」
野村が二枚を並べた。
日付。
時刻。
死亡場所。
死因。
すべて同じだった。
違うのは、氏名欄だけだった。
一方には、神谷誠一。
もう一方には、氏名不詳。
「同じ診断書をもとに、名前だけが書き加えられた可能性があります」
野村が言った。
真壁は頷いた。
「あるいは、氏名不詳の控えを残して、正式な書類に後から身元を記入したのかもしれない」
「はい」
「問題は、その根拠だ」
真壁は警部補へ向き直った。
「氏名不詳から神谷誠一へ変更した経緯は残っていますか」
警部補は首を振った。
「見つかっていません」
「誰が本人だと判断したかは」
「記録がありません」
真壁は深く息を吐いた。
「では、母が届け出た時点で、神谷誠一だと確認できていたとは限らない」
野村が頷いた。
「そうですね」
真壁は書類を見つめた。
死亡診断書は、人が亡くなったことを示す重要な記録だ。
だが、そこに記された名前が正しいかどうかは、別の問題だった。
三崎俊夫は、死を確認した。
しかし、誰の死だったのか。
その一点が、曖昧なまま残されていた。
真壁は静かに言った。
「三崎は、何を知っていたんだ」
三 三崎の息子
午後一時十五分。
京都市左京区。
真壁と野村は、三崎遼一の自宅を訪ねていた。
三崎俊夫の息子だった。
父親が二〇一五年に亡くなった際、病院で最期を看取った人物でもある。
玄関を開けた遼一は、二人を見ると少し驚いた表情を浮かべた。
「また父のことですか」
「申し訳ありません」
真壁は頭を下げた。
「確認したいことがありまして」
遼一は二人を居間へ通した。
壁には、家族写真が飾られていた。
若いころの三崎俊夫。
妻。
幼い遼一。
ごく普通の家庭の写真だった。
真壁は一九八一年の死亡診断書を示した。
「この書類をご覧になったことはありますか」
遼一は眼鏡をかけ直した。
「ありません」
「お父様が作成したものです」
遼一はしばらく書類を見つめた。
「父の字ですね」
「わかりますか」
「ええ。数字の七の書き方に癖がありました」
真壁は頷いた。
「ただ、筆跡については別途確認します」
遼一は小さく笑った。
「そうしてください」
真壁は訊いた。
「お父様は、一九八一年九月のことを話したことがありますか」
遼一は考え込んだ。
「九月……」
「交通事故の負傷者を診察した可能性があります」
遼一の表情が変わった。
「事故?」
「はい」
遼一はしばらく黙った。
そして、ゆっくり口を開いた。
「父が、よく同じ夢を見ると言っていたことがあります」
真壁は顔を上げた。
「どんな夢ですか」
「燃えている車です」
部屋が静かになった。
遼一は続けた。
「父は、夢の中で誰かに謝っていると言っていました」
「誰に」
「わかりません」
「何を謝っていたんでしょう」
遼一は首を振った。
「そこまでは話しませんでした」
真壁は頷いた。
「ほかに何かありませんか」
遼一は少し考えた。
「父が亡くなる前、古い書類を整理したことがあります」
「はい」
「そのとき、一冊のノートを見つけました」
真壁の目が細くなった。
「今もありますか」
「たぶん」
遼一は立ち上がった。
「探してみます」
数分後。
遼一は、薄い大学ノートを持って戻ってきた。
表紙には、何も書かれていなかった。
中を開くと、日付と短い文章が並んでいた。
一九八一年九月二十四日。
《二名搬送》
《一名死亡》
《一名意識混濁》
真壁は息を止めた。
さらに次の行。
《死亡者の身元確認できず》
《所持品は一致せず》
真壁の眉が動いた。
所持品は一致せず。
つまり、死亡者が持っていた物と、届け出られた人物の情報が一致しなかった可能性がある。
真壁は次の行を読んだ。
《修一、来院》
《黒田、同席》
《昭彦、別室》
真壁の指が止まった。
三人とも、病院にいた。
写真の内容と符合する。
だが、それだけでは撮影日が正しいことの証明にはならない。
真壁は続きを読む。
《杉浦千鶴、写真撮影》
真壁は目を閉じた。
母親。
本当に、あの写真を撮ったのか。
次の行。
《死亡者の身元について、修一と意見対立》
真壁は息を止めた。
父親と三崎俊夫。
二人は、死亡者の身元について意見が食い違っていた。
そして、最後の一文。
《本人確認ができないまま、名前を決めてはならない》
真壁は、しばらくその文字を見つめていた。
三崎俊夫。
一九七四年の研究主任。
記録の改変に関わった可能性がある人物。
しかし、このノートでは、身元の確定に慎重な姿勢を示していた。
真壁は静かに言った。
「三崎さんは、少なくともこの時点では、身元を確定できないと考えていた」
遼一が頷いた。
「そうですね」
真壁は次のページをめくった。
そこには、一行だけ書かれていた。
《九月二十八日 杉浦千鶴来院》
《死亡者の名前を告げる》
真壁の目が細くなった。
母親が。
名前を告げた。
さらに続きがあった。
《神谷誠一》
真壁は息を止めた。
母親は、神谷誠一という名前を三崎へ伝えていた。
では、その名前をどうやって知ったのか。
真壁はノートを閉じた。
「このノートを、正式に調べさせていただけますか」
遼一はしばらく考えた。
そして頷いた。
「構いません」
真壁は頭を下げた。
「ありがとうございます」
遼一は静かに言った。
「父は、何か悪いことをしたんでしょうか」
真壁は答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「まだ、わかりません」
遼一は頷いた。
真壁は続けた。
「ただ、お父様が何をしたのか、何をしなかったのか。それを確かめたいんです」
遼一は小さく息を吐いた。
「お願いします」
真壁は頭を下げた。
「はい」
四 母が選んだ名前
午後四時二十二分。
奈良県警本部。
真壁は、母親の日記と三崎俊夫のノートを並べていた。
九月二十三日。
事故。
九月二十四日。
病院で写真撮影。
九月二十七日。
母親のもとへ革鞄が届く。
九月二十八日。
母親が手帳を読む。
同日。
三崎へ神谷誠一の名前を伝える。
そして、死亡届が提出される。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「母は、革鞄の中の手帳を読んで、死亡者が神谷誠一だと考えたのかもしれない」
野村が頷いた。
「時系列としては合います」
「ああ」
「でも、手帳が神谷さんのものだったからといって、遺体が神谷さんとは限りません」
真壁は頷いた。
「そのとおりだ」
真壁は写真を取り出した。
一九八一年九月二十二日。
四人の男。
真壁修一。
黒田修一。
岸田昭彦。
神谷誠一。
その翌日、事故が起きた。
真壁は写真を見つめた。
「神谷誠一が車に乗っていた証拠はあるか」
野村が資料を確認した。
「ありません」
「目撃者は」
「車に乗っていた人数については、証言が食い違っています」
真壁は頷いた。
「ならば、まだ誰が死亡したのかはわからない」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は母親の日記を開いた。
九月二十八日。
《手帳を読んだ。》
《あの人は、研究のことを知っていた。》
真壁は、その次の行を見た。
《修一さんに話した。》
《怒られた。》
《でも、私は間違っていない。》
真壁は目を閉じた。
母親は、父親へ何を話したのか。
神谷誠一の名前か。
死亡者の身元か。
それとも、研究に関する秘密か。
真壁は静かに呟いた。
「母さんは、なぜ怒られたんだ」
野村は何も言わなかった。
そのとき、真壁の携帯電話が鳴った。
黒田修一からだった。
「真壁です」
『黒田です』
「どうしました」
『三崎俊夫さんの記録を調べているそうですね』
真壁の目が細くなった。
「誰から聞きました」
黒田は答えなかった。
『神谷誠一さんのことも、わかったのでしょう』
真壁は静かに言った。
「黒田さん」
『はい』
「一九八一年九月二十三日、あなたは事故現場にいましたか」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
そして。
『いました』
真壁は息を止めた。
「車に乗っていたんですか」
『はい』
「誰と」
黒田は答えた。
『岸田昭彦さんです』
真壁の目が細くなった。
「神谷誠一さんは」
黒田は黙った。
真壁は続けた。
「神谷さんも、車に乗っていましたか」
長い沈黙。
そして。
『いいえ』
真壁は動かなかった。
「では、神谷さんはどこに」
黒田は静かに答えた。
『事故現場で待っていました』
真壁は息を止めた。
「待っていた?」
『はい』
「誰を」
黒田は答えた。
『真壁修一さんを』
真壁は黙った。
父親。
真壁修一。
事故現場。
神谷誠一。
そして、黒田修一。
「黒田さん」
真壁は静かに言った。
「最初から、全部話してください」
黒田は答えなかった。
しばらくして、低い声が聞こえた。
『真壁さん』
「はい」
『あの事故は、偶然ではありません』
真壁は息を止めた。
「どういう意味です」
黒田は答えた。
『事故が起きることを、知っていた人間がいました』
真壁の目が細くなった。
「誰です」
黒田は静かに言った。
『私です』
真壁は動かなかった。
「あなたが?」
『はい』
「なぜ知っていたんです」
黒田は答えた。
『私が、車を止めるように頼まれていたからです』
真壁は眉を寄せた。
「誰に」
黒田は答えなかった。
長い沈黙。
そして。
『相沢信一です』
真壁は息を止めた。
最初の計画者。
相沢信一。
また、その名前だった。
「車を止める?」
真壁が訊いた。
『はい』
「どんな方法で」
黒田は静かに答えた。
『道路に障害物を置く計画でした』
真壁の目が細くなった。
「実行したんですか」
『いいえ』
「では」
『事故は、私たちが予定していた場所とは違う場所で起きました』
真壁は黙った。
黒田は続けた。
『だから、私にもわからないんです』
「何が」
『誰が、車を転落させたのか』
真壁は息を止めた。
事故。
計画。
そして、実際の転落。
二つは別の出来事だった可能性がある。
真壁は静かに言った。
「黒田さん」
『はい』
「その話を、正式に聞かせてください」
黒田は少し黙った。
そして答えた。
『わかりました』
真壁は頷いた。
「こちらから連絡します」
電話が切れた。
野村が顔を上げた。
「何と言っていましたか」
真壁は答えた。
「事故を起こす計画があった」
野村の表情が変わった。
「では、やはり」
真壁は首を振った。
「まだわからん」
「……」
「計画があったことと、実際に事故を起こしたことは別だ」
野村は頷いた。
真壁は静かに言った。
「だが、黒田が計画を知っていたなら、重要な証人になる」
五 死者の手帳
午後七時三十五分。
奈良県警本部。
真壁は、神谷誠一の手帳をもう一度確認していた。
一九八一年九月二十三日。
《もし戻らなければ、杉浦千鶴に渡すこと》
その一文。
真壁は、何度も読み返した。
神谷は、何かが起きることを予想していた。
だから、手帳を残した。
そして、母親へ託そうとした。
だが、なぜ母親だったのか。
父親ではなく。
警察でもなく。
杉浦千鶴だったのか。
真壁はページをめくった。
九月二十二日。
《京都へ行く》
《証拠を渡す》
その下に、小さな文字があった。
これまで見落としていた一文。
《千鶴さんだけは、信用できる》
真壁の指が止まった。
母親。
杉浦千鶴。
神谷誠一は、母親を信用していた。
真壁は静かに言った。
「野村」
「はい」
「神谷誠一は、母に何かを託そうとしていた」
野村が頷いた。
「そうですね」
「だが、革鞄には手帳と写真しかなかった」
「はい」
「証拠を渡すと書いてあるのに、その証拠が見つかっていない」
野村は眉を寄せた。
「別の場所に隠したんでしょうか」
「可能性はある」
真壁は手帳を閉じた。
「神谷が何を持っていたのか、もう一度調べよう」
野村は頷いた。
「はい」
真壁は写真を見つめた。
四人の男。
事故の前日。
その写真の端に、小さなものが写っていた。
机の上。
金属製の箱。
真壁は顔を近づけた。
「野村」
「はい」
「この箱を見ろ」
野村が覗き込んだ。
「小さな金属箱ですね」
「ああ」
「何でしょう」
真壁は答えなかった。
写真を拡大した。
箱の表面。
小さな文字。
《記録原板》
真壁は息を止めた。
「原板……」
野村が呟いた。
真壁は頷いた。
「神谷が渡そうとしていた証拠かもしれない」
「どこにあるんでしょう」
真壁は写真を見つめた。
金属箱。
記録原板。
一九八一年。
そして、母親。
真壁は静かに言った。
「母が持っていた可能性がある」
野村が顔を上げた。
「革鞄にはありませんでした」
「ああ」
「では、別の場所に?」
真壁は頷いた。
「母は、証拠を分けて隠したのかもしれない」
野村は黙った。
真壁は立ち上がった。
「もう一度、家を調べる」
「はい」
六 母の最後のページ
午後九時十分。
真壁の自宅。
真壁は、母親の日記を机に並べていた。
一九八一年。
一九八二年。
一九八三年。
そして、一九八八年。
母親が亡くなった年。
真壁は、最後の日記を開いた。
母親の字は、以前より少し小さくなっていた。
一九八八年三月。
《修司が学校で褒められた。》
《修一さんが嬉しそうだった。》
四月。
《修司が新しい友達を連れてきた。》
五月。
《今日は少し体調が悪い。》
六月。
《病院へ行った。》
七月。
《修一さんには心配をかけたくない。》
真壁はページをめくった。
八月。
《あの人から連絡があった。》
真壁の目が細くなった。
あの人。
誰のことだろう。
次の行。
《まだ記録を探しているという。》
真壁は息を止めた。
記録。
一九八一年の金属箱。
それを探している人物。
九月。
《修司には、いつか全部話さなければならない。》
真壁は黙った。
そして、最後のページ。
一九八八年十月。
《修一さんへ》
真壁の指が止まった。
父親へ宛てた文章だった。
《もし私に何かあったら、修司をお願いします。》
《あの子には、何も罪はありません。》
《私たちがしたことを、あの子に背負わせないでください。》
真壁は目を閉じた。
母親。
杉浦美津子。
杉浦千鶴。
二つの名前を持って生きた女性。
その人生の最後に、何を恐れていたのか。
真壁は続きを読む。
《記録は、まだ残っています。》
《全部は消していません。》
真壁の目が細くなった。
《修司が大人になったら、自分で見つけるでしょう。》
《あの子は、きっとあなたに似た刑事になります。》
真壁は息を止めた。
そして、最後の一行。
《ただし、修一さん。》
《あの子には、私たちのような嘘をつかせないでください。》
真壁は日記を閉じた。
長い沈黙。
野村は何も言わなかった。
真壁は静かに息を吐いた。
「母さん」
誰も答えなかった。
「俺は、嘘をつかないよ」
その声は、誰にも聞かせるつもりのないものだった。
真壁は日記を箱へ戻した。
そのとき。
箱の底に、薄い紙が一枚残っていることに気づいた。
古い封筒。
表には、何も書かれていない。
真壁は手を止めた。
「野村」
「はい」
「これを見てくれ」
野村が近づいた。
封筒は、木箱の底板と同じ色だった。
長い間、気づかなかったのだろう。
真壁は封筒を取り出した。
中には、小さな鍵が入っていた。
銀色。
古い鍵。
そして、一枚の紙。
《奈良中央記念病院》
《地下二階》
《保管庫B―17》
真壁は息を止めた。
B―17。
母親が残した鍵。
一九八一年の記録原板。
その所在を示すものかもしれない。
真壁は鍵を見つめた。
「野村」
「はい」
「病院の地下二階に、まだ保管庫が残っているか確認しよう」
野村が頷いた。
「わかりました」
真壁は静かに言った。
「母は、最後まで記録を残そうとしていた」
野村は黙った。
真壁は続けた。
「今度は、俺たちがそれを見つける」
そのとき。
真壁の携帯電話が震えた。
差出人不明。
短いメッセージ。
《B―17を見つけましたね》
真壁は画面を見つめた。
続けて、二通目。
《そこには、あなたのお父様が隠したものがあります》
真壁の目が細くなった。
三通目。
《ただし、開ける前に一つだけ確認してください》
真壁は息を止めた。
四通目。
《あなたのお母様は、本当に一九八八年に亡くなったのでしょうか》
真壁は動かなかった。
母親。
杉浦美津子。
杉浦千鶴。
一九八八年に死亡。
葬儀。
墓。
幼いころの記憶。
そのすべてを、真壁は覚えていた。
だが、これまで何度も、死亡記録が人間の身元を誤って伝えてきた。
真壁は携帯電話を伏せた。
「野村」
「はい」
「また、同じ手だ」
野村が頷いた。
「そうですね」
真壁は静かに言った。
「俺の記憶を疑わせようとしている」
「はい」
「だが、母の死についても、必要なら正式な記録で確認する」
野村は頷いた。
真壁は鍵を見つめた。
小さな銀色の鍵。
B―17。
そして、母親の日記。
真壁は静かに呟いた。
「母さん」
誰も答えなかった。
「今度は、あなたが残したものを見に行く」
窓の外では、奈良の夜が深まっていた。
真壁は鍵を保護袋へ入れた。
そして、静かに言った。
「野村」
「はい」
「明日、病院へ行こう」
野村が頷いた。
「わかりました」
真壁は日記を閉じた。
そのとき、もう一度だけ携帯電話が震えた。
新しいメッセージ。
《B―17は、保管庫の番号ではありません》
真壁の目が細くなった。
続けて、最後の一文。
《十七番目の記録を守るために、作られた部屋です》
真壁は画面を見つめた。
B―17。
十七番目の記録。
そして、自分の識別番号。
M―17。
真壁は静かに息を吐いた。
「また十七か」
野村が顔を上げた。
真壁は答えた。
「偶然かもしれん」
そして、鍵を見つめた。
「だが、確かめる価値はある」
奈良中央記念病院。
地下二階。
保管庫B―17。
その場所に、何が残されているのか。
真壁はまだ知らなかった。
母親が隠した記録原板には、一九七四年六月十二日の薬剤投与だけではなく、一九八一年九月二十三日の交通事故を撮影した映像も含まれていた。
そして、その映像には、車が転落する直前、道路脇に立つ一人の男が映っていた。
その男は、車を止めようとしていたのではなかった。
誰かが車から降りるのを、待っていたのである。
第二十七章に続く

コメント